第七章

 玉来村から大木村へ向かう道で、中間にある山の山道にさしかかる頃、積雪量が増えてきたため、雪になれない馬のことを考え、信乃は馬から降りて歩いた。

 歩くうちに何度か、前を行く六佐が振り返る。

 最初後続のものを気遣って振り返るのかと思った。

 しかし、よく気をつけてみていると、どこかあらぬ方向をみつめては、何もなかったかのように前を向く。

 その六佐に対し橘は何も言わなかった。

 ところが隈吉の案内で、大木村の二つ手前にある村の村長の家に宿を借り、夕餉も終わったあと、皆が解散するかと見えたとき、橘が思い出したように信乃に尋ねた。

「そなた、大木村から逃げるときに、敵兵に姿を見られなんだか。」

「は…敵兵に、で、ございますか?」

思いもよらぬ質問に、信乃は一瞬面食らった。

「そうだ。敵兵に巫女の妹と知れたか、あるいは、逃げるところを見られたか。」

「あの、なぜそのようなことを…。」

行灯二つの室内で、座を同じくしていた藤吉郎と隈吉が、六佐の方を見た。

 それで、藤吉郎が、

「六佐、何者かがつけてきているのか?」

と問うた。それに六佐は答えず、橘が、

「と、いうことらしい。この道すがら、山道に入ったあたりから何者かがつけてきている。それで、その目当てはどうやら」

「信乃どのと?」

藤吉郎の言葉に橘はうなずいた。

「そういうこと、だそうだ。」

「しかし、国境の大木村ならまだしも、こんな敵地の只中で」

「できないことではない。手立てはいくらでもある。」

それで、一同の視線が信乃へと集まった。信乃は答えに困ったというふうな顔をした。

 あの日、村の中では敵兵がたくさんいたし、信乃が神殿にいる姉との仲立ちをしたのだから、妹だと知った兵はたくさんいただろう。

 しかし、それでここまで追ってくるものだろうか。逃げる――

「あ」と信乃は声を上げた。

「思い当たることがあるか?」

 あれは、日が昇った時だった。白石山を過ぎて隣の山へ抜けようとしていたときだ。

 玉来村から大木村へ向かう道で、中間にある山の山道にさしかかる頃、積雪量が増えてきたため、雪になれない馬のことを考え、信乃は馬から降りて歩いた。

 歩くうちに何度か、前を行く六佐が振り返る。

 最初後続のものを気遣って振り返るのかと思った。

 しかし、よく気をつけてみていると、どこかあらぬ方向をみつめては、何もなかったかのように前を向く。

 その六佐に対し橘は何も言わなかった。

 ところが隈吉の案内で、大木村の二つ手前にある村の村長の家に宿を借り、夕餉も終わったあと、皆が解散するかと見えたとき、橘が思い出したように信乃に尋ねた。

「そなた、大木村から逃げるときに、敵兵に姿を見られなんだか。」

「は…敵兵に、で、ございますか?」

思いもよらぬ質問に、信乃は一瞬面食らった。

「そうだ。敵兵に巫女の妹と知れたか、あるいは、逃げるところを見られたか。」

「あの、なぜそのようなことを…。」

行灯二つの室内で、座を同じくしていた藤吉郎と隈吉が、六佐の方を見た。

 それで、藤吉郎が、

「六佐、何者かがつけてきているのか?」

と問うた。それに六佐は答えず、橘が、

「と、いうことらしい。この道すがら、山道に入ったあたりから何者かがつけてきている。それで、その目当てはどうやら」

「信乃どのと?」

藤吉郎の言葉に橘はうなずいた。

「そういうこと、だそうだ。」

「しかし、国境の大木村ならまだしも、こんな敵地の只中で」

「できないことではない。手立てはいくらでもある。」

それで、一同の視線が信乃へと集まった。信乃は答えに困ったというふうな顔をした。

 あの日、村の中では敵兵がたくさんいたし、信乃が神殿にいる姉との仲立ちをしたのだから、妹だと知った兵はたくさんいただろう。

 しかし、それでここまで追ってくるものだろうか。逃げる――

「あ」と信乃は声を上げた。

「思い当たることがあるか?」

 あれは、日が昇った時だった。白石山を過ぎて隣の山へ抜けようとしていたときだ。

――おい、あれは…!

――巫女姫の妹だ! 捕まえろ!

 その後、楓が現れて――

 信乃は思わず、しっかと橘の顔を見た。

「白石山からの山道を抜けてまもなく、追ってきた敵兵に姿を見られました。兵は私の姿をみて『捕まえろ!』と。」

藤吉郎がぎょっとして、身を乗り出した。

「それで、どうされたのですか。敵兵をまいて――?」

「え、いえ、あの、かえでが…」

「かえで?」

「ええ、大木村へ出入りしていた忍びの兄妹で、妹が楓というのですけれど」

「なんだ」

そこで橘が口をはさんだ。

 ほっとしたような表情を見せると、

「では、そのときは、その忍びに助けられて難を逃れたのだな。なる…」

「どういうことです、橘の君。」

一人ほっとした顔をしている橘に、わけがわからないといった顔で藤吉郎が問いただすと、

「そうだな、うん。なあ、六佐。」

そういって、橘は六佐の顔を見た。六佐はうなずくと、

「六佐、気付く、相手、気配消す。わからない。」

と続けた。その言葉をとって橘は、

「つまり、六佐が追う者の気配に気がついて振り返ると、――その気配も微弱なものだそうだが――すぐに気配が消えてしまうそうだ。六佐の勘を欺けるような者はまずおらぬ。もしできるとしたら、そう、忍びか、でなければ、万に一つ、六佐の思い違いか――だから、おそらく、その楓とかいう忍びではないかということだ。先日、由良の館の裏の林からも気配を感じたそうだ。」

「楓…」

「その忍びはなぜ大木村に出入りしていたのだ?」

「稲賀殿の元からつかわされた者たちで、姉の見張りや稲賀殿との連絡係をしておりました。」

「ふむ、ではその楓という忍びは、稲賀殿の命で動いておるのかの。」

「いえ、あの日のことは、本当に突然でした――たとえ稲賀殿でも、忍びでも、あの時に私を見張れなどという命のやりとりは無理でしたでしょう。兄の佐助ならともかく、楓は姉と仲がよく、命以上の付き合いをしておりました。もし、楓が私の近くにいるなら、誰かの命ではなく、姉との仲を思って一人で動いているのではないでしょうか。」

「お待ちください、橘の君。」

そこで藤吉郎が口をはさんだ。

「なんだ。」

「忍びの気配がするとはいえ、稲賀殿のものとは限りませぬ。高階からのものとも考えられるのでは。」

その言葉に、橘はしばし考えるそぶりを見せた。

 橘は六佐を見た。

「どうだ、六佐。」

六佐は少し考えるそぶりを見せた。

「敵意、ない。」

 六佐の言葉に橘は安心する様子を見せたが、藤吉郎は居住まいを正し、真顔で、

「しかし、もしものことが考えられます。気を抜かずかかられた方が。」

「わかっておる。何、直に村へ近づけば、たとえ忍びが敵であったとしても、怖気づくほど兵がいよう。しばし、様子を見ようではないか。」

とはいうものの、橘は既に落ち着いた風であった。

 しかし、藤吉郎の真顔はとけない。

 そもそもである。

 この領国内で、つけてくるものがあるというのも得心いかぬが、信乃と橘の話も、気のせいか、何か得心いかぬところがある。

 高階が巫女を寄こせといって国境を越え、敵地内に寵臣を――そうだ、わざわざ巫女をとらえに、危険を冒してまで寵臣を、寄越したのもおかしな話であるが、さらに稲賀まで――お館様まで内々に――忍びを使って見張らせていたというのだから、内々に、なのだろう――。

 なぜ、その巫女を見張らねばならぬのか。

 巫女を――だ。

 信乃の姉を、そこまでして見張らねばならぬ理由はなんだ。

 地下あがりで、発起して反乱を起こそうだというならまだしも、特にそういった動きもきかなかったし、もしそうなら村人を、いや何より、自分の妹を逃がす、などということもなかったのでは――いや、もしかして、巫女は何か稲賀方の重大な秘密をにぎっていて、それを敵方に持ち去られては困るから、見張っていたのかもしれない――それで、この度のことは、巫女一人が稲賀を裏切るために、一芝居うって敵方へと逃れたのか――そうだ、第一、巫女は行方不明というではないか――本殿に斬られた後を残していたとしても――

 でも、そうすると、信乃はどうなる。

 あの妹にして、姉がそこまでワルで、策士だろうか。

 あの妹を稲賀方に残して、敵方へと逃亡するだろうか。

 橘と六佐、信乃の三名と、隈吉、藤吉郎の二名はそれぞれの部屋へと別れたが、その後、藤吉郎はずっとそのことばかりを考えていた。

 明日も朝早いからと早々に隈吉と二人床についても、暗闇の中でずっと、橘と信乃の会話、そして、会ったこともないその信乃の姉のことを考え続けていた。

 とてもではないが、藤吉郎には信乃がそんな悪人とも思えない。

 どちらかというと真っすぐな気性で、悪事とは縁の遠い性質で、礼儀もできすぎるほどに出来た、それなりの家に育った娘のように見える。

 悪事を企むが故に、忍びを使って見張られるような――

 その、姉が、この信乃とは似ても似つかぬ悪人、などということが、あるだろうか。

 この旅の発案も巫女・橘の君によるもので、間違えても信乃が誘い立てしたわけではなく、信乃もグルというわけでもあるまい。

 そうだ、父もこんなふうに言っていたではないか。

――橘の君がなぜ、信乃どのをお連れするのか。道案内のためなどと申しておられるが、本意はわからぬ。しかし信乃どのは、姉御が生きていると信じて万に一つの望みをかけ、同道されるのであろう。遺骸が見つからぬのだから生きていることに望みをかける気持ちはわからぬでもない。だが、戦なれした兵が、その血の跡を見て見立てを誤るなどということはよもや考えられぬ。残された妹が、姉の死を確かめる旅になるやもしれぬ。藤吉郎よ、今、わしと丙吾が動くわけにはいかぬ。万が一、万が一のことがあれば、私はその親族という大木村の村長に言い訳が立たぬ。よいか、万が一のことがないように、信乃どのをお守りいたせ――

 万が一のこと――父は、信乃が姉の後を追うことを考えたのかもしれない。

 あるいは――

 藤吉郎は、六佐が気付いていたという『後をつけてくる者』のことを思った。

 その頃には布団の中で、なんだかウトウトしはじめたが、それもまた、気にかけねばならぬ一事であった。

 敵兵である可能性も消せない尾行者――敵であるならば――味方であっても、なぜ信乃をつけるのだ。

 いやまて、狙われたのは、姉の巫女で――

 ――白石山からの山道を抜けてまもなく、追ってきた敵兵に姿を見られました。兵は私の姿をみて『捕まえろ!』と――

 捕まえろ、と。

 何か変だ。

 山道を抜けて――追ってきた敵兵――兵は私の姿をみて――

 藤吉郎はふと目を開けた。それから、信乃を助けた日のことを思い出す。

 そう、信乃がまだ意識不明の時に読んだ、蛇穴の文だ。

 ――さて、それより急ぎの件がある。大木村の巫女のことである。

 昨夜六佐とともに諏訪社に到着早々、ある一団の来たりて眠るをえなかった。一団は大木村の民数十名、村から逃げてきたとのことである――

 『昨夜――ある一団の来たりて眠るをえなかった。』

 『兵は私の姿を見て』

 敵兵が村人の逃げたのを追い、その兵が、信乃の姿を、見たのは、いつだ?

 藤吉郎は慌てて起き上がった。それと同時に横に寝ていた隈吉がばっと布団を蹴って起き上がる。腰に忍ばせていた短剣を構え、寝床の脇においてあった弓へと手を伸ばした。

「敵か。」

隈吉が小さな声でつぶやく。

 眠りに入った頭を無理矢理起こそうとする感であったので藤吉郎は慌てて隈吉の方へ視線をやると、声をひそめ、

「いや、すまぬ。敵ではない。地図を見ようと」

藤吉郎がそういうと、隈吉は何も答えず、構えていた短剣を腰に挿した。弓もまた寝床の脇に横たえると、すぐに布団をかぶって寝入ってしまった。

 藤吉郎は荷物から地図を取り出した。

 地図を広げ、覗き込む。

 もちろん見えない。

 部屋の入り口へと歩みを進める。

 廊下では明かりが灯されているはずだ。

 静かに入り口の扉を開けた。廊下の明かりを目で探しあてると、地図を広げて顔を寄せ、大急ぎで白石山の位置を探した。

 

 

 

 朔次郎の周辺には、見知らぬ人がたくさんいた。

 雪山の夜だった。

 背後に小屋の明かりが見えて、村人たちのかかげた松明がゆらゆらと揺れていた。

 自分は逃れようとしている。

 誰かの手をつかんで――そうだ、小夜だ。

 ところが、自分の耳の誤りか、飛び立つかと思えた瞬間、女の声がきこえて、小夜の動きが止まった。

 ――巫女姫さま!

 そうだ、あの女、よく見えない。これが、小夜がいつも話していた――

 ――行ってはならぬ、その男は

 女は彼を指差した。

 ――この村に災いをもたらすだろう。

 その瞬間にすべてが、音を立ててもろくも崩れた。

 小夜は全く動かなくなり、激しい暴行の中で気を失いそうになる。

 なぜだ、小夜。

 心の中で呼びかける。

 なぜだ、小夜――!

 なぜだ――!

 その声がきこえたのか、あの、遠くにいるはずの小夜が、自分の方を向いて静かに語りだす。

 ――それはね、朔次郎さん、

 なぜか小夜の表情がよく見えなかった。

 暗い上に、小夜の背後から明かりが寄せるせいか、目で探ろうとするのに、少しも見てとれない。

 ――私は、村を棄てることはできないのです。あなたのような、敗走兵のために、なぜ、むざむざ、村を棄てるなどと――所詮は、落ちるしかない負け犬に、なぜ、この私が――

 朔次郎は首を振った。

 違う――!

 目を閉じて強く叫んだ。

 違う――!

 ――復讐か!

 村の男が憎々しげな顔を向けて靭実に叫ぶ。彼ははっとして、そして、その顔に向かって、「違う!」と叫んだ。

 そこで、彼は目が覚めた。

 「違う」――目の脇から涙が伝ってこぼれて、靭実は視界に天井板があることに気がついた。

 起き上がる、と、今度は涙が頬を伝い、布団の上へぼたぼたと落ちた。

 布団の白い色が、やけに目につく。

 何度も夢に見た、何度も夢で見た、あの日のことを――ここ二、三年一度も見なかったこの景色が、なぜ今になって出てくる。

 第一、あんなことを小夜は口にしたか?

 負け犬などと、言ったか。

 それなのにあの後、何度も何度も夢に見た。

 何度も、何度も――。

 だってわからなかったのだ。

 なぜ小夜はあの時、巫女姫の声で動かなくなってしまったのか。

 あんなにまでして行こうとしていたのに、なぜ動かなくなってしまったのか。

 すっかり忘れていた。だからこの間も、きかなかった。いや、きけなかった。

 血の戦場をかけて消えた記憶が、なぜ今になって出てくる。

 

 

 

 橘一行は、朝餉をすませると早速出立の支度をした。

 ここから行けば蛇穴との約束の時に十分間に合うだろう。

 一行は世話になった村長に礼をいうと、村長の家を出立した。

 さわやかによく晴れた冬の朝だった。

 その村の中を歩くとまもなく、雪はまた深くなり、村をはずれたあたりで道も、ゆるゆると上り坂となる。

 起きてから今まで、歩く道すがら、藤吉郎はこれといって信乃にも、橘にも、何かを尋ねるということはしなかった。

 自分が至った考えはあまりにも、非現実的すぎる。

 それは先日いたった考えと似ていようとも、あまりにも、非現実的すぎた。

 だからしばらく、黙っておくことにしたのだ。

 前を行く、六佐と橘、そして、信乃。その後ろ姿を見ながら、後をつける存在にも気を配りながら、ただただ、黙々と歩いた。

 それが、隣村との間にある林間の地に差しかかろうというところでである。

 六佐が、林を目の前にして、ぴたりと歩みを止めた。その姿を見て、瞬間、藤吉郎は刀を抜き、隈吉は弓に矢をつがえながら、一行の前へとかけぬけた。

 二人が一行の前で構え、藤吉郎が「お下がりください」と声を立てようとした瞬間、背後の六佐が「うふっ」と声を立てた。

 それから、「兄者。」と嬉しそうに続ける。

 前の林の中は暗くてよく見てとれないが、その暗がりの中から人の姿が浮かんだかと思うと、長く髪をたらした、女――

「兄者!」

今度は六佐に抱かれた橘が叫んだ。

 女は――いや、装束は男だった。その、男か女かわからぬ者が、艶っぽい微笑みを浮かべながら、兵を一人従えて近づいてくる。

「久しいの、橘。」

 蛇穴だ。

「兄者。なぜここへ? 私は行程まで書きはせなんだのに。」

橘の声ははずんで、嬉しそうだった。それで男が、今度は優しい笑顔を浮かべ、六佐に抱えられた橘をみつめた。

「それぐらい、わかるわの。我はサラギゆえ。」

 少年二人は蛇穴の登場に度肝を抜かれ――いや、暗がりから現れたからというより、その姿に度肝を抜かれ、言葉を失った。藤吉郎は剣をかまえ、隈吉は弓をつがえたまま、蛇穴をみつめている。

「さて、このおのこ二人は何者かの。その物騒なものをおろしてはくれぬかの。我は蓮女一門にして、高野は諏訪社の社主、サラギゆえ。」

 姿も女のようだったが、しゃべり方も男の声ながら優しげだった。二人はその、剣も弓も持たぬのに、どこか威厳と迫力のある男にたじたじとし、武器をひいた。

「由良藤吾の第二子、藤吉郎でございます。橘の君ご一行の警護に。」

藤吉郎がそう名乗ると、蛇穴が、

「さて、由良殿は自らの息子御を警護につけてくだすったか。さすがに、大木村の巫女の妹ともなると、六佐と橘だけにはまかせられぬか。」

藤吉郎は答えなかった。答えないでいると、蛇穴は続け、

「そちらにおわすが、大木村の巫女、小夜どのの妹御か。」

問われて、一行の最後尾にいた信乃はどきりとした。信乃が無言で頭を深く下げると、橘が、

「兄者、我らがこの道を通るのをご存知だったとしても、なぜこちらへ? 大木村でお待ちいただいてもよろしかろうに。」

そういうと、蛇穴は即座に、

「無骨な兵に囲まれて待つのもつまらぬゆえ、こちらへ参った。ああいう連中は、我をしつこく見るでな。」

 隈吉が藤吉郎に目配せをしてきた。

 わからないでもない、この男、男にしては女の気配がする。しかも、艶にして美しい。

 年は、自分たちよりも十は上に見える。

 蛇穴とその付き添いの兵は、一行と合流して歩き始めた。道は、すぐに林間へと入る。

 木立の中、蛇穴はすぐに信乃の横へとついた。

「信乃どのよ。」

信乃に話しかけた。

「は…はい。」

「なぜに参った。」

信乃はその言葉に、思わず顔をあげ、横に並んだ蛇穴の顔を見た。蛇穴は、艶を含んだ顔で、こちらへ流し目をくれている。

 蛇穴は、信乃と目があった途端、その視線をはずして前をみつめた。

「そなたには、つらい道行きとなるかもしれぬぞ。」

小声で、蛇穴はそう告げた。

 その言葉の意味を問う間もなく、蛇穴は前を歩く橘へと次の言葉を継いだ。信乃の横からはなれ、六佐と並んで歩きながら、橘と楽しそうに、これまでの一門の消息の話をし始めた。

 ――そなたには、つらい道行きと――

 信乃は前を行く、女のように美しい男の、その後ろ姿をみつめる。

 頭の中が混乱をきたす。

 それは、何のことを言っているのだろう。

 目の前の男は、巫祝の一門の者。その者がいう言葉の「つらい道行き」の意味――それは、一番怖れている不幸のことなのか、否か――

 それとも――

 

 

 

 信乃の目の前に、懐かしい景色が見えてきた。

 思えばほんの五日ほど前のことなのに、ずいぶん時が経ったような気がする。

 あの日は、それほど雪も積もっていなかったのに、今日は積雪量が増したようだ。

 信乃は白い息を吐きながら、白石山を背後に据えた女神山と、その神社の位置を目で探した。

「信乃よ。」

橘が前から声をかけてきた。信乃が返事をすると、

「霊視は時として誤りを見ることもある。あまり、期待はするな。」

 橘にまでくぎをさされて、心がくじけそうになる。「はい。」と返事をして、不安はより増した。

 これだけ村へ近づけば、生きていても、死んでいても、姉ならば、気配ぐらいは感じられるだろうに、それがさっぱりわからない。

 自分の生きていてほしいという気持ちが強すぎるせいか。

 それで、その勘がにぶっているのか。

 歩みを進めるうちに、道の両脇に田畑が広がる村の入り口のところで、兵数人による検問所が置かれていた。一行が近づいていくと、後ろを歩いていた藤吉郎が一行の前へと進み出た。

 兵が一行の前で、二本の槍でバツを作って行く手を封じる。

 一人の兵が一行の前へ立ちふさがった。それに対し、藤吉郎が、

「お勤めご苦労様でございます。女神山神社調査のために、高野の諏訪神社と玉来の由良神社から、蓮女一門の方々をお連れしました。私は由良藤吾の第二子、由良藤吉郎。」

 すると、兵は敬礼をし、

「ご苦労さまでございます。お館の方からうかがっております。」

そういって、何やら書き物を兵に命じてとってこさせた。

「念のため、ご一行さまの身分を改めさせていただいてもよろしいでしょうか。」

と問うので、藤吉郎が順に説明すると、信乃のところで兵は顔をあげた。

「玉来村へいかれた方がいらっしゃいましたか。して、戻られたのは、何用で。」

そう兵が告げると、横から橘が、

「行方不明になった巫女どののご親族ゆえ、神殿の中なども詳しい。知らぬ地で我らだけでは手間取るゆえ、ご同道願った。」

「はい。さようでございますか。」

「入ってよろしいかな。」

蛇穴が尋ねる。

「村の中では一人兵をつけさせていただきます。よろしいでしょうか。」

「かまわぬ。いくらでもつけよ。」

その蛇穴の言葉に、兵は槍で封じた検問を開けさせ、一行に道をゆずった。

 馬は検問所へ預け、検問所の兵が一人交わり、一行は八人となった。

 藤吉郎が後方へと戻り、検問所の兵に先頭を任せた。兵は一行に向かい「女神山神社に直行でよろしいか。」と尋ねると、蛇穴が、「それでよい、案内を頼む。」と答える。

 やはり、どこへ寄るのも許されぬのか、と信乃は心に思った。

 村の田畑が両脇に見える。今日はすっぽりと雪に覆われていた。通りは、兵がしたのか、雪が両脇にある程度固められている。

 一行が向かうは女神山神社、その途中、目の前に、人気の消えた集落が、その先には我が家がある。

 信乃の心はいつもの薄暗い我が家の中へと飛んだ。

 せめて、我が家に寄ることはできぬものか――いま少し、身の回りのものを集め、仏壇に手をあわせ――

「―――は、未だ消息不明か。」

橘の声で、信乃は我に返った。

「なんだ」蛇穴は声をあげた。「玉来へはまだ、連絡がいっておらなんだか。」

「連絡?」

それから、蛇穴は後方にいる信乃に視線を投げた。「なるほどの。」とつぶやくと、横から道案内の兵が、

「女神山の巫女どのは、ここに出入りしていた忍びのものが、そのご遺体を一族の墓に埋葬したと。」

信乃の頭に、佐助の姿がよぎった。

 兵の言葉を頭の中でくり返す。

 信乃の歩みが止まった。

 両手で顔をおさえた。

 力が抜けそうになる。がくがくと崩れそうになるのを、後ろから藤吉郎が支えた。

 しゃがみこむ。

「信乃どの。」

一行が立ち止まり、信乃へと振り返るが、信乃の目には何も映らない。

「信乃どの。」

藤吉郎がもう一度呼びかける。

 橘はしまったという顔をした。そして、六佐に耳打ちして、六佐と橘が信乃の元へとやってきた。

 六佐が腰を下ろし、橘が信乃へと話しかけた。

「信乃よ、しっかりいたせ。」

 信乃は答えなかった。地面にしゃがんだまま、呆然としている。

 ねえさま…

「信乃どの」と藤吉郎が話しかけるが、信乃は呆然とした顔をしている。

ところが、蛇穴の、「どうする、置いてゆくか。」の声にはっと我に返った。

 橘は蛇穴の方をふりかえって、それから信乃の顔を見た。

 もう呆然とした顔ではなかった。

「参ります。」強い目で、橘の顔をみつめた。「参ります、おつれください。」

 信乃は、藤吉郎の手を借りて立ち上がった。それから、力の抜けた体で無理に歩みを進める。一行はそれにならって歩みを進めたが、信乃の横には藤吉郎が並んで歩いた。

 歩く信乃の心に、女神山の社殿が思い浮かぶ。それから、佐助の顔がよぎる。

 そして、姉の姿がよぎる。

 ――完全ではないぞ。見誤ることもある。時に、依頼するものの希望を映し――

 先日の、姉の姿を霊視するときの橘の言葉も、頭をよぎった。

 あの、猟師小屋――あの猟師小屋での、姉さまの姿――私は、あんなところにいる姉さまを、希望しただろうか――あんな、つらい記憶しかない場所の、姉さまを――

 自分の目で確かめるまでは、姉の死は決定したのではない――信乃は思った。

 気を強く持たねば。

 そう、こうして村へと至ったのに、こんなに近くにいるはずなのに、死んだ気配も、――なぜか、生きた気配も、どこにも感じられないもの。

 そう、そうだ。それに、佐助が、稲賀側が事件の跡を検証しもしないのに、葬儀もなさず、兵が来る前に早々と、勝手に、遺体を埋めたりするだろうか。

 佐助の嘘ではないのか。――つまり、見張りをしながら、この度の失策を招いたことをごまかすための――

 信乃の歩みは先程より強く、ひるまぬようにと確かなものとなった。

 村の中は、いたずらに兵の姿が目につく。兵たちは、先頭に案内の兵がいるせいか、一行には一瞥をくれるだけで、ぶしつけにジロジロと見るものは少なかった。

 女神山のふもとにある自分の家の前を通過するとき、信乃は、視線だけは投げ続けた。横から藤吉郎が、「おうちですか。」と問うので、「ええ」とだけ答え、そのまま通過した。

 神社前の石段両脇に見張りの兵がいる。その石段を上った。

 振り返って村の景色を眺めたい衝動にかられながらも、前を向いてそのまま石段を上り続けた。

 上まで上り、境内が目に入ったところで、社全体が目に入る。

 途端に、蛇穴が叫んだ。

「馬鹿な!」

後に続いた橘もまた、

「まさか、――これは?」

二人は当惑した面持ちで、社殿を見上げている。

 信乃には、いつもの社に思えた。

 初めて来たはずの二人が、何に驚いているのか検討がつかない。

「いかがされました? 何か――」

信乃が声をかけると、橘は信じられないというふうな様子で、

「神がおられぬ。」

つぶやいた。

 それで、信乃と藤吉郎、隈吉は、いっせいに社の方に目をやった。

「この神殿には、神がおられぬ! 神はいったい、どこへ行かれたのか!」

 その橘の言葉を言い終わるが早いか、蛇穴が、本殿を目指して境内をかけだした。

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