第4話 死にたい誰かと生きて欲しい彼女の酸っぱい果実
「自殺、ですか?」
「いえ、自殺未遂です」
少し焦ったように話す救急外来の看護師は、なぜかこそこそと耳打ちしてくる。緊急の入院が来るから救急外来に迎えに行ってほしいといわれたから、ほかの患者ほっぽって来たらこれだ。まだ顔も見ていない患者もいるのに。
普通の脱水の若い女性の入院だから手がかからない、午前中に入院対応しといたほうが後から楽だからとか。岡崎さんに言いくるめられてきたのに。
聞いていた話と目の前に広がる現状が違いすぎる。自殺未遂の女子大生、それを外来で点滴して帰さずに入院させるなんて絶対にめんどくさいに違いない。
「名前は藤原ゆうかさん。21歳の大学生、朝方に薬を大量に飲んでその後に救急要請。点滴で意識レベル改善しましたが…その後も言動が落ち着かないので数日入院させることになりました」
「数日入院って…入院して落ち着くものなのですか」
「ま、まあ。若い子はいろいろありますから」
いろいろあるかもしれないけど、それでもそれが入院して解決するものであるかなんてわからないだろ。と思ってしまうが、何も言えずに「わかりました」と返事することしかできなかった。
「藤原さ~ん、病棟の看護師さんが来てくれましたよ」
藤原と呼ばれた少女は返事もせずにだるそうに点滴の支柱を押し、ふらつきもなく歩いて私の前に立つ。フリルのついたブラウスと短いスカート、薄地のストッキングでおおわれた足にキレイなミュール。おおよそ病院という場所に現れるには不格好で、夜遊んでそのまま来たのが目に見えてわかる。
「いきましょうか」
そう言ってようやく目があう。泣きはらしたように赤い目をした少女はウサギのようにも見えて、私に軽く会釈をするとスマホをすぐにいじり始める。なんだかなあ、なんというか。二人で乗り込んだエレベーターはいつもより息苦しかった。
「さ、さくらやまちゃ~ん」
岡崎さんがナースステーションからこちらを見て手招きしている。後ろをついてきた藤原さんに「こちらでお待ちください」というと、「はい」と短く愛想のない返事が返ってくる。初めて声を聞いたな。
「なんか大変そうな子だね?大変だよね?ごめんね」
「あはは、まあ。やることはないし、過去の病気とかもないだろうし。適当に相手しときますから大丈夫ですよ」
自殺未遂という情報をどこかで聞いたのだろう。岡崎さんは焦ったように「ごめんね」と何度も繰り返す。その姿に余計にこちらが申し訳なくなって、話を逸らす。
「とりあえず一番奥の部屋でいいですよね?今、桐さん一人しかいない部屋」
「そうだね、うんうん。大部屋ならそこがいいかも」
岡崎さんが最後に「ごめんね」といったのに軽く手を振って返して、藤原さんの待たせていた廊下に出る。「お待たせしました」そういうと、一瞬スマホから目線が離れて黙って私の後ろをついてくる。そのまま、ナースステーションから一番遠い奥の病室の窓側に案内する。
「こちらのお部屋になります。入院の書類持ってきますね。お部屋の外にお名前を掲示してもいいですか」
「あー…はい、はい。いいです」
ベッドに投げ捨てられた小さい鞄と拒絶するように吐き捨てられた言葉が出て行けと語っていた。
「あら?桜ちゃん、新しい患者さん?」
杖を突きながら現れたおばあちゃんは、桐さんだった。何度か入院を繰り返すおばあちゃんで、高齢なのに頭も足もしっかりしているから一番遠い部屋にいる。今日も暖かい笑顔と丸まった背中が彼女の人柄を表している。
「あ、桐さん。そうよろしくね」
「かわいらしいお嬢さんねえ。髪の毛もきれいで、爪もきれい。こんなおばあちゃんで恥ずかしいなあ。よろしくねえ」
桐さんの差し出した手を茫然と藤原さんが見つめている。長いまつ毛の奥の瞳が何かに震えている。握りかえされることのない桐さんのしわのある手を代わりに包んで、桐さんのベッドまで案内する。
桐さんのベットまで案内して、藤原さんに書類を渡す。藤原さんは何も言わずにそれを受け取る。軽く二人に会釈をして病室を後にしようとした時だった。
「あの看護師さん」
「は、はい」
藤原さんが少しめんどくさそうに私の後を追いかけてくる。緩く巻かれた髪の毛を手で梳かしながら、私の目をまっすぐには見ない。目をそらしたまま、自分の用件だけを伝える。
「個室空いてます?私、あんなおばあちゃんと一緒なんて無理です」
「あ、あんなおばあちゃん?」
あんなって、あんなって。桐さんのことか?入院中確かに人の物音は障害になる。だからこそ病院には個室が用意されているし、最初から個室を予約して入院してくる人も多い。もちろん、入院後に個室を希望することもある。だけど、個室料金は基本的に保険適応外。高額なヤヤから安価な部屋まであるけど、今空いているのは一番高額な部屋だけだ。一日三万円。二日で六万円。
「個室空いてますけど。一日三万円かかりますし、桐さんはすごくしっかりしてて、その」
「いいから、個室に入れてください」
強い口調、少しコンタクトで充血した目がにらみつける。「わかりました」そういうと藤原さんは病室に戻っていく。からからと彼女に少し遅れてついていく点滴支柱がむなしかった。
ナースステーションに戻り岡崎さんに事の経緯を説明すれば少し難しい顔をされる。「まあ、本人が入りたいっていうんだし…でもなあ」とやけに岡崎さんが気になって、その言葉の先を待ってみる。少し悩んだように岡崎さんが言葉を紡ぐ。
「自殺未遂で入院した子はね自殺しないように見張ってないといけないのよ。個室のほうが目が届くかもだし、うーん。ある意味良かったかな」
「えっ!?そんなこともするんですか!?」
「だって病院で自殺されたら困るでしょ」
岡崎さんが当たり前のように言うので、まあ確かにそうなんだけど。頭の中に新聞の一面を飾る『看護師の管理不足!自殺した患者』という文字が頭の中で浮かぶ。でもそれは私のせいなのだろうか。あの子はまだ死ぬ気なんだろうか。夜の巡視で手首を切っている藤原さんを見つけてしまうところを想像して、背筋がぞっとした。
「自殺…そうですよね。あの子自殺するかもですよね」
「ふつうは家族に付き添ってもらったりするんだけどお…あの子家族来てくれそう…?」
「微妙ですね…」
「ま、まあ…とりあえずお昼休憩の時間だし!休憩入ってきて!」
岡崎さんに背中を押されてはいった休憩室には同期の優依がいた。「おつかれ~」と言いながらソファの横にあった自分の荷物をどかしてくれる。「疲れた…」そうつぶやくと優依が「うんうん」とうなずいて、コーヒーを用意してくれる。砂糖とミルク多め。
慣れたように私の分のコーヒーを用意してくれる背中を見つめていると、先ほど自分で死のうとした藤原さんのことが急に頭をよぎる。親は彼女が入院することを伝えてもまだ病院に現れない、友達はいるのだろうか。誰も訪ねてこない。コーヒーの湯気の向こうで柔らかく笑う優依をみていると、そんなことばかり思いつく。
「ちさきちゃん、入院してきた子はどう?泣いてる?」
「ないてないよ~個室に入れろって睨みつけてくるタイプだった」
「そうなんだ~メンヘラってやつなのかな」
優依、ちさきちゃん。と呼ぶのは先輩がいない時だけだ。休憩室の扉を出たら、他人行儀に「桜山さん」、「星ヶ丘さん」と呼び合う。優依の手作りのお弁当箱には唐揚げが入っていて、それを見ていると勘違いしたのか笑顔で箸で唐揚げをつまんで差し出してくる。
「はい」
「ありがとう」
さくりと音を上げて口の中に肉汁が広がっていく。噛み応えのある肉の感触とサクサクした衣の感触が口の中ではじけていくのが面白い。ただの肉をあげただけなのに家庭によってここまで違いがあるのは面白い。うちのは衣が少しふんわりしていて、肉が包まれているという感じだ。優依の家のは衣がサクサクで肉と別離したような味だ。
「今から売店行っても何もないかなあ…」
「またカップラーメンになっちゃうねえ」
ロッカーにため込んであったカップラーメンのストックから一番最近気に入っているカップラーメンと取り出す。とんこつ味の元となる火薬を外して、お湯を注ぐ。「看護師になるとついつい高いカップラーメン買っちゃうよね」と優依が話す。まったくもってその通りだった。
「…藤原さんなんで死のうと思ったんだろ」
「えっ?」
箸をのせて少し浮かんだふたを抑える。独り言のようにつぶやいた言葉に優依は律儀に反応する。
「いや、死ぬって簡単に思いつくけど、思いついても普通の人はできないじゃん」
「初めてじゃないんじゃない」
優依が当たり前のように口にするものだから、思わず彼女の横顔を見つめる。
「わかってるんだよ。藤原さんはここから先は危ないけどここまでは安全だって。だから泣きもしないんだよ。初めてだったら生きてることを喜ぶか絶望するか、そういう反応をするはずだもん」
カップラーメンできたね、と優依が言う。その言葉の意味があの少女の、桐さんと握手もしなかった少女の姿に重なる。ラーメンをかき混ぜて、すする。濃い味が広がって、足先にまで広がっていく。午後からもやることはたくさんある。優依の言葉の意味を考える間もないまま、藤原さんの自殺の意味を考えることもないまま、きっと今日は終わっていく。
藤原さんが入院して三日目。担当の先生が「まだ入院してたんですねえ。そろそろ帰ってもいいよっていっときました」とゆるく話して、パソコンに向かう。そういえばまだ退院していなかった。ふつうは次の日に退院するものだけど。
「とりあえず明日帰ってもらいますね」
先生の言葉に師長さんが返事をしてそれで藤原さんのことはもう終わるはずだった。
藤が焦った様子でナースステーションに入ってくるまで誰も彼女のことを考えていなかった。
焦ったように走って入ってきた藤が辺りを見回して、私と目が合って次に違う人と目が合って、何かが違うのかまた下を向く。息を思いっきり吸ってため息をつく藤の様子をナースステーションにいた全員が見守る。
「藤原さんが逃げました」
「ええっ」
藤の言葉に一番最初に反応したのは、伏見さんだった。「藤原さんいなくなったんですか!?」と藤より大きい声で叫んで、その言葉の意味を理解したみんなが騒ぎ出す。
「藤、どういうこと」
「点滴抜いて部屋はもぬけの殻…逃げました。確実に逃げました」
「ええ」
「最後に見た人だれ!?」
ここは警察か?という風に全員が己の証言をしていく。最終的に全員の刺さるような視線を受けることになった医師は落ち着いた様子で話し出す。
「ええ~私かなあ。いや、私なんだろうなあ。退院ですよって言って、退院の前にお会計して看護師さんに声かけてねっていっただけなんですけどお」
「その時の彼女の様子は」
「ええ~う~ん…普通でしたよ」
あてにならない。そう思ったのか全員が医師から目を離す。優依が「探しましょう!」と言って、みんながナースステーションから出ていく。その時だった。ナースステーションの中を桐さんがうかがうように顔を出す。
「ねえ、桜ちゃん。なにかふくものもってなあい?」
「桐さん…どうした、の…」
優依が「あっ」と声を出す。
私も桐さんの杖を握ったほうの手ではないほうを凝視する。
子供のように泣きながら桐さんと手を手つないでいるのは血で服が汚れた藤原さんだった。「いたじゃないですかあ」と医師がのんきに言うのをみんなが無視して、桐さんの言葉を待つ。
「血が止まらないみたいで…なにかとめるものない?」
「あ、はい」
藤が桐さんの言葉の言うとおりに少し戸惑ったように動く。藤原さんの点滴を無理やり抜いたから血が止まらない腕にテープを張る。「これで安心ね」と桐さんが穏やかに言うので、私たちはもう頷くしかなかった。
「藤原さん、点滴抜いて何しようとしたんですか」
いつもより低い声で優依が話して、その後ろで伏見さんが驚いたようにその背中を見つめる。しゃくりあげるように泣く藤原さんが顔を上げて、私たちをにらみつける。
「別に、たすけてっなんて頼んでないのにっ金を払うのがおかしいと思っただけ」
「はあ」
思わず出て行ってしまった言葉がどんな音であったのかはわからないけど、こちらをにらむ藤原さんの目が冷たくて私の声が彼女に与えた感情を表していた。
「何よっ馬鹿にすんなっあたしだって、死にたいなんてっ自殺なんてしたいわけじゃっ看護師なんてやって順風満帆に生きてるあんたにはわかんないわよ」
藤原さんの手は桐さんのしわの多い手としっかりつながれていた。看護師なんかやっていたら順風満帆な人生だといわれるのか。
何言ってるんだろう。看護師なんかやってたっていいことなんて藤原さんが思うよりないよと言ってやりたかった。でもきっと、今一番つらいのは誰が何と言おうと彼女の中では彼女なんだ。
でも、それでも。助けてって頼んでないと言われたら、それまでだった。この子がこれから先何度死のうとして、救急車を呼んで、生きたところで頼んでないといわれてしまったら、私たちなんてただのひどい人になってしまう。お節介で人の命を助けた迷惑な人になってしまう。ふざけんなよ、おせっかいなんかで看護師ができるか。
「だったらちゃんと死ねるような方法でやってください」
「え」
自分でも何言ってるんだと思う。優依は相変わらず私を見てくれていた。
「中途半端な方法でやらないでちゃんとやりなよ。死にたかったんでしょう。でもねえ、今度も中途半端にやって助けてなんて思うんじゃないわよ。生きたいなんて思うから救急車よんだんだから、助けるわよ。そんなのもちろんじゃん。こっちだって一生懸命にやってるんだから。助かりたくない人間助けるほどこっちも暇じゃないの。でもねえ、生きてほしいからっみんな助けたのよ。それをお節介って言われたらこっちが死にたいわ!!!」
息が切れる、頭が真っ白になる。でも近年で一番自然と声が出た。藤原さんの涙でぐしゃぐしゃな顔と目が合う。素顔はまだ少女で助けてほしいと震えているみたいだった。
「ごめんなさい…」
そう藤原さんがつぶやいて涙が頬を濡らす。
「死にたくなったらまたここにこればいいのよ。私もよく入院してるし、ここの看護師さんはみんな患者思いだから」
桐さんがつながれた手に力を込める。
「一人じゃ寂しいもの。そういうときに他人って何にも知らないから以外に暖かいの」
そう桐さんが言う。
頷く藤原さんの顔は何だか涙がにじんで見えなかった。
こってり怒られた。患者さんになんてこと言うのって怒られた。当然である。
少しふらふらと歩いていると、桐さんと藤原さんが並んでベンチで談笑している。桐さんは子供がいない、旦那さんと二人暮らし。桐さんからしたら孫のような藤原さんだけど、なんでか二人が友達のように思えた。笑いあう二人の姿は何だかすっと友達だったようにも見えた。血が流れる腕を抑えながらエレベーターのボタンを押す藤原さんに桐さんがなんて言葉をかけたのかはわからない。それはあの二人の少女たちしか知らないのだ。
振り向いた桐さんと目が合う。こちらにおいでと手招きされて、近づく。隣に座る藤原さんとは少し気まずい。会釈をすると向こうも気まずそうに会釈をする。
「今ね、旦那が持ってきたみかん食べてたの」
「へえ、いいですね」
「藤原ちゃんは爪がきれいだからね、わたしがむいてるの。桜ちゃんも食べて」
藤原さんがきれいな掌に載せて皮がきれいにむかれたみかんを差し出してくる。オレンジ色のみかんはつやつやしていてみずみずしい。あたりを見回してたから一口、口に含む。甘さと水分が口の中に広がって思わず目をつむる。
おいしさにもう一切れ、口に入れる。今度は甘さは控えめで、じんわりと酸っぱさが口の中に広がる。
「すっぱかった?」
桐さんが少しいたずらっぽく口にする。頷く私を見て、ふふとほほ笑む。
「すっぱいのも甘いのもあってちょうどよいのよ。じゃないと人生退屈でしょう」
患者にとってその日にかかわる看護師の数は一人とか多くて三人とかそのくらいしかいない。でも私たちが一日にかかわる患者の数はその何十倍で、人手不足なんて言葉で片づけられないくらいにくたびれた笑顔で今日も点滴のたくさん載ったカートを押す。もしかしたら、私が藤原さんのためにできることは本当はもっとたくさんあって、いつかできなかったことを後悔するかもしれない。友達のように藤原さんの悩みを聞いてあげたり、家まで行って親御さんと話をしたり。そういうことをしてあげたら彼女は明るく生きていけるのかもしれない。
でも、できなかった。今日できなかったことをきっと私はいつか後悔する。それでも、私たちがしたお節介の延長戦で笑ってくれる人がいるなら。私は一生ありがた迷惑な大したことはできない、してくれないと思われるお節介な人間でいたいとおもう。誰かの手を握って歩く病院の廊下はいつもより怖くないことをみんなが知れたらそれで満足だ。
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