第十章
村長の嫁から差し入れされた焼餅を、隈吉と食べていたときだった。
玄関から人のにぎわいが聞こえてきて、藤吉郎は口に入れかけた餅を皿に置いた。
「橘の君がお帰りか。」と隈吉が問い、それには「さあ」とだけ答え、「見てくる」と立ち上がった。
廊下へ出ると、玄関のにぎやかさは一層大きくなる。そのうち玄関の方から「由良様、由良様」という声がきこえてきた。その騒ぎに、ふと藤吉郎は、信乃は起きただろうか、どうしただろうかと思い、廊下の奥にある信乃のいる部屋の方へ目をやった。
すると、廊下の明かりが届かない奥の薄暗がりの中、その部屋の入り口の前に、誰かいるように見える。
信乃かと思って目をこらす。
白い服を着て――いや、薄着で、色白でやせて――ふと目があった。
そのうらめしげな目に藤吉郎はぎょっとする。
藤吉郎が不意をうたれた隙に、女は、奥の暗闇を後ろへ下がったかと思うと、次の瞬間には見えなくなった。
あの後ろは行き止まりのはずだ。
藤吉郎は立ちすくんだ。
すると、後ろでガラリと戸が開いた。
思わず腰に刺した短剣に手をかけ、藤吉郎は構えの姿勢に入った。
部屋から隈吉が顔を出し、
「なんだ。」
開けた方の隈吉も驚いた様子で藤吉郎を見た。
藤吉郎は姿勢をゆるめ、緊張をとくと、
「今そこに…」
奥の暗がりを指差した。その指の動きにつられ、隈吉も廊下に顔を出して奥をのぞきこんだ。
何も見えない。
藤吉郎は「いや」と言って、そのままその指をひっこめた。
確かに、そこに、いた――だろうか。
すると反対側の廊下から足早に近づく足音がきこえ、角から、この家の嫁が姿を現した。
「由良様、蛇穴様と橘の君がお戻りに。」
「あ…ただいま参ります。」
藤吉郎は答え、気をひきしめると、玄関へと向かって歩き始めた。
隈吉は藤吉郎の様子を不審に思い、藤吉郎が見ていた奥の方へ、チラリと視線を向けた。
奥には暗闇があるばかりである。
彼は一つ首を傾げたが、すぐに藤吉郎の後へと続き、廊下を歩き始めた。
信乃が、使っていた布団を急いで畳み、部屋の庭に面した縁側の方の、障子の前へと布団を運んでいると、静かに廊下側の入り口の戸が開く音がして、「ま」という声が聞えてきた。
「もう、起きて大事ございませんか。」と女の声が尋ねてくる。
廊下の方が明るく、女の顔がはっきりとは見えないが、おそらく初日に挨拶し、何かと世話を焼いてくれたこの家の若い嫁だろう。
「はい、ええ、橘の君がお帰りなのですね。」
と、顔の判別がつかない相手に薄暗い中で返事をすると、声の主が、
「ええ。お待ちください。今、明かりをお持ちしますから。」
そう言って、廊下の扉を開け放したまま、女は姿を消し、足音が遠ざかった。
ややあって、女一人ではなく、数人の廊下を近づく気配がきこえてきた。
廊下の明かりの中に火を持った女が現れると、部屋に明かりがもたらされた。
二つの燭台に火が移されると、部屋の中がぽうっと暖かい色で明るくなる。
「もう、大事ないか。」
六佐に抱えられ、部屋へ入るなり橘は言った。
「はい、巫女さまも、ご無事でございましたか。」
「何、兄者がおられたゆえ、無事のりきった。」
続いて蛇穴が入り、藤吉郎の顔が見えた。
「信乃どの、もう起きあがっても」
信乃はうなずいた。藤吉郎の後ろに隈吉がいるのが見える。
隈吉を最後に部屋の戸が閉じられた。
この家の嫁が板間の上に配した座布団に、一同がめいめい腰をおろすと、入り口あたりで膝をついて座っていたこの嫁が、
「あの、夕餉はいかがいたしましょう。」
と尋ねた。
蛇穴が
「しばし話があるので、後にしてはもらえまいか。込み入った話ゆえ、できれば、席もおはずし願いたく」
言うと、嫁は恥ずかしそうに頭をさげて、
「わかりました。では、ご入用の時はお呼びくださいませ。温まりますよう、お茶だけそこにお持ちいたします。」
そう言ってもう一度頭をさげ、部屋を出て行った。
蛇穴が加わっただけで、行きとは同じ顔ぶれなのに、なぜか少し雰囲気が違う。
空気に気負いがなく、どこか疲れた感じがしていた。
隈吉が、小声で蛇穴に、
「お狐様の木にはたどりつけましたか。」
と問うた。
「うむ、すぐにわかった。助かった、礼を言う。」
そう蛇穴が返し、隈吉が小さく頭を下げた。
橘がその蛇穴と隈吉のやり取りから視線をはずすと、信乃へと目をやった。
「信乃よ。」
「はい。」
「女神山神社の神は、しばらく捜すことができぬ。」
「はい。」
「時を経て、大木村が落ち着くまでは。」
「はい。」
信乃は視線を落とし、うつむいて返事をした。
「何、このサラギが」横から蛇穴が口をはさんだ。「毎朝高野の諏訪社からお呼びいたし、お勤めいたすゆえ、安心するがよい。」
「はい。」
橘はしばらく信乃の姿をみつめた。部屋は蝋燭の明かりが二つあっても、どこかほの暗く、その表情がはっきりとは読めない。
廊下より小さく声がかかった。入り口の戸が少しだけ開くと、先ほどの嫁が小さく、「お茶をお持ちいたしました」といって、のせてきた盆ごとそれを部屋に差し入れた。
隈吉がそれを受け取ると、信乃は立ち上がり、隈吉が部屋の中ほどに持ってきたのを、信乃がみなの前に配していった。
信乃が元の位置に戻り、手に、暖かい茶の入った碗をにぎりしめた。
「信乃よ。」
「はい。」
「そなたの身の振り方を決めねばならぬ。」
はっとしたのは藤吉郎だった。
「橘の君、信乃どのは、このまま、我らのところへ帰るのでは」
それに対し蛇穴は、口の前に指を立てて「しっ」と藤吉郎をさえぎった。
橘がそのまま続けた。
「出立前に藤吾どのに相談をもちかけられたままであった。そなたを稲賀殿の元へと送るべきかと。あちらにはそなたの親族もおる。しかし、高階軍にねらわれた大木村の巫女どのの妹でもあるゆえ、しばらくは所在を不明にしておくのも一計かと思う。それで、熟考の上、帰ったら返事願いたいということだったのだが」
部屋の中がしんとなった。
稲賀の元へと向かうか、玉来へ行くか。
どちらにせよ、信乃には全く縁のない土地だった。
縁のある土地など、この世に一つしか――生まれ故郷しか、ないのだ。
今日、あんなに急いで去ったあの村――白く雪に覆われ、今となっては辛い思い出に覆われた、あの村しか――。
――この村へは、留まれぬのです。
藤吉郎のあの時の、つらい顔が浮かんだ。
思わず信乃は、向かい合わせの位置にいる藤吉郎に目をやった。
藤吉郎はこちらを見ていて、信乃の視線にどきりとした様子だった。
視線をはずす。
親族のいる、稲賀の元へと向かうか――長老の息子や、たきや、みのが身を寄せているという、稲賀の元へ――
皆は私を出迎えるであろう。優しくいたわってくれるであろう――無事を、祝ってくれるであろう。
しかし――
――姉さまは、本当に――小坂に、斬られたのですか。
――斬らせたのだ。自ら招いて、斬らせた。
信乃は手に持っていた碗を床においた。床に左手をつくと、橘の方へと顔を向ける。
「巫女さま」
口を開いた信乃は必死の顔をしていた。
「玉来の村へお連れください。」
橘は信乃の姿をじっと見守り、答えなかった。
「玉来の村とも、由良様とも、巫女さまとも、何の縁もゆかりもないわたくしでございます。しかし、今、稲賀どののところにいる親族の元へ行き、彼らにあって、姉の――姉のことを問われたとき、わたくしは、真実を述べずに、おられましょうか。姉が、自ら――」
自ら斬られた、自ら社を、使いものにならなくした――皆に村を捨てさせ、村で長い年月をかけて、守りぬいたものを、小夜が、命をかけて――
それが、彼らに対する裏切りでなくて、何なのだ。
「わたくしは、彼らに申し訳なく、しかし、姉の真意を伝え、誤りなくそれを伝え、姉を守り、――それだけの言葉を、私は、わたくしは今、持ちませぬ。」
信乃は床に両手をついた。
「わたくしを、玉来に」
頭をさげる。
「お連れくださいませ。」
頭を下げた信乃の目から、ほたほたと涙がこぼれ落ち、床をぬらした。
それがたとえ、彼らから逃げることになろうとしても、またたとえ、姉の言葉をうまく伝えきれたとしても――理解されたとしても、過去に彼らがはらってきた犠牲と、今はらっている犠牲と――姉の犠牲も含めて――彼らに、「なぜ」と思わせずにいられようか。
なぜそれが「今」なのか。
なぜそれが「小夜」なのか。
なぜ、それが、我々なのか、と――
信乃には、それが小坂靭実のせいだとしか思えなかった。
――あやつが―― この猟師小屋で出会ったあやつが、わたしの目を、開いたからよ。
姉は、そう言ったのだ。
――あの刀なら、間違いなく私を斬り捨てるだけの力があった――それだけではない。この因習が間違えていると、私に気づかせたのが、あやつなのだ。だから、私はあやつに、その始末をつけさせたかった――すべて、終わりにさせたかった――
信乃は床に手をついたまま、顔をあげなかった。
橘が藤吉郎と隈吉に顔を向け、「そなたたち、すまぬがはずしてくれぬか。」というまで、信乃は顔をあげなかった。
信乃が橘の言葉に慌てて顔を上げると、藤吉郎と目があった。
また、あのつらそうな顔をしている。
それで信乃は、慌てて床から手をあげ、居住まいを正し、うつむきながら手で涙をぬぐった。
藤吉郎と隈吉が出て行くのを見届けると、橘は信乃に手招きした。
「も少し、そばへ。」
言うので、信乃は立ち上がって橘の前へ歩みよった。
目の前に立つ信乃に、橘が手で座れと合図をすると、信乃はそこへ腰を下ろした。
「信乃よ。」
「はい。」
「一つ聴きたきことがある。」
「はい。」
「巫女姫どのは、小坂靭実と恋仲であったか。」
橘の問いに、信乃の目からまた、涙がこぼれた。
「恋仲であったのだな。」
再びの問いに、信乃は泣きながらうなずいた。
「そうか。」
「いつ、どうやって知りおうたかは知らぬが、なぜにそのようなことに――」
「小坂どのは」信乃が言葉を継いだ。
「小坂どのは、元はこの領国の出にございます。」
信乃はこぼれた涙を手でぬぐった。
橘も蛇穴も、打たれたように目を見開き、息をのんだ。
「なんと」
問いただしたのは蛇穴の方だった。
「今、なんと申した。」
「小坂どのは、元はこの領国――高野の、敗残兵にございます。五年前、高野を滅ぼされ、仇討ちにお館を襲おうとしたものの失敗。逃走し、見張りの手薄な大木村近くの国境を越えようとしたところを、獣に襲われました。それを助けたのが」
「巫女姫どのと?」
蛇穴の問いに、信乃はうなずいた。
「姉はまだ巫女姫ではなく、修行中の身で、先代巫女姫がおられた時でした。」
「それで、二人は恋におち、かけおちしようとしたと?」
次に尋ねたのは橘だった。それに信乃はうなずいた。
「それで、ならなかったのだな?」
また、信乃はうなずいた。
そうだ、あの日、信乃は父を始めとして、村の男に囲まれたのだ。
お前は一体、どこへ行っているのか、と。
哀しい風が吹いた夜があった、その原因は何か、と。
話すことが、小夜のためになるのだ、と。
「理由はどうあれ、私が、二人の仲を裂いたのです。私は、父たちに問い詰められ、二人が内緒であっていることを話し、村人にすべてが知られ、小坂は峠の向こうへと」
話しながら、信乃は混乱していた。
小坂靭実は今、村にとっても、自分にとっても「仇」にほかならなない。
しかし、姉の仲を裂いた、姉にとっての自分は何だったのか――
あれは、本当に、小夜のためになったのか――
突然黙ってしまった信乃を、橘は強い目でみつめた。
「して、その当時の小坂の名は」
問われて信乃は顔を上げた。
「朔次郎――義見朔次郎と」
一瞬、橘の気配が揺らいだ。
気取れるか、気取られないか、際どいほどの揺らぎだった。
横から蛇穴が続ける。
「では、小坂は、知っていたのだ。――そのときに、小坂は、巫女姫の力を知ったのだな。そして此度」
「姉が負傷した小坂を助けたのが元で、高階に知れたのでしょう。」
「なぜ、なぜ助ける! なぜ――いや」蛇穴は首を振った。「いや、こうなることがわかった上で――助けたのか。」
信乃は奥歯をかみしめて、言葉をついだ。
「姉は、希代の巫女姫であったゆえ――なぜ、それほどのことが、予知できずに、おれましょう。なぜに」
信乃は膝の上で、こぶしを強く握り締めた。
一体、なんという命なのだ。
死ぬために生きた五年か――
一体、なんという、命なのだろう、なんという――。
夕餉は皆が同じ部屋でそろって食べたが、特にこれと言った会話は出なかった。
一人蛇穴がひどく眠そうにしていて、食事が終わるなり、早々に藤吉郎らの部屋へと引き上げていった。
橘は、六佐に耳打ちして、家の外へと出て行った。
夜風にあたりたいゆえ――と。
夜風にあたるには余りにも寒すぎる季節なので、何か一人で考えたいことでもあるのだろうと藤吉郎は思ったが、口にはしなかった。
それでも、皆に内緒で一つ橘に相談したいことがあり、橘が庭に出る後を藤吉郎は一人追いかけた。
「よい月夜よの。よう晴れたわ。」
六佐と庭の真ん中にたたずみ、空の月を見上げながら橘はつぶやいた。それから、「のう、藤吉郎よ。」とつけ加えた。
そっと後をつけてもやはりわかるものだと、藤吉郎は庭にある木の陰で思った。
月明かりで景色がはっきりと見える。
橘の吐く息の白さまでよく見えた。
「何か用かや?」
橘は藤吉郎に尋ねた。
藤吉郎は木の陰から出て橘に近づくと、六佐に抱えられた橘を見上げた。
「少し、相談したいことが」
「信乃のことかや?」
「いえ、あの…橘の君がさきほどお帰りになったときのことなのですが」
「なんだ。」
「白い…女を見まして」
「どこで」
「その、橘の君がお使いの、お部屋の入り口の前です。」
「この世のものとは思われぬと?」
「はい。見ていると、すぐに消えました。」
「ふむ。」
橘は、懐から数珠を取り出した。両腕にかけながら、
「それらしき気配は、わらわは感じなんだが。」
言って、手をあわせて目を閉じ、集中した。
集中する橘の君を見上げ、それから藤吉郎は視線を月へと移した。
月は十三夜――外のものを照らすのには、十分な明るさだ。
ややあって橘が動く気配があり、それから数珠をジャラジャラと鳴らした。
薄目を開けたまま何か考えるふうだったが、
「死霊ではないな。」
とつぶやいた。
そこで、藤吉郎はじっと橘をみつめ、
「しかし、確かに見た――ような。」
藤吉郎がそういうと、橘は藤吉郎へと静かに視線を落とした。
「さて、何かが家をよぎることもあれば、誰ぞの生霊が現れたということもある。家の中の何かの魂が抜け出て、形を表すということもあるし、――しかし、今のところ害をなすものは何も見受けられぬ。」
藤吉郎はほっと息をついた。
ほっと息をつく藤吉郎を見下ろし、いつになく沈んだ声で橘が、
「そなたには世話になった。」
ふと、上から思いもかけない言葉が振ってきたので、藤吉郎は思わず橘を見上げた。
「行きはいらぬと言っておったのに、結局世話になった。」
藤吉郎は思わず笑顔になった。
「礼には――及びませぬ。橘の君も、私がいなければ高野へ行くはずだったのでしょう。」
橘は答えなかった。
「私がいるばかりに、かえって蛇穴様にもこの地へ来ていただくことになってしまい」
「それだけではない。」
橘は藤吉郎の言葉を切った。
「あのまま信乃を、高野にいる大木村の村人にあわせるわけにもいかなかった――そう」
そこで、橘は言葉を止めた。
止めたまま、なかなか次の言葉が出てこないので、藤吉郎は自分がいうことをいうべきかと思っていると、橘が、
「どちらにせよ、高野には行くべきではなかった。あの地に行けば、どんな因縁が、どんな因縁を呼ぶやもしれぬ。まして、そなたには――」
「私なら、そのようなお気遣いはなさらないでください。日頃から父に、昨日憎みおうていた敵とも、今日は手を携えねばならぬときが、来るやもしれぬ、戦場で、今目の前で父や兄が刃に倒れても、瞬時に気持ちを切り替えねばならぬと、教えられております。」
「藤吉郎。」
「はい。」
「人の世の営みは、人知では推し量れぬときがある。まして、何が糸をひいて、どう動くかわからぬものだ。避けられるものならば、避けて通ったほうがよい。」
橘の言葉に、藤吉郎は答えなかった。
何かを、橘は言葉の裏に含んでいるようにも思えるが、その裏が読めない。
藤吉郎が黙っていると、橘の方から
「そなたの尋ねたきことは、それだけか? 白い女の影の――」
と問うてきた。
藤吉郎はふと我に返った。
この巫女がここへ出てきたときのことを思い出し、早々にその場を辞すことにした。
「はい、ありがとうございます。悪しきものでなければ、かまいませぬ。ここはお寒うございますから、橘の君も早く中へと入られますよう。」
フフと橘は笑った。
「心配無用だ。」
いつもの、橘の顔がのぞいた。
「一人前のような口をきく。」
それでも、橘が、何か、どこか、沈んで見える。
それは、月夜のせいばかりでも、疲れのせいばかりでもないような気がした。
あの、大木村の猟師小屋の中で起こった、何か――もしくは、さきほど人払いをしてまで信乃と話していた、そのことが原因か。
巫女が斬られた社から、なぜあんな離れた地に魂が飛んだのかはわからない。
おそらく、あの中にいたのが、例の巫女に間違いはあるまい。――そして巫女に神の所在を尋ねてもつかめず、それを放りださねばならない何かがあった――橘があそこまで衰弱する、何かがあったのだ。
大木村の巫女は――信乃の姉は、高階が欲してあまりある――稲賀が見張りをつけて余りある、力を持った巫女だったのだ――それだけは、察しがついた。
それが、橘の憔悴と、どれほどにかかわるかは、わからぬが――
月明かりの中を、玄関の方へと向かう藤吉郎の後ろ姿を見送った。
どんな因縁が、どんな因縁を呼ぶやもしれぬ――
橘は、六佐の方に顔を向けた。
「思えば、信乃が我らの元へ来たのも、何かの因縁かの。」
あの日――かけたこともない森の中を走り、信乃が倒れていることを知らせにきた者のことを思い出す。
夢の中で一緒に走ったのだ。
早く知らせねばならぬ――早くこの子を、救わねばならぬ、と。
そのときのことを、さきほど信乃に尋ねた。
橘を呼びにきた女に、覚えはないか、と。
「私に、似ていたのですか?」
「そうだ。――そうだな、特に雰囲気がよく似ている。」
「そうおっしゃられても、誰とは――」
言われて、橘は目を閉じて記憶の中の女を探した。
ふと目をあけ、右手の人差し指を立て、口の右下あたりを指差し、
「ここに、小さなほくろがあった。 もう少しずれておれば、艶のある顔になったであろう。」
信乃は少し目を伏せて考えるふうであったが、ふと、目を上げると、
「母かも知れませぬ。」
「母――母御はお亡くなりか。」
「両親ともに他界しております。母は、亡くなって、もう――」
涙にまみれて、続きは言葉にならなかった。
―――…
「子を思うは、いずれも同じかの、六佐。」
すると、橘の君をみつめる六佐の目から、涙がこぼれてきた。
「これ」
月明かりの中でもはっきりと、涙がこぼれ落ちるのが見えた。
「橘の君、寂しい。」
大きな顔の小さな目から、涙はボロボロと落ちた。
「やれ、泣いておるのは我の心か。」
「六佐も、寂しい。」
「そうだ、われらは共にみなし子だ。」
橘は両の手で、六佐の頬をぬぐった。
「しかし、そなたの半端な力も、困りものだの。人の心など、感じぬほうが幸せであろうに。」
橘は六佐の頬をぬぐいきる。しかし、それでも六佐の目からはボタボタと涙がこぼれ続けた。
橘は冬の夜空を見上げた。
星空の中に、月が清かに輝いている。
それだけ、寒さも厳しいのだろう。
「人はなぜに、去り、想いばかりを、残すのか――今宵も」
橘は息を一つ吐いた。夜空に白く息がけぶる。
冷気が口の中に押し寄せた。
「今宵は一人、仲間を失うたようだの。キサが逝った夜も、このように、胸が空いたようだったか――」
清かに輝く十三夜の月は、天頂にあった。
このまま、西へと向かうのだろう。
星は夜空をめぐり――あの空を翔けた、希代の巫女は、もういない。
強大な力を秘めたまま、自らこの世を、去ろうとは――
翌朝、朝餉をすませると、一同は出立の準備にとりかかり、早々に立った。
蛇穴と橘、藤吉郎は見送りに出てきた家のものに深々と頭をさげ、その家を後にした。
蛇穴とは、村長の家を離れてすぐのところで、別れねばならなくなった。
藤吉郎が高野から蛇穴に従った兵を同道させず、兵は高野に一人で返したために、蛇穴は一人の帰途となる。
「誰か共を頼みましょうか。」
藤吉郎が問うのに、蛇穴は、
「何、夜道を行くわけでなし、己の身ぐらいは己で守れるわ。」
そう笑って答えた。
別れ際、橘が蛇穴に「兄者、頼みがある」と近寄り、何か耳打ちしたようだが、蛇穴が小さく、「うむ、我もそのつもりだ。」と答えただけで、何を話したかは、藤吉郎たちにはわからなかった。
橘が蛇穴から離れると、蛇穴はすぐに笑って「また会おうぞ。」と手を上げた。
一同に見送られながら、蛇穴はその場を去った。
一方、橘たちは、玉来村へと進路を取り、歩き始めた。
信乃は、行きの蛇穴の言葉を思い出す。
――信乃どのよ、なぜに参った。
――そなたには、つらい道行きとなるかもしれぬぞ。
そのつらい想いを宿す故郷も、今は背後に遠く――
――この村へは、留まれぬのです。
あの時の藤吉郎のかおを思い出し、思わず信乃は顔を上げた。
信乃は、横に並ぶ藤吉郎の姿をそっとうかがう。
藤吉郎は相変わらず、横に付き添うように並んで歩いている。
あの時、藤吉郎がいなければ、信乃は墓所まで姉の遺体を捜しに行ったに違いない。
佐助を怨みながら――佐助を、けなしながら――
信乃の視線に気付いたのか、ふと藤吉郎がこちらに気配を向けたので、慌ててその先の雪原に視線を向けた。
恐らくその下には、来年の春、田植えを待つ田が眠っているのだろう。
佐助よ――
どこにいる、佐助――
佐助に、尋ねたいことがあるのだ。
姉を、なぜ一人で埋葬してしまったのかと。
そしてなぜ、好いてはならぬものを、好いてしまったのか、と。
なぜに、その道に、迷いこんでしまったのか――
「この田んぼの先をずっと行っても、蛇穴様の帰られる高野に出ることができます。」
信乃の視線の先を追ってか、藤吉郎は突然そんなことを言い始めた。
「道は、あまりよろしくないのですが――いけないことはありません。さらにそのずっと先へ進むと、お館さまのおられる」
「高野へは行かれたことがありますの?」
信乃は藤吉郎の方を見上げて問うた。
「ええ、幼い頃に何度か――よく伯父に、剣の指南をねだったものです。」
「まあ、剣の、指南を――」
そうだ。
自分もそうだった。
幼い頃、姉だけが、修行の一貫として父に剣の指南を受けているのがうらやましくて、自分もよく剣の稽古をさせてくれと頼んだものだった。
結局、信乃には必要ないと、一度もそれが許されなかった。
信乃には、要らないから、と。
しかし姉は、修行の中でそれが一番、楽しそうだったのだ。
信乃の記憶の中で、姉が一番楽しそうに、明るく笑ったのも、確かその剣術のことだった。
よく頑張ったご褒美にと、父が初陣の時に持って出たという刀をくれたのだ。
そうだ、こんな雪の積もった日だった。
姉は嬉しそうに、いつになくはしゃぎながら、剣を持って外にかけだした。
外で構えてみるのだといって――
その後を、慌てて信乃は追いかけた。
「いいなあ、姉さま、私にもちょっと触らせて。」
「だめじゃ。これは今日から、私の宝物になったのだ。」
「えええ、ちょっと触るだけなのに。」
「だめじゃだめじゃ、これは私の、宝物なのだ。」
小夜は、だめじゃだめじゃを繰り返し、笑いながら軽々と、雪の上を駆けていった。
笑いながら、雪原のかなたへと、駆けて――
笑いながら――
〔― 第2部 ― 完〕
巫女姫物語・第二部 咲花圭良 @sakihanakiyora
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