朝日のようにひそやかに

フカイ

掌編(読み切り)




 枕に顔を伏せたら、となりで寝ているひとの髪の香りがただよってきた。


 朝日が、厚いカーテンのドレープの隙間から、床に置かれたラグにこぼれている。


 何時だろう、と彼は思う。


 裸の肩がすこし、肌寒い。寝具を引き上げ、顔の半分までを温かな布の中にうずめる。真冬の朝。遅い朝。


 覚醒とまどろみのあいだのとろりとした時間の中で、彼は眠りに落ちるか、それとも恋人に触れるかをうっすらと決めかねている。


 恋人の裸の肩の肌に、部屋の日差しが当たっている。ゆるくカーブする肌理きめの細かな肌色の丘。かすかな彼女の呼吸に合わせ、ほんのわずかにその肩が上下している。薄目をあけて、ごく淡い産毛におおわれたその皮膚を見つめる。髪の香りに包まれたまま。


 指で触れたい、という気持ちが起こる。指先で、その滑らかなカーブを撫でてみたい、と感じる。あるいは唇で。あるいは抱きしめた時、その肩に顔をつけて。鼻の頭をこすりつけて。


 ふとんの中は、とても温かい。今日は祝日だ、と思いいたる。目覚ましもならぬ朝。


 昨夜はふたりして、長い性交をした。性交の前にはしっとりとした誘惑のやり取りがあり、その前には上品な食事の時間があった。


 眠りの泥から意識が抜けだすとともに、昨夜の記憶が呼び覚まされ、性交の感触が蘇る。鼠蹊部そけいぶに熱が満ち、毛布の中で性器が勃起するのが意識される。


 このまま、彼女を揺り起こし、もう一度性交するのもいい。あっという間に固くなる性器を感じながらしかし、彼はそれと全く逆のことを思う。


 ―――、と。


 幸福な瞬間に身をおくと、そこに心から安寧できないと感じる自分がいる。


 いま、こうして、甘い髪の香りと光る肌をさらす美しい人も、やがてはすたれ、あるいは心が離れ、そしてこの時間は消えてゆくのだ。人生の多くの時間はひどく退屈で、幸福でも不幸でもない平坦なものだ。だからこそ、数少ない幸福な時間は人の意識に深く残り、それは歌に歌われ、絵画や映画に描かれるのだろう。


 それらすべてを省略して、まどろみと覚醒の間にいる彼には、「これは夢なのだ」という天啓にも似たフレーズだけが意識される。


 いつか失うもののために、人は愛する。幸福と同じ数だけ、不幸があると知っても。


 勃起した性器を抱えたまま彼は、ただ黙って朝日をあびて眠る恋人を観察することにしたのだった。




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朝日のようにひそやかに フカイ @fukai

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