衝動的浮遊感による半空想写実

 左のページには読むべき文字がなかった。

 茫漠とした白に吸い込まれそうになって本を閉じた。もう少し先がありそうに感じたのだが。慣れないハードカバーに左手が狂ってしまったのか。

 本を置いてフラフラとベッドに倒れこむ。数瞬前まで私の手の上でフリーズドライの世界を復元していたそれはすでに景色に変じていた。散らかった机にはどこにも世界の痕跡が存在せず、面白くなって少し笑んだ。

 ごろりと顔を背けて、壁紙の規則的な白を数え始める。しかしほんの少しでパソコンのディスプレイの黒が遮った。真っ黒の鏡は私の体の一部を映す。私の網膜は律儀にそれらの色を脳に届け、鼓膜が遠くエンジン音を聞いた。

 里帰りの車だろうか。連休に羽根を伸ばす彼らを羨んだ。学生は蛹だからか、宿題という糸に囚われて羽を伸ばせない。今しがた読んだばかりの本も読書感想文の糧となるべきものだ。しかし書くべき言葉が浮かんでこない。

 どうやら名のある賞を取った本らしい。自分で買ったのだし賞の名前くらいは覚えていそうなものだが、脳はサルベージを拒んだ。ただ活字がもたらす一種の浮遊感に身を委ねる。現実性を失った思考が右往左往するのに、麻薬使用者のようだと自虐的感想が浮かんだ。それでも何か高尚に感想文をしたためる気は起きない。

 そもそも賞の審査員たちと私が持つ万年筆は違うのだ。安価なステンレス製のペン先は勿体ぶった文字たちとは仲が悪い。読書という娯楽にわざわざ論理を持ち込もうと私は思えないし、この浮遊感に揺蕩うだけでいいではないか。

 なんとなくため息をひとつ吐き出して身を起こした。麻薬的浮遊感はベッドに蔓延る睡魔を寄せ付けない。獲物を前に生殺しの彼らが可哀想になった、そんな後付けの理由が浮かんですぐに消えていった。

 ふと目についたからギターを取る。自堕落に錆び付いた体内時計がドア越しのいびきと窓の漆黒に叱られて警告灯を灯らせた。はいはいわかってるから、と宥めて気を遣いつつ音を鳴らす。

 習慣や癖と言われるものに従ってアルペジオが流れる。アンプに繋がないエレキギターと理性の監督下で動かされるピックが極小の音で何かを描き出す。add9とm7が多用された何かは常に音量に比例する力を持つものだ。ほんの僅かに揺れる感情の針は快の方向を指した。不快へと振れないということはこの直感に満ちた何かにも規則性が糸を巡らせているのか。

 然し見知らぬどなたかが作ったルールは今の私に関係ない。厳密には不協和音の類である音でも人は良さを感じる。いつの間にか例外だけが増えるルールは、多分なくてもいいものだ。鶏と卵とは全く異なる。

 直感が先を紡がなくなったので、抗議する脳を黙らせつつ記憶からフレーズを探った。昨日弾けるようになったばかりのフレーズが真っ先に飛び出てきて、左手をハイフレットへと動かした。

 複雑に指を動かす必要のあるフレーズだ。経過音とチョーキングの不安定に彩られて不思議な愉快さを呼び起こす。私の好きなバンドの最新の曲。

 機械的に幾度となくそれを繰り返していると、流石に飽いてきた。昼間奏でた音符に苛められた指先は刺すように痛む。そっとギタースタンドにギターを置いてベッドに寝転がる。

 浮遊は音に掻き消されてしまったらしい。私の精神はすでに地に足をつけていて、故に睡魔の格好の餌となる。

 衣替え前、気温と服が釣り合わない時期。もこもことしたパジャマを頼り、布団を押しのけて私は束の間の死に身を沈めた。

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徒然に天啓を嘯き鍵盤の上に指を遊ばせ 宇多川ぎょくと @Gyokuto-Udagawa

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