心を繋げた朱塗りの架け箸

 蒸し暑い梅雨とも、照りつける陽射しに焼かれる真夏とも違う梅雨入り前。

 私は取引先である国木田製麺の社長とともに、蕎麦屋に居た。国木田製麺はラーメンの麺を作る会社だが、社長の国木田氏は蕎麦を好んで食べる。


 国木田社長行きつけの蕎麦屋は昔ながらの木造建築で、クーラーは無く、さらに真夏にならないと扇風機すら出さないらしい。


「梅雨入り前だってのに、こう暑くっちゃかなわんね」

 社長は胸ポケットから扇子を取り出して派手に扇ぎだす。私の方にまで、生暖かい風が届いた。


「年々、暑くなる気がしますね」

 私もポケットから手ぬぐいを取り出して額の汗を拭う。そこまで中年体型ではない私でもこれだけ汗をかくのだから、向かいに座る小太りの国木田社長には相当堪えるだろう。


「まあ、だからこそ、冷たい蕎麦が旨いんですよ。最上川さんは……ここはに来るのは初めてだったっけ?」


「ええ。そうですね。楽しみです」


「最上川さんのお眼鏡にかなえば、この店も商売繁盛間違い無しだよ。なあ! 女将さん!」

 国木田社長が厨房に向かって声を張り上げると、タイミング良くざる蕎麦を二枚持って女将さんが現れた。


「お客さん、格付けの判定員さんか何かなんですか?」

 女将さんが私達の前に蕎麦を出しながら、冗談めかした口調で私に微笑む。


「いえ、ただの物好きでして」


「女将さん。この人はね、飯から服から小物から……何もかもこだわる男なんだよ。下手なもん出すと二度と来てくれないよ」

 国木田社長は今にも懐から賄賂でも取り出しそうな顔で笑う。


「社長、それは言い過ぎですよ」


「はっはっは! さて、じゃあ……食べて下さい」

 国木田社長に促され、私は割り箸を手に取る。すると、国木田社長が「おや」と声を上げた。


「最上川さんは……箸はこだわらないのかい」

 そう言った国木田社長の手元には、美しい茜色の塗り箸が置いてある。どうやら、店に置いて貰っているものの様だ。


「……そういえば、マイ箸ですか。そういったものは持っていませんね。自宅の箸も、妻が買ったものです」


 言われてみれば、箸にこだわったことは無かった。食器類は妻が買う事が多く、気に留めた事すらなかった。特に塗り箸はなぜか好きになれず、手に取ることすらしていなかった。


「まぁ、箸なんざこだわらなくても飯は食えるからねぇ。ただね。私ゃ福井は小浜の出でね。あそこは塗り箸の産地なんですよ。だから箸には一家言ありましてね」

 国木田社長は誇らしげな顔で塗り箸を手に取って、私に手渡す。貝殻模様の塗りこまれた、手塗りと思われる美しい箸だった。

 高級和食店で螺鈿のついた箸を見かける事はあったが……この塗り箸はそういった類のものとは違う。先端は極端に細く、持つ部分から先端にかけて、丸ではなく四角い形をしている。実用性を重んじている様だ。


「女将さん、もう一膳、換えの箸!」

 国木田社長が声をかけると、女将さんはすぐに厨房からでてきて、国木田社長に箸を手渡した。


「まあ、それで食ってみてください」

 国木田社長はそう言うと、私より先に箸を構えて素早く蕎麦をつかむと、サッと麺をつゆにつけてズルズルと麺を啜り始めた。


「では……いただきます」

 箸で蕎麦を掴んだ瞬間、国木田社長の言いたいことが分かった。

 四角く細い箸は蕎麦を掴むのに適しているのだろう。箸の先端に何の滑り止め加工もされていないにも関わらず、みずみずしい麺が箸から逃げていくことなく、しっかりと掴むことができる。当然、蕎麦は今まで食べた中でも一、二を争うほど美味い。


「なるほど……」

 私は感心すると共に、何故か胸の奥に懐かしい気持ちが湧き上がるのを感じた。


「最上川さん。姿勢も良いが箸遣いも流石だね。日本人のお手本みたいだ」

 国木田社長は私の手元を見て感心する。


「恐れ入ります。しかし、箸も奥深いですね」


「ああ。箸はね……俺たち日本人の心だ。こだわった方がいい」

 国木田社長はいつもの緩んだタヌキ顔ではなく、鋭い目を私に向ける。その視線とセリフに、私は見覚えがあった。


 それは、何十年も前……私が小学生だった頃の話だ。



「最上川、正隆くん……ね。うちはこども書道教室じゃあないんだが……」

 そう言って困った顔をする痩せた老人は「まぁ、最上川くんの甥っ子だしなぁ」と言って私に書道を教えてくれることになった。


 私に書道を教えることになった老人は、書家名を泉宝と言った。本名は知らずじまいだった。

 泉宝先生は、私の伯父の書の師匠だった。伯父は、泉宝先生の書を見て感動して押し掛け弟子となり、書を学んだらしい。


 習い事をする年になった私を泉宝先生に紹介したのも伯父だった。ところが伯父は自由人だったため、一緒に連れて行って挨拶……ということなどせず、私の分の月謝を上乗せで払うだけで、私には「好きな曜日に勝手に行け」と指示していた。


 こうして、無愛想な老人と小学生の私の、毎週土曜の静かな一時間が淡々と繰り返された。私の書を泉宝先生が黙って確認し、朱書きで修正し、それに従って書き直す。それだけの時間。


 泉宝先生は彼なりに気を遣い、小学生の私にわかる言葉で、毎回一言だけ、書の書き方を教えてくれた。


「とめ、はね、はらいは文字をまたがった流れだ。一文字で終わらせるな」

「文字はただの線じゃない。引っ張ればいいものじゃない」


 泉宝先生の言葉はわかりやすく、それでいて確信を突いていた。当時の私には少し難しかったが、それでも言っていることは理解できた。先生は私の姿勢から指導してくれた。小学生の頃から、私は先生のおかげで正座もできたし、背筋は真っ直ぐに伸び、姿勢が良くなった。


 ある時、泉宝先生の娘さんが実家に帰ってきていたため、昼食をいただくことになった。泉宝先生は普段、昼食を摂らないので、私は書を習って自宅に帰ってから昼食を食べていたが、泉宝先生の娘さんが昼食を作ると私の家に連絡を入れてくれたので、食べてから帰ることになった。


 その日は昼飯が楽しみ過ぎて集中できず、先生の朱書きがいつもより朱く半紙の上に踊っていた。先生は後で話そうと言って、和室を出てリビングに向かった。私も慌ててあとをついていった。


「正隆くん。さっき、朱書きした書なんだが」

 泉宝先生が筆を持つかの様に美しい手つきで、箸を手に取りながら口を開いた。


「お父さん、ご飯のときはやめたら?」

 娘さんが泉宝先生を咎めようとするが、先生はそれを手で制する。


「いいや。飯の時間だから正隆くんにわかりやすく言えるんだ。いいかい。お箸が離れ離れになった状態で、上手に使えるか?」

 泉宝先生は箸を一本だけ私に手渡す。美しい、朱色の箸だった。


「じゃがいもなら刺せます!」

 小学生の私は先生の問いかけをなぞなぞと捉えて、食卓に並ぶ煮物の中のじゃがいもを箸で突き刺し、嬉しそうに答えた。


「いいや。離れ離れで、セットで使えるか? と聞いている」

 泉宝先生はいつもの穏やかな表情ではなく、まるで剣の達人の様な鋭い視線を私に向けていた。


「えっ……そんなの無理です。手が届かないよ」


「そうだろう。箸は二本で一つのものだ。君の文字は〝へん〟と〝つくり〟が離れ離れになっていた。心が離れると、文字も離れる。文字が離れると、文字から心が抜けて、書ではなくなる。そんな書には神は宿らない。箸が離れ離れになると、使えなくなるだけじゃなく、心も離れる。書と箸は日本人の心だ」


「お父さん、よけいわかりづらいよ」

 泉宝先生の娘さんはそう言って、屈んで私と目線を合わせ、私の手を取って、じゃがいもを指した箸を取り上げて器に返す。


「あのね。お箸は私達人間と、神様をつなげる道具なの。先の方、ごはんを掴むほうが私達人間、手で持つ方が、神様。お箸は架け橋なのよ。だから、丁寧に使わなきゃいけないの。一本だけ持ってじゃがいもを刺すなんて、やっちゃいけないのよ」


「はい……ごめんなさい」


「いいのよ。今度からやらなければ大丈夫。それでね。お父さ……泉宝先生はね、正隆くんの文字の……右と左が離れ離れになったのは、今のお箸と同じで心が込められて無い、丁寧じゃないよって言っているの。何か気になることがあったの?」


 泉宝先生の娘さんは、先生よりも易しく分かりやすい言葉で私に教えてくれた。私は顔を赤くしてうつむき、ごはんが楽しみ過ぎて気になっていたと伝えた。


 それを聞いた泉宝先生と娘さんは顔を見合わせて笑った。

 当時の私には、それはただただ恥ずかしい記憶だった。


 高校に上がると同時に、私は先生の家に通うのを辞めた。

 そして、私が大学生になった頃……泉宝先生はこの世を去った。当時は携帯電話など無く、先生の訃報を聞いたときには葬儀は終わっていた。


 後日先生の家を訪ねると、娘さんが暮らしていた。先生の家を相続し、ご主人と暮らしていると聞いた。


 仏壇に、あの日先生が謎掛けに使った箸が、一膳飯に立てられていた。


 私は仏壇の中、仏頂面で写る先生の写真に礼を告げた。そして、塗り箸をなんども見ながら、娘さんがあの日の事を思い出さないかを心配していた。


「正隆くん。ここに通ってくれてありがとう」

 娘さんは私に深く礼をした。


 実は、泉宝先生は私が通うまでは、奥さんを亡くしたショックで放心し、認知症一歩手前の状態になっていたのだという。

 だが、私が通う様になって、しっかりする様になったのだそうだ。


 それを聞いて私は涙を流した。そうとわかっていれば、まだ通ったのに。


 先生と過ごした数年が、今の私の所作を作ったと言っても過言ではない。文字も、姿勢も、そして食事の時の箸遣いの大切さも、全て泉宝先生から学んだ。今となっては、いくら礼を伝えても伝えきれない……まさに恩師であった。


「このお箸も……正隆くんといつか食事をしたくて買ってたんですって。私に……お前が結婚もしてないのに孫ができたぞって言ってて……」

 娘さんは一膳飯に刺さった朱塗りの箸を見て、涙を一筋流して優しく微笑んだ。


 私はいたたまれない気持ちになった。この箸は私にとっては、ただ恥をかいただけのものだと思っていたのに、先生にとっては……私ともっと繋がりを持とうという想いが込められたものだったのだ。




「最上川さん? 美味しくなかったかい?」

 国木田社長が私の顔を覗き込む。


「あ、いえ……とても美味しいです。箸は日本人の心と聞いて……昔のことを思い出していました」


「そうかい。箸も、いいもんだろ?」

 国木田社長はいつものタヌキ顔に戻って笑う。


「ええ。私も一つ、いい箸を買ってみようと思います」


「ああ。是非」


 国木田社長と別れた私は、帰り道に夫婦箸を買った。


 泉宝先生が私との架け橋になって欲しいという想いを込めたものと同じ、朱塗りの箸を。

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好事家は風の流れに笑みをこぼす 千鳥 涼介 @chitoriri1111

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