ゴースト・メランコリヰ

九泉

ある男の回想

 これは今から十年ほど前、僕が大学生だった頃の話だ。


 予め断っておくと、これは僕がなにかを成し遂げたとか、恋が成就したとか、積年の恨みを晴らしたとか、そういったドラマティックで、のある話じゃない。僕としては面白い経験をしたと思っているけれど、その経験が今の僕を形作っている……ということもない。こういうことがあった、ただそれだけの話だ。それでもよければ聞いてほしい。

 

  *

 

 受験戦争を乗り越え、遠方の大学になんとか合格した僕は、とある木造アパートの一室を借りた。

 実家はあまり裕福な方ではなかったので、親からの仕送りは期待できなかった。だから奨学金と、決して高いとは言えない賃金のアルバイトでなんとか生活していた。そんな貧乏学生の僕なので、借りた部屋は当然それ相応だった。


 トイレは共同、廊下や床は歩くたびに悲鳴のような音を立てるし、立て付けの悪い窓やサッシは開けるのにかなりの力が必要で、隣室との壁はベニヤ板みたいにペラペラだ。しかし一万五千円という破格の値段で借りているのだから贅沢は言えないだろう。

 とはいえ屋根も壁もあるし、膝を抱えないと入れないがお風呂だってある。ちゃんとお湯も出た。トイレが共同なのにお風呂がついているのは違和感を覚えたが、そのことに不満は無いし、なにかと都合も良い。それに僕は不動産に詳しいわけでもないから、そういうこともあるのだろうと気にしないことにした。

 もともと、住環境にこだわりの無い僕だ。『住めば都』という言葉の通り、それなりに快適な部屋となる予感はしていた。


 ただ一点――その部屋には僕以外の住人がいた、という点を除いては。

 

 新居生活、最初の夜。ようやっと引っ越しの片付けを終えた僕は、スーパーで買った発泡酒ではないビール(普段は絶対に買わない)と助六寿司。それから肉をたっぷり使った自作の野菜炒めで、新生活に向けたささやかな祝杯をあげようとしていた。


 醤油を小皿に注ぎ、ビール缶のプルタブを開けたその時、ふと視線を感じ顔を上げた。直後。僕の悲鳴とともに、肉野菜炒めと二百五十円のビールは無残にも床にぶち撒けられることとなった。

 今でもあの時ほど驚いたことはない――ひっくり返ったちゃぶ台の向こう、部屋の隅に、女性が座っていたんだ。


 若い女性だった。整った顔立ちをしているようだが、その表情は長い黒髪に隠れてよく見えなかった。

 女性は白を基調とした小奇麗な格好をしており、袖口から覗く肌も異様に青白かった。

 僕は目を閉じ、眉間を強めに揉み、また開いた。


 ――やはり、いる。


 僕は小さく息を呑み、再び目を閉じた。

 いくらボロアパートとは言え、流石に鍵はかかる。加えて引っ越しの作業をしている間、僕は押し入れやお風呂を含め部屋中を動き回ったが、誰にも出会うことはなかった。単身アパートなのだから当然だ。

 それにちょっと歩いただけでギイギイ床が軋むこの部屋で、僕に気付かれずに移動するなんて不可能だ。

 そういったことを一つ一つ頭の中で潰していき、出た結論はやはり「ここに自分以外の人間がいるはずはない」だった。

 そう、「」だ。

 

 結論から言うと、彼女は幽霊だった。僕の頭がおかしくなったのでなければ、たぶん。

 

  *

 

 衝撃的な出会いを経て以来、彼女は部屋の隅の定位置から微動だにせず居座り続けた。

 これといって大きな実害はなかった。動き回ったり、ラップ音を立てたり、「うらめしや~」と囁くことも無い。体調が悪くなることもないし、妙に不運が続くという実感もなかった。ただぼんやりと物憂げにこちらを見つめてくるだけだ。

 鈍感な性格をしていると人からよく言われる僕だ。僕は次第に彼女が部屋にいることに慣れてしまった。

 

 もちろん、実害がないと確信があったわけではない。今まではそうでも、ある晩突然首を締められるかもしれない。だから僕は、はじめのうちはお引き取り願おうと色々やってみた。塩を盛ってみたり、高校の修学旅行で買ったお札を貼ってみたり、十字架を割り箸で作ったり……。でも効果はなかった。除霊の専門家に依頼するか、もしくは精神科医に診てもらえば良いのかもしれないが、家賃一万五千円のボロアパートに暮らす僕に、そんなお金があるはずもない。

 かといってようやく見つけた破格の物件だ。手放すのは惜しかったし、親にも心配をかけたくなかった。最終的に僕は、諦めという名の現状維持を選んだのだった。

 

 ところで彼女は、一般的な「幽霊」のイメージとは違っていた。額に三角の布はつけてないし、洋服を着ているし、脚だってある。でも触れようとすると霧みたいに通り抜けてしまい、全身もなんだかおぼろげに滲んでいる。

 何度か意思疎通を試みたこともある。

「君は僕の部屋でなにがしたいの?」

 彼女は黙って視線を返すだけだった。

 それでも、いつか反応してくれるかもしれない。そう思って、簡単な挨拶だけは続けてみることにした。

「おやすみ」、「おはよう」、「いってきます」、「ただいま」

 彼女との会話はそれだけ。いや、僕が一方的に告げているだけだから、会話ですらなかった。

 幸いといってはなんだけど、僕に恋人はいなかった。それどころか友人も、知人レベルですら危うかった。

 だから僕以外この部屋に訪れる人なんていなかったし、彼女に話しかける僕の姿を見られることもない。あまり人に知られたくない趣味もあるし、人と関わらないのはかえって好都合だった。

 

 一度だけ、ゼミの飲み会があるとかで、人の好さそうな男子学生が声を掛けてきたことがあった。こんな訳の分からない状況をこれ以上混乱させたくなかったけれど、適当な嘘ではぐらかすのもなんだか申し訳ないし……などと葛藤していたら、思わずぽろりとこぼしてしまった。

「ごめん……僕、憑かれてるんだ」

「そっか。毎日バイトで大変そうだもんな。こっちこそ、かえって悪かった」

 彼は申し訳なさそうに去っていった。

 

  *

 

 目が覚めて、彼女に「おはよう」と言う。「いってきます」と家を出て、大学、そしてアルバイト。「ただいま」と玄関を開け、「おやすみ」と告げて目を閉じる。

 そんな生活を続けているうちに、季節は移り変わり、僕も少しだけ大人になっていた。気付けばこの奇妙な同居生活も、まもなく四年になるところだった。

 地元で就職を決めた僕は、このアパートを離れることになっていた。

「君はこれから、どうするの」

 久しぶりに挨拶以外の言葉を投げてみた。

「僕はもうすぐ、この部屋を出るんだけど」

 告げた途端、小刻みに震えだしたかと思うと、目を見開いて僕を見た。なんだかひどく驚いているようだ。

 僕も彼女の急激な変化に驚いたが、しかし、さらに言葉を続けた。

「……良かったら、一緒に来るかい?」

 思い切って問いかけてみた僕だが、彼女はふるふると力なく首を振った、ように見えた。実際は微動だにしていなかった。文字通り、そこまでの力は彼女には無いのだろう。

「そうか。なんだか残念だよ」

 彼女と別れるのは本当に残念だった。でも、こんなものなんだ、とも思った。人間も、それから幽霊も。

 

  *

 

 それから少しあとのこと。最後まで物憂げに僕を見つめる視線を尻目に、僕は四年間お世話になったアパートの扉を閉めた。

 以来、彼女とは一度も遭遇していない。

 彼女は今でもあの部屋にいるのだろうか。それとも、もう諦めて成仏したのだろうか。


 なんにせよ、これでこの話は終わりだ。聞いてくれた君がどう思うかわからないけれど、僕にとっては非常に得難い経験だったと思う。

 それ以降も僕は何度か、彼女との遭遇を再現することを試みたんだ。を焼いてビールを開けるところまで繰り返したんだけど、上手くはいかなかった。

 後にも先にも、あんな面白い経験は彼女だけだったんだ。


 自分が殺した相手が化けて出る、なんてことはね。


 でもね。今までは上手くいかなくても、今日は違うかもしれない。

 ……なんだかんだ言って、僕はあの生活が気に入っていたのかもしれないな。おかしな話だけど、未練があるのかな。

 だから、今日こそ成功すると信じて、また試してみようと思うんだ。

 ねえ。君は、僕の部屋に出てきてくれるかな?



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