22/君を待つと決めた日
傷が塞がってからは、毎日がリハビリの日々だ。水見さんをはじめとするクラスメイト、高校の担任教師や美丘先生、果てには中学生の頃にお世話になった保健室の先生までもがお見舞いに来てくれた。
水見さんは授業内容をコピーし、わざわざ渡しにきてくれた。
さすがに全ての授業内容を教えてもらうのはなんだか申し訳なくて、それよりも学校生活の面白い出来事を聞くことが毎日の楽しみだった気がする。
「毎日じゃなくてもいいのに」と言うと、彼女は「これで、おあいこだね」と笑った。たしかに、彼女が入院していた頃、僕は毎日お見舞いに行っていたのを忘れていた。
保健室の先生は、クマバチの話をしたことを悔いているようだった。あの言葉で犯人に立ち向かって大怪我をしたのではないか、と思っているらしい。「先生の言葉で救われたことの方が多かったです」と伝えると、いつもの笑顔に戻ってくれた。
そういえば、短い面会時間ではあるが、なぜか毎日のように一人の警察官が何度もお見舞いに来てくれたのを覚えている。
口調が優しく、どこか安心する声だ。母さんと顔見知りなのか、よく話をしていたように思う。
楽しそうに話している姿を茶化すと、何故か二人とも笑っていた。
リハビリの時間は苦しかったけれど、たくさんの人に囲まれて過ごした入院生活は、色鮮やかで充実した毎日だった。
そして、月日は流れた。
季節は冬となり、一月末には医者から外出許可が下りた。
二本の松葉杖がなければ歩くことが困難である僕を見て、母さんは外出に対して断固として反対した。だが、その言葉を遮ってでも、僕は一人で苦しむ伊達に会いに行くと決めていたのだ。
かつて自分が〝透明人間〟であることが苦痛だったように、きっと彼も孤独と戦っているに違いないと──痛いほどに理解できたから。
『自分の心を救うのは報復ではない』
その言葉を嘘にしたいためにも──僕は死ぬ気でリハビリを続けてきたのだ。
──まずは伊達に会いに行って、必ず徹にも会いに行こう。
母さんから往復分の交通費を貰い、電車とバスを利用して伊達が入院する病院に急ぐ。暖房の効いた院内とは違い、外は肌を刺すような寒さで溢れている。
そして──約二時間の時間を掛け、やっとの思いで病院に辿り着いた。
寒さのせいか、手足の末端がズキズキと痛む。
彼が入院していたのは精神科病院で、病室は閉鎖病棟だ。
面会の予約をし、伊達の家族と本人の双方の面会許可が下り、かつ医師がそれに許可を下ろして初めて面会が可能となる。
もちろん、あらかじめ予約や面会許可は済ませてあった。
受付で必要事項を書類に記入すると、看護師が部屋まで案内してくれた。病室は外から鍵を掛けるタイプの個室になっていて、看護師が扉の解錠をしたのを確認すると、僕はそのまま部屋の中に入った。
「──伊達……?」
ベッドに横たわる伊達の顔は、その全てが包帯で巻かれていた。
傷自体は塞がっているが、本人の希望で包帯を巻いているらしい。「四肢をベッドに拘束しているから危害を加えられることはまずないと思うが、危険を感じたらすぐ離れるように」と何度も看護師に念を押された。
「事件に関係する話も錯乱する可能性があるため避けるように」とも言われた。
「うい……あい──?」
口を包帯で覆われているからか、伊達の声はこもった声だった。舌を切られたせいで母音しか発音できないのは、あらかじめ看護師から聞いている。
涙腺が灼かれ、涙を流すことさえ許されない伊達は、ひどく寂しそうな顔をしているように僕の目には映った。
「……そう、過咲。過咲、優だよ。……覚えてる?」
伊達はゆっくりと頷くと、僕とは反対側の方を向いてしまった。
沈黙に動きを止める2人の姿を、配置された監視カメラが静かに見つめていた。
「……あはは。いざ顔合わすと、何を話せばいいのかわかんないね……」
伊達の反応はない。
「耳、聞こえるよね? そっち向いたままでいいから聞いて」
うーん、うーん、と僕は何を言うべきか悩んだ。
頭で想像していたものと、伊達の現実がずいぶんと違っていたからだ。
彼の顔全体を覆う包帯が──さらに僕の思考を奪った。
「……とりあえず。もう、昔のことは……怒ってないから──」
伊達はゆっくりとこちらを向いた。
泣いているのか、鼻をすすっている音が聞こえる。
「──あぁ、そうだ。そういえばさ、中学の時の保健の先生、覚えてる? あの先生さ、僕に面白い話を聞かせてくれたんだ」
それは、クマバチの話のことだ。
大型の体と、それに見合わない小さな翅。航空力学上、理論的に飛行不可能にも関わらず飛ぶことができる蜂。〝自身が飛べないことを知らず、飛べると信じているから飛行が可能となっている〟と賞された蜂の話。
きっとクマバチの話が、今の伊達に光を灯してくれるはずだ。
光を失った伊達の瞳に、心を通して少しでも射し込む光があるのなら──。
そんな小さな小さな願いを込め、彼にクマバチの話をすることにした。
「うまく話せないかもしれないけど……」
まずは保健室の先生が話してくれた物語を頭の中で整理した。
なんとかして〝生きる希望〟が持てるように、物語を再構築しながら──。
そして──声を震わせながら口を開く。
淡々と、淡々と──まるで国語の教科書の音読のように話す僕の言葉。
はたしてそれが伊達の心に届いたかどうかはわからない。
『〝できない〟と決め付けずに〝できる〟と信じて行動すれば、それは必ず達成できる』という物語を、想いを、願いを、希望を──僕の言葉に乗せて語りかけた。
伊達が〝生きる希望〟を持てるように信じて──。
しかし、保健室の先生の話を模して作った出来合いの物語は、5分にも満たない短い話に終わった。
「……ごめん。あんまり、面白くなかったかな……」
伊達はゆっくりと首を振る。
それからしばらく長い沈黙が続いた。
呼吸をしているのか心配になるくらい、彼の身体は微動だにしない。椅子に座る僕のほうが根を上げてしまいそうだ。
「それじゃ、そろそろ。……また今後、お見舞いに来てもいいかな?」
伊達はほんの少しだけ間を置いてから頷いた。今まで僕にしてきたことへの罪悪感からだろうか。
──もう昔のことなんて、気にしてないのに……。
「……うん。それじゃ、またね」
僕は松葉杖で体を支えながら椅子から立ち上がり、部屋の出口に向かった。
「……ういあい。あいあお……、あいあお、あっえう」
舌を失った影響か、伊達が発音する言葉は母音だけだ。しかし──。
『過咲。明日も、待ってる』
僕の耳には──たしかにそう聞こえた。
胸に熱いものがこみ上げてくる。
自発的に会話してくることはないと聞いていたからだ。
「……うん、必ず。明日も必ず会いに来るよ」
伊達の精一杯の声が、僕の心の迷いを拭った。
廃校で〝死〟の恐怖を経験し、僕が出した答え。それは──決められたレールの上で役割を演じることだけが人生ではなく、うしろを振り返って見える軌跡に何を遺せているか。それがきっと〝生きる〟ということだ。
だから、僕は──。
「──今日から、僕らは友達だね。オサム!」
僕は笑って伊達の下の名前を呼び、手を握った。彼の手が温かいことを確認すると、看護師に合図を送って部屋から出ることにした。
今まで背中に乗っていた重い空気がまるで嘘のようだ。
これで少しずつ理の心が回復に向かってくれたらどんなにいいだろうと、僕は嬉しくなった。
そして正面玄関から外に出ると、清々しい空気が僕を通り過ぎた。
「おぉ、ユウくん。もう面会は済んだのかい?」
「──あれ? どうしてここに?」
正面玄関の前にいたのは、よくお見舞いにきてくれた警察官だった。
「お母さんに頼まれたんだよ。ユウくん一人じゃ心配だ、ってね」
ほらあそこ、と駐車場に停められた乗用車を指差す。どうやら、わざわざ車で迎えに来てくれたようだ。
「ごめんなさい。母には一人で大丈夫だって言ったんですが……」
「うぅん。いいんだよ。それに──」
言葉を詰まらせると、目を閉じて静かに微笑み、首を振った。
「……いや、なんでもない。さ、家まで送るよ。お母さんも心配しているよ?」
「でも、さすがに私用でパトカーはマズいんじゃ……」
僕は両手に松葉杖を構えて歩きながら言うと、警察官は笑った。
「あははは! 安心して。ちゃんと自分の車で来ているから!」
そこで僕はふいに思い出した。
病院で目が覚めて、事件の記憶を思い出してからずっと聞きたかったことだ。
「……あの」
「うん?」
「僕を助けてくれたの──刑事さんですよね?」
あの時、徹に殺されそうになったところを拳銃で止めてくれた時の声が、目の前にいる警察官の声に似ている気がした。
どこか懐かしくて、優しい声で────。
「──そうだね。でも、それがどうかしたのかい?」
「いえ。聞き覚えのある声というか……懐かしい声、だった気がして──」
それはきっと、父さんの声を聞いた夢のせいだ。
僕の言葉を聞いて、警察官は困ったように苦笑いをした。
「あ、でも気にしないでください! たぶん気のせいなんで! あははは!」
顔が熱い。ただ、ほんの少し期待してしまったのだ。そうだったらいいなと思ってしまうのは、あまりに母さんが楽しそうだったから──。
そんな僕を見て警察官は微笑んだ。
駐車場に停めた車まであと少し。それを見て、僕はあることに気付いた。
乗用車の助手席に母さんが座り、僕に向かって見たこともないような笑顔で手を振っていたのだ。
「……昔ね、とある一人の警察官が言っていた言葉があるんだ」
警察官が母さんに手を振り返すと、突然僕に語り始めた。
「人を恨んではいけない。憎しみは繰り返してはいけない。──その男は、自分の信念だけを貫き通した人間だったんだよ」
空を仰ぎ、話し続ける。
「……結婚して一人の男の子を授かったけれど、仕事柄なかなか家に帰れずにすれ違いも多かったらしくてね。奥さんは寂しかったと思う。きっと──お子さんも」
冬の風は冷たく、外気に触れる肌の温度を奪ってゆく。
胸のあたりが火照り、少しだけ息苦しくなった。
警察官の会話の中の人物が、僕の家族構成と──少し似ていたからだ。
「それで家庭と仕事を両立できなかった男と奥さんは──別れることにしたんだ。苦渋の決断だった。妻のことも、子供のことも──愛していたから」
視線を僕に向けてから微笑む。
その輪郭は、夢の中のワンシーンと重なった。
「だから、ユウ──」
そう言って、僕の頭の上に手を乗せる。
それは──はてしなく青い空。
無限に広がる青空を雲が白く彩り、温かい陽射しが差し込む日の出来事だった。
「──お前だけは、お母さんの傍にいてあげなさい」
それは温かくて大きい、母さんと同じ優しい手をしていた。
そしてそれは──幼い頃からずっと探し求めていた、父さんの手だった。
君を待つと決めた日 山儀篤史 @ash_suit
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