後編

クローゼットを閉め、飲みたかったコーヒーを淹れた。時刻は午前6時過ぎ、ポットを沸かす音がうるさいと思われるので、入れる水の量は少なめにした。外を見ると、大分明るくなったようだが、しんとした静けさのせいか、まだ暗く感じた。

コップにコーヒーバッグをセットする。上からお湯を注ぐと、コーヒーのいい匂いが漂ってきた。コップの縁まで鼻を近づけて、すうと香りを楽しむ。椅子に座って、リラックスしながらそれを口にした。


飲みながら、寝ている彼女を眺める。彼女は暑苦しく思ったのか、ぶかぶかのかけ布団を蹴り、右の足が丸見えの状態で寝ていた。寒そうだな、と思いながら、じーと彼女の足を見つめる。そういえば、このようにして、彼女を見つめるのは久しぶりだ。なにか、考えさせられるものがあった。俺は、今寝ている彼女と、結婚しようとしている。結婚するということは、いずれは子供を産むということだ。彼女の足を見る。あの足が、将来、母親の足になる。今度は、自分の手を見る。この手が、将来、父親の手になる。ふむ。変な感じだ。俺たちは、恋人同士で、夫婦ではない。いや、結婚しようとしているのだから、夫婦になることには間違いないけど、その実感が全くわかない。俺の父さんと母さんのように、俺たちはなるのか。例えば、子供を産んで、責任を持って育てていく。子供が独り立ちしたら、また二人きり。いや、その前に、彼女の実家へとお邪魔して、婚約のお許しを得ないといけない。なんてことだ。こんな当然のことを、俺はこれまで意識しなかったのか。少し、楽観的すぎるのではないか。人生の大事だというのに、どうしてこれまで呑気でいれたんだ。ちょっとまてよ、それなら、なんで俺は彼女と婚約したいと思ったんだ。そんな中途半端な姿勢で、どうして10万円の高い買い物ができたんだ。俺は彼女を見た。そうだ、俺は、彼女に、喜んでほしかった。夫婦になろうって言って、お嫁さんになってくれって言って、彼女を喜ばせたかったんだ。そうだ。結局のところ、婚約指輪の値段というものは、それだけで彼女への思いを推し量れるものではない。恋人にはそれぞれ自分たちなりの愛の形がある。ダイヤモンドの硬さや指輪の値段に永遠の愛を示そうとするなら、それもいいだろう。しかし、俺は、彼女の喜ぶ顔が見たくて、喜んでほしくて、その思いがあったから、プロポーズを決意したんだ。なんだ、これも、立派な愛情ではないか。とすると、なんで俺はおじけづいたんだ。なぜ俺は昨日プロポーズできなかった。もう一度彼女を見た。多分、覚悟の問題だろう。昨日の俺は、覚悟が足りなかった。彼女と人生を共にするという覚悟が、足りなかった。これこそ本当の恥だろう。値段なんかを気にして、断られたらどうしようだとか、そういうつまらないことを考えて、気にする姿勢こそ、恥だった。そうか、なるほど。俺はコーヒーを飲み終えて、クローゼットからリングケースを取り出した。


「健司君?」その時、ベッドから、彼女の呼ぶ声が聞こえてきた。「何をしているの?」

彼女は目をこすりながらベッドを出る。俺は「うっ」と変な声が出て、棒のように固まる。焦りを隠すように、静かにクローゼットを閉めた。ただし、リングケースは手にしたままで、隠すことはなかった。なぜなら、俺にはもう「なんでもないよ」と嘘をつく選択肢などなかったから。今が、分かれ道と言えた。ここで、勇気を出さなかったら、俺は、一生後悔する気がする。

「ああ、由香、起きたんだね。おはよう」

「うん、おはよう。ええと、健司君は何をしているのかな?」

由香はそう言って、下を向く。俺が手にしているケースを見つめて、「え」と声を漏らした。彼女が驚いている様子を見て、俺も、緊張してきた。「とりあえず、ベッドにでも座ろうよ」と提案する。

二人で、隣り合って座ると、女の、あまり香りがした。彼女が隣にいるということで、緊張したのは初めてだ。いつもは、心が安らぐときだというのに。しかし、これからは、ずっと、俺のターンなのだ。この婚約の話を切り出すのは俺だし、最終的に求婚するのも俺だ。つまり、全部俺の責任だ。そう思うと、一種の孤独感を感じた。彼女が、その返事をするまで、俺は、ずっと孤独に話し続けなければならない。しかし、それは仕方のないことだろう。すべての男が乗り越えなければならない試練だ。俺は腹をくくった。彼女のほうを見る。彼女は、下を向いて、うつむいていた。

「実は、昨日、俺、ディナーの後に、これを渡すつもりだったんだ」俺は、リングケースを開けて、彼女に見せる。由香は、微動だにせず、ただ「うん」と小さな声で言った。俺は少し不安になった。やはり、今これを打ち明けるのは間違いなのか。彼女はうつむいたままで、全く感情が読み取れないのを不安に思った。しかし、俺が一つだけ確信していることは、このまま昨日の過ちを知らないふりをして、全てをうやむやにするのは男として卑怯ではないかということだ。俺は、昨日、彼女を悲しませたのだ。ならば、正直な思いを打ち明けて、謝るのが筋ではないか。たとえプロポーズが失敗しても、彼女は、すっきりしてくれるだろう。俺は、強い孤独感に苦しみながらも、その結論に達することができた。これだけは今誇れることだ。額ににじみ出る汗を拭いて、俺は言葉を続ける。

「でも、港を散歩したとき、なんだか、急に胸が苦しくなった。本当に、このままでいいのかって。俺にそんな資格があるのかって。ひとり葛藤して、なんだか自分に自信がなくなってきて、どうしても、言うことができなかった」

なぜか、瞳がうるんで、涙が出そうになった。「俺の弱さだったね」

「いま、こんなムードもない中、これを差し出すのは、本当に、ロマンがないよね。ごめんね、由香。それなら、昨日やったほうが、よかったよね。だけど、由香、俺は、正直に打ち明けると」

それは、最後まで、言うべきか悩んだ一言だった。

「昨日までの俺は、由香と結婚して、家庭を築いていくことの意味を、深く考えようとしていなかった。ただ、由香を愛していて、一生、愛し合っていきたいと思ったから、この指輪を買ったんだ。だけど、そんなの、ダメだよね。俺は、由香のパパとママに代わって、由香を幸せにしないといけない。将来僕らの子供が誕生した時は、その子供も幸せにしないといけない。お金だけの話じゃない。ひとりの、夫として。ひとりの、パパとして、しっかりと、その責任を持つ必要があった」

だから俺としては、昨日より今日のほうが、タイミングとして正しかった。そう信じていたので、由香のほうを、まっすぐ見た。「こんな俺で良かったら、」

「この俺を、信じてくれるなら、どうか、この指輪を受け取ってほしい。俺は、由香と、温かい家庭を、築いていきたいんだ」

由香は、そっと、口を押えて、泣いた。本当に静かで、泣いていることすら直ぐには分からなかった。

「健司君、昨日、私ね」彼女は、うつむいたまま、心の内を打ち明ける。

「実は、健司君が私にプロポーズしようとしていることに気が付いていて、いつかなーって心待ちにしていたら、ディナーの後、港を散歩しようって言われて、くさいなーと思いながらも、嬉しくって。思わず、にやけちゃったんだ。きづいてたかな」

「暗くて、よくわからなかったけど、にやけていたんだね」

「うん、だけど、健司君に、『なんでもない』って言われて__ということは私の勘違いなのかなって、思っていたんだよ」

「勘違いなんかじゃないよ。由香の、言う通りだ。」

「私も、そう思って。ひとつ、ひらめいたの。自分が、落胆したように振舞えば、健司君も、私の気持ちを知ってもらえるかなって。そう思ったんだけど、健司君、『ホテルに帰ろう』としか、言わなかったよね。その時、私ね、ようやく、自分がぬか喜びしていたことに気が付いて、恥ずかしかったんだ」

俺は、頭を、ハンマーで殴られたかのように思った。

「自分から、気持ちを伝えようとしていたんだね。そうとは知らずに、俺は、自分のことばかり、考えていた。本当に俺は、正しくないことばかりしている。いまも由香を、傷つけてしまった」

「そうじゃないの、健司君。私が泣いているのはね。」彼女は首を振る。

「とっても、嬉しいからなんだよ。健司君が、私のことを、すごく考えてくれているってわかって、嬉しかった。赤ちゃんの話をされたときは、流石に気が早すぎて、恥ずかしかったけど、私を幸せにするって、言ってくれたときは、嬉しくて、そのとき、涙が出たんだ」

彼女は、クッションに包まれた指輪を手に取り、愛おしそうにそれを見つめる。俺は、黙って、リングケースを膝の上に置いた。

「健司君が、選んでくれたんだね」

彼女はそう言いながら、それを左手の薬指にはめた。俺のほうを見て、「こちらこそ、よろしくお願いします」と頭を下げる。俺も、反射的に頭を下げた。頭を下げて、その意味を理解したとき、急に、なにか嬉しいものがこみあげてくるのを感じた。

「ゆ、由香、本当に俺でいいの?」

俺は頭を上げて、言った。由香は、可笑しそうに笑った。

「いいんだってば。断られると思ったの?」

「そうじゃないけど、なんだか、実感わかなくて。だって、俺たち、夫婦になるんだよ。俺は夫になって、由香は妻になるんだ。とっても、不思議なことじゃない?」

「そーかな。実を言えば、私は、いつも願っていたことだから」

「そっか。それは照れるけど。俺も、願いが叶って、とっても嬉しい」

俺は、由香の背中に手を伸ばし、優しく抱擁した。由香は、俺の胸に頭を傾け、右手で俺の左手に触れる。

「ごろんしよっか」

「うん」

ベッドに静かに横たわると、体は離れ、二人は天井を見つめた。上目遣いになって窓を見ると、太陽の強い光が目に入った。あけぼのは去り、新しい朝が始まろうとしている。

「由香のご両親に挨拶しなきゃね・・・」

青い空を眺めながら、俺は呟く。

「きっと歓迎してくれるよ」


由香はそう言って、俺の手に触れる。俺は由香のほうを見た。由香の、屈託のない笑顔が、朝日に照らされて、より明るく見えることを、俺は美しく思った。

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早朝決意のプロポーズ @Kosuke_N

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