第八章
拝殿の階段を駆け上ると、蛇穴は音を立ててその扉を勢いよく開け放った。
土足のまま拝殿の中を通り抜けると本殿へと続く扉を開く。
その目の前にある石段をかけあがると、本殿の扉の前で、蛇穴はわずかに躊躇した。が、右手の人差し指と中指を立てて額にあて、集中すると、扉の前で小の字を切って勢いよく扉を開いた。
開けた途端に押し寄せる、むせかえるような香り――どこかに血のにおいを含んで、強く蛇穴の鼻腔をついた。
中は暗く、ガランとしていた。
やはり、「神」の気配はない。
正面の祭壇と思しき場所にさえ、何も置かれていない。
一部床が変色している。おそらく、巫女姫小夜が血を帯びて横たわっていた跡だろう。
後ろから、荒い息遣いで近づくものがある。
「どうですか。神が、おられぬとは。」
言いながら近づいたのは、藤吉郎だった。
蛇穴が振り返ると、石段の下の拝殿のところに六佐、橘、信乃、隈吉が続いている。
拝殿から本殿への石段は、雪が美しく掃き落とされていた。
蛇穴が信乃に向かって話しかける。
「いつからだ。」
信乃が顔を上げ、蛇穴の顔を見つめ返した。
「いつから、このようにもぬけの殻になっておる。」
信乃は蛇穴のその顔に困った様子を見せた。
「いつからとおっしゃられても、私がこの本殿に入ったのは数えるほど――村を離れる前の日に、二度ばかりで、それ以前の」
「その時から、このようか。」
蛇穴は信乃の言葉を切って尋ねた。
「このようか、とは。」
「このような、ガランドウだったのか。祭壇は形ばかりで、神のお姿さえない。」
信乃は判じかね、皆の前を横切って歩みを進めた。石段を上る。
藤吉郎と蛇穴の脇を通って、扉の開け放たれた本殿の前に立った。
瞬く間に、床の血のあとが目に入る。
開け放った扉から差し込む、外光の中に浮かび上がっていて、明らかに他とは違う。
思わず信乃は両手で口を覆った。
言葉も継げずにいると、蛇穴が、
「どうだ。」と声をかけた。
気が遠くなりそうになる。それを、無理に押しのけて信乃は、「変わりございませぬ。」とだけ答えた。
蛇穴がため息をついた。
信乃の目から涙があふれる。あふれる――あふれる。自分で理由もわからないのに、涙があふれる。
蛇穴は橘を呼んだ。
六佐に連れられて橘が石段を上ってきたが、中を見るなり「がらんどうだな。」とつぶやいた。
橘が「六佐、おろせ。」というと、六佐は橘を本殿の床の上におろした。
「信乃よ。」
橘が信乃にふりかえって話しかけた。
「おぬしがここに入ったときのことを、もう少しくわしく。」
その言葉に、話そうとする信乃の口からはじめて、しゃくりあげる音が漏れた。それに気がついた蛇穴と藤吉郎が、驚いて信乃の方を向く。
「その日、わたくしは」涙声だった。「姉に呼ばれて」またしゃくりあげた。
「橘の君」藤吉郎がさえぎった。「今でなければなりませんか。」
橘は藤吉郎に目をやると、毅然とした顔で言った。
「今でなければならぬ。急ぐのだ。」
答えながら、橘は何か嫌な感じがしていた。目の前にある血の気配だけではない。何か、早く片付けなければならないことがある。それがこの神のことか、それとも――。
「信乃、続けよ。」
橘に言われ、信乃は強く息をのんだ。
「書物を、処分するから、そのための、作業を、手伝えと」
「書物?」
「歴代巫女姫が書き残した、書物でございます。それを、処分するからと」
「なぜに?」
「待て、橘」問い返す橘の言葉を蛇穴が切った。「今はそれを詳しく問うている時ではない。とにかく、この社殿は御影ごと神が消えている。それを、探さねばならぬ。」
蛇穴のその言葉に、橘は蛇穴の顔を見上げた。背後の雪明りに、本殿の中が暗いので、表情が思うようにみとれない。
橘はしばらく蛇穴を見つめ続けたが、
「兄者。」
「なんだ。」
「神は消えたのではない。」
答えず、蛇穴は橘をみつめた。
橘が続ける。
「神は移されたのだ。どこぞに。――おそらく、巫女姫小夜によって、移された。」
橘の言葉で、本殿の中にしばらくの沈黙が出来た。
蛇穴がため息をつくと、
「なぜに、そのようなことを――巫女姫がこたびのことを、事前に察知していたとでも申すか。」
「兄者。」
「なんだ。」
「わかりきったことを何故問われる。」
橘がそういうと、蛇穴は息を飲み込み、両手を橘の方へ向けた。
「わかった、わかった。――とにかく、探さねばならぬ、な。」
「どちらを。」
「そうだな」
蛇穴はちらりと信乃をみやった。
「とりあえず、巫女姫小夜からだ。」
信乃は思わずまなざしを上げた。それから、蛇穴の方へと視線を向ける。すると蛇穴がその視線に気付き、「信乃よ」と言葉を継いだ。
見下ろす蛇穴の目は、今までになく、優しい。
「信乃よ、巫女姫小夜の妹よ――もう、望みは棄てねばならぬ。我らが探すのは――探さねばならぬのは――そなたの姉の、みたまだ。」
そのまなざし、言葉は、どこか、憐れみを含んでいて、深い。
あの日、この社殿を離れてより数日を経過して、村は雪景色に包まれている。辺りは雪あかりで、どこか薄曇りの景色をぼうっと明るく包んでいた。
みたまを、探さねばならぬ――既にここにはおらぬ――御霊を――
蛇穴は案内をしていた兵に、雪の中を行く藁長靴を用意させた。
橘の意見で、村はずれにある猟師小屋へと行くことになったのだ。
最初案内の兵は護衛を増やすことを申し出たが、「増えたほうが、別の意味で危険なことになるやもしれぬ」という橘の言葉で、その申し出は却下された。
結局は最初社殿に向かったのと同じ人数で、猟師小屋へと向かうことになった。
歩いていくと、決して近い距離ではない。
道案内は信乃だった。
信乃が一応の道筋を説明して、一行は出立した。
――神に行方を問おうにも、ツテがない。ましてこの穢された神殿では、穢れに妨げられ、巫女姫のみたまも探せぬ――
橘はそう言った。
それで、出立前の霊視を頼りに、あの、猟師小屋へと向かうことになったのだ。
橘はなぜか急いていた。
六佐を急かして歩かせるが、続く一行が六佐の足にかなうわけもなく、道案内の信乃をも抜かして先へ先へと行こうとする。
途中で蛇穴が前方の橘に声をかけた。
「これ、橘、そなた一人急いでいっても、何もできぬぞ。」
「兄者も男なら、しっかと歩かれよ。」
橘はふりむきもせずに答えた。
蛇穴は舌打ちをする。
六佐の足にかなうわけがない。
雪原で、傾斜が緩いとはいえ、山登りも同じなのだ。
それにもまして、信乃は女子である。
息をきらしながら歩いていると、藤吉郎が左手を差し出した。
「つかまって。何かすがるものがあれば違うでしょう。」
息が切れるのにたまらず、言われるままに手をとった。
「橘の君が急ぐのは、何か意味のあることなのです。」藤吉郎も息を切らしながら話し続けた。「でなければ、あんなふうに急いたりはしません。」
信乃は、前方を行く六佐と橘に目をやった。
行き先がわかっているのだろうか――そう思った矢先、「信乃、道が二手に分かれておる! どちらだ。」と声が飛んできた。
「み、右…」息をきらしながらつぶやくと、藤吉郎が「橘の君、右だそうです!」と大きな声で返した。
歩くうちに握った手が汗でにじむ。知らず、信乃は藤吉郎の腕をつかんだ。
そのとき、あっと思った。
剣士の腕だ。
左手ではあるけれど、これは――父の――父・喜三郎と同じ――
瞳の奥で、父の生前の姿がよぎる。
喜三郎によくまとわりついては、その腕につかまった――あれは、もう幼い子供の頃だ。
信乃は、涙があふれそうになる。
それを、急いで飲み込んだ。のどに力がこもる。
姉さま――
口を握り拳で押さえて、涙を無理矢理飲み込んだ。
猟師小屋にいるかもしれぬ、それは、生きた魂ではないのか。
逃げのびた、姉ではないのか。
それも、もう近づいている。もう、目の前に答えが迫っている。
信乃は再び、橘に右か左かと問われ、今度は左と答えて、藤吉郎が代わりに返事をした。
いつの間にか雪原は消え、辺りは樹木に覆われるようになる。
それでも、ここは「森」というほどに木々が迫ってはいない。
そう、巫女姫小夜がよく着地し、飛び立った場所だ。
するとまもなく前を歩く蛇穴が、はあっと息を吐き、「なるほど」とつぶやいた。
「これは――」蛇穴がつぶやくのに、信乃は思わず顔を上げて前方を見る。
木々の間に小さく、あの、猟師小屋が見えている。
「ものすさまじい邪気だの。」
蛇穴は思わず立ち止まった。
「いくら巫女姫のみたまを探しても、出会えぬはずだ。」
そう言って、大きくため息をついた。
吐き出す息が白く濃さを増している。
その蛇穴の後ろ姿を見て、はるか前方の猟師小屋に信乃が目をやった。
邪気――?
一方、先を行く橘は、猟師小屋の前で、六佐を立ち止まらせた。
後に続く者どもを待つのではなく、ただ、猟師小屋の前に広がる雪の原に立ち、猟師小屋をみつめている。
扉は閉じられている。でも、中の様子はなんとなくつかめた。
橘が猟師小屋の前に立っていると、息遣いを整えながら追いついた蛇穴が横に立った。
「いるか。」
蛇穴の言葉に、橘は答えなかった。
後ろに続いた者の気配に気付いて、橘は六佐の肩越しに一行を見た。それから藤吉郎に向かって、
「藤吉郎、しばし離れていてはくれぬか。――そう、そうさの、あの木々のある辺りまで。」
橘は後方の雪をかぶった木立を指差した。
「ここではいけませんか。何かあったときは…」
「ここで待つなら、そなたらの命の保証はせぬぞ。」そう藤吉郎の言葉を切った。「相手はヒトではないゆえ。」
そう言って、今度は信乃を呼ぶ。信乃が二人に近づくと、橘は蛇穴に、
「兄者、すまぬが、信乃の手をつかんでいてはくださらぬか。」
「連れて入るのか。」
「血縁の者がいたほうが、呼びやすくはありますまいか。」
「しかし…。」
蛇穴は近づいた信乃を見た。
血縁の者がいるほうが呼びやすい。
しかし血縁の者がいるほうが、危ういのも確かだ。
蛇穴は目を閉じた。
この娘も、巫女姫一族の血をひく者――おそらく、もっているものは、姉小夜のものと最も近い――しかし、だからこそ、もし連れていかれたら――守りきれるか――
我の力次第――。
蛇穴は目を開けた。
目を開けて息を大きく一つ吐きだし、それから信乃に手をさしだした。
「参ろうぞ。」
信乃は蛇穴に手をさしだした。
握られる。
「離すでないぞ。」
いいながら、蛇穴は猟師小屋の方を向いた。
蛇穴の集中する様子と同時に、信乃の頭の中に、ぼうっと猟師小屋の中の暗い様子が浮かんでくる。
穏やかに微笑む小夜の顔がふぅと浮かんで、信乃ははっとした。
その信乃の手を一層、蛇穴は強く握りしめる。
――もう、傷は痛みませぬか――
小夜はすわっているのか、すわって、うつむいた顔で、誰かに向かって話しかけている。
信乃の頭の中に、じわりと汗がにじんだ。
姉ではないか――やはり、生きて――
「信乃よ。」
蛇穴が小声で語りかけた。
「生者はこの霊視には映らぬ。」
では、しかし、あんなところで、何を――
――よう、我慢なされた。傷が癒えたら、山を越え、二人で――
信乃の脳裏に、あの日の姉と小坂――、いや、義見朔次郎の姿がよぎった。
姉は、こんなところで、何をしているのだ。
傷が癒えたら山を越え――山を越えて、どうしようというのだ。
死してこの場に留まりながら、なぜ山を越えようというのか。
なぜとどまるのが、ここで、なぜ、それが――
「今、救わねば、悪鬼になりて、さまようの。」
蛇穴が話しかけるでもなく、つぶやいた。
「今生の、念が強すぎたのか。」
橘が続けた。
今度、蛇穴の手を強く握りしめたのは、信乃の方だった。
ねえさま――!
小夜は床の上に横たわる男に話しかけた。
「傷が癒えたら山を越え、二人で共に暮らしましょうぞ、な。ですから、早くよくなってくださいまし。」
小夜は男に笑いかけた。
傷が癒えたら二人で共に――あの山を越え、誰でもない二人になって、行くのだ。
誰も知らないところで、二人だけの地をみつけて、暮らすのだ。
死んだ気になって――そう、死んだ気になって、今までの私は死んで、二人で一緒に暮らして行こう。
夫婦になって、そして新しい日々を作りだす。
小夜は床の上から土間へ、囲炉裏の鍋に火をくべるため、薪の木を取りに降りた。
薪は、この人が元気になるまでに持つだろうか。なんなら一度、家に戻り、薪をとってこようか――そう、夜ならみつかるまい。夜に行って、こっそりと持ち帰ってくれば――
ハヤテに乗って――。
その時、背後がすっと明るくなるのを感じた。
まぶしいほどの光に射られ、小夜は振り返った。
入り口のところに、妹の信乃が立っている。
「ねえさま…。」
小夜は激しく動揺した。
バレた――!
信乃は自分をみつめ、呆然とした顔で涙をこぼしている。
なぜ、バレたのか――誰に、気取られたのか――自分は、ちゃんと逃げだしたはずなのに――あの、お社を捨て、巫女姫の地位を捨て、二人で共に暮らすために――
小夜は後ずさった。
もう、終わりか――もう――
「巫女姫小夜よ。」
動揺する小夜の耳に、聞き覚えのない女の声が聞えてきた。
「目覚められよ、小夜。こんなところで、何をしている。」
しかしいくら目をこらしても、声の主の姿が見えない。入り口は明るく、雪明かりに照らしだされ――まぶしい。
あの向こうに声の主があるのか。
何者――
「目覚められよ、小夜。――そなた、己が何者か、忘れたか。」
小夜はその声に、目をこらしながら尋ねた。
「そなたこそ、何者か、不思議の者よ。そちらから名乗られるがよい。私は大木村、女神山神社の巫女姫、小夜である。」
その言葉と共に、光の中から大男と、それに抱えられた女の姿が現れた。
「我は蓮女一門の巫祝にして、稲賀殿の家臣・由良殿につかえる」
「巫女・橘――!」
「いかにも。」
「こんなところで何を――いや、なぜ私を巫女姫と知って――。」
女は満足そうな、艶然とした笑みを浮かべた。
「そなたの妹がの、我らの元に来たゆえ」
視線が鋭い、理知的な女だ――姿は小さいが年は自分と変わらない。
「信乃が? なぜ信乃が」
「なぜであったかの、小夜よ。」
橘の言葉に、小夜はわけもわからず愕然とした。両手で頬を覆う。が、わからず、頭を抱えた。
大男と橘の向こう側に、人の気配――信乃か――信乃よ、お前はなぜ泣く――何の悲しいことがあって――その女の元に――
ふと、気がつくと、囲炉裏の火が消えている。
部屋には、火の気配もなく、がらんとした暗さだけがあった。
床の上には、あの人が、寝ていたはずなのに、誰もいない。
「目覚められよ、巫女姫。そなたはなぜここにいる。」
小夜は再び両手で頬を覆った。
「信乃はなぜ我らの元に来た。」
橘のたたみかける問いに、小夜はまだ考えているふうであった。
なぜ、信乃が、玉来村の巫女・橘の元へ――
なぜ?
「姉さまが――!」 信乃が泣きながら叫んだ。 「私に、行けと、仰せになられたのです!」
信乃が橘たちの前へと踏み出し、叫び続けた。
「姉さまが、巫女姫の歴史を終わらせるから、私に行け、と。」
「これ、刺激するでない。」
信乃が叫ぶのに、橘が静止させようとした。が、信乃は聞きいれずに叫び続ける。
「姉さま――が、私に行けと、仰せになったのです。お前の気を解放した、操れぬが、風には乗れるだろう、そうおっしゃって、ハヤテにのって、村から去れと!」
途端に、小夜の足元から疾風が沸き起こった。
すさまじいばかりの風が、橘と六佐、信乃を襲う。
あの日の、薄暗い社殿の中、両手の中に握った白い水晶玉が、小夜の心の中で甦る。
本殿の祭壇の中に、入れておいたのだ。
ずっとあそこに、箱に入れてしまっておいた。
あの日の直前、それを取り出して、紐を解き、両手で握り締めた。
――今度はお前の力が己で操れるように、私が気をこめた。
小夜の頬を涙が伝う。
家がギシギシと音を立て、吹き飛ぶかと思った瞬間だった。
先代巫女姫の声が響き渡った。
「気を静めよ、小夜。乱してはならぬ。」
あの日――大勢の村人に囲まれ、この地で、二人、分かたれた。夜だった。あの日も雪景色の中、この小屋の明かりと、たくさんの村人の松明が揺れていた。
――忘れよ、小夜。一時の、気の迷いだ。お前は、大事な勤めがあるのだ。
吹雪が――やってきて――あの時、そう、気付いたのだ、あの時――こんな思いは自分で最後だと――
小夜は前をみすえると、足元に力を込めた。
吹き荒れる思いを飲み込む。
思い出す――記憶の中に――靭実と自分の剣先が白く光って乱れ飛んでいた。
誘いこんだのだ。
本殿に足をかけた瞬間だった。
仮殿の屋根が見え、一度期に力を抜いた。
そう――斬られたのだ。
振り下ろされる刃に我が身を預けたのだ。
この男の腕なら、仕損じまいと――我が命を確実に、止めるだろうと。
もう、甦ることができないほどに――。
小夜は小屋の入り口を見据えた。そして、大男に抱えられた橘と、信乃の後ろにいる「もう一人」に強い口調で話しかけた。
「先代巫女姫様の、声を騙るは何者か。」
小夜の問いに、もう一人が、背後の白い雪明かりの中から現れる。
男とも女ともつかぬ――うつくしい。
「サラギである。」
「蓮女の息子か。」
「いかにも。」
蛇穴は小夜の視線に答えるように、鋭い視線で返した。
「先代を騙ったのではない、そなたの記憶の中から、拝借したまで。」
蛇穴のその答えをきくかきかぬかのうちに、小夜の姿がすうーっと透けた。
体が宙に浮く。
小夜は一人、まだ涙のこぼれる様で、自嘲気味に笑った。
「不覚にも、逝きそこのうた。あれほど、逝かねばならぬと思うたのに。」
その言葉で、橘と蛇穴が、ようやく張り詰めていた気を少し緩めた。
「私はここまで、――ここまで、この地に執着しておったか。」
小夜は涙をこぼしながら、周囲を見渡した。それから「いや」と言葉を継ぐと、
「何かに、つかまったのだな。――さすけか…。」
佐助という言葉に、信乃がピクリと身を震わせた。
しかし、言葉は継がなかった。
蛇穴が一歩前に踏み出す。
「巫女姫小夜よ、我ら二人がそなたの霊送りをいたす。」
その言葉に小夜は蛇穴の顔をみつめた。
「それは、ありがたい。」
「しかし、その前に、尋ねたきことがある。」
答えずに、小夜は蛇穴をみつめる。
「おぬし、女神山の神をどこに隠した。」
小夜は蛇穴の問いに、思わず蛇穴の顔を見た。
それから視線を落とし、やや考えるふうであったが、ふふふと笑うと、
「私にきかずとも、そなたたちで探せばよいではないか。」
蛇穴は小夜の言葉にムッとした。
「それを探せぬようにしたのは、そなたではないか。」
「フッ、蓮女の息子でも、無理か。」
「巫女姫小夜」
蛇穴が苦虫をつぶしたような顔をするので、小夜はまたフフッと笑った。
「それをきいてどうする。」
「決まったことよ。神殿を清め、神を祀り改めるのは我らが勤め。」
「サラギよ。」
小夜は蛇穴の言葉を切った。
「人が、命をかけて壊したものを、そう簡単に、元に戻すものではない。」
宙に浮いた小夜の影が、ますます薄くなっていく。
「命をかけて、壊したと?」
「そうだ。」
「やはりあの場で、わざと斬られたのか。」
「そうだ。」
「戦の火種になるやもしれぬ、それを」
「戦は、やがて起きるものだ。少しく時期が早まったにすぎぬ。私は『その時』を、借りただけ。」
「巫女姫――!」
蛇穴はすがるように小夜を見上げた。小夜はそんな蛇穴を見て、困ったように笑みを浮かべ、続けた。
「サラギよ、元に戻してどうする。また、元の通りに巫女姫を立てるか。信乃をひきつれて、巫女姫とするのか――私は、血族婚を繰り返し、必要とあらば村人や一族の命を絶ち、ひとたび際立った力あらば、否が応でもその地位に縛り付ける――その因習を断ち切るために、あの社を『壊した』のだ。それをなぜ、元に戻そうとする。」
「しかし――!」
「サラギよ、蓮女の息子よ、私は、――死者だ。命かけて望んだものを元に戻されては、この世を去れぬ。」
小夜と蛇穴の話す傍らで、橘は懐から長い数珠をとりだした。腕にかけて合掌した。
小夜は続ける。
「神はいずれ顕れよう。社もいずれ、元通りになろう。しかし、今、それをされては困るのだ。それをされては、私は逝けぬ。」
南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩…と橘が唱え始めた。
「待たれよ、小夜。社は元に戻さずとも、神の居場所だけでも教えられぬか!」
蛇穴の言葉に、小夜がフフフと笑い、涙をこぼした。
「サラギよ、のう、因習とは、恐ろしいもの――人をひきつけ、そこから決して逃そうとはせぬ。神の居場所が知れれば、社を改めよう、社を改めればまた、『巫女姫』を立てるであろう。私が決してそこから逃れられなかったように――しかしもう二度と、『巫女姫』は立ててはならぬのだ。」
「つまり、教えられぬと?」
「そうだ。」
言葉を継ごうとする蛇穴に、後ろから「兄者」と橘が呼びかけた。
蛇穴が振り返ると、六佐に抱かれた橘が、手を合わせたまま静かに言った。
「そろそろ、お送りせねば――これ以上こだわっては、巫女姫小夜の心が残ります。」
蛇穴はその橘の姿をみつめていたが、ややあってまた、小夜の方へと向き直ると、薄い影となって浮き上がる小夜の姿を見上げた。
送らねば――ここで自分がひきとめては、この女は、逝けぬ。
神は確かにいない、しかし、お怒りでもない――ここで自分に折り合いをつけねば。
この女が悪鬼と化すか、怒らぬ神の顕れるを待つか――既に選択の余地はない。
その時だった。
「お待ちください! 姉さま!」
後ろから信乃が駆け出した。
「一つお教えください、お願いでございます。」
「これ、信乃。」
止める橘を気にもとめず、小夜が「なんだ」と続けた。
信乃が荒い息の元で、その息を静めようと、強く息を飲み込んだ。
ゆっくりと小夜の顔を見上げる。
「姉さまは、本当に――小坂に、斬られたのですか。」
薄い影となった小夜が目を細めた。信乃をみつめる。
「斬られたのではない、――斬らせたのだ。」
「斬らせた?」
信乃が首をかしげた。
「斬らせたのだ。自ら招いて、斬らせた。」
「なぜ――!」
「あやつが――この猟師小屋で出会ったあやつが、わたしの目を、開いたからよ。」
そう言って、小夜は目を閉じた。
「あの刀なら、間違いなく私を斬り捨てるだけの力があった――それだけではない。この因習が間違えていると、私に気づかせたのが、あやつなのだ。だから、私はあやつに、その始末をつけさせたかった――すべて、終わりにさせたかった。」
「だから、だから小坂に――?」
小夜は目を開けた。
首をかしげると、また、涙をこぼしながらフフフと笑った。
「それだけかの――本当に、それだけかの。それだけなら、他のものでもよかったような気もする。私は、あやつに斬らせることで、何かの仇を討ったのやもしれぬ。この先あやつは、巫女殺し、血で社を汚した鬼とさいなまれることになるだろう――私は、それを望んでいたのやもしれぬ――せめて、満たされなんだ想いのあだ討ちに、奴の心に、くさびを打って、私をつなぎとめようとしたのやもしれぬ――」
小夜はうつむいて、背後へと視線を流した。
そのうつむいた目から、ボロボロと涙がこぼれる。
そして、その姉の姿を見る信乃の目から、涙が――理由もわからぬのに、こぼれる――。
橘が思わず「巫女姫」と声をかけた。
小夜が顔を上げる。
また、涙が頬でこぼれた。
「私は既に、『巫女姫』ではない。私は、『死者』だ。」
「では、小夜よ――心、決められよ。」
「もうとうに――」
小夜は笑顔で答えた。
それから、一度きゅっと目を閉じたると、後ろへ振り返ろうとした。
その先には、小屋の中のはずなのに、奥の暗がりがいっそう暗くなり、どこへ続くともしれぬ道が出来ている。
途端に、信乃が叫んだ。
「お待ちください! 姉さま! 私も、――わたくしも、お連れください!」
泣きながら、信乃が小夜を追おうとするのに、蛇穴が懐から大きく長い数珠を出しながら「ならぬ、信乃!」と一喝してその数珠を信乃の体めがけて投げた。数珠は輪を描いて信乃の胸元あたりをすっぽり包むと、それを蛇穴は後ろから数珠ごと思い切り引き寄せた。
「お止めくださるな! この世に一人残されて、いかがいたそう! 姉さま、私も!」
「やめよ信乃! 小夜をこのまま地獄に迷わせたいか! 姉に妹を、殺させたいか!」
蛇穴の言葉に、信乃は愕然とした。
それを機に蛇穴は一気と信乃を自分に引き寄せ、抱きとめる。抱きとめた腕のそのままに、右手の人差し指と中指を立て、信乃の額に押し当てた。
小夜はその姿を見て、一時とめた足を、また元の暗がりの方へと向けた。
姉の声は続ける。
「生きよ、信乃。そなたが死んでは、私が命かけた意味がない。」
声の主を探すように、蛇穴の手の隙間から目を凝らす。
姉の行くあの先に、何があるのか――あの薄暗がりの先には、何が待っているのか――橘と蛇穴の唱える声が、響いている。また、いつかの世で会おうぞと小夜の声が遠くからきこえてきた。いつかの世――それは、いつのことでございますかと心で問うのに、返事がない。
全き暗がりの向こうには、何が待っているのか――吸い込まれるように歩を進める小夜は、勢いをつけて離れていく。小さく見えなくなる影に、姉を呼んだようにも思うが――次の瞬間には、すべてが目の前から消えていた。
ただ、薄暗い小屋の中、すす汚れた内壁が、残されているばかりだった。
雪原の端、木蔭の元、猟師小屋を前に兵二人と共に待機していた藤吉郎と隈吉は、ただじっと、橘と六佐、それに蛇穴と信乃の四人が入った小屋を遠目で眺めていた。しかし、入ったきり長い間何の変化もなく、しんとした小屋をただただ眺めているしかなかった。
藤吉郎が焦れ、隈吉があくびをもらし始めた頃、ガタンと戸が開いて、小屋の中から三人が幾分疲れた面持ちで出てくるのが見えた。
一番に出された信乃は、胸と腕を縛りつける格好で何かが巻きつけられている。
蛇穴が小屋から数歩歩いて雪原の上にへとへととしゃがみこみ、信乃も同様に膝をついたところで、藤吉郎と隈吉は一同のいる場へと駆け出した。
すると、それを見止めた橘が「まだ来てはならぬ!」と叫んだ。
袂から何か袋状の包みを取り出し、橘が右腕を上げると、白い粉状のものが橘と六佐の体に振りかかった。続いて、信乃、蛇穴へとその粉状のものが巻かれる。
「もうよいぞ。」と橘は言って、その包みを持ったまま、小屋の中へもう一度、六佐と共に入っていった。
藤吉郎たちが走りよると、信乃は放心したようになって、体に数珠が巻きついたままだった。急いで藤吉郎が信乃に近づき、そばにいた蛇穴に「解いてようございますか」と問う。蛇穴は声に出さず、首をこくんとうなずかせた。
そのまま、蛇穴は荒い息で、雪の上に仰向けに崩れた。
藤吉郎が信乃の体に巻きついた数珠を解く。
すると、信乃はうつむき、自由になった両手で自らの口を押さえた。
「だ、大事ござらぬか、信乃どの、し――!」
雪の上に手をついて、信乃の顔をのぞきこむ――その目から、涙が――幾筋もの涙が、声にならない嗚咽と共に流れおちている。
信乃は口を抑えていた手をのどへとはわせ、握りしめた両手で胸を押さえた。
涙がとめどなくあふれる、それと共に、のどが――胸の奥が――焼け落ちるかと思うほど、熱い。
熱い、痛い、嗚咽が、声にならずに胸に迫る――
熱い、痛い――
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