第23話 樹海

 

 見渡す限りの草原の中に人工的な整備をされた一角がある。


 緑の芝生で形成された、長辺105メートル短辺68メートルの長方形だ。芝の刈り込み方法に由来するグラデーションがその日の僕の気分によって付けられている。最近では面倒くさくて一面単調な緑にしていることも多いが、俯瞰で眺める必要があるときは縞や同心円の模様がある方が見目麗しいというものだ。


 本日のピッチは縞模様、新しい攻撃の形をひとつ勉強しようと思っているからだ。僕は上空5メートルほどの位置に浮かんで文字通り“鳥の目”で全体を見る。動画サイトの再生ボタンを押すような感覚で世界に時間の進行を与えると、僕の意図通りにピッチ上に配置されたサッカー選手たちがあるプレイを再現するのだ。


 全体を眺め、ある程度の理解を得ると、気になる何名かの個人的な動きをゆっくり見たり、近くで見たり、ある時点からの再生を何度も繰り返し見たりする。そして僕は実際にその者に成り代わってプレイをし、イメージの自分と実際の自分の差をどうにか埋めようと努力したりする。


 いかんともしがたい差が歴然とあるけれど、少しずつなら僕は上達しているかもしれない。


 多少上手になったトラップ技術でコントロールしたボールに向かって左足を踏み込み、右足アウトフロントを使ってやや曲がりながらゴールに向かうシュートを放つ。意図した場所で意図した部分を蹴られたボールは僕の思い通りの軌道を描くかと思われたが、インパクトがわずかに芯を外れていたらしい。ゴールバーのわずか上を通ったボールはそのままどこかへ飛んでいった。


 新しい技術は一朝一夕には身につかないものである。僕は自分にパスが送られてくる少し前の段階まで時を戻すと、再びトラップからシュートの流れを試行した。今度のボールはゴールネットに突き刺さる。それと同時に僕は異物感に気づいたため、気持ちを切り替えて今あるすべてを消去した。


 異物感の正体は挑戦者の到着だ。僕には僕の仕事がある。


○○○


 神のようなものは爽やかな男性の姿をしていた。


「テンチョウさん?」


 僕は驚きの気持ちをそのまま言葉に乗せて訊く。『樹海』の中で彼に殺されたことも、彼から商品を盗んだこともあるあの人だ。自分がしてきた行為に後ろめたい気持ちが強すぎて、彼の目を見ることが難しい。


「こんにちは。“テン”の“オサ”と書いて天長テンチョウです。君から見たら神のようなものと思ってくれれば問題ないよ」


 まるで僕に対する悪意などないといった爽やかさで彼は言った。「もっとも、私も神様からしたらただの使いっぱしりだけどね。しがない中間管理職さ」


「あの、なんだかこれまですみませんでした」

「何が? 謝罪の意味がわからない」

「攻撃したり、その、店からものを盗んだり……ごめんなさい」

「ああ、いいんだよそんなのは。ルールの中で行われることに咎めはない」


 彼はあっけらかんとそう言った。「君にはここでしばらく案内役をしてもらう。その対価として願い事を何でもひとつ叶えてもらえる。知ってた?」


「知ってましたよ」

「何にするか考えた?」

「――考えました」


 僕はゆっくりそう言った。天長は軽く頷き、先を促す。僕は天長の目を見て言葉を続ける。


「ここで待ってる間にサッカーの勉強やトレーニングがしたい、それが僕の願いです。でも僕には知識も何もないから、図書館のようなものをひとつ用意してください。そこにはこれまでのサッカーの歴史、教本や映像やあらゆるものが満たされている。僕はそこから自分が欲しい情報を探せる。そしてここから解放されるときに、それまでの間に培った知識や技術、トレーニングした身体能力なんかを目覚める僕に還元して欲しい。これが具体的な内容です。できますか?」

「その質問に答えて欲しいというのが君の願い事?」

「違います。そういえば“何でもひとつ”と言ってましたね、やってください」

「やろう。――これは確認と興味のために訊くんだけど、ロナウドの肉体にメッシの技術が欲しいってわけじゃないんだね?」

「そんなものはいりません」

「ずいぶん回りくどいやり方だね?」

「ずいぶん回りくどいやり方ですね。でも、僕は僕なりに精一杯色々考えて、これ以上のものは思いつかなかったんです。僕には納得が必要で、できることなら、卑怯というか、ズルいことをサッカーに対してやりたくないから」

「なるほどね」


 天長は面白そうにそう言った。その仕草や言動はとても人間的で、この人がどういう存在なのか僕にはよくわからなくなる。だから僕は訊いてみた。


「結局あなたは一体何なんですか?」

「質問の意味がわからないね」


 無表情になった彼はそう言った。


○○○


 こうして僕は『樹海』で門番のような役目を負うことになった。ここは僕の世界と言っても過言ではなく、ルールの中で神のように振る舞うことが許される。あの爽やかな男もひとつ上の次元でそういう存在なのかもしれない。


 僕はこれまでにゾーンプレスの概念について学び、トータルフットボールの美しさを知った。カウンターサッカーやポゼッションサッカーと呼ばれる様々な戦術について理解を深め、サッカーに関する語彙も少しずつ豊富になってきている。


 ドリブルは相変わらず下手くそだ。たまに練習したり、トッププレイヤーの動きを真似したりもするけれど、暇つぶし以上の意味は大きくない。これはもうしょうがないことだと受け入れようと考えている。


 外の世界で誰かが『樹海』行きのバスに乗ると、それは異物感となって僕に伝わる。間もなく挑戦者が到着し、僕はそれを受け入れる。


 『樹海』は変わらず見渡す限りの草原だ。穏やかな風が吹き、背の高い草が揺れている。雲ひとつない青空は今にも落ちてきそうな印象を与える。文言により忠実な、密林のような形に変更しても良いのだけれど、僕はなんとなく由紀が用意した『樹海』のデザインをそのまま続けて使用している。


 やがて挑戦者が到着する。今日は若い男性だ。おそらくはじめての挑戦で、驚愕と警戒の入り混じった顔で僕を睨みつけている。


「こんにちは」と僕は彼に声をかけ、腕を伸ばして荷物を与える。袋のようなものと足踏みスイッチ、そして彼の名前が彫られたメダルだ。


 男は無言でそれを受け取る。そして僕に何か訊こうとするが、僕はすぐに姿を消し去る。質問に付き合ったら付き合っただけ時間が長くかかるだけだからだ。


 僕が消えた後には下り階段が出現しており、彼はやがてそこへ向かっていく。僕からは中の様子がわからない階段の先に進む背中に、僕は声には出さずに問いかける。


「お前は僕を解放してくれるのか?」


 僕は殺されるのを待っている。



  おしまい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

樹海 柴田尚弥 @jukai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る