この花の咲く朝に

里内和也

この花の咲く朝に

 まだ誰の足跡もない、ふわふわとした雪を踏みしめながら、俺は近所の公園を目指した。小型のショルダーバッグ一つを、大事に抱えながら。

 雪は朝日を何倍にも増幅させて輝き、そのたびに、くらみそうになる目を細めた。常よりも息が白いのは、はたして気のせいか。

 早朝の公園には予想通り、まったく人気ひとけがなかった。来ているのは、早起きな鳥ぐらいのものだ。その代わりに、昨日まではなかった雪が辺りを覆いつくし、まるで別の場所のように錯覚させる。

 そして期待通り――梅の木々もまた、雪をまとっていた。

 紅、白、八重やえ……すでに可憐かれんな花をほころばせている枝が、綿のような雪を受け止めている。見慣れた梅とはがらりと異なるおもむきに、思わず笑みが浮かんだ。

 雪が降り始めた時点で、予感はあった。梅はすでに咲いている。そこに雪――うまくタイミングが合わなければ、金や時間があっても目にすることはかなわない。

 降ってわいた好機に、心が高ぶった。

 会社は休みだから、普段ならまだ布団の中の時間だ。それにもかかわらず、寒さを気力ではねのけてここまで来た甲斐かいがあった。

 バッグを開けて、カメラを取り出した。使い込んだ一眼レフ。すっかり手になじみ、撮影している間は体の一部と化す。

 単純に性能を比較したら、最新の機種のほうがいい写真が撮れるのかもしれない。それでもこいつのほうが、俺の持ってる力を最大限に引き出してくれるように思えてならなかった。

 雪に足を取られぬよう注意しながら、これだと思える木を探した。いや、選んだと言うべきか。どれもそれぞれに魅力があり、優劣などなかったのだから。

 このまま丸ごと保存しておけないものか――そんならちもない考えが浮かんだ。

 目移りしていては、それこそ埒が明かない。俺は一本の白梅の前で足を止め、カメラを構えた。

 ファインダー越しに見る梅と雪の構図は、あたかも一幅いっぷくの日本画のようだった。角度を調節し、シャッターを切る。

 一枚撮ってしまえば、先ほどまでの迷いはあっという間にどこかへ行ってしまった。木々の間を巡りながら、次々とシャッターを切っていく。時折、ほのかな梅の香りが鼻先をくすぐった。

 昨夜の雪が嘘のように、空は晴れ渡っている。やがてこの雪にも日差しが降りそそぎ、少しずつ溶けていくであろうことは、想像にかたくない。

 それだけでなく、この公園にもそのうち人が来るだろう。人でにぎわう梅林も悪くはないが、この静謐せいひつさでなければ出せない味わいもある。

 これは、今しか撮れない――そんな思いが、さらに俺を突き動かした。空気はてついているはずなのに、もはや「寒い」と認識することすら忘れていた。

 紅の花弁を雪が包みこんでいる枝が、目に留まった。さっそくカメラを構え、ファインダーをのぞくと――。

 枝の前に少女が一人、立っていた。

 俺は驚いて、反射的に構えを解いた。人の姿はおろか、気配も感じなかったからだ。そうしてじかに見た梅の木の前には――。

 誰もいない。

 見間違い? あんなにはっきり見えたのに? 十七、八歳ぐらいの、清楚で端正な顔立ちの少女だった。そうそう別の何かを勘違いするとは思えない。しかしそれなら、彼女はいったいどこへ行ったというのか。

 俺は困惑しつつ、再びカメラを構え、ファインダーをのぞいた。気を取り直して、撮影を続けようとしたが――。

 やはり、いる。

 少女は何をするでもなく、梅の木の前に立ってこちらを見ていた。その表情にはあどけなさがあり、どこか楽しそうだった。

 俺は構えを解いて直に見ようとして――やめた。そうしたらきっと、また彼女の姿が消えてしまうように思えてならなかった。

 俺はできるだけ穏やかに聞こえるよう、話しかけた。

「梅の写真を撮っているんだけれど、君も写して構わないかな?」

 少女は小首をかしげた。聞こえてはいるらしい。

「君と梅の花が一緒に写っている写真が撮りたいんだ。もちろん、勝手にどこかに公開したりしない。それは約束するから」

 少女はじっとこちらの話を聞いていたかと思うと、ふわりと微笑ほほえんだ。まさに、花がほころぶように。

 戸惑う俺をよそに、彼女は手近な紅梅にそっと手を差し伸べ、顔を寄せた。花の香りを楽しんでいるようなその構図は、無邪気さの中にどこかつやっぽさも含んでいた。

 ポーズをとってくれているのか?

 俺は慌ててカメラを構え、シャッターを切った。すると彼女は、さっと姿勢を変えて木の幹に寄りかかり、軽く空を見上げた。視線の先に何があるのか、想像がふくらむような表情と構図。

 シャッターを切るたびに、少女がポーズを変える。そのどれもが、梅と少女、どちらも引き立っていた。俺は夢中になって、彼女を撮り続けた。

 何枚撮ったのかもわからなくなりかけた時。少女が唐突に、ポーズを変えるをのやめた。

 俺ははっと我に返った。相手はモデルではない。会ったばかりの素人しろうとにすぎないのに、延々と付き合わせてしまった。

 ちゃんとびて、礼も言わねばと思ったその時――。

 少女が、にこりと笑った。

 満開の梅にも劣らぬ、飾り気のなさと気品を兼ね備えた、人を魅惑する笑み。

 俺が言葉を失っていると、

「ありがとう」

 鈴を転がすような声が耳をかすめたかと思うと、少女の姿がふっと、かき消えた。

 俺は慌てて、カメラを構えるのをやめた。直に目の前を見たが、そこにあるのは梅の木だけだった。辺りを見回しても、誰もいない。

 何が起きたのか。今まで見ていた物が何だったのか。考えがまとまらないまま、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 そんな俺をよそに、鳥の鳴き声がのどかに響く。春にふさわしい、軽やかな声。空を見上げると――。

 うぐいすが一羽、飛び去って行った。

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この花の咲く朝に 里内和也 @kazuyasatouchi

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