【試し読み】ハンプティダンプティは眠らない

倉野 色

ハンプティダンプティは眠らない

 霞みひとつ無い星空と、眼下に広がる夜の情景。

 自重を持って、しかしやわく垂れ込むまばゆい光が、結露したレンズを滴るように、夜の町へと落ちてゆく。


 風が吹く。足元で、かやの群れがすするように騒いだ。

 生温い大気。夜の匂い。カとタンを交互にどこかで刻む、夜行列車の足音。

 降下する光に合わせてゆっくりと進んでいく時の中で、俺の身体にある五感という名の感覚は、それら全てと溶けて混ざりきっていた。そうして気が付くと俺は、町へと零れ落ちていく光の粒に、かざすように手を伸ばしていた。

 その後のことは、覚えていない。

 ただ、零れる光も、伸ばした手もまた、いつもの日常の一端なのだと思っていた。


 ──そう思いながら、非日常の一端へと手を伸ばしていたことだけは、今でも鮮明に覚えている。


 *


「貴方が今まで見た中で、一番綺麗だったものは何ですか?」


 ──そんな質問を、美術科の教師がいつかの授業の冒頭で、教壇から投げかけてきた。

 何とも生産性がない質問だろうか。ひとえに、俺はそう思った。

 だがしかし、美術の話に生産性などを求める方が悪いのだろう。美的センス乃至、感性というものは必ず人それぞれでなければならないのだから。

 だからこそ、ここからはそれを踏まえた上で、俺の話に耳を傾けてもらいたい。

 俺にとって、何が世界で一番綺麗な物であったか。その、拙い見解を。


 机に頬杖をつきながら最初に思い浮かんだのは、月だった。

 月並みだと思われるだろう。何せ"月"なのだから。だが、別に安直な答えを選んだわけではない。

 俺は月に特別思い入れがあった。厳密には、天体に。


 ──俺は、星を見るのが好きだ。

 レンズ越しに見るのも、夜空を見上げて一望するのも好きだ。小さい頃から、そういう趣味があった。

 父の走らせる車に天体望遠鏡を抱えて揺られ、裏山で百倍率のレンズ越しに月を覗いたあの日から、ずっと。

 一等星も見た。二等星も見た。マイナス一等星だって見た。

 水星も、金星も、火星も、木星も、土星も。父が居なくなってからも、一人でそれらを見続けた。だが、そのうえで俺は、やっぱり月が一番綺麗だなと思った。

 他の星とは違った異彩の光を放ち、地球に最も密接し、それでいて必ず遠い。

 時に形を変え、色も変え、輝きも変え、だがいつでもそこにある。

 良いところを挙げ始めれば、キリが無い。だがその事実が在るだけで、キリが無いだけで、月が今まで見たどの星よりも綺麗なのだと断言するには、充分だった。


 ひと呼吸を置こう。

 語りすぎた。そろそろ俺の思考を覗く匿名者に気味悪がられるおそれがある。

 月への熱意にストップをかけ、前の座席のクラスメイトを右から左へと眺めつつ、頬杖の手を解く。

 その時ふと、ある一点に視線が止まった。語り足りない月のことも、この時ばかりは頭に無かった。

 黒くてカーテンみたいに揺れる、長い髪。

 彫刻みたいに絶妙な造形をした横顔。

 真っ直ぐな瞳。

 在ろう事か、頬杖をつく手を休ませながら二番目に思い浮かんだのは、クラスメイトの藤枝 咲だった。


 *


 目覚まし時計のアラーム音が、枕元で鳴り響く。

 加えて、部屋の外のどこか。おそらくダイニングから聞こえてくる、母の急かすような呼び声がした。ここまで把握して、意識が覚醒する。

 朝だ。

 毛布に埋めていた顔を出し、時計の液晶画面に目を遣る。九十度に傾いた視界曰く、現在時刻は七時二十分と、余り三分。目覚ましの設定は七時にしていた筈なので、少し寝過ごした事になる。

 電車の吊革を持つような動作で手を伸ばし、手探りで目覚まし時計のボタンを押す。アラーム音は鳴り止み、代わりに秒針の音が聞こえてくるようになった。瞼を擦る。大口で欠伸をしながら起き上がった俺は、パジャマをベットに脱ぎ捨ててカッターシャツを羽織り、ボタンを留めながら階下のダイニングへと向けて階段を降りていった。

「あら、やっと起きた」

 扉を開けて部屋に入ると、早速母と目が合って、呆れた顔と声の挨拶を受けた。

「おはよう」

 朝食の並んだ食卓では、中学生の妹であるトウコが、制服姿で一足先に黙々とトーストに噛み付いている。

 俺は実質自分専用であるトウコの隣の椅子を引いて座る。するとトウコは、こちらを一瞬だけ一瞥してからトーストを飲み込み、牛乳の入ったマグカップを片手に再度こちらに向き直ってきた。

「お兄ちゃん、今日も寝坊助」

「別に寝坊じゃないから。電車には余裕で間に合うし」

 生意気な妹の口を黙らせるために嫌々返事をしていると、突然背後から伸びてきた自分以外の手が、俺の朝食として置いてあった味噌汁の椀を取り上げていった。目で追うように後ろを振り返る。やはりというか、正体は母だった。

「寝坊助だから味噌汁が冷めちゃってるんでしょ。温め直すから、他のを先に食べちゃいなさい」

「……わかった」

「ほら、寝坊助じゃん」

「黙れトウコ」

 俺はトウコを適当に遇らってから、皿に乗ったウィンナーとレタスをフォークで串刺しにして、口へと運んだ。

 すると、後ろで聞いていた母が、深い溜め息を吐いて呆れた風に項垂れた。

「もう……アンタ達は朝から喧嘩しないと気が済まない訳?」

「喧嘩じゃないよ、お兄ちゃんの口が悪いだけ!」

「ああ。喧嘩じゃない。トウコが朝から一人で騒いでいるだけだ。俺は聞き流してるだけだし」

「はあ!? むかつくー!」

「ほらな、煩くなった」

「もう、トウコはさっさと学校に行く! 宗次郎もさっさとご飯を食べる! 遅刻したら来月の小遣い抜きだからね!」

「えっ……」

「ふふ、私はもう家を出るから、遅刻するのはお兄ちゃんだけだね!」

 トウコはそう言って煽るように舌を出して、テーブルの足に立て掛けていた肩掛けのスクールバッグを手に持つと、早々と俺の後ろを通って、ダイニングの扉を開けた。

「じゃあ、行ってきまーす! あっ。お兄ちゃん、冷蔵庫にある苺ヨーグルト、勝手に食べないでよね! 昨日私が食べずに取っといたやつだから!」

「はいはい」

 すっかり上機嫌になったトウコは、くるりと踵を返して部屋から出て行った。

 玄関から、ローファーを履く音と扉の閉まる大きな音が聞こえたのを確認して、俺は椅子を立ち上がり、冷蔵庫から苺ヨーグルトを取り出した。

「食べないとは言ってない、っと」

 椅子に戻りながら蓋をペリペリと剥がし、再度腰掛ける。

「味噌汁温め直したわよー ……って、アンタそれ……」

「トウコが昨日食べなかったらしい」

「何でアンタ達ってそう……もういいわ。さっさと味噌汁飲んで、アンタも学校行きなさい」

「うん、そうする」

 適当に頷きながら、蓋を取った苺ヨーグルトを隅に置いて、味噌汁を一口啜る。

 俺は椀に口を付けたまま、ふと朝のニュース番組を映したテレビに視線を向けた。


『──続いてのニュースです。アメリカの人工知能を搭載した核兵器が、日本へ逃亡? その全容に迫ります』

 ニュースキャスターの口から放たれた物騒すぎるワードの羅列に思わず、台所に立っていた母も手を止めた。

「何? 核兵器?」

「……って、言ってたね」

『昨日未明、アメリカ イリノイ州のシカゴ宇宙開発センターから、開発途中の自律型核爆弾誘導装置ハンプティ・ダンプティが逃亡し、岡山県井原市に飛来したことが、国防省より明らかにされました。国防省によりますと──』

「えっ、これってウチの市の話じゃない!物騒ねえ。ハンプティなんとかって、少し前にもテレビで開発してるとかしてないとかって、アメリカで騒がれてたやつよね?」

「ハンプティ・ダンプティね。まあ、今更濁さなくてもあんなにでかい国なんだから、防衛手段に核の一つや二つ、備えに持っとくのがむしろマトモな思考だと思うけどね」

『──それでは本日は、東京理科大学からお越し頂きました、岡部 伸久 教授からお話を伺いたいと思います。岡部先生、よろしくお願いします』

『ええ、はい。こちらこそよろしくお願いします』

『早速なのですが、今回逃亡したとされているハンプティ・ダンプティとは、どのようなものなのでしょうか?』

『昨日発表された事しかまだ詳細は明らかにされておりませんが、ハンプティ・ダンプティは自律型核爆弾誘導装置と呼ばれ、単独で独断して行動する事が可能な核爆弾の誘導を行う装置です』

『つまり、核爆弾そのものではないのですか?』

『ええ。ほら、皆さんもインターネットの地図なんかでマーカーを使ったことがあるでしょう。ピンと呼ぶ方が親しみやすいですかね。ハンプティ・ダンプティは、あれと同じなのです。地図アプリでピンを付けた位置の詳細を確認するように、核爆弾はハンプティ・ダンプティという名のピンを現地に置くことによって、予め上空に常駐させている核爆弾を正確に標的に向かって投下できるわけです』

『なるほど。しかし、それだと何故ハンプティ・ダンプティは今ここまで危険視されているのでしょうか? ハンプティ・ダンプティがアメリカから脱走したとしても、アメリカが核爆弾を操作しない限りは、何も被害の心配は無いように思えますが……』

『確率はゼロではありませんからね。貴方の言うそれは、割れるおそれが無いのなら、劇薬の入った瓶を部屋に置いておいても良いと言っているようなものですよ。存在している事自体が害なのです。それに、ハンプティ・ダンプティは少し厄介な特性を持っています』

『厄介な特性、ですか?』

『ええ。ハンプティ・ダンプティは、人間に寄生するのです』

『寄生と言いますと、アニサキスのようなものですか』

『アニサキスは、魚介類の食物連鎖を利用して宿主を転々としながら成長するポピュラーな寄生を行いますがね、ハンプティ・ダンプティはそんなに単純なものではありません。いや……むしろ、そんな手間をとる必要のない寄生、というべきですか』

『どういう事なんですか?』

『貴方達は、ギリシャ神話のメデューサという女神をご存知ですか? 彼女は、自身の持つ目で見た相手を、たちまち石にしてしまう恐ろしい力を持った女神として知られています。それが目から発せられる光線のようなもので石に変えていたとか、恐しい容姿で見た者の恐怖を煽り硬直させていたとか、原理は史実によってまた異なるわけですが……』

『あの、すみません。そのメデューサの話と今回のハンプティ・ダンプティの話は、何か関係があるのでしょうか……』

『つまりですね。結論だけ言わせていただくと、ハンプティ・ダンプティはメデューサと同じなのですよ』

『同じ?』

『はい。ハンプティ・ダンプティの寄生も、メデューサの見た者を石に変えるそれと、同じ方法がとられるのです。まあ、原理は綺麗に真逆なのですがね。メデューサは、自分が見た者を石に。ハンプティ・ダンプティは、自分を見た者に寄生……つまり、核爆弾を誘導するピンを付けるわけです』

『見た人にその、ピン? が付くというのは、現実的に可能な技術なのですか?』

『飲みの場や電車の中なんかで嘔吐している人を見た時に、それを見るまで微塵も感じていなかった吐き気を催した経験とか、あるでしょう。ハンプティ・ダンプティの寄生は、それと同じような原理なのです。詳しくはまだ述べられていませんが、そういった特別な何らかのサインを見た者の脳にマーキングになる何かを発生させることで、それをピンにしているのだろうと、私は考えています。実際のところがどうであれ、現実的に可能かと問われると『アメリカの言う事を信じる前提では可能であり、ハンプティ・ダンプティはその特性を有している』とお答えする他ないですね。原理については、今後のアメリカからの続報を待つばかりです』

『なるほど……それでは、ハンプティ・ダンプティの被害を受けた人とそれ以外の人を見分ける方法はなんでしょうか? また、被害を受けた人からピンを取り除く対処法などはあるのでしょうか?』

『そうですね。既に発表された情報によると、ピンはハンプティ・ダンプティを最初に見た人間にのみ、潜んでいるそうです。要するに、ごく稀にピンの付与に失敗するケースも、実験段階であったそうですから、厳密にはハンプティ・ダンプティが初めて寄生に成功した人間にのみ、ピンが付けられると言うべきです。まあ、食中毒みたいなものですね。火が十分に中まで通っていない肉があるとして、それを食べて食中毒に発症する人もいれば、運良く発症しない人もいる。そして尚且つ、発症しても誰かに移ることはない。ハンプティ・ダンプティのピンについても、それと同様なのですよ』

『あの、岡部教授。失礼ですが……』

『ん? ……ああ、回答になっていませんでしたね、すみません。ハンプティ・ダンプティの被害者とそうでない人間の見分け方、でしたね。それはとても簡単です。方法はふたつあるのですが、ひとつは、健全者には見られない特殊な脳波が被害者の脳から検知されるようになるということです』

『特殊な脳波、ですか? それは、人体に悪い影響は無いのですか』

『核爆弾の爆心地にされてしまう時点で既に悪影響でしょうが、辛うじてそれ以外に悪影響を及ぼすことはありません。まあ、ハンプティ・ダンプティも役割的に、被害者が健全者らしく見えるように忍び込まなくてはいけない訳ですからね。この情報に虚偽は無いと断言してもよいでしょう』

『なるほど。しかし、脳波となると一般の方が被害にあった方を見分けるのは難しそうですね』

『はい。そこで、ふたつめの見分け方になりますが、ふたつめは秒針音です』

『秒針音というと、時計の針の音ということですか?』

『そうです。時限爆弾のように、カチカチとね。ピンを付けられた人間の体内から、僅かながら音が聞こえてくるのですよ。勿論、本当に身体の中で時計が鳴っている訳じゃなく、それっぽい音をどこかの器官が鳴るようになるだけなんでしょうけれど』

『詳しい情報が得られていない現状では何というかとても奇妙で不気味な現象ですが……しかし、それは我々一般市民でも分かりやすいですね。つまり、被害者の疑いがある人の身体の中から、時計の針の音が聞こえてくるか確かめればよいのですね?』

『そういうことです。ですが、それをする必要も無いでしょう。アメリカの同研究センターから、日本警察と自衛隊に、ハンプティ・ダンプティの付けたピンをセンサーで識別・感知することができる検知器が支給されていますから。現在各地域への配布が行われており、今日の午前中には、対象地域への配布が完了する見込みで──』


 テレビの映像がスタジオから話題にされている検知器とやらの現物の写真に切り替わったところで、俺と母は画面から視線を外す。


「ハンプティ・ダンプティねえ……爆弾そのものじゃないにしても、何か危なっかしくて嫌ね」

「まあ、今日から捜索が始まるみたいだし、すぐに騒動も治まるんじゃないかな」


 食べ終えた朝食の皿と苺ヨーグルトのカップを積み重ねて流し台に置き、それと引き換えるように母から今日の弁当が入った包みを受け取る。


「じゃあ、そろそろ行くかな」

「急がないと電車に乗り遅れるわよ」

「余裕余裕」


 余裕とは言ったが、正直そんなことは全くない。寝坊のうえ、テレビに少し時間を取られすぎてしまった。おのれ、ハンプティ・ダンプティめ。

 手持ちの鞄を肩に背負い、ダイニングから玄関へと向かう。

 俺は慎重な男なので、出発前の所持品確認を欠かさない。

 鞄、よし。教科書とかは一切入ってないが、中身は全て机の中にあるから、問題なし。制服の胸ポケット、名札よし。右ポケットの中、自転車の鍵よし。定期券もよし。

 左ポケット、携帯よし。やる気はないが、それはいつも通りだ。


「よし。大丈夫そうだな」


 ドアノブを捻り、扉を開ける。風鈴みたいに吊るしたドアベルが、カランコロンと鳴った。

「行ってきます」


 *


「おっ。社長出勤の宗次郎むねじろう様がおいでなすった」

 教室の戸を息切れしながら開けると、窓際の俺の机で頬杖をついた男、岸折 舟(きしおり しゅう)が振り向いてにやりと笑い、俺の名を呼んだ。俺は彼の言い方に少しムッとしながら、音を立てて椅子に座る。

「ムネジロウじゃない、ソウジロウだ」

「今日も遅刻ギリギリとは懲りないな。愛しの土星に見惚れて寝不足かな? 宗次郎むねじろう君は」


 人の名前で遊んではいけないと親に教わらなかったのか、この男は。……ん? 土星?


「土星って、何の話だ?」

「は? 昨日、土星を見に行くとかって言ってなかったかお前?」

 岸折の問い掛けを聞いた瞬間、俺の頭の中で昨日の一日の出来事がホラーサスペンスのヒロインが見るフラッシュバックの如く蘇った。

 テーブルに並んだいつもの朝食。その傍らテレビに映る天気予報は、俺達の住む街を月と星が寄り添ったマークで飾っている。電車に立ち乗りしながら開いたスマホに映る、国立天文台の公式サイト。ああ、そうだ。昨日の晩は確か、土星が綺麗に見える日だったんだ。

 それから電車を降りて足早に駅を抜け、玄関で靴を履き替えて教室の戸に指を掛ける。手をひらひらと振る、眠そうな岸折。そこで俺は、土星を見に行くと言って「またか」と呆れられた。

 それから土星を見に、見晴らしの良い裏山へと望遠鏡を担いで行った俺は……土星と、大粒の星を見て、それから……ん?

駄目だ。この辺りから当時の眠気のせいか、ガッツリと記憶が抜けている。

「ああー……そういえば、見に行ったな。見に行ってたわ」

「おいおい、自分の事だろ。記憶喪失が最近のトレンドなのか?」

「んな訳あるか」

「じゃあお前、現社で今日締め切りの課題が出されていたこと、ちゃんと覚えてるか?」

「は?」

 こんなに反射的に喉から「は?」が出たのは初めてだった。何故なら、現代社会の担当をしている教師がゴリラ……じゃなくて、鬼の松村だからだ。後はもう解説なんて不要だろう。つまるところ、このまま俺が白紙の課題をゴリ村……じゃなくて、松村に見せようものなら、俺は秒でボロ雑巾にされるに違いない。


「おいおいやめろよ、冗談はヨシコさんだぞ」

「残念ながらヨシコさんじゃねえよ。ほらな。やっとかないと後が怖いぞー。拳骨が飛ぶか、資料集が飛ぶか……」

「すまん、俺の最近のトレンドは記憶喪失なんだ。岸折、今すぐ課題を見せてくれ」

「いや、俺もさっきまで課題の事忘れてたからやってないぞ」

「よし死んでくれ」

 俺は、今週一深い溜め息を吐いて、頬杖をついて窓の外を呆然と眺めた。

 キーン、と朝練に励む野球バカ達のノック音が、二階の教室の俺の耳まで届くのを聞いていると、何だか平日の朝って感じだ。俺達の心がお通夜気分な点を除けば。

「そういえば、サッキーがまだ来てないな」

「サッキー?」

「とぼけるなよ、お前の愛しのジュリエット、藤枝 咲のことだよ」

「……じゃあ俺がロミオってか?」

「他に誰がロミオなんだよ。お前らお二人さん、恋人同士なんだろ?」

 岸折は、ニヤニヤとおちょくるような笑みをこちらに向けて言った。現社の課題を忘れてボロ雑巾確定のくせに、暢気な奴だ。

「恋人同士、って……。冗談でもやめてくれよ」

「はあ? 可愛くてスタイル抜群で成績優秀、おまけに保健委員の藤枝 咲のどこがご不満なんだよ」

「保健委員は関係ない……いや、そうじゃなくて。俺が不満なんじゃねえよ。その恋人ごっことかいう罰ゲームに付き合わされてる藤枝に悪いからやめろって言ってんだよ」

「いやあ何つーか……相変わらず紳士だねえ、宗次郎むねじろう君は」

「ソウジロウだ」

 岸折の話す通り、俺と藤枝 咲は先日パーリーピーポーなクラスメイトが考案したしょうもない遊びの、これまたしょうもない罰ゲームのお陰で、一週間付き合うことになっている。

 昨日から始まったので、恋人期間は残り六日。岸折の言うように藤枝 咲は才色兼備で容姿端麗、性格まで良いときたものだから、そんな彼女の相手になった俺としては、クラスメイトにからかわれる点と彼女と気不味い空気になる点さえ除けば確かに役得な訳だが、藤枝の気持ちを考えると、役得などとはとても口にできない。

「まあ、どうせ一週間限りの罰ゲームなんだし楽しめよ。役得じゃん、今なら流れでハグとかあれやこれや……」

「何が『あれやこれや』なの?」

 急に頭上から声を掛けられて、俺と岸折は頬杖に乗せた顎を浮かせて、声のした方を振り返った。

「なんだ、トモちんじゃん。おっす」

「その呼び方やめてよ、なんか恥ずかしいから」

「じゃあ、ちんトモ?」

「いや、入れ替えんなし」

「ごめんな、岸折こいつ馬鹿なんだ」

 俺達に声を掛けたのは、学校指定のセーラー服にグレーのコートを羽織った、クラスメイトの大瀬 友香だった。年中マスク着用を欠かさない系パリピ女子の筆頭であり、藤枝の幼馴染みでもある。ちなみに、件の恋人ごっこの罰ゲーム考案者だ。お分りいただけただろうか。こいつも岸折と同様に、厄介な思考回路で脳が構成されているタイプのクラスメイトなのである。

「それで、さっきまで何の話をしてたの?」

「ああ、宗次郎が藤枝をあれやこれやしたいって話だよ」

「ええ……。名切君。君って奴は意外と大胆なんだねえ……まあ、短期間の彼氏体験だから気が逸るのはお姉さんわかるけどさ」

「いやいや、待て。俺は無罪だ。だからそんな、乾いた笑いと共にゴミを見るような目を俺に向けるな」

「無罪、無罪って。犯罪者は皆そう言うんだぜ、宗次郎むねじろうさんよぉ」

「うるさい、犯罪者はお前だ。なあ、大瀬。やっぱりあの罰ゲームは無かったことにしないか?」

「えっ、何で? 名切君からしたら役得じゃん」

 ……こいつら、頭の中に同じ脳みそでも収容されてるのか?

「いや、俺は確かに役得かもしれないけどさ──」

 俺が反論しようとしたのに少し遅れて、教室の戸が音を立てて開かれた。

 それに続けて教室に入ってきたのは、藤枝だった。急いで来たのか、藤枝は肩を僅かに上下に揺らして呼吸を落ち着けているようだった。制服の襟はリュックの肩紐に巻き込まれて乱れ、その隙間から覗く首筋に汗が伝っていた。

「あ、咲だ」

「ロミオの次は、ジュリエットも遅めの登場だな」

「だからそのロミジュリやめろって……うおっ!?」

 手でパタパタと首元を扇ぎながら席に着く藤枝を何気無く見ていた俺の背中を、何者かが力強く突き飛ばした。振り返ると、悪意に満ちた笑みを浮かべた岸折が両手を広げてこちらに伸ばしていた。前のめりになった俺は、咄嗟に前に出した右足で強く踏ん張り、二歩目・三歩目で体勢を整える。

「お、とっと……! おい、岸折! いきなり危ねえじゃねえか──」

 岸折に文句を言おうと顔を上げると、こちらを向いていた藤枝と目が合った。藤枝も予想外の出来事だったのか、ただじっとこちらを見ていた。

「よ、よう」

「あ……う、うん。おはよう、名切君」

「「……」」

 ほらな、こういう気不味い空気になるから罰ゲームなんて嫌だったんだよ!

「あのさ、藤枝。この間の罰ゲームの事だけどさ……」

「おーい、サッキー。おーはよー!」

「わあっ!?」

 俺の目の前を横切って、クラスメイトの女子が助走をつけて藤枝に抱きついた。藤枝は抱きついてきたクラスメイト千秋の両肩に手を置き軽く引き剥がす。

「あのー」

「もー、千秋暑いってば。おはよ」

「でへへ、今日のサッキーは、一段といい匂いがするねー!」

「ふふ、発言がオッサンだから」

「なあ、この間の……」

 駄目だこりゃ、完全に千秋のターンになってしまった。

 やれやれ。項垂れて岸折達の元へ一度戻ろうと藤枝に背を向けた瞬間、再び教室の戸がガラガラと開かれた。

 現れたのは、担任の石田だった。

 石田は、現れるや否や、くたくたのコートのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手でボサボサの髪を掻き混ぜている。視覚でも分かるダメ教師だ。

「おーい、お前ら。急遽で悪いが、体育館に集合な。一時限目の現社は中止で、全校集会すっから」

 石田がそう言うと、歓声や溜め息が混じったどよめきが、教室内で一斉に沸き起こる。そんな中、現社の課題を忘れていた岸折の「いよぉぉぉぉぉっし!!」という感極まった喜びの声が教室中に響き渡った。 周りが引いているぞ、やめとけ岸折。そうツッコみつつも内心ガッツポーズをとる俺なのだが。

 すると、一人の生真面目なクラスメイトが石田に「何の集会なんですか?」と問うと、石田は目線を宙で泳がせ、面倒そうに話し始めた。

「あー……ハンプティ・ダンプティっていう爆弾がこの街に逃げてきたのって、お前ら知ってるよな? あれの説明と、このくらい危ない事ですよーって話を、警察の方がしに来てくれるから。それと最後に、ハンプティ・ダンプティの検査を全校生徒対象でやるぞー……あっ。ついでに抜き打ちで頭髪服装検査もやりまーす。以上」

 石田は騒めきが治まっていない教室を後にするが、何かを思い出したように石田が後ろ歩きで教室の前に再び姿を現して言った。

「あ、そうそう。現社のゴリ……じゃなかった。松村先生が、昼休みに課題を回収するってさ。係の人はよろしくー」

 石田の最後の一言で、一部の歓声が全て悲痛の叫びに変わる。俺のガッツポーズも心の中でゆっくりと腕を下ろした。一方、岸折は顔が死んでいた。

「ねえ、名切君」

 騒めく教室の隙間から、藤枝が俺の制服の裾を引っ張る。振り返ると、十人中十人があざといと答えそうな悪戯な笑みを浮かべて、此方の目を覗き込んできて一言だけ告げた。

「集会、サボって抜け出しちゃおっか」

 普段から優等生している藤枝からそんな提案をされるだなんて、らしくないなと思った。

 らしくないなと思う反面、そんな彼女の気まぐれにお供できる現状を嬉しく思えた俺は、腕を引かれるまま教室を後にした。

「……あれ、宗次郎とサッキーは?」

「さあ。初デートにでも行ったんじゃないの?」

この時にもっと早く、気付くべきだったのだ。


 ──今日の彼女はどこか、らしくないと。


 *


 俺は、藤枝 咲のことが好きだ。友人として、クラスメイトとして、異性として、人間として、今まで見てきたこの世の物の中の、あるひとつとして。

 好きになった瞬間はいつのどの場面かと誰かに聞かれると、正直これだというものが無いし、或いはこれじゃないというものが無い。

 ただ、才色兼備と誤認識されてしまうほどに馬鹿真面目に努力するところとか、自分が人に向ける悪意は決して許さないくせに、人が自分に向ける悪意は笑って許すところとか、自分が笑われることは許すくせに、誰かが笑われているのは決して許さないところとか。そういうお人好しまっしぐらで人間臭さのあるところが、総じて好きなんだと思う。そういう彼女の彼女らしさを見た時に俺は、藤枝の事を綺麗だと思っていた。


 そう。ただ、そう思っていた。そうして藤枝 咲に対する憧れはや好意という感情は、何もない場所を独り歩きしはじめ、やがて何もないだけの今に至っていた。


 ただ、眩しい月として。ただ、高嶺の花として。


 手を伸ばしさえしなかった為に、何ひとつ道が交差することも、たがうことすらなく。


 *


「お待たせ」

 晴天。窓から射し込む陽射しが照らす木板のテーブルに、ホイップ盛りまくりのコーヒー飲料を乗せたプレートが置かれた。

「はい。名切君の分」

「あ、うん……というか、何でまたこんなところに?」

 俺は、改めて周囲を見渡す。統一感のある庶民的で且つシックな内装。等間隔にびっしりと並べられたテーブル。コーヒー豆が詰められた瓶のオブジェクトに、新メニューがイラスト付きで描かれた立て掛けのボード。そこは、商店街の中にある喫茶店で違いなかった。

 目の前で相席した藤枝 咲がフラペチーノを飲んでいることと、今が平日の朝であることを除けば、至って普通の喫茶店だ。

 俺は、先程適当に頼んだ飲み物に口をつけてから、藤枝の方をチラリと見る。

 藤枝はカップの中で渦巻いたホイップをストローで掻き混ぜて落ち着かない様子だ。そして藤枝の丁度後ろ奥では、制服姿の若い店員がガラス張りの外側で脚立の上に立ち、丁寧に窓拭きに勤しんでいた。

 藤枝は、学校を抜け出したことについて悪びれもない風だ。一体どういうつもりなんだろうか……?

「わっ。ほんとに苺のソースが盛り沢山だ! 私、これ結構好きかも」

「ああ、それはよかったな……それで藤枝。これは一体、どういう状況なんだ?」

「”これ”ってどれのこと?」

「学校を抜け出して喫茶店に居ることについてだよ」

「だって名切君、今日の現社の課題忘れたんでしょう?」

「聞いてたのか。……え? まさか、それだけのために抜け出したの?」

「ふふ。私、名切君の彼女だもの」

「ああー……彼女、ね」

 俺は溜息が出そうになるが、それをなんとか抑える。

「罰ゲームのことなんだけどさ、やっぱりアレ、やめにしないか?」

「え、どうして?名切君ってもしかして、好きな子とかいたりするの?」

「いや、いないっていうか……そういうことじゃなくてさ。俺は、藤枝が──」

『ハンプティ・ダンプティの騒動が公表されてから、およそ半日が経とうとしています。被害者の捜索は、依然として進展のない状況が続いています──』

 それは、店内の隅の方のテーブルの、スマホからだった。ネット配信の番組だろうか。実は店に入った時からずっと聞こえていながら敢えて聞こえないものとしていたのだが、朝方に散々聞いてきたばかりの不穏なワードに、思わず俺は言葉を噤んだ。

 スマホの中で、進行役のニュースキャスターの話が続いている。

「見たら寄生される、ね……見たらそりゃあ大事になるんだろうけど、どんな物なのか一度見てみたいよな。実際に見た人からしたら、不謹慎極まりないんだけど……」

 ……いやいや。いくら話を再開しづらかったからって、この話題は流石にちょっとなかったな。

 そんな後悔の念に浸っている時だった。突然、藤枝が机に両手をついて、勢いよく立ち上がった。椅子が思わず倒れるほどの勢いだった。立ち上がった彼女の瞳は、これまでにないほど真っ直ぐに真剣な眼差しで、俺を見ていた。

「……藤枝?」

「名切君。あのね。私、本当は……!」

 この時、俺の藤枝を見上げていた視線が、ある別の物を捉えた。

 藤枝の後方、ガラス窓の向こう。先程まで窓を拭いていた店員の男の肢体が、ぐにゃりと身を捩るように湾曲していた。男は店から退くように重心が後ろに傾き、男の使っていた背丈の高い脚立は、男と真逆の方向にドミノのように傾く。

 まさに今、男が脚立から足を踏み外し、今にも転落しようとしているこの状況を、俺の視覚が瞬時に把握したところで、俺は次に起こりうる事を、それが起きると同時に察知し、席を立った。

「藤枝、危ない!!」

「えっ?」

 脚立とガラス窓が触れた瞬間、ガラス全面が蜘蛛の巣状にひび割れ、悲鳴のような音を立てながら勢いよく砕け散り、藤枝へと向かって飛来した。藤枝が気付いて振り向いていたら間に合わないと判断した俺は、咄嗟にテーブル越しに藤枝の両肩を抱き、そのまま右方へと力の限り飛び退いた。

 飛び退きながら、零点コンマ数秒前まで俺達が居たテーブル席を横目で振り返ると、そこには無数の星屑みたいなガラスの雨が降り注いでいた。

 背中を重力の働く方向へと捻らせ、何とか俺が下敷きになる形で俺と藤枝は板張りの床に打ち付けられた。

 くそ、予想以上に痛い。ハリウッド映画なんかじゃそうは見えなかった筈だが。

「いたた……っ、何? 何が起きたの?」

 ……いや、受けた衝撃以上に身体にダメージが入っているのはこの状況だ。こんなに藤枝と真正面から密着し続けていたら、心臓が高鳴りすぎて死にそうだ。今もこうして、倍速になった心臓の音が……。


 あれ?


「わっ、ガラスが割れてる! もしかして名切君、私を助けてくれたの……?」 

  藤枝が上半身だけ起き上がり、テーブル席を見ながら言った。

 ……いやいや、そうじゃない。そんな事は今どうでもいい。何だ、さっきのは。どうして、俺と藤枝の身体が密着した時──。


 ──藤枝の身体越しに、秒針の音が聞こえてきたんだ?

 

 カチ、カチと。

 それは時限爆弾のように時の経過を知らせているような音だった。紛れも無い秒針。身体の中で鳴るはずのない音。

『──はい。そこで、ふたつめの見分け方になりますが、ふたつめは秒針音です』

『秒針音というと、時計の針の音ということですか?』

『そうです。時限爆弾のように、カチカチとね。ピンを付けられた人間の体内から、僅かながら音が聞こえてくるのですよ』

 店内にスマホのスピーカーから流れる、ハンプティ・ダンプティの報道。ガラスが割れた直後で静寂に包まれた店の中で、それだけがよく聞こえていた。

 まさか……藤枝が? いやいや、そんなまさか。だってハンプティ・ダンプティは一人しか被害者が出ないって話の筈だろ。確率的にも、まさか目の前の藤枝がよりによって寄生される筈がない。それに、この町に何人の人間が居ると思っているんだ。この町の総人口数は……くそ。タイミングよくそのニュースを流すなよ。勘違いだと思えなくなったじゃないか。

 そういえば。藤枝の奴、ガラスが割れる直前に、スマホから流れるハンプティ・ダンプティの報道を聞いた瞬間、自分が本当はどうとか言いかけていたような気がする。もしかして藤枝は、この事を俺に伝える為にカフェに誘ったのか……?

 藤枝の顔を見る。彼女は、焦りや困惑の混じった表情を浮かべてこちらを見つめていた。

 ……ああ、そうか。藤枝も、俺の戸惑い方を見て、気付いたのか。俺が、藤枝の隠している秘密に気付いてしまったんだって。藤枝が今、この国に脅威を呼び寄せてしまう存在だと俺が知ってしまったんだって。

「名切君、ごめんなさい。でも私、大丈夫だから……だから、気にしないで?」

 藤枝は涙を目に浮かべながら。しかしにこりと笑って、そう言った。

「作り笑いが下手だな。何でもこなせちまう藤枝らしくもない」

「名切君……?」

「苦しそうに笑うくらいなら、『助けて』って言え」

 俺は立ち上がると座り込んだままの藤枝の腕を引き上げた。

「本物の恋人じゃなくても、それくらい『イエス』で返してやる」

 そして、藤枝の手を引いたまま、俺は喫茶店の外、アーケード街へと飛び出した。

「ちょっと、名切君!?」

「朝に、ニュースで言っていた。今日、この町で自衛隊と警察がハンプティ・ダンプティの被害者の捜索を始めるらしい。このまま藤枝がこの町に留まっていたら、いずれ捕まることになる!」

「でも、名切君! 駄目だよ、だって貴方は……!」

「言っただろ。お前の本物の恋人じゃなくても、関係ない。兄弟じゃなくても、家族じゃなくても、関係ない!」

「でも……!」

「藤枝!!」

 俺は走る足を止め、藤枝の方を向き直る。そして、藤枝の両肩に手を置いた。

「ここにいちゃ駄目だ、逃げよう!」

「……名切君」

「行こう。できるだけ遠くに、逃げるんだ」


 ▽────▼────▽────▼


 *読み切りはここまでになります。続きは4月にBOOTHでサークル『月曜放課後炭酸ジュース』から発売する画集『ハンプティダンプティは眠らない』にてお楽しみください!*

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