桜花一片に願いを

戸松秋茄子

本編

 兄貴は満開の桜並木をゆっくりと歩いてきた。


「やあ」


 兄貴はまるで俺を出迎えるみたいに言った。ここは兄貴の大学の構内。正門から何百メートルと伸びる桜並木が有名らしい。この季節は一般にも開放されるらしく、家族連れやカップルの姿が目立った。


「案内するよ」


 兄貴は言った。俺は黙ってそれに従う。お互い「久しぶり」の一言もない。舞い散る桜に感嘆の言葉を漏らすだけ。


 だけど俺にはわかっている。これから俺はもっと大事なことを聞かされるって。


   ※※※ ※※※


 病室で桜の花びらを見つけたのは、美也と喧嘩した直後のことだった。


 割り当てられたベッドの足元に、桜の花びらが一枚落ちている。換気した際、風で舞い込んだのか、それとも見舞客の靴の裏にでもへばりついていたのか。どちらにしろ、こんなところで今年はじめての桜を見ることになるとは思わなかった。


 高校三年の秋、俺は突如として体調を崩し入院することになった。伝えられた病状は、いわゆる難病で、命を懸けた大手術をして治るかどうかと言われるようなものだった。


「きっと治るよ」と美也は言った。


 俺にはその能天気さが我慢できなかった。だってそうだろう。こっちは死ぬか生きるかの瀬戸際だってのに。


「治るなんてどうしてわかるんだよ」俺は思わず言った。「他人事だと思って適当に言ってるんだろ」


「そんな……わたしは亮ちゃんに元気になってほしくて……」


「お前だってわかってるだろう。俺は治らない。兄貴と同じだ。手術に失敗して死ぬんだ」


 俺には五つ上の兄貴がいた。だが、東京の大学に進学して間もなく病魔に倒れた。俺が受ける予定の手術と同じ手術を受けたが、失敗してそのまま息を引き取った。


 俺と兄貴は全然似てない。兄貴は何をやらせても優秀だったが、俺はその点てんでダメ。勉強でも習い事でも、親を失望させ続けている。なのに、病気だけはしっかり兄貴と同じものを受け継いでしまった。


「亮ちゃんは自分が治るわけないって思ってるんだ」


「ああそうさ」


「どうして治る可能性に目を向けないの。亮ちゃんの人生はこれから先ずっと続いていく可能性だってあるんだよ」


「続かなかったらどうする。そんなのみじめなだけだ」


 議論は平行線になった。結局、俺たちは互いに譲らず、面会時間が終わった。俺は病室に戻り、そこで桜の花びらを発見した。


 桜の花びらは俺に不思議な感慨をもたらした。咲いたと思ったら儚く散る。その生きざまが俺と似てるように感じたんだ。俺は花びらをそのままパジャマのポケットに突っ込んだ。どうするつもりだったのかはわからない。もしかしたら、俺の最期を見届けてほしかったのかもしれない。大手術はもう三日後に迫っていたから。


   ※※※ ※※※


 桜並木はどこまでも続いていた。まるで永遠に校舎にたどり着けないんじゃないかってくらいに。


「なあ、兄貴」


「なんだ」


「俺、死んだのか」


「なぜそう思う」


「だってこれお迎えってやつなんだろう。きっと俺は手術に失敗して死んだんだ」


「そうとは限らないんじゃないか。ほら、よく言うだろう。死にかけた人間が死者と再会して帰ってくる。いわゆる臨死体験だ」


「どのみち死にかけの状態ってことだろ」俺は言った。「なあ。兄貴。俺はもういいんだ。どうせ兄貴みたいに優秀にはなれないし」


「そんなことを気にしてたのか」


「気にするさ」


「しかしお前だってまさか本当に未練がないわけじゃないだろう。たとえば美也ちゃんとのことはどうなる。喧嘩別れしたままでいいのか」


「それは……」


「ほらな。お前の覚悟なんてそんなもんだ。死を舐めるなよ。俺だっていまだに未練たらたらなんだから」


「そういうものか」


「そういうものだ」兄貴は言った。「だからお前は帰りなさい。帰って、美也ちゃんと仲直りするんだ。それと来年また受験生としてやり直せ」


 俺はため息をついた。


「生きるって大変だな」


「ああ、そうさ。でも善きものだ。それは無条件に肯定されるべきだと思う」


 瞬間、強い風が吹いて花びらを巻き上げた。薄桃色の風が去っていくのを見送りながら、俺はある決意を固めた。


「じゃあ、兄貴。俺帰るよ」


「ああ。美也ちゃんによろしくな」


「伝えておく」


 そうして、俺は桜並木を引き返しはじめた。目の前で、大学の正門がいましも閉まろうとしている。俺は走った。体の不具合なんて忘れて、全力で走った。すぐに心臓が悲鳴を上げはじめ、全身から汗が噴き出した。それでも走った。


 門が徐々に閉じていく。間に合わない――そう思った瞬間、ポケットから桜の花びらが零れ落ちた。手術室までこっそり持ち込んだものだ。花びらはどういうわけか門に向かって飛んでいき、やがて、他の花びらを集めて巨大な花びらの形を形成した。巨大な花びらはそのまま門が閉まるのを防ぐようにして空中に浮かび続けている。俺は門の前まで来ると、その隙間に飛び込んだ。門の先には光が満ちていて――それから、俺は目を覚ました。


   ※※※ ※※※


 一年後、俺は地元の大学に進学した。兄貴の大学とは比べようもない、無名の学校だった。桜並木も正門からちょろっと伸びる程度。いつか見た兄貴の大学には遠く及ばない。それでも、俺が自分で選んで決めた学校だった。


 桜舞い散る中、俺はサークル勧誘の波をしのぎながら大学の構内を歩いている。


「そこの君。スキーサークルに入りませんか」


 横からビラを差し出される。ふと、そちらを見やると、勧誘する先輩と目が合った。


「美也」


「待ってたよ。亮ちゃん」美也は言った。


「ああ、ありがとう」


「スキー興味ある?」


「そうだな。考えておく」


 俺はビラを手にふたたび歩きはじめた。儚い薄桃色の花弁が降りしきる中をゆっくりと歩いていく。

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