第5話 ビールと冷やしトマトと一番の理解者

車いすの振動に合わせてうつらうつらと動く首の動きは不安定で、思わずいつもより丁寧に声をかけてしまう。「揺れますよ」といった声を受ける前に大きく揺れた首の動きを見るに、どうやら今は立ち上がっての身長や体重の測定は無理そうだと判断する。

自分の中に思い描いていた入院患者を病室まで案内するまでの手順から大きく外れた患者の様子に少しため息をつきそうになり、後ろから対して心配することもなくついてくる家族の存在を不意に思い出して留まる。ナースステーションからの距離が近い病室は今は空いていない。仕方がないので予定していた一番奥の病室はやめて、中間の距離の病室にする。


車いすにストッパーをかけると患者が何かを思い出したように動き出そうとする。「危ないですから待っていてください」といった声が少しいつもより強い口調なのが自分でも気になったが、患者もその家族である奥さんも大して気にしていないようだった。


「米田さん、こちらの部屋です。今書類を持ってきますから待っていてくださいね」


米田さんはゆっくりと立ち上がるが、予想した通りにふらつく。ふらつく体を支えて、ベッドへと誘導する。それを見ていた奥さんの目がようやく心配そうに揺れている。物語の中心であるはずの米田さんは相変わらずぼんやりとしていて、支えられたことに対する感謝も振り払うこともしない。ぼんやりとした目つきのまま、白いベットを見下ろしている。


「うん」


そう何に対しての返事なのかもわからない言葉は誰にも受け取られずに病室の中に揺蕩っていた。

米田さん、66歳。長年飲酒していたが、去年仕事を引退してからお酒を飲む量が日に日に増えていったそうだ。奥さんが言うには、ずっとお酒を飲んでいて食事もとらずに一日中ずっとお酒を飲み続けていたそうだ。今日もいつも通り奥さんが朝目覚めて朝ご飯を二人分用意しても、食べずにお酒を抱えて眠り込んでいたそうだ。奥さんが友達とのランチから戻ると、いつも通りリビングでお酒を飲んでいたそうだ。しかし、返事もせずぼんやりしておりそのうちに意識もなくなったため、救急要請。診断は、アルコール性肝硬変の一歩手前。要するに自業自得だ。


「千種くん~入院ありがとうねえ。どんな感じだった?」


岡崎さんが忙しそうに薬の処方箋をさばきながら、書類を取りに来た俺に話しかける。なんと答えたらいいのか。少し考えて、「アル中でした」と話す。書類をきれいに整理していた岡崎さんの手の動きが一瞬止まって、さっき俺が飲み込んだ溜息が口から洩れていく。


「アル中かあ!しまったなあ、アルコール抜けたときのこと考えて近くの部屋にしたらよかったなあ…むしろ個室空ければよかった…」


「さっき退院した梶村さんの病室がもうきれいになってたんで、そこに入れときました。今のところ暴れたりすることはなさそうでけど、転びそうなんでマットを引こうかなって」


「そうだねえ、ありがとう。みんな頼りになるなあ」


マットというのは、ナースコールと連動している踏むと看護師に知らせが行くようになっている転倒防止の病棟には欠かせないアイテムだ。アルコール中毒が原因の肝硬変の患者で俺たち看護師が恐れているのは、アルコールが抜けた後の行動だった。大体が暴れたり、意味の分からないことを言ったりと看護師にとって迷惑な行動をするというのが世の常だった。岡崎さんのため息も長年の看護師経験から導き出されたとんでもない行動をしてきた患者に対する正当な反応なのだ。


病室に戻り、奥さんに書類の説明をする。奥さんは焦ったように書類をめくるので「ゆっくりでいいですよ。夕方までに書いてくれれば」と付け足すと安心したように微笑む。どうせ入院の書類の処理など一番後回しになり、定時後にやることになるのだから今すぐ書かれても意味はない。米田さんは奥さんとやり取りしている間にもぼんやりと寝ころんだまま、点滴が落ちるのを不思議そうに時々見つめている。点滴の刺入部に包帯を巻き、マットを足元に設置する。


「トイレに行くときはナースコール押してくださいね。転んだら危ないですから」


「うん」


ナースコールを握らせた瞬間に連打する。奥さんが焦ったように「なんで今押してるの」と怒るが、無理もない。どうせ彼にはナースコールは押せない。今も手渡されたものを何かもわからずに押しているだけだ。


「ねえ」


「どうしました?」


米田さんとようやく目が合う。まだ目は黄色く濁っていない。少しだけ口を開けてしばらく、俺の顔を見つめる。


「酒飲んでいい?」


こんな風に聞かれるのも慣れっこだ。慣れたように「断酒しないと肝臓がだめになりますよ」と笑顔で告げる。米田さんはまたぼんやりとしていた。奥さんがあきれたように睨みつける。刺さるような視線もきっと今の彼には何も感じさせないのだ。


次に米田さんの病室に訪れたのは、ナースコールが鳴った時だった。一緒におむつ交換に回っていた同期の桜山のピッチが先に揺れ、エプロンを外しながら彼女が画面を見る。


「あ、千種さんの入院さんじゃないですか」


「げ」


マットが反応しているのが分かる。桜山がちょっと見てきますよと言って、少し離れた病室まで歩いていく。そして、入り口のあたりで止まって俺のほうを振り返る。


「千種さ~ん」


苦笑い。その陰に同情が隠れているのが分かる。彼女がそう言う表情をするということは、米田さんが何かしでかしたことは明白だった。急いで、病室の入り口まで走る。視界に広がるのは、点滴を抜いて下半身裸で立っている米田さんだった。

引きずられた点滴のパックと血が腕から垂れて、床を濡らす。大きな水たまりがあるのは、そこで用を足したからだろう。彼にはここがどこかも、何をしていいのかも、自分がはたから見たら今どういう状態のなのかも理解できない。幸いにも同室者は不在、もしくは昼寝中のようで誰も米田さんの姿を見ていない。

苦笑いする桜山に笑顔で返して、病室の扉を閉める。桜山がポケットから出したアルコール消毒で傷口を抑える。「抜いちゃだめだよ」ともう怒ることも無駄だとわかっているのだろう。対して感情のこもっていない声で米田さんに告げる。


「ねえ」


「なんですか」


頭の中で次の行動の予定を立てる。とりあえず米田さんの着替えをして、床を暇そうな人間を集めてきれいにしよう。点滴ももう一回刺さないとな。そういう風に順番をつけていく。優先順位だ。胸に入れたピッチが揺れるが、今はそちらにかまうことはできない。


「酒ってどこで売ってるの」


米田さんの発言に桜山が目を見開く。血まみれ、尿まみれの状態で彼は何を言っているのか。そういう風に思うことも何人もこういう人間を見てきたから、もうない。あきれだけが脳内で渦巻いて、ため息になる。


「病院に酒はうってません」


「びょういん」


「米田さんはお酒の飲みすぎで肝臓が悪くなって運ばれてきたんですよ」


「そうなの?」



米田さんが驚いたように自分の腕を見て「だれがやったの?」と迷子の子供のように告げる。桜山が「痛いでしょ」というのに頷く。

しめていた扉が開いて、入ってきたのは米田さんの奥さんだった。手にはたくさんの荷物がある。袋に丁寧にしまわれたパジャマは早速今から使うことになるだろう。


「何してんの!あんた」


「おう、酒あるか」


怒りが収まらないというように患者さんに近づこうとする奥さんを制止して、「片づけますから廊下に」と誘導する。一度大きく目を見開いたようにおびえるように奥さんが頷く。無理もない、今目の前にいる異常な行動をする男は彼女の伴侶なのだ。俺たちのような赤の他人ではない。そういう人間が突然におかしくなる。それはどんな状況、原因だって人を不安にさせるものだ。


廊下のベンチに奥さんを誘導する。「部屋がきれいになったら呼びますね」と声をかけると、奥さんは申し訳なさそうに頭を下げる。


「本当にすいません…私が片付けますから」


「いえ、大丈夫ですよ。奥さんも驚きましたよね。アルコールが抜けていくと…飲みすぎた後に正気に戻るのは少し時間がかかります。驚くことが多いと思いますが、しっかり治療しますから」


「はい…すいません。なんであんなになっちゃったのかな」


上品に控えめに化粧された顔が悲しそうにゆがむ。きれいに切りそろえられた髪の毛と季節にしっかりとあった服装。ちゃんと定期的に人にあっていたことの証拠だ。対して、旦那である米田さんはどうだろう。部屋着のまま、少し伸びた髭と髪の毛が印象的だった。


「仕事を辞めてからお酒をよく飲むようになっていったんです。私がパートに行っている間も…出かけようといってもついてきたのは最初だけ。どこか行ったらといっても一日中部屋にいたんです」


奥さんの不思議そうな目と「なんであんなふうになっちゃったんだろ」とそういう声がなんだか体の中のぽっかり空いたところに響く。

いつの間にか開いていた穴にその言葉が妙味しみこむ。孤独だったのではないか、そう言葉が出そうになったのを飲み込む。なんだか口の中が苦い。言えなかったのは、さっきまで迷惑だと思っていた患者の背中が妙に小さく見えたからだろうか。


桜山と病室の惨状を片付けて中断していたおむつ交換を再開する。桜山は米田さんのことは何も言わない。慣れているのだ。理不尽に仕事が増えていくことにも、そういう対応にも慣れてしまっている。


「なんであんなになるまでお酒飲んだんだろうね」


俺の問いかけにビニールエプロンのちょうちょ結びを仕上げていた桜山が少し驚いた顔をする。不意に口から出た言葉は取り消そうにもしっかりと相手に届いてしまった後だった。


「ほかにすることなかったんですよきっと」


桜山はそういうと個室の扉を軽くノックする。返事は返ってこない、慣れたように扉を開いて中に入る。個室の中で眠る患者は何の返事もしない。パンパンに膨れ上がった腹部、黄色く汚染された皮膚、足からは浸出液が止まらずに流れ出ているためパットが巻かれている。空いたままの口には酸素のマスクがあてられている。酸素の音が響く、患者の息の音はもう聞こえない。膨れ上がった腹部のせいで胸が動いているかもわからない。

桜山が慣れたように「おむつ変えますね」と告げる。洗濯もののたまった病室、一人きりで横たわる患者。

彼は米田さんのような人がいきつくなれの果てだ。


「今日何時ごろに帰れそうです?」


「なんだかんだ早く終わりそう」


「私もう終わるんで米田さんの入院処理手伝いますよ」


「まじかあ、助かる。早いね」


「だって、今日は三年目会じゃないですか」


桜山がうれしそうに弾んだ声で話す。慣れたようにむくんだ重たい足を持ち上げて、汚れたパットを交換しながら、今日の予定を話す。いつもなら俺も明るく返事をするのに、なぜだか今日はできなかった。

さっき飲み込んだ言葉がまだ喉元に張り付いている気がした。



仕事が終わりいつもより華やかな桜山と入り口で合流し、駐車場に向かう。見慣れた軽自動車の中を覗き込むと扉があく。「お疲れ様です」と藤がスマホを見ながら言う声に二人で返事をして、乗り込む。

エアコンの良く聞いた車内で高いシャツに身を包む藤とは対照的に、ミラーに映る二人は何だか疲れた顔をしていた。


「今日入院少なかったんですか?終わるの早いっすね」


「千種さんの人だけだったかな。アル中。あれは夜勤大変だねえ」


「まじかあ…最悪っすね。あ、星ヶ丘途中で拾ってきますね」


藤はあまりお酒を飲まない。今日は飲み会だが、「俺車出しますよ」と特に何事もないように告げた彼は慣れたように少し荒っぽい運転で、星ヶ丘の待つコンビニに向かう。

コンビニの入り口で待っていた星ヶ丘も慣れたように助手席に座り、袋から三人分の飲み物をだす。


「はい」


「おお、ありがとう」



ふんわりとほほ笑んで星ヶ丘が差し出した炭酸飲料に口をつける。


「今日忙しかったですか?深夜は暇だったんですけど」


「まあ普通かな」


いつもの会話だった夜勤明けの人間と休みだった人間と、今まで働いていた二人。それだけの人間を乗せた車が行き慣れた焼き鳥屋にたどり着く。席について、人数分の料理を注文する。一杯目を選ぶときにいつもより少し真剣にメニューを見つめる女子二人は真剣で、かわいらしい。藤は店員に差し出された紙に慣れたようにサインをして、一杯無料になるドリンクを注文する。


「千種さんは何にします?」


「俺は生ビール」


「私はコークハイで。ゆいは?」


「梅酒のロックでお願いします」



店員さんが「はあい」と返事をして、注文していたキャベツの盛り合わせと焼き鳥、唐揚げを並べていく。俺の前に頼んでいた冷しトマトと生ビールが最後に置かれる、


「それじゃお疲れ様でーす!」


「お疲れ様!」


カラン、コロンと四人分のグラスがぶつかって、そのあとみんな少し無言になる。泡の冷たさが先に口の中を満たして、ビールの苦みと冷たさがのどを潤していく。目を閉じたまま、ごくごくと飲み干していく。予想より乾いていた体に優しくしみこむアルコール。労働した後に飲むと、いつもよりおいしいのはいつの時代も変わらないだろう。

半分程度飲み干したところで、トマトに箸をつける。別で頼んだ一味と塩を振りかけると、唐揚げをつまんでいた桜山が不思議そうにこちらを見る。


「それおいしいんですか?」


「まあね」


少しだけ自慢げに話して、トマトを口に頬張る。甘酸っぱさと辛さと塩っけとみずみずしさがお互い譲り合うことなく、口の中に満ちていく。押し寄せる味をビールで流し込むと自然と「はあ」と大きい声が出る。


「相変わらず良い飲みっぷりですね!」


トマトに次は付け合わせのマヨネーズをたっぷりとつける。星ヶ丘は牛タンをもぐもぐとか見ながら楽しそうに微笑む。彼女の手元の梅酒ももう空だった。


「俺は将来千種さんがアル中にならないか心配っすよ」


藤がそぼろ丼を食べながら全く心配していないように告げる。その言葉になんとなく、二人の患者の顔と奥さんの心配そうな顔がちらつくのをビールで奥のほうに押し込む、


「大丈夫だよ」


「そうそう!お酒は節度ですよ!酒は飲んでも飲まれるな!」


「…桜山吐くまで飲むなよ」


「でも肝硬変はやだなあっておもいますよねえ。肝機能いつも真っ先にみちゃいますもん。」


二敗目の甘いお酒を飲みながら星ヶ丘がまったく心配してないように話す。その言葉に同意する桜山のわりと大きめのグラスはもう空だった。


「お酒は友達ぐらいがちょうどいいんですよね、友人とか恋人にならない程度の距離感で付き合ってれば何の害もないですから」


「あと、深夜のラーメンとも程よい距離間で付き合いてえな」


「夜勤前のレッドブルもたまに会う程度の同級生くらいの距離感で」


「それそれ」


盛り上がる会話の中で時々ビールに口をつける。楽しい、好きなものに囲まれてのどを潤すアルコールは心地よい。その心地よさが寂しさを埋めるだけのものになることがいつか俺にも来るのだろうか。そんなことを考えながら、マヨネーズを身にまとったトマトを頬張った。



藤の運転は相買わず荒いが、後頭部座席で仲良く手をつないでお互いにもたれかかる二人の眠りは冷めることはない。すうすう、と気持ちよさそうに二人の息が交互に響く。


「今日さあ…」


「なんかありました?」


「いや、うーん。男って働いてるだけじゃだめだなって思ったよ。」


「そりゃそうでしょ。なんですか?」


「趣味、友達。そういうのないときっといざ一つ失ったときに寂しくなるなって。そういう時にきっと優しいものに依存しちゃんだろうなって思ってさ」


お酒のせいか不思議とあまり言葉が出ない。明るく外に友人と居場所のある奥さん、たいして家の中で飲むことしかできなかった夫。

藤はこちらを見て、「そうですよ」と返事をする。なんとなく、この4人でこういう風に夜の暗闇を走り抜けていく関係がずっとこの先続けがいいと思った。藤なら老人になっても俺を外に連れ出してくれるだろうし、桜山も新しい流行をすぐ俺に教えてくれるだろう。星ヶ丘もいつものように笑って楽しくそばにいてくれるだろう。

三年、同じ病棟でひとの人生をみてきた。そういう関係は不思議と心地が良い。

米田さんにも優しい友達がほかに見つかることを願いながら瞼を閉じた。藤が音楽の音量を小さくするのがわかって、「ありがとう」と告げる。その声が彼に届いたか確かめる前に眠りについた。



同期会の後の三連休は特に何もなく終わり、俺は今日も点滴のたくさん載ったワゴンを押して病棟の中を走る。個室の名前が一つなくなって、見慣れない名前に変わっている。そういう風に人の死を知ることにも慣れてしまった。

まだ検温の住んでいない患者をさがして、談話室にたどり着く。数人の点滴棒を押した患者たちがこちらを見て、手を上げる。


「おお、千種君!今日担当?」


「そうですよ…勝手に動き回らないでください。点滴もう終わってるじゃないですか」


悪びれることなく笑う声につられて他の患者も笑う。その中に米田さんがいたことに気づいたのが遅れたのは彼が見違えるほどにしゃんとしていたからだ。


「きいてよ!米田さんさあ、俺の近所に住んでてな。退院したら一緒にモーニング行く約束してたの今」


「誘ってもらったんです」


楽しそうに髭もしっかりと切りそろえられたきれいなパジャマの男が笑う。「そうですか」そういって、そのあと息を大きく吸う。


「楽しみですね」


そう告げた声が弾んでいた。ビールの泡のようにはじけた笑いが談話室を包む。その笑い声は師長に怒られるまで、ずっと響いていた。

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白衣の天使の禁断ごはん 芳野よだか @hositojigoku

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