第二話_大和と首
――。休日の夕刻。独り。
街の幾つかあるアーケードの内、サクラコがしばしば利用するのはこの赤間商店街である。今や老体となった夫婦が営む個人経営の店舗ばかりだが、日本の都会の範疇に含まれる都道府県にしては住み着きの良いこの地域は未だシャッター商店街とは無縁だった。
活気あふれる商店街の掛け声はまるで昭和の香りがする。
サクラコの両親がこの街を居住区に選択した理由も、今年18歳を迎えたサクラコにはようやく理解できるような気がしていた。八百屋で野菜と果物を買い、魚屋で魚を買い、肉屋で肉を買う。
スーパーの買い物かごに雑に詰め込んでレジへ持っていくルーティンとは一味違うのだ。そして何よりサクラコにとっては店の方とのコミュニケーションが好きだった。
「あらぁ、サクラコちゃん。もうすぐ受験なのに買い物なんか来てて大丈夫なの?」
「ああ、いえ。そんなに時間のかかることではありませんから」
あらあら。本当、偉いわねぇ、ウチの息子とは大違い。
いえいえ、そんな。
……。
大手スーパーのレジの行列では中々贔屓なコミュニケーションは生まれないものだ。昨今の自動化されたレジを思えば猶更である。
幾らかの他愛ない雑談を終え、一通りの買い物を完了させた後、サクラコは商店街に背を向けた。もう幼少期から幾度となく繰り返してきたルーティンだが、気分は不思議といつも晴れやかになる。多少重量が増えた自前のトートバッグも苦にならない。どのみちサクラコの家は商店街からさほど離れてはいないので、後はひたすら大通りの歩道を直進するだけである。
街の大通りは日頃よりも人通りが少なく閑散としていた。茜色の空に黒い烏が特徴的な鳴き声を上げながら吸い込まれていく。
週末の終焉を感じさせるその情景にサクラコは特に口惜しさを感じない。なぜなら今はまだ夏休みで、明日はまたエイと図書館でアルバイトだからだ。作業自体は地味だが学校の授業よりはいくらか新鮮だ。とはいえ、仮にも受験生であるサクラコは毎晩勉強を欠かすわけにはいかない。それにこの夏が終われば後はもう卒業へまっしぐらだ。
「ふう……」
半ば感傷的な気持ちになりながら、夕焼けがチラつくオレンジの視界の中を歩行していると、ふと正面に人影が立ちはだかった。
サクラコはたちどころにピタッと足を止め、サッと顔を曇らせる。
大和悠馬だった。
「お前、本当に毎回同じ時間によぉ。飽きもせずおつかいしてんだなぁ」
ブリーチによってしっかり毛先まで黄色に染まりきった長めの頭髪に、微塵の気品もない着崩された制服。加えて人を見下したような目線。どころか、自分を値踏みするかのようないやらしい視点。
クラスメイトとはいえ、サクラコは「お前」呼ばわりされることに尋常でない不快感を覚える。
そのような人称代名詞を軽々しく使われるような仲になった憶えもなければ、今後一切なる予定もない。
「ごめん。急いでるから」
すぐさま彼の横をすり抜けていこうとしたが、あろうことか肩を掴まれた。
「っ!!?? ちょっと、やめて!」
「あぁ? シカトしてんじゃねーよ」
素行の悪い事ばかりに手を染めロクにスポーツの嗜みもない大和の腕力は実のところ大したことは無かったが、それでも年頃の娘であるサクラコにとって肩をガっと掴まれるというのは戦慄を覚えるほどの恐怖だった。
「おい、俺の話聞けや」
「わっ……わかった……わかったから……」
本当はすぐにでも叫び声を上げて助けを求めたい心境だったが、委縮してしまって口が開けない。
サクラコは日本の女子の中ではそれなりの身長の高い方で、逆に大和は男子にしては上背に欠けるため、両者の身長差はむしろサクラコが抜きかねないほどなのだが、それでもサクラコはまるで堅気でない男の三白眼を目の当たりにしているような威圧感を受けた。心臓が高鳴り、冷や汗が頬を伝う。
「だから前も言っただろ。沢田大のよぉ。米原先輩の話だよ。米原先輩お前とヤリ……じゃなかった……。お前のこと好きなんだってよ」
「だから前にも言ったでしょ。私その人に興味ないって……」
大和はチっと舌打ちしながらサクラコに詰め寄る。
「あ? はーもう。うぜえ。お前が興味あるとかないとかさぁ? んなことはどーでも良いんだよこっちは。あのなー、お前が断ると俺がマジで殺されんだって。何回言えばわかんだよ!」
「し、知らないわよ、そんなこと……」
サクラコはその見幕にたじろぎ、視線をそらして若干目を潤ませた。
そのように肩を微小ながら震わせているサクラコを見て少し毒気を抜かれたのか、大和は多少声のトーンを落とし嘆息した。
「はー。お前なぁ。米原先輩ガチでヤバいんだって。断ってみろよ。俺が殺されるだけじゃなくてお前は勿論、お前の家族もタダじゃ済まねえんだからな」
脅しの文句があまりに子どもじみていて逆にサクラコは冷静さを少し戻す。
「は? 馬鹿じゃないの? 『殺す』とか……。その人ただの学生でしょ。そんなの普通に警察へ通報しておしまいよ……」
だが大和は変わらずサクラコに呆れた表情を見せた。
「だーかーらーあ、警察なんて話になんねーの。とにかくもう、一度目を付けられちまったんだからさー。めんどくせえんだって。素直に俺の言うことに従っときゃいいんだよ。いいだろ、別に一回ヤラ……デートするぐらい」
サクラコは呆れつつ首を横に振る。
「話にならない。なんで私がそんな知らない人と付き合わなくちゃいけないの?」
大和は我慢ならなくなったのか右足を地面に叩きつけた。
「あーうっぜえ、うっぜえ。お前みたいな物分かり悪いクソ女と話すとガチでイライラするわ。だからなぁ、もうしょうがないんだって。お前さ、お前が思ってる以上にこの辺じゃ噂になってんの!」
サクラコは眉をひそめ大和を睨んだ。
「は? 何が?」
チッとまた大和は舌打ちした。
「バーカ! お前がエロいからだって。皆ヤリたくてしょうがねえんだよ!」
「エロっ……!? は!?」
サクラコは急速に頬を赤らめて顔を両手で覆った。
「あーあ。めんどくせえ」。大和は伏し目になってそう呟く。
サクラコは間もなく顔を紅色から蒼色へ変色させた。
酷く醒め切った氷のような表情になって、冷徹な視線と言葉を大和に放った。
「最っ低……。もう私の前から消えて……」
「あ? ちょ、待てよ! 俺だってお前なんかとよお!」
「痛っ!」
サクラコがその場を離れようとするのを焦った大和は再びサクラコの肩をグイっと掴んできた。その拍子でサクラコが掛けていたトートバッグは無残にも落下し、中身はコンクリートの地面にぶちまけられた。
商店街で一つ一つ吟味しながら、言葉を交わしながら購入した魅力あふれる献立は、いとも簡単に硬い地面との物理接触によって、あるいはそこに沈殿する埃や砂の付着によって台無しになった。勿論、無事な物もままあったが、問題の本質はそこではなかった。サクラコは、心理的なダメージが大きな塊となり膝をついて崩れ落ちてしまった。
自然と涙を落とす女子を前に、大和は流石に小規模ながら罪悪感に苛まれたのか、その落ちた品々を僅かでも拾おうとしゃがみかけた……その時だった。
ストン――、と、音がした。
は……?
あまりに聞きなれないほどの柔らかい響きにサクラコは強烈な違和感を覚えた。全身の筋肉が急速に強張るのを感じる。
何……?
わからなかった。
しかし頭では理解しえなかったが、現実は着実に目の前でモーションしていた。
大和の頭部は既に地面に落ち、散らばった食材に無事仲間入りを果たしていた。
その後、数刻遅れて胴体部がゆるゆらと揺れた後ドシャリと落ちた。
驚愕の光景を前に、サクラコはひたすらに絶句し、手で口を覆う。
だがこれは始まりに過ぎなかった。
眼前には男が立っていた。
それは古い古い男だった。
時代劇で見るような蒼い武士の羽織を纏う酷く蒼白な顔面をした男。
その風体に相応しく、彼は長い刀を持ち、今それを既に鞘へと仕舞うところだった。
まさに、大和の首を斬り落としたのはこの私ですと主張するかのようだ。
しかし映画の撮影が開始されたかのような浮世絵離れした事態は、彼に留まらない。
更に後方には、深緑色のレインコートで身を包んだ二名。
恐らく一人は男で、一人は女。
「こんな簡単にサクラコを殺せるとか想像できるか。あの、サクラコをだぞ。こんなに怯えて。本当に高校生かよ。まるで小さい子どもだ」
「逆の立場になって考えてみなよ。ただおつかいしてたら同級生が首で斬られるんだからさ。ウチだったら発狂すると思うよ」
「まぁ良い。おいGS。早く殺せよ」
深々とフードを被っており、その顔色を詳しく伺い知ることはできない。
しかしその言葉群の意図を追う余裕など最早サクラコにはない。
目の前で突然、口論していたクラスメイトの大和悠馬が斬り殺されたのだ。
ならば次はどうなるか。
当然自分が殺されるに決まっている。
羽織の武士男は、草履を履いた両足をゆらりと動かしながらこちらへやってくる。
当然、鞘の刀を再び抜き構えている。
「あ……あ……あぁ……」
サクラコが叫ぶ暇さえ与えずに。
至極手早く。
スパリと綺麗に。
蒼白の男はサクラコの右肩を、あっさり斬ってみせた。
「いっ、ア、ああああああああ……ああ!?!?!?」
血が噴き出る。噴き出る噴き出る噴き出る!
まるで湧き水のように。赤く赤く赤い血が。絵具を空にぶちまけたように。
間もなく右の肩から腕部がごとりと地面に落ちてから、やや遅れて狂い悶えるような激痛がサクラコに元へやってきた。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
死ぬ……死ぬ!
死ぬ!
死ぬことが自明なのに、まるでその原因と結果に頭が追い付かない。
意思決定論などどこへやら。
あまりに理不尽が過ぎて、死ぬ心構えがまるで出来ていない。
嘘よ、うそでしょ、何なのこれ。痛い。痛い痛い痛い痛い!ああああアああアアああアアああアああああああああ
「おい、遊んでんじゃねえよ、早く殺せ」
「死なんよ、この女は」
「は?」
『――また幻か』
春の桜の香りがした。
穏やかな陽気。そよ風に揺れる草花。
仄かに散りばめられる花びらの一枚一枚が、春風に舞って、人口のコンクリートを彩る。
ほぼ零秒で与えられた紫電一閃の一撃に対して、正確には羽織の男は、その一撃を回避できていたが、同時に現れた漆黒の時空転移ホールに体ごと吸い込まれることになるとは流石に予想外だったらしく、彼は既に二メートルほどぽっかり開いた次元の狭間に右半身が飲まれていた。
『――ああ』
それを最後に、羽織の男は全身すべて飲まれて消失した。
後方のレインコート二人組が絶句する中、代わりに突如登場した女。
朱と桃色が入り混じる着物を纏った長身の女は、その微細も乱れることなく流麗に流れる黒髪が白色のバレッタによって後方をきつく結ばれている。先ほど轟雷のよな一太刀を羽織の男に浴びせたその刀は、実に無駄のない細い細い刃だった。
「あーはいはい。まぁさすがにそんな簡単に行くわけがねえか」
「残念、しゃーなし。逃げる一択」
サクラコは最早激痛を通り越し、痛覚が薄らいでいた。
視界がぼやけ意識が途絶えていく最中にあったが、恐らく自分を救出に現れたと思しき女だけは一目見ようと視線を泳がせた。
そしてサクラコは観てしまったのだ。
その着物やバレッタや刀など、現代人に似つかわしくない身なりこそ浮世絵離れしているものの。
まさしくその女の顔は、自分自身であることに。
そしてサクラコは意識を失った。
Dream Garden @enn8392
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