第九章
橘と六佐が猟師小屋から出てくると、出てくるなり橘が、藤吉郎に向かって、
「帰るぞ。」
と言い放った。
その言葉に藤吉郎は、信乃の様子を気にしながらも、
「女神山神社の神はどうなりました。」
と尋ねた。
橘はそれには答えず、しばし視線を落として考えるふうだったが、
「大事にはいたらぬ。――情勢が落ち着いて、それからお捜ししても何の問題もなかろう。」
と返事をした。
「お社には神がおられぬままですか。」
「拝む者もよりつけぬのだから、問題はあるまい。どちらにしても、お戻しするには、あの社を造りかえるか、床を張り替えて清めるかをせねばなるまい。――今できることではあるまい。」
橘はまだ何か考えるふうだったので、藤吉郎は質問を続けるのをよした。
猟師小屋の中から感じた邪気の正体はなんだったのか。信乃を連れて入った理由はなんだったのか。
そしてなぜ、信乃はこれほどまでに泣き崩れるのか。
信乃の様子からして、小屋の中から寄せた邪気の原因に、ある程度察しはついた。
しかし今、尋ねるときではないと、既に、元来た道を行こうとする橘と六佐の後ろ姿をみつめた。それから、未だ雪の上に横たわる蛇穴と、声にならぬ慟哭がおさまったものの、藤吉郎のさしだした布で頬を抑える信乃に振り返り、
「立てますか。」
と声をかけた。
信乃はコクリとうなずいた。
蛇穴は雪の中からようよう頭をもたげ、そこへ藤吉郎が手を差し出すと、蛇穴は「すまぬ」と言って、藤吉郎の手を借り立ち上がった。
「信乃、行けるか。」
立ち上がった蛇穴は、未だ雪の上に腰をおろす信乃の背中に手を添えた。信乃のその身を蛇穴がささえ、信乃は雪の上に立ち上がった。
一同が、ゆっくりと歩き出す。
少し歩いてから、信乃はそっと振り返った。
涙に濡れた頬が、外気でことさら冷たく感じる。
振り返ると、一面の雪景色の中には、真っ白な世界に、暗く沈んで、あの猟師小屋が立っている。
――また、いつかの世で会おうぞ
信乃の目から、涙があふれた。
いつかの世――それは、いつのことでございますか。
答えがなかった、あの、小夜の後ろ姿が、今でもはっきりと頭の中によみがえる。
ただ、わかっていることは、それはもう、今の世ではないということなのだ。
ここに生きて甦るということは、もうないということなのだ。
「もう会えぬ」という仮定は確定になり、姉は信乃に語りかけることも、手を握ることもなくなった。
信乃は猟師小屋から目をそらせた。
目をそらせて、行く方へと目を向けると、前を歩く橘と六佐が、ゆらりと揺れたように見えた。
白い雪景色、空も似たような色の中で、目の錯覚かともう一度二人を見つめたが、そのうち、六佐の肩越しに見えていた橘の頭がゆっくりと見えなくなっていく。
あっと思ったその瞬間、六佐が足を止め、一行に振り返った。
「あにじゃ!」
六佐の声が不安に満ちている。即座に蛇穴が、「なんだ!」と返した。
「たちばなのきみが、へんだ!」
その声に打たれたかのように、蛇穴が雪の上を走り出した。すぐに橘にかけよると、
「橘、いかがした。」
のぞきこんだ橘は、ぐったりと六佐の胸に顔をよせかけている。蛇穴はその額に無理にさわり、それから頭に手をやると、途端に困惑した表情を浮かべた。
「どうされました。」
そういって、すぐに藤吉郎もかけよった。
蛇穴は橘の頭に手をおいて困惑した顔のまま、少し考えるふうだったが、
「このあたりに、神木はないか。」
「神木――ですか。」
「そうだ、霊木でもかまわぬ。急がねば、橘の命にかかわる。」
「一体何が」
「説明している暇はない。とにかく、急ぐのだ! 知っておるのか、おらぬのか!」
蛇穴は藤吉郎に詰め寄った。
「私は、このあたりのことに詳しくないためわかりませぬが、――信乃どの!」
藤吉郎は信乃へ声をかけた。
信乃がその声に気がつくと、藤吉郎の元へと足を早めた。
「はい。」
「蛇穴様が、このあたりに神木はないかと。」
「神木――で、ございますか。」
そこで蛇穴が口をはさんだ。
「どんなに幼くても、朽ちかけていてもよい。なんなら神石でもかまわぬ。知らぬか。」
今度困惑したのは信乃の方だった。
村の中にあるという話もきいたことはないし、近隣の村でもそんな話はきかない。記憶の中を探っても、それらしいものに行き当たらない。もし、それに近いものがあるとすれば、
「俺の村にあります。」
横から隈吉が口をはさんだ。
「おぬしの村に?」
「正しくいうと、俺の村の近くにある森の中の、その沢のほとりに、狐様の宿る霊木として祀られている木があります。しかし未だ神格化しておらず、気難しいゆえ神職以外は近づいてはならぬと」
「詳しい場所はわかるか」
蛇穴がそういうと、隈吉は歩みよって、雪の上に指で地図を描き始めた。行きに通って来た森の中の道よりはずれ、山に向かって川沿いを登り、目印はと説明しはじめると、
「わかった。目印はいらぬ。近づけばその霊気でわかる。六佐!」
六佐は不安げな顔をして蛇穴の顔を見た。
「橘を連れて参るぞ。」
蛇穴の言葉に六佐はうなずいた。それから蛇穴は藤吉郎に向き直り、
「急ぎその霊木まで参る。そなたらはどこぞで待っておるがよい。」
「どこぞで――と申されましても」
「そうだな」と言ってしばらく蛇穴が思いをめぐらせた。「高野の」といいかけたところで「兄者」と橘の小さくともするどい声が飛んできた。
「高野はなりませぬ。」
ぐったりした姿のまま、橘の声が続けた。
それで蛇穴は何かに気がついたというような顔をして、下唇をかんだが、ふと気がつき、
「昨日そなたらが世話になったという、村長の家では、ならぬか。」
蛇穴の言葉に藤吉郎が隈吉にちらりと目をやった。すると隈吉が、
「もしかしたら、帰りもお世話になることがあるやもしれませぬ、と、お断わりしております。特に問題はないかと。」
「では、そこで落ち合おう。」
言うと、蛇穴は六佐に目をやり、六佐と蛇穴は雪の中をかけだした。
かけだしてまもなく、すぐに蛇穴が遅れはじめたので、後ろから藤吉郎が叫んだ。
「蛇穴さま、兵の詰め所に我らの馬を預けてございます。よろしければお使いください!」
聞えたのか否か、蛇穴が右手を軽くあげ、そのまま二人がかけ続ける。
走る後ろ姿を見送っていると、三人の姿は、やがて雪原の果てに見えなくなった。
信乃と藤吉郎、隈吉、先導の兵に、蛇穴の連れの兵は、その場に残されて呆然と走り去った三人の行く先を見ていた。
此度の用で村へ来た当の本人たちが、はっきりとした理由も告げず、すさまじい勢いで消え去ったのだ。
ただ、「橘の命にかかわる」――それだけを言い残して。
後に残されたものは、どうしようもなく、しばらくそこにたたずんでいた。
それで隈吉が、
「では、移動するか。」
と藤吉郎に声をかけた。
藤吉郎は答えず、信乃の方へと振り返り、
「村を離れますが、よろしいか。」
とだけ尋ねた。
信乃の心の中に、先祖の墓所が浮かんだ。姉の遺体――佐助が埋めたという―― 一瞬それがよぎった。
自身の家の中が、その暗さとともによぎった。
姉の、遺体のありかを確かめたいという事実――ここを、離れたくないという事実。
その願いは、ならぬことなのか――我が地でありながら、我が思うままにならず、離れてまた、知らぬ土地へと向かうのか――この住み慣れた地を離れ、また――
「信乃どの。」
信乃が答えずにいると、藤吉郎が言葉をついだ。
「この村へは、留まれぬのです。」
藤吉郎の顔を見上げる。
涙の後のせいか、どんよりした空の下の雪景色のせいか、目までが、どこかぼんやりしていた。
その目の中に映る藤吉郎の顔が、つらそうな顔をしている。
そしてその顔が、その顔のままで、「行きましょう。」と信乃に告げた。
信乃の胸にチリリと痛みがさした。
そして、藤吉郎のその顔から視線をはずすと、信乃は先ほど蛇穴たちが去った方へと視線を向ける。
ゆっくりと、歩き出した。
それとともに、藤吉郎が信乃に並んで歩き始めた。
他の三人も、後に続いて歩き始める。
信乃は歩きながら、そっと顔をうつむかせた。
きっと、私は今、ひどい顔をしているに違いない。
ひどい、顔を――
昨夜世話になった村長の家につき、家に足を踏み入れた途端、信乃が倒れた。
すぐに昨夜と同じ部屋へと運ばれ、部屋の中へと寝かされた。
緊張の糸が切れたのか、疲れがどっと押し寄せたのか、それはわからなかったが、とにかく信乃はここまで気持ちを持たせて歩き、そして一気に崩れたのだと、藤吉郎は思った。
部屋の外の板間にすわって中で行われる手当てを待っていた藤吉郎は、村近くの薬師が村長の嫁と出てきた途端に姿勢を正した。
「ま、由良さま、こんなところで」
言ったのは嫁の方だった。
「信乃どのの、かげんは。」
嫁の戸惑いを断ち切って藤吉郎がそう問うと、薬師は、ゆっくりとうなずきながら答えた。
「何、たいそうお疲れで衰弱しておられますので、精がつく薬をお渡ししておきました。しばらくお休みになられれば、回復されるでしょう。」
藤吉郎は、ほっと息をつくと、薬師に頭を下げた。
「中へ入られますか」と嫁の問うのに、「いえ」とだけ答え、「別室に控えておりますので、何かありましたらおよびください。よろしくお願いいたします。」とだけ言って、頭を下げた。
藤吉郎は医師と村長の嫁の姿を見送ると、立ち上がり、割り当てられた自分の部屋へと戻った。扉を開けると、横になっていた隈吉が起き上がり、その場に座した。
「医師はなんと?」
「疲れだそうだ。しばらく休めばよくなる。」
「心の疲れか。」
「たぶん」
それでしばらく、二人は沈黙した。
藤吉郎は隈吉の隣に座すると、一つため息をついた。
すると、ポツリと隈吉が、
「橘の君はご無事だろうか。」
その問いに、藤吉郎はまた一つ、ため息をつき、
「蛇穴様と六佐がついているのだから、大事あるまい。」
そう答えた。
それからまた、しばし沈黙ができると、
「あの、小屋の中で何があったのだろう。」
また隈吉が尋ねた。
しかし、藤吉郎は答えなかった。
それから、しばらくあって「疲れたな。」とだけつぶやき、「少し休む。」と言って、そこにそのまま横になった。
「藤吉郎」と隈吉が声をかけるので、「うん?」と横になったまま答えたが、隈吉はそのまま「いや、なんでもない。」と、黙ってしまった。
急激に、藤吉郎に睡魔が襲う。
橘の君は大事ないだろうか。
あれは、力を使い果たしたのだろう。
以前、医師・黒田玄水の元から重傷の怪我人が運びこまれたとき、その弱っている患者に橘自らの気をそそぎこんでいるのを見たことがある。その後橘は、「少し休む」といって自室に閉じこもってしまった。
今回はそれよりも、ずっと重い何かだったのだ。
蛇穴と橘に、小屋の外から邪気を感じとらせ、橘にあれほど弱るだけの力を使わせる、信乃の姉――女神山神社の巫女、「巫女姫小夜」――
ああ、もはや、ただ人の力ではないのだ――そして信乃も、その気を使い果たして由良社へ、空を駆って飛び来た信乃も、ただ人では――
木の幹を通して、触れた手の平から力がそそぎこまれるようだった。
サーッと音を立てて流れる沢の音に耳をすましながら、橘は一心に霊木の恩恵を受けた。
湿度の高い冷たい空気の中なのに、地面に腰を下ろしているのに、体中にあたたかさがあふれるようだった。
体の中がきしんで音を立て、やがて全身がすっきりとなると、橘は木の幹から手を離した。
「どうだ、楽になったか。」
後ろから蛇穴が問う。
橘は木の元に腰を下ろしたまま振り向き、
「うむ、さきほどのだるさが嘘のようだ。兄者、すまなかった。」
「何、礼ならこの狐どのにいうがよい。快く引き受けてくれた。」
蛇穴が言うと、橘はフフと笑い、
「なかなかお茶目な狐どのだぞ、どこが気難しいのだ。」
「さて…。」
橘は、そのしめ縄のはられた霊木に向かって静かに手を合わせた。
目を閉じ、何か祈るようであったが、すぐに目を開けると、振り返って六佐の姿を目で探した。
六佐が蛇穴の後ろから黙って橘に歩みより、橘を抱えようと腰をかがめたところで、
「六佐待て。」
蛇穴の言葉に六佐はピタリと動きを止めた。
「我の背中に乗せてはくれぬか。橘をおぶってゆきたい。」
「兄者、よいのに。」
「よい、させよ。」
そういうので、六佐は橘を抱え上げ、後ろを向いた蛇穴の背中へ、橘を乗せた。
「やれ、相変わらず軽いの。」
背中に橘を抱えた蛇穴は、橘を抱えなおしながらそういった。
「軽いといっても、昔より重いであろう。」
「そうだな…それでも、他の者よりはずっと軽いわ。」
「やはり、六佐に」
「よい、させよ。六佐、馬をひいて参れ。」
そういいながら蛇穴は、沢伝いにある小道にそって森の中を下り始めた。
後に六佐が馬をひいて続いてくる。
「兄者、子供の頃のようだな。」
蛇穴に負われながら橘が言った。すると蛇穴が、
「子供の頃は、そなたはもっと憎らしかった。」
その言葉に、橘は思わず吹き出した。
「子供の頃の橘は、何を怒っているのかいつもすねて、一度機嫌を損ねるとなかなか治らない。本当に手のかかる子だと、何度も思うたものよ。」
笑みがちに蛇穴の言葉をきいていた橘だったが、すぐに真顔になった。
「あの頃はすべてが、憎らしかったのだ。」
己を捨てた母が、憎らしかった。
運命が、憎らしかった。
何をおいても、母のいる蛇穴が、憎らしくてならなかった。
宿坊では皆に囲まれ、一門の中では特別扱いをされ、苦労一つなく育っているように見えた蛇穴が、一番憎らしくてならなかった。
巫祝の力は同年代の誰よりも秀で、声を荒立てることもなく、落ち着いた性質で、自分とは正反対の「恵まれた人」のように見えたのだ。
「兄者の父君も、美男子だったのだろうな。」
橘の唐突の言葉に、蛇穴は笑いながら、
「何だ、藪から棒に。」
「おふくろさまだけでは、その顔立ちは出ないもの。父君も、きっと美男子だったのだ」
「この顔もそう、恵まれたものではないのだぞ。」
蛇穴がそういうのに、橘はふふふと笑った。
「そうだな、過ぎたるは及ばざるがごとしだな、まことに。」
蛇穴は歩きながら、背中の橘を抱えなおした。
「もう少し早く、霊木から離せばよかった。余計なおしゃべりをして。」
蛇穴がそういうと、橘はまた、ふふと笑った。
「とっさに、神木のことを思いついてくれて、兄者には感謝している。あの時、どうなることかと思った。」
「何、元は我が助けてもらうはずだったのだ。そなたの方が大事になってしもうた。」
「兄者が信乃を引き受けねばならなかった。仕方あるまい。」
「そもそも、そなたは人がよすぎるのだ。何もそこまで、力を入れることはあるまい。運が悪ければ、命を落としておった。」
蛇穴の言葉に、橘は、ぎゅっとその手に力をこめた。
「だって、理由はどうあれ、神に不敬を働いた女ではないか。」
蛇穴は答えなかった。
「形はどうあれ、神に不敬を働いた女ではないか。迷って悪鬼となってさまよえば、後々もっと大きな災厄を呼ぶやもしれぬ。」
「しかし、そなた自身が命を落としては」
「巫女姫小夜は」橘は蛇穴の言葉を切った。「強大な能力者であったぞ、兄者。そこまでせねば、安心できぬ。」
橘の言葉に、蛇穴は言葉を続けるのをよした。
橘は続けた。
「何が、巫女姫小夜をあそこまで惑わせたのか。あの力でまことに、戦乱の世をのりきることはできなかったのか。」
「戦乱をのりきるか、否かが、巫女姫の自ら命を絶った理由ではなかろう。」
蛇穴の答えに、橘はしばし黙った。黙った後で、
「小坂とは恋仲だったのだろうか。」 ポツリと付け足した。
「の、ようだな。」
「以前にも一度あの村へ逃げ込んで、まだ巫女姫にならぬころ、小坂を助けたようだった。詳しくはわからぬけれど、かけおちを――」
「うむ。」
「しようとしてならなかった。」
「そうだな。」
「因習か、因業か――」
「とにかくならなかったのだ。」
蛇穴の言葉に、また橘は黙った。
小夜の、あふれるような記憶の中で、ところどころかいつまんで見えたけれども、しかとはつかめぬことばかりである。
蛇穴は、続けた。
「とにかく、因習をきる目的であったと、それだけははっきりと我に申した。妹や一族のものに、二度と自分と同じ思いをさせず、村人も犠牲にせぬと。」
森の中の小道から、目の前に、大きな通りが見えてきた。大木村への往路に通った道だ。
「兄者、重くはないか。六佐に変わっては。」
「よい、疲れれば言う。」
蛇穴は大きな通りへ出ると、信乃たちの待つ村長の家へと進路をとった。
蛇穴が後ろの六佐に向かって、
「六佐、前を歩いて例の家まで道案内いたせ。」
そう言うと、六佐は馬を連れて、二人の前へと歩み出た。
大きな六佐の背中と、馬が、前にそびえて影を作る。
「兄者。」
橘が声をかけると、「うん。」と蛇穴が答える。
「私は、人がよいから、力いっぱい巫女姫を送ったのではない。やはり、巫祝としての、義務なのだ。」
「どちらでもよい。」
「私には、巫女姫が、そこまでする理由がわからぬもの。己の命を賭して、一族を守ろうと――そう、守ろうとしたのだ、その理由がよくわからないのだもの。私は」
「うん。」
「私は、親のない子で――捨てられた子で」
「橘」
「父も母も知らず――いや、調べようと思えば、調べられたはずなのに、探ろうともしなかった。きらびやかな着物を着て、豊かな食事にありつく今になってさえ、未だあの母の居場所を探ろうともしない。」
「橘、やめよ。」
「母は、きっと、飢えているだろう――寒さに凍えているのだろう。もしかしたら、のたれ死んだかもしれぬ。その魂を探そうともせず、未だに」
「そなたを捨てた母ではないか。」
「捨てたことに、何年も恨みをもって――母を許せぬのが、私という人間だ。だから未だに、誰かのためよりも、義務を、わからぬから――義務を」
「たちばな、もうよい。」
いさめる蛇穴に、橘はその後言葉を続けなかった。
「その母にとらわれて、捜さぬという、思いにとらわれて、そこから一歩も進めぬのが、そなたというヒトなのだ。その迷いもまた、そなたという、ヒトなのだ。己を責めるではない。」
橘は、蛇穴の後ろ頭に額をつけた。
何も言わない。
道は、森を抜けて突然開けた。
往路で蛇穴と一行があった場所だ。
冬の日が、もう暮れようとしている。
いくらか標高が下がったので、大木村よりは天候が回復していたが、夕日は厚い雲にその光を映すだけで、姿そのものは見えない。
「兄者。」
「なんだ。」
「今も私が憎らしいか。」
橘の言葉に蛇穴は思わず吹き出した。吹き出したのみならず、アッハッハと大きな声で笑い出した。
「これ、兄者、揺れる、揺れるではないか、兄者!」
「ああ! すまぬ、すまぬ――ああ! ああ…。六佐、疲れたぞ、変われ!」
言うと、前を歩いていた六佐が振り返った。馬の手綱を持って近づくと、その手綱を蛇穴に預け、蛇穴の背から橘を抱えあげた。橘がいつもの六佐の定位置に収まるのを見届けると、蛇穴は六佐に、また前を行くように動作で示した。
すると、先ほどの笑いの続きを、また大声でやり始めた。
それがようよう収まると、後ろから六佐に話しかける。
「なあ、六佐よ。」
六佐はぎょっとしたが振り返らなかった。
「そなたも我も、橘の前で一度、命の危機にさらされてみねばなるまいな。本日我らがやきもきさせられた、仇うちができるぞ。」
蛇穴がそういうと、橘を抱えたまま、六佐は振り返り、
「六佐、死なない。強い。」
真顔でいう六佐の言葉に、蛇穴はまた爆笑した。
しばらく、とどまりそうにない。
「兄者、そんなに笑うと、顔が歪むぞ。」
そう橘が言うと、
「何、望むまでよ。」
笑いながら蛇穴が返した。
道が村長の家へと近づくにつれ、橘の心は次第に、信乃へと移っていった。
あれは、無事、家へとたどりつけただろうか。
姉との別れに、うちのめされてはいないだろうか――
誰かに「信乃」と呼ばれたような気がした。
それで目をゆっくりと開けると、部屋の中が薄暗く、信乃はギクリとした。
しかもこの部屋の感じには、見覚えがない。
それからすぐに、「そうか」と思った。
ぼんやりとした頭の中で、これは夜寝て朝目覚めたのではなく、自室で目覚めたのでもなく、大木村から引き返してきた村の村長の家で、倒れて寝込んでしまったのだということを思い出した。
すると誰が、先ほど「信乃」と呼んだのか。
頭を浮かせ、ふと視線の先を見る。
視線の先の暗闇に人が浮かんでいるのが見える。
うらめしげな顔で、女が白い着物を着て立っている。
ぎょっとした途端、また、「信乃」と呼ぶ声がきこえた。
その、女とは方向の違う声に気をとられている隙に、女の姿は消えてしまった。
頭を起こし、起き上がる。
声の主はどこだ。
「信乃、あたしだよ。」
そういいながら、声の主は部屋の隅の暗闇から歩いてきた。信乃は、その姿に目を見張った。
「楓!」
言うと、楓は信乃の元へとすばやく近寄り、起き上がった信乃の傍らの、布団の隅に腰を下ろした。
信乃はあたりに目を配ると、小声で、
「お前どうやって、ここに。」
「外へ通じる扉から入った。」
「我々をずっとつけていたのはお前?」
「うん、あの大男が邪魔で、なかなか近づけなかった。信乃はめったと一人にならないし。」
「なぜ、ここへ? 何か姉さまに頼まれたの?」
信乃がそう問うと、楓は思わず身をひいた。
「小夜には、小夜には、信乃の無事を見届けるようにと」
「お前、姉さまに何かお考えをきいていたの?」
そういうと、向かい合わせた楓の目からボロボロと涙がこぼれた。
そして、大きく首を横にふり、
「まさか、あんなことになるとは――あんなふうに、なるとは――」
信乃はやはり周囲の気配に気を配り、それから楓へと詰め寄るふうに体を寄せ、その腕をつかむと、
「楓――楓! 佐助はどこ?」
楓は泣き顔のまま、ピタリと顔の動きを止めた。
「兄者は、いない。」
「楓?」
「信乃、どうしよう、兄者がどこにもいない。」
「どこにもいない?」
「お館様のところに小夜を埋葬した報告だけすると、姿を消してしまったんだ。」
「なぜ」
「わからないよ。兄者は、誰にも告げずにいなくなるなど、そんなことはしない人なのに、決してしない人なのに――もしや、単身敵陣に乗り込んだか、命を落としたのではないかと、今みんなで行方を探している。」
「佐助が――?」
信乃は佐助の姿を思い浮かべたが、思い浮かべると、頭の中が混乱するだけだった。
姉を埋葬した、稲賀殿に報告した――その後、その後の足取りが、途絶えた、と?
彼はしのびではないのか?
「楓!」
信乃は小声で楓を呼び、つかんだ腕を強く握った。
「佐助はなぜ、姉さまのご遺体を、兵が来て調べるのも待たず、埋めてしまったの? なぜ我々に、葬儀をさせる暇も与えず、埋めてしまったの?」
楓は信乃のこの問いに、大きく首をふり、また涙をこぼした。
「わからない。あたしにも、まるで、わからないんだ。――ただ、兄者は」
楓が息を飲み込み、信乃が首をかしげた。すると、その時、玄関の方で家人が大きく誰かを出迎える声が聞えてきた。
「兄者は、小夜が好きだったんだ。」
言いながら、少しゆるんだ信乃の手をすり抜け、楓の姿が離れた。
来た方向の闇に消えるかと思うと、途端に影にまみれ、その姿が見えなくなる。
信乃は、愕然とした。
あの、猟師小屋での、姉の言葉を思い出す。
信乃が唯一解せなかった、姉の言葉。
――何かに、つかまったのだな。――さすけか…。
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