第十章

 村長の嫁から差し入れされた焼餅を、隈吉と食べていたときだった。

 玄関から人のにぎわいが聞こえてきて、藤吉郎は口に入れかけた餅を皿に置いた。

 「橘の君がお帰りか。」と隈吉が問い、それには「さあ」とだけ答え、「見てくる」と立ち上がった。

 廊下へ出ると、玄関のにぎやかさは一層大きくなる。そのうち玄関の方から「由良様、由良様」という声がきこえてきた。その騒ぎに、ふと藤吉郎は、信乃は起きただろうか、どうしただろうかと思い、廊下の奥にある信乃のいる部屋の方へ目をやった。

 すると、廊下の明かりが届かない奥の薄暗がりの中、その部屋の入り口の前に、誰かいるように見える。

 信乃かと思って目をこらす。

 白い服を着て――いや、薄着で、色白でやせて――ふと目があった。

 そのうらめしげな目に藤吉郎はぎょっとする。

 藤吉郎が不意をうたれた隙に、女は、奥の暗闇を後ろへ下がったかと思うと、次の瞬間には見えなくなった。

 あの後ろは行き止まりのはずだ。

 藤吉郎は立ちすくんだ。

 すると、後ろでガラリと戸が開いた。

 思わず腰に刺した短剣に手をかけ、藤吉郎は構えの姿勢に入った。

 部屋から隈吉が顔を出し、

「なんだ。」

開けた方の隈吉も驚いた様子で藤吉郎を見た。

 藤吉郎は姿勢をゆるめ、緊張をとくと、

「今そこに…」

奥の暗がりを指差した。その指の動きにつられ、隈吉も廊下に顔を出して奥をのぞきこんだ。

 何も見えない。

 藤吉郎は「いや」と言って、そのままその指をひっこめた。

 確かに、そこに、いた――だろうか。

 すると反対側の廊下から足早に近づく足音がきこえ、角から、この家の嫁が姿を現した。

「由良様、蛇穴様と橘の君がお戻りに。」

「あ…ただいま参ります。」

藤吉郎は答え、気をひきしめると、玄関へと向かって歩き始めた。

 隈吉は藤吉郎の様子を不審に思い、藤吉郎が見ていた奥の方へ、チラリと視線を向けた。

 奥には暗闇があるばかりである。

 彼は一つ首を傾げたが、すぐに藤吉郎の後へと続き、廊下を歩き始めた。

 

 信乃が、使っていた布団を急いで畳み、部屋の庭に面した縁側の方の、障子の前へと布団を運んでいると、静かに廊下側の入り口の戸が開く音がして、「ま」という声が聞えてきた。

「もう、起きて大事ございませんか。」と女の声が尋ねてくる。

廊下の方が明るく、女の顔がはっきりとは見えないが、おそらく初日に挨拶し、何かと世話を焼いてくれたこの家の若い嫁だろう。

「はい、ええ、橘の君がお帰りなのですね。」

と、顔の判別がつかない相手に薄暗い中で返事をすると、声の主が、

「ええ。お待ちください。今、明かりをお持ちしますから。」

そう言って、廊下の扉を開け放したまま、女は姿を消し、足音が遠ざかった。

 ややあって、女一人ではなく、数人の廊下を近づく気配がきこえてきた。

 廊下の明かりの中に火を持った女が現れると、部屋に明かりがもたらされた。

 二つの燭台に火が移されると、部屋の中がぽうっと暖かい色で明るくなる。

「もう、大事ないか。」

六佐に抱えられ、部屋へ入るなり橘は言った。

「はい、巫女さまも、ご無事でございましたか。」

「何、兄者がおられたゆえ、無事のりきった。」

続いて蛇穴が入り、藤吉郎の顔が見えた。

「信乃どの、もう起きあがっても」

信乃はうなずいた。藤吉郎の後ろに隈吉がいるのが見える。

 隈吉を最後に部屋の戸が閉じられた。

 この家の嫁が板間の上に配した座布団に、一同がめいめい腰をおろすと、入り口あたりで膝をついて座っていたこの嫁が、

「あの、夕餉はいかがいたしましょう。」

と尋ねた。

 蛇穴が

「しばし話があるので、後にしてはもらえまいか。込み入った話ゆえ、できれば、席もおはずし願いたく」

言うと、嫁は恥ずかしそうに頭をさげて、

「わかりました。では、ご入用の時はお呼びくださいませ。温まりますよう、お茶だけそこにお持ちいたします。」

そう言ってもう一度頭をさげ、部屋を出て行った。

 蛇穴が加わっただけで、行きとは同じ顔ぶれなのに、なぜか少し雰囲気が違う。

 空気に気負いがなく、どこか疲れた感じがしていた。

 隈吉が、小声で蛇穴に、

「お狐様の木にはたどりつけましたか。」

と問うた。

「うむ、すぐにわかった。助かった、礼を言う。」

そう蛇穴が返し、隈吉が小さく頭を下げた。

 橘がその蛇穴と隈吉のやり取りから視線をはずすと、信乃へと目をやった。

「信乃よ。」

「はい。」

「女神山神社の神は、しばらく捜すことができぬ。」

「はい。」

「時を経て、大木村が落ち着くまでは。」

「はい。」

信乃は視線を落とし、うつむいて返事をした。

「何、このサラギが」横から蛇穴が口をはさんだ。「毎朝高野の諏訪社からお呼びいたし、お勤めいたすゆえ、安心するがよい。」

「はい。」

橘はしばらく信乃の姿をみつめた。部屋は蝋燭の明かりが二つあっても、どこかほの暗く、その表情がはっきりとは読めない。

 廊下より小さく声がかかった。入り口の戸が少しだけ開くと、先ほどの嫁が小さく、「お茶をお持ちいたしました」といって、のせてきた盆ごとそれを部屋に差し入れた。

 隈吉がそれを受け取ると、信乃は立ち上がり、隈吉が部屋の中ほどに持ってきたのを、信乃がみなの前に配していった。

 信乃が元の位置に戻り、手に、暖かい茶の入った碗をにぎりしめた。

「信乃よ。」

「はい。」

「そなたの身の振り方を決めねばならぬ。」

はっとしたのは藤吉郎だった。

「橘の君、信乃どのは、このまま、我らのところへ帰るのでは」

それに対し蛇穴は、口の前に指を立てて「しっ」と藤吉郎をさえぎった。

 橘がそのまま続けた。

「出立前に藤吾どのに相談をもちかけられたままであった。そなたを稲賀殿の元へと送るべきかと。あちらにはそなたの親族もおる。しかし、高階軍にねらわれた大木村の巫女どのの妹でもあるゆえ、しばらくは所在を不明にしておくのも一計かと思う。それで、熟考の上、帰ったら返事願いたいということだったのだが」

 部屋の中がしんとなった。

 稲賀の元へと向かうか、玉来へ行くか。

 どちらにせよ、信乃には全く縁のない土地だった。

 縁のある土地など、この世に一つしか――生まれ故郷しか、ないのだ。

 今日、あんなに急いで去ったあの村――白く雪に覆われ、今となっては辛い思い出に覆われた、あの村しか――。

 ――この村へは、留まれぬのです。

 藤吉郎のあの時の、つらい顔が浮かんだ。

 思わず信乃は、向かい合わせの位置にいる藤吉郎に目をやった。

 藤吉郎はこちらを見ていて、信乃の視線にどきりとした様子だった。

 視線をはずす。

 親族のいる、稲賀の元へと向かうか――長老の息子や、たきや、みのが身を寄せているという、稲賀の元へ――

 皆は私を出迎えるであろう。優しくいたわってくれるであろう――無事を、祝ってくれるであろう。

 しかし――

 ――姉さまは、本当に――小坂に、斬られたのですか。

 ――斬らせたのだ。自ら招いて、斬らせた。

 信乃は手に持っていた碗を床においた。床に左手をつくと、橘の方へと顔を向ける。

「巫女さま」

口を開いた信乃は必死の顔をしていた。

「玉来の村へお連れください。」

橘は信乃の姿をじっと見守り、答えなかった。

「玉来の村とも、由良様とも、巫女さまとも、何の縁もゆかりもないわたくしでございます。しかし、今、稲賀どののところにいる親族の元へ行き、彼らにあって、姉の――姉のことを問われたとき、わたくしは、真実を述べずに、おられましょうか。姉が、自ら――」

 自ら斬られた、自ら社を、使いものにならなくした――皆に村を捨てさせ、村で長い年月をかけて、守りぬいたものを、小夜が、命をかけて――

 それが、彼らに対する裏切りでなくて、何なのだ。

「わたくしは、彼らに申し訳なく、しかし、姉の真意を伝え、誤りなくそれを伝え、姉を守り、――それだけの言葉を、私は、わたくしは今、持ちませぬ。」

信乃は床に両手をついた。

「わたくしを、玉来に」

頭をさげる。

「お連れくださいませ。」

頭を下げた信乃の目から、ほたほたと涙がこぼれ落ち、床をぬらした。

 それがたとえ、彼らから逃げることになろうとしても、またたとえ、姉の言葉をうまく伝えきれたとしても――理解されたとしても、過去に彼らがはらってきた犠牲と、今はらっている犠牲と――姉の犠牲も含めて――彼らに、「なぜ」と思わせずにいられようか。

 なぜそれが「今」なのか。

 なぜそれが「小夜」なのか。

 なぜ、それが、我々なのか、と――

 信乃には、それが小坂靭実のせいだとしか思えなかった。

 ――あやつが―― この猟師小屋で出会ったあやつが、わたしの目を、開いたからよ。

 姉は、そう言ったのだ。

 ――あの刀なら、間違いなく私を斬り捨てるだけの力があった――それだけではない。この因習が間違えていると、私に気づかせたのが、あやつなのだ。だから、私はあやつに、その始末をつけさせたかった――すべて、終わりにさせたかった――

 信乃は床に手をついたまま、顔をあげなかった。

 橘が藤吉郎と隈吉に顔を向け、「そなたたち、すまぬがはずしてくれぬか。」というまで、信乃は顔をあげなかった。

 信乃が橘の言葉に慌てて顔を上げると、藤吉郎と目があった。

 また、あのつらそうな顔をしている。

 それで信乃は、慌てて床から手をあげ、居住まいを正し、うつむきながら手で涙をぬぐった。

 藤吉郎と隈吉が出て行くのを見届けると、橘は信乃に手招きした。

「も少し、そばへ。」

言うので、信乃は立ち上がって橘の前へ歩みよった。

 目の前に立つ信乃に、橘が手で座れと合図をすると、信乃はそこへ腰を下ろした。

「信乃よ。」

「はい。」

「一つ聴きたきことがある。」

「はい。」

「巫女姫どのは、小坂靭実と恋仲であったか。」

橘の問いに、信乃の目からまた、涙がこぼれた。

「恋仲であったのだな。」

再びの問いに、信乃は泣きながらうなずいた。

「そうか。」

「いつ、どうやって知りおうたかは知らぬが、なぜにそのようなことに――」

「小坂どのは」信乃が言葉を継いだ。

「小坂どのは、元はこの領国の出にございます。」

信乃はこぼれた涙を手でぬぐった。

 橘も蛇穴も、打たれたように目を見開き、息をのんだ。

「なんと」

問いただしたのは蛇穴の方だった。

「今、なんと申した。」

「小坂どのは、元はこの領国――高野の、敗残兵にございます。五年前、高野を滅ぼされ、仇討ちにお館を襲おうとしたものの失敗。逃走し、見張りの手薄な大木村近くの国境を越えようとしたところを、獣に襲われました。それを助けたのが」

「巫女姫どのと?」

蛇穴の問いに、信乃はうなずいた。

「姉はまだ巫女姫ではなく、修行中の身で、先代巫女姫がおられた時でした。」

「それで、二人は恋におち、かけおちしようとしたと?」

次に尋ねたのは橘だった。それに信乃はうなずいた。

「それで、ならなかったのだな?」

また、信乃はうなずいた。

 そうだ、あの日、信乃は父を始めとして、村の男に囲まれたのだ。

 お前は一体、どこへ行っているのか、と。

 哀しい風が吹いた夜があった、その原因は何か、と。

 話すことが、小夜のためになるのだ、と。

「理由はどうあれ、私が、二人の仲を裂いたのです。私は、父たちに問い詰められ、二人が内緒であっていることを話し、村人にすべてが知られ、小坂は峠の向こうへと」

 話しながら、信乃は混乱していた。

 小坂靭実は今、村にとっても、自分にとっても「仇」にほかならなない。

 しかし、姉の仲を裂いた、姉にとっての自分は何だったのか――

 あれは、本当に、小夜のためになったのか――

 突然黙ってしまった信乃を、橘は強い目でみつめた。

「して、その当時の小坂の名は」

問われて信乃は顔を上げた。

「朔次郎――義見朔次郎と」

 一瞬、橘の気配が揺らいだ。

 気取れるか、気取られないか、際どいほどの揺らぎだった。

 横から蛇穴が続ける。

「では、小坂は、知っていたのだ。――そのときに、小坂は、巫女姫の力を知ったのだな。そして此度」

「姉が負傷した小坂を助けたのが元で、高階に知れたのでしょう。」

「なぜ、なぜ助ける! なぜ――いや」蛇穴は首を振った。「いや、こうなることがわかった上で――助けたのか。」

信乃は奥歯をかみしめて、言葉をついだ。

「姉は、希代の巫女姫であったゆえ――なぜ、それほどのことが、予知できずに、おれましょう。なぜに」

 信乃は膝の上で、こぶしを強く握り締めた。

 一体、なんという命なのだ。

 死ぬために生きた五年か――

 一体、なんという、命なのだろう、なんという――。

 

 夕餉は皆が同じ部屋でそろって食べたが、特にこれと言った会話は出なかった。

 一人蛇穴がひどく眠そうにしていて、食事が終わるなり、早々に藤吉郎らの部屋へと引き上げていった。

 橘は、六佐に耳打ちして、家の外へと出て行った。

 夜風にあたりたいゆえ――と。

 夜風にあたるには余りにも寒すぎる季節なので、何か一人で考えたいことでもあるのだろうと藤吉郎は思ったが、口にはしなかった。

 それでも、皆に内緒で一つ橘に相談したいことがあり、橘が庭に出る後を藤吉郎は一人追いかけた。

「よい月夜よの。よう晴れたわ。」

六佐と庭の真ん中にたたずみ、空の月を見上げながら橘はつぶやいた。それから、「のう、藤吉郎よ。」とつけ加えた。

 そっと後をつけてもやはりわかるものだと、藤吉郎は庭にある木の陰で思った。

 月明かりで景色がはっきりと見える。

 橘の吐く息の白さまでよく見えた。

「何か用かや?」

橘は藤吉郎に尋ねた。

 藤吉郎は木の陰から出て橘に近づくと、六佐に抱えられた橘を見上げた。

「少し、相談したいことが」

「信乃のことかや?」

「いえ、あの…橘の君がさきほどお帰りになったときのことなのですが」

「なんだ。」

「白い…女を見まして」

「どこで」

「その、橘の君がお使いの、お部屋の入り口の前です。」

「この世のものとは思われぬと?」

「はい。見ていると、すぐに消えました。」

「ふむ。」

橘は、懐から数珠を取り出した。両腕にかけながら、

「それらしき気配は、わらわは感じなんだが。」

言って、手をあわせて目を閉じ、集中した。

 集中する橘の君を見上げ、それから藤吉郎は視線を月へと移した。

 月は十三夜――外のものを照らすのには、十分な明るさだ。

 ややあって橘が動く気配があり、それから数珠をジャラジャラと鳴らした。

 薄目を開けたまま何か考えるふうだったが、

「死霊ではないな。」

とつぶやいた。

そこで、藤吉郎はじっと橘をみつめ、

「しかし、確かに見た――ような。」

藤吉郎がそういうと、橘は藤吉郎へと静かに視線を落とした。

「さて、何かが家をよぎることもあれば、誰ぞの生霊が現れたということもある。家の中の何かの魂が抜け出て、形を表すということもあるし、――しかし、今のところ害をなすものは何も見受けられぬ。」

藤吉郎はほっと息をついた。

 ほっと息をつく藤吉郎を見下ろし、いつになく沈んだ声で橘が、

「そなたには世話になった。」

ふと、上から思いもかけない言葉が振ってきたので、藤吉郎は思わず橘を見上げた。

「行きはいらぬと言っておったのに、結局世話になった。」

藤吉郎は思わず笑顔になった。

「礼には――及びませぬ。橘の君も、私がいなければ高野へ行くはずだったのでしょう。」

橘は答えなかった。

「私がいるばかりに、かえって蛇穴様にもこの地へ来ていただくことになってしまい」

「それだけではない。」

橘は藤吉郎の言葉を切った。

「あのまま信乃を、高野にいる大木村の村人にあわせるわけにもいかなかった――そう」

そこで、橘は言葉を止めた。

 止めたまま、なかなか次の言葉が出てこないので、藤吉郎は自分がいうことをいうべきかと思っていると、橘が、

「どちらにせよ、高野には行くべきではなかった。あの地に行けば、どんな因縁が、どんな因縁を呼ぶやもしれぬ。まして、そなたには――」

「私なら、そのようなお気遣いはなさらないでください。日頃から父に、昨日憎みおうていた敵とも、今日は手を携えねばならぬときが、来るやもしれぬ、戦場で、今目の前で父や兄が刃に倒れても、瞬時に気持ちを切り替えねばならぬと、教えられております。」

「藤吉郎。」

「はい。」

「人の世の営みは、人知では推し量れぬときがある。まして、何が糸をひいて、どう動くかわからぬものだ。避けられるものならば、避けて通ったほうがよい。」

橘の言葉に、藤吉郎は答えなかった。

 何かを、橘は言葉の裏に含んでいるようにも思えるが、その裏が読めない。

 藤吉郎が黙っていると、橘の方から

「そなたの尋ねたきことは、それだけか? 白い女の影の――」

と問うてきた。

 藤吉郎はふと我に返った。

 この巫女がここへ出てきたときのことを思い出し、早々にその場を辞すことにした。

「はい、ありがとうございます。悪しきものでなければ、かまいませぬ。ここはお寒うございますから、橘の君も早く中へと入られますよう。」

フフと橘は笑った。

「心配無用だ。」

いつもの、橘の顔がのぞいた。

「一人前のような口をきく。」

それでも、橘が、何か、どこか、沈んで見える。

 それは、月夜のせいばかりでも、疲れのせいばかりでもないような気がした。

 あの、大木村の猟師小屋の中で起こった、何か――もしくは、さきほど人払いをしてまで信乃と話していた、そのことが原因か。

 巫女が斬られた社から、なぜあんな離れた地に魂が飛んだのかはわからない。

 おそらく、あの中にいたのが、例の巫女に間違いはあるまい。――そして巫女に神の所在を尋ねてもつかめず、それを放りださねばならない何かがあった――橘があそこまで衰弱する、何かがあったのだ。

 大木村の巫女は――信乃の姉は、高階が欲してあまりある――稲賀が見張りをつけて余りある、力を持った巫女だったのだ――それだけは、察しがついた。

 それが、橘の憔悴と、どれほどにかかわるかは、わからぬが――

 

 月明かりの中を、玄関の方へと向かう藤吉郎の後ろ姿を見送った。

 どんな因縁が、どんな因縁を呼ぶやもしれぬ――

 橘は、六佐の方に顔を向けた。

「思えば、信乃が我らの元へ来たのも、何かの因縁かの。」

 あの日――かけたこともない森の中を走り、信乃が倒れていることを知らせにきた者のことを思い出す。

 夢の中で一緒に走ったのだ。

 早く知らせねばならぬ――早くこの子を、救わねばならぬ、と。

 そのときのことを、さきほど信乃に尋ねた。

 橘を呼びにきた女に、覚えはないか、と。

「私に、似ていたのですか?」

「そうだ。――そうだな、特に雰囲気がよく似ている。」

「そうおっしゃられても、誰とは――」

言われて、橘は目を閉じて記憶の中の女を探した。

 ふと目をあけ、右手の人差し指を立て、口の右下あたりを指差し、

「ここに、小さなほくろがあった。 もう少しずれておれば、艶のある顔になったであろう。」

信乃は少し目を伏せて考えるふうであったが、ふと、目を上げると、

「母かも知れませぬ。」

「母――母御はお亡くなりか。」

「両親ともに他界しております。母は、亡くなって、もう――」

涙にまみれて、続きは言葉にならなかった。

 ―――…

「子を思うは、いずれも同じかの、六佐。」

すると、橘の君をみつめる六佐の目から、涙がこぼれてきた。

「これ」

月明かりの中でもはっきりと、涙がこぼれ落ちるのが見えた。

「橘の君、寂しい。」

大きな顔の小さな目から、涙はボロボロと落ちた。

「やれ、泣いておるのは我の心か。」

「六佐も、寂しい。」

「そうだ、われらは共にみなし子だ。」

橘は両の手で、六佐の頬をぬぐった。

「しかし、そなたの半端な力も、困りものだの。人の心など、感じぬほうが幸せであろうに。」

橘は六佐の頬をぬぐいきる。しかし、それでも六佐の目からはボタボタと涙がこぼれ続けた。

 橘は冬の夜空を見上げた。

 星空の中に、月が清かに輝いている。

 それだけ、寒さも厳しいのだろう。

「人はなぜに、去り、想いばかりを、残すのか――今宵も」

橘は息を一つ吐いた。夜空に白く息がけぶる。

 冷気が口の中に押し寄せた。

「今宵は一人、仲間を失うたようだの。キサが逝った夜も、このように、胸が空いたようだったか――」

 清かに輝く十三夜の月は、天頂にあった。

 このまま、西へと向かうのだろう。

 星は夜空をめぐり――あの空を翔けた、希代の巫女は、もういない。

 強大な力を秘めたまま、自らこの世を、去ろうとは――

  

 翌朝、朝餉をすませると、一同は出立の準備にとりかかり、早々に立った。

 蛇穴と橘、藤吉郎は見送りに出てきた家のものに深々と頭をさげ、その家を後にした。

 蛇穴とは、村長の家を離れてすぐのところで、別れねばならなくなった。

 藤吉郎が高野から蛇穴に従った兵を同道させず、兵は高野に一人で返したために、蛇穴は一人の帰途となる。

「誰か共を頼みましょうか。」

藤吉郎が問うのに、蛇穴は、

「何、夜道を行くわけでなし、己の身ぐらいは己で守れるわ。」

そう笑って答えた。

 別れ際、橘が蛇穴に「兄者、頼みがある」と近寄り、何か耳打ちしたようだが、蛇穴が小さく、「うむ、我もそのつもりだ。」と答えただけで、何を話したかは、藤吉郎たちにはわからなかった。

 橘が蛇穴から離れると、蛇穴はすぐに笑って「また会おうぞ。」と手を上げた。

 一同に見送られながら、蛇穴はその場を去った。

 一方、橘たちは、玉来村へと進路を取り、歩き始めた。

 信乃は、行きの蛇穴の言葉を思い出す。

 ――信乃どのよ、なぜに参った。

 ――そなたには、つらい道行きとなるかもしれぬぞ。

 そのつらい想いを宿す故郷も、今は背後に遠く――

 ――この村へは、留まれぬのです。

 あの時の藤吉郎のかおを思い出し、思わず信乃は顔を上げた。

 信乃は、横に並ぶ藤吉郎の姿をそっとうかがう。

 藤吉郎は相変わらず、横に付き添うように並んで歩いている。

 あの時、藤吉郎がいなければ、信乃は墓所まで姉の遺体を捜しに行ったに違いない。

 佐助を怨みながら――佐助を、けなしながら――

 信乃の視線に気付いたのか、ふと藤吉郎がこちらに気配を向けたので、慌ててその先の雪原に視線を向けた。

 恐らくその下には、来年の春、田植えを待つ田が眠っているのだろう。

 佐助よ――

 どこにいる、佐助――

 佐助に、尋ねたいことがあるのだ。

 姉を、なぜ一人で埋葬してしまったのかと。

 そしてなぜ、好いてはならぬものを、好いてしまったのか、と。

 なぜに、その道に、迷いこんでしまったのか――

「この田んぼの先をずっと行っても、蛇穴様の帰られる高野に出ることができます。」

信乃の視線の先を追ってか、藤吉郎は突然そんなことを言い始めた。

「道は、あまりよろしくないのですが――いけないことはありません。さらにそのずっと先へ進むと、お館さまのおられる」

「高野へは行かれたことがありますの?」

信乃は藤吉郎の方を見上げて問うた。

「ええ、幼い頃に何度か――よく伯父に、剣の指南をねだったものです。」

「まあ、剣の、指南を――」

 そうだ。

 自分もそうだった。

 幼い頃、姉だけが、修行の一貫として父に剣の指南を受けているのがうらやましくて、自分もよく剣の稽古をさせてくれと頼んだものだった。

 結局、信乃には必要ないと、一度もそれが許されなかった。

 信乃には、要らないから、と。

 しかし姉は、修行の中でそれが一番、楽しそうだったのだ。

 信乃の記憶の中で、姉が一番楽しそうに、明るく笑ったのも、確かその剣術のことだった。

 よく頑張ったご褒美にと、父が初陣の時に持って出たという刀をくれたのだ。

 そうだ、こんな雪の積もった日だった。

 姉は嬉しそうに、いつになくはしゃぎながら、剣を持って外にかけだした。

 外で構えてみるのだといって――

 その後を、慌てて信乃は追いかけた。

「いいなあ、姉さま、私にもちょっと触らせて。」

「だめじゃ。これは今日から、私の宝物になったのだ。」

「えええ、ちょっと触るだけなのに。」

「だめじゃだめじゃ、これは私の、宝物なのだ。」

 小夜は、だめじゃだめじゃを繰り返し、笑いながら軽々と、雪の上を駆けていった。

 笑いながら、雪原のかなたへと、駆けて――

 笑いながら――

  


〔― 第2部 ― 完〕

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巫女姫物語・第二部 咲花圭良 @sakihanakiyora

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