hello. hello.

すぐり

hello. hello.

 hello. hello.

 見えますか、この言葉が。

 聞こえますか、この声が。

 届きましたか、この願いが。


 海よりも青く、夏の日の風よりも澄み渡った空がどこまでも広がっている。春の優しい日差しが、淡い影を伸ばす。

 君と出逢ったのは何年前だったかな。私が初めて君を見つけた日。あの日は、今日みたいに綺麗な青空の下で花びらが踊っていたね。お母さんに抱えられながらこの坂道を通った君は、私が伸ばした細い腕に小さな指先でそっと触れてくれた。

 一瞬だけだったけれど、君の柔らかくて温かな感触は今でも覚えている。

 それから時々、私を見つけては笑ってくれて、声をかけてくれて、手を差し伸ばしてくれた。そんな日々が、君と合えるこの季節が、楽しかったんだ。嬉しかったんだ。

 幾億もの人が住むこの世界で、幾千もの人がすれ違うこの世界で、数えるほどの人としか出会えないこの世界で、いつしか君は私の特別になった。

 お母さんの腕の中にいた君は、気付けば一人で歩けるようになって、幼稚園へと通い始めたよね。入園式へと向かう途中の緊張した表情、お母さんの手を固く握りしめていた君が、帰り道では頭に数枚の花びらをのせながら、楽しそうな笑顔を浮かべていたのが昨日のことのように思い出せる。

 それから小学校へと通うようになり、友だちに囲まれながら泥だらけで帰る君を近くで見ていた。笑ったり、走ったり、私には出来ないようなことをしている君が眩しくて、少しだけ羨ましかったんだ。

 いつ頃だっけ、君が初めて英語を勉強した日は。

 「Hello. Hello. Can you hear me?」と、歌うように呟きながら空を見上げた日は。

 私を見つめて、声をかけてくれた舌っ足らずな英語は、今も私の中で静かに響いている。君の声に私も言葉を返そうとしたけれど、声を出せずただゆっくりと手を振るだけ。自分の思いを伝えられない寂しさを久しぶりに思い出したよ。私の声を届けられるなら……。


 眩しそうに目を細める君と見つめ合った春から、季節は何度も巡り、背の伸びた君との距離はゆっくりと縮まっていく。

 小学校を卒業して、中学生になり、高校生になる。背が伸びて、制服も変わって、それでも君は毎朝この坂道を通っていた。昔よりも下を向いて歩くことが多くなった君は、寂しそうな表情を浮かべることが増えていった。

 隣を歩くのが友達だったり恋人だったり、子供の頃にお母さんの手を握っていた君の手は、優しそうな目をした女の子の手を握るようになっていたね。時々浮かべる幸せそうな表情を見るたびに、少しだけ私も恥ずかしくなった。

 人の時の流れって、どうしてこんなに早いのだろうか。

 年を重ねるに連れて笑顔が少なくなる君を、大人びた笑みを浮かべるようになる君を、成長したと喜ぶのか、変わったと悲しむのか。

 それは私には分からない。でも、君が迷わず歩いていけるなら、私はそれを祝福しよう。


 君と出逢ってから何度目の春だろう。

 高校の卒業式を迎えて、もうすぐ君はこの街を出ていく。何人もの友達に囲まれて幸せそうな笑みを交わしていた君に対して、私に出来ることは何かあるのかな。

 温かな日差しが淡い影を伸ばす。柔らかな風が吹き、草木を揺らす。

 冬の灰色がかった空気が薄まり、色彩を持った空の下で思いを巡らせた。君と出逢った日から今日までを。これまでの過去を。

 そうだ、優しい未来を、美しい明日を祈ろう。

 私は幸せを願い、そっと花びらを風に乗せる。

 一枚、また一枚と数を増やし、いつしか桜色の吹雪となって街を吹き抜ける。街を行き交う人々が、幸せの欠片を掴もうと何気なく空へと手を伸ばす。その景色の中では誰もが笑顔で、幸せそうで、春の柔らかな優しい香りがした。いつもの坂道を歩く君にも届きますように。空を見上げる切っ掛けになりますように。

 願いを込め、また一枚、空へと送り出した。


 坂道で一人立ち止まる君の掌に包まれた花びらが一枚。

 ゆっくりと開かれた指の隙間から、ふわりと舞い上がる。空へと溶けていく小さな願いを、ゆっくり目で追う君を、私は静かに眺めていた。

 久しぶりに空を見上げる君を見た気がするよ。うん、下を向いて歩くよりも似合っている。

 視線を戻す途中に君の目と私の芽が合う。黒く輝く目が私を見つめ、そして、私が伸ばした細い腕を君は優しく撫でてくれた。

 懐かしいな。

 君は憶えているかな、初めて出逢った日を。あの頃に比べて、君の指先は大きくなって、硬くなった。大人の手になっていた。でも、その温もりだけは変わっていない。

 「今までありがとう。毎年の楽しみだったんだよ、子供の頃からずっと」

 低くなった声が、心地よく響く。

 私も言葉を返したいと思った、どうにかして君に声を伝えたいと願った。その刹那、草木の香りを含んだ風が吹き、私もその風に揺らされて、さらさらと声を出す。

 気づくかな、私の気持ちに。

 そしてまた、言葉を込めて花びらを一枚、風に乗せた。

 日溜まりのような笑顔を浮かべた君を見て、私は少しだけ安心する。ああ、また君は花びらを頭に乗せても気づかないんだね。やっぱり君はいつまで経っても君だよ。これまでも、これから先も、初めて私に触れてくれたあの頃と変わらない優しい君だ。

 もし、これから先、迷うことがあったら私を思い出してくれたら嬉しいな。


 花びらを見つめる君は、再び空を見た。

 君の瞳には、桜舞う澄み渡ったこの空が綺麗に映っているのかな。

 私に出来るのは、君に空を見せることくらいだから。

 ねぇ……。


 届きましたか、この願いが。

 聞こえますか、この声が。

 見えますか、この言葉が。

 hello. hello.

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