第22話 クラック

 

 “行動”1回分の距離を残して僕は由紀と向かい合っていた。僕らの使用する広場のような区画の外には見渡す限りの草原が穏やかな風に吹かれている。いつも通り、これまでと変わらぬ風景だ。


 しかし、それもじきに終わる。僕は由紀を強く見つめる。服装や外見は変わっていないが、それまでの諦めにも似た自嘲気味な笑みは消え、怒りに目つきを鋭くしている。僕が挑発したからだ。


 怒った顔も魅力的だ。そんなことを考えていると、「本当にできるんでしょうね」と由紀は確認を取ってきた。怒ってはいるけど冷静だ。


「たぶんだけどね。何とかなるんじゃないかと思う」

「あんた、こんなことして負けたらタダじゃおかないからね」

「命がけで頑張るよ」


 僕は由紀にそう言った。


 まずは3分の1の賭けだ。今の位置から僕たちが隣接するにはどちらかが近づく必要がある。当然僕からは近づかないが、由紀が移動してくるとして、進路はまっすぐと両斜めの3種類が考えられる。


 由紀はどこを通って来るだろうか? 僕はそれほど大きな期待をせずに正面に向かって右手を振った。彼女は斜めに進路を取り、僕の右手は空を切る。


 僕たちは手を伸ばせば触れられる距離で対峙した。


「まさかだけど、空振りだから負けってわけじゃないでしょうね?」

「当たったら確率は上がったかもしれないけど、たぶん大丈夫だと思うよ」


 僕は由紀にそう言った。「むしろそのまま近づいてきてくれて良かった。そっちの方が重要だ」


「あたしの理論に穴があるってわけ? そして、あんたはそれに気づいたと?」

「そうだね、でも違う。ひょっとしたら由紀の理論は完璧なのかもしれないけれど、言うなら完璧すぎるんだ」


 由紀は眉間にしわを寄せ、納得いかない様子で首を傾げる。由紀は十分な実験と考察を重ねてきており、完璧に思える理論を構築している。それは完璧な勝利を目指すためのものであり、その完璧さはかえって彼女の行動を縛るのだ。


「先入観には気をつけるべきだね。僕はミスを簡単に犯す不安定な人間だ。僕の行動は同様に確からしいとは限らない」

「同様に確からしい?」

「数学だよ、確率の分野は好きなんだ。由紀も条件付き確率と期待値計算はお手のものだろ?」


 そこまで言われて気づいたのか、由紀は自分の両手に目を向けた。僕はゆっくりと頷いて見せる。


 僕の左手には『タングステンシールド』が握られている。しかし由紀の左手には『ステンレスシールド』が握られているのだ。


 僕たちの装備は同じではない。炎によるダメージを軽減させる『ステンレスシールド』は期待値計算上『タングステンシールド』より優れた防具だが、僕はあの巨大な龍のぬいぐるみのように近接攻撃と遠距離攻撃をランダムに入り混ぜたりはしないのだ。


「覚悟はいいかな。僕はさっき済ませたところだ」


 僕は由紀にそう言うと、右手に握った『バールのようなもの』を由紀の肘のあたりに小さく振った。由紀が殴り返してくる。


『ケイタの攻撃! ユキに23ポイントのダメージ!』

『ユキの攻撃! ケイタに15ポイントのダメージ!』


 そんな感じだ。この状況は僕が『ハバネロ草』を放棄しない限り続くことだろう。


 由紀の様子を伺うと、彼女は唇を噛んで小さく震えながら、その大きな目に溢れそうな涙を貯めていた。


「ごめんよ、そんなに痛かった?」


 半ば慣れてしまってきている僕とは違い、由紀には久しぶりのダメージだろう。僕はそう言い由紀の様子を気遣った。


 由紀は首を振って否定する。強く瞑られた目から涙が流れる。それを拭いもせずに彼女は僕を強く見つめた。


「違うの。痛くて泣いてるんじゃない」と由紀は歯を食いしばって僕に言う。「――悔しくて」

「悔しい?」

「そうよ。悔しい。あたしが啓太に感謝すべきだってことはわかってるんだけど、どうにもならないくらい悔しいの。あたしの理論は完璧だった筈なのに」


 由紀はそこまで言うと、無理やり笑顔を作って涙を拭いた。僕はそれを受け止め、彼女を肯定するように頷いて見せる。


「由紀の理論はとても正しい。とても正しいからこそ、完璧な勝利を求めすぎてしまうんだ」


 由紀は刀と炎による遠距離攻撃をいずれも成功させている。僕は既に刀の攻撃に失敗していたわけだから、炎のことは無視して向かって来られれば、その失敗を挽回することはできなかっただろう。


 しかし由紀は炎の攻撃を加味して考え、期待値計算上正しい装備に変更してしまった。その計算の正しさゆえに彼女はこれから殺されるのだ。


 隣接した僕たちは互いにダメージを与えあう。“行動”を重ねる度に由紀のアドバンテージは失われていき、やがて今更装備を『タングステンシールド』に変更したところで決して逆転できない数値になった。


「これでおそらく確定だ」


 僕は由紀にそう言った。落ち着きを取り戻した彼女はゆっくりと頷く。そして「あんたはクラックよ」と言った。


「くらっく?」

「“crack”、『叩き割る』って意味だけど、サッカーにおいては凍りついた局面を打開するような名選手をそう言うの」

「叩き割れたのかな?」

「おそらくね」と彼女は言った。


 そして僕が攻撃を重ねると、由紀は『エヌセイド』を使用した。もはや計算上勝ち目がないにも関わらず、驚くほど冷静に彼女はやるべきことをやる。


 そんな驚きの視線に気づいた由紀は、胸を張って「あたしのレシピはとても優れたデキなのよ」と言った。


 素直にそれを肯定する。僕たちが互いに殴り合う度に、少しずつ終わりが近づいていく。そして、あと1回殴れば由紀をやっつけられる状態になった。


 僕たちは見つめ合う。ふたりの間を穏やかな風が吹き、何とも言えない時間が流れる。


「何か言い残したことはある?」


 そう言う由紀に、僕は思わず笑ってしまった。


「そういうのって、普通、殺す側が訊くものだと思うけど」

「そういえばそうね。まあでもいいんじゃない? 何事にも例外はあるんだろうし」

「完璧な理論も覆されたりすることだしね」

「それで、どうなの?」

「実は言いたいことと、訊きたいことがひとつずつある」

「それじゃ、先に言いたいことを言ってちょうだい。そして訊かれたら答えるわ」


 僕は頷き、大きくひとつ息を吐く。


 そして由紀の薄茶色の瞳をやんわりと見つめ、「僕は由紀のことが好きだ」と言った。意外とすんなり言えるものだなと僕は自分に驚いた。


 由紀も驚いたのだろう。驚いた顔を見せた後、しかしその表情は少しいたずらっぽい笑顔に変わっていった。僕の好きな表情だ。


「言っちゃうんだ?」


 由紀はからかうようにそう言った。僕は頷いてそれを肯定する。


「言っちゃおうと思ったんだ。由紀は昂の恋人で、僕は昂の友人だ。その関係性を壊そうと思っているわけじゃない。ただ口に出して伝えてみたかったんだ。僕はきっとそれで踏ん切りのようなものをつけられると思う」

「でも、口に出しちゃったら影響が出てくるんじゃないの?」

「そうは思わないな。だって、由紀は解放された後、ここでの記憶がないんだろ?」


 気づきの顔をした由紀は面白そうにニッと笑った。「なるほどね」と満足そうに頷いている。


「でも、そういうのってちょっとズルいんじゃない? あたし、ズルいのは好きじゃないわよ」

「知ってるよ。でもさ、僕も一生懸命色々考えてはみたんだけど、これ以上良いものが思いつかなかったんだ」

「それならしょうがないわね。返事を聞きたい?」

「必要ない。先入観は持たない方がいいだろうからね」

「そうかもね」と由紀は言った。


 僕の目を見て楽しそうに微笑むその顔だけで十分だった。天を仰ぐと、雲ひとつない青空が広がっている。高さの基準がない空は高いようにも低いようにも見え、今にも落ちてきそうな空だと思った。


 穏やかな風が吹いている。少し乱れた髪を整え、ふわふわとした金髪の少女は僕の発言を促した。「訊きたいのは何?」


 僕は少し視線をそらして唇を噛んだ。好意を伝えるよりもよっぽど勇気の要る質問だ。何故なら僕は小学校の頃からこれを誰かに訊いてみたくて、しかし答えが自分の望むものでなかった場合の恐怖は耐え難いものだったからだ。


 しばらく躊躇し沈黙を続ける僕を、由紀は辛抱強く待ってくれた。僕は思い切るきっかけを掴むためにわざとらしい咳払いをし、声帯を震わせ言葉にならない声をとりあえず出した。その発声の勢いで言葉を繋ぐ。


「攻撃的なポジションの選手はドリブルができなきゃだめだと思う?」


 やっとのことでそう尋ねた僕に、彼女は「はあ?」と理解不能という反応をした。


「ドリブルができなきゃだめで、使えない選手にしかならないんだろうか?」


 同じ疑問を僕は重ねる。それまでの僕の告白に関する受け答えをしていた際の和やかな雰囲気を一変させ、由紀はどちらかというと怒りのようなものにその身を包んだ。


「なにそれ、あんた馬鹿なんじゃないの? そんなわけがないじゃない」


 眉間にしわを寄せて僕の発言を糾弾する彼女の様子は強烈で、僕の疑問を心の底から馬鹿にしている様子がありありと見て取れる。


「そうかな?」

「そうよ、馬鹿らしい」


 由紀はヒートアップした様子で言葉を続けた。「攻撃的なポジションの選手の仕事は点を取ることよ。点さえ取れればその過程はどうでもいいし、点が取れないならあらゆる行為に意味はない。でも、そもそも“攻撃的”“守備的”なんて分け方が今時ナンセンスで、あらゆるポジションの選手が攻撃にも守備にも関わって、全員の課題はチームの勝利であるべきだわ」


 まだまだ言い足りない様子の由紀を僕は黙って見守った。父さんの作ったサッカーシューズを履いてボールを蹴りたいものだと思う。


 今度はミーハーな子どもウケを狙って既製品を模したようなデザインではなく、父さんが僕の足にもっともふさわしいと考えるシューズが良いだろう。家に帰ったらおねだりしてみよう。それがいつになるかはわからないけれど。


「そうだよね」

「なによ、スッキリした顔しちゃってさ」


 由紀は口を尖らせてそう言った。フットボールを愛する少女はまだ怒りが収まりきっていないのかもしれない。「言っとくけどね、こっちは慣れっこのあんたとは違って、超久しぶりの死にそうな痛みにずっと耐えてるんですからね」


「そうだね」と僕は笑って言った。「そろそろ終わりにしよう」


 右手に『バールのようなもの』、左手に『ステンレスシールド』を握った由紀を眺める。ふわふわとした金髪によく映える真っ赤なワンピースからノースリーブで伸びる腕は白い。


「最後に触れてもいいだろうか?」


 僕はそう訊いてみた。あらゆる代償を払っても惜しくない要求だ。由紀は笑って頷いた。


「キモい質問ね、でも許してあげる。ハグでもする?」


 由紀はその白い両腕を広げて僕を見上げた。その大きな瞳は薄い茶色で、陽を反射して光っている。涙が溜まっているのに僕は気づいた。


 既に隣接している僕がいくら近寄ろうが、それは“行動”とみなされない。そこに移動することができないからだ。触れないギリギリまで身を寄せる。


 僕たちの間には、僕が軽く屈むようにしても解消されない身長差がある。改めて認識した由紀の体はとても小さく華奢で、こんな女の子がひとりぼっちでよくこれまで頑張ってきたものだと思う。僕の半分くらいしかないんじゃないかと思える肩幅は強く抱いたら崩れてしまいそうだ。


「お疲れさま」


 僕は由紀の耳元で呟くようにして言った。僕の方に顔を向けた由紀の目から涙が溢れる。僕のために流される涙だ。


「ありがとう」


 彼女がそう言ったのをきっかけに、僕は由紀に優しいハグをした。ふわふわとした金髪の感触を頬に感じる。その干渉は攻撃であるとみなされる。


『ケイタの攻撃! ユキに23ポイントのダメージ! ユキをやっつけた!』


 そんな感じだ。


 僕が触れたところから由紀は光の粒子となって消えていく。まるで最初からいなかったように彼女は消え失せ、僕だけがそこに取り残される。


 気づけば広場のような区画はなくなっていた。穏やかな風が吹いている。その風に背の高い草が揺られ、わずかな環境音が耳に聞こえる。僕の両手は空いている。


 見渡す限りの草原の中、僕はひとり立っていた。

 

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