第3話 彼と別れの塩おにぎり

酷い体臭と、開いたままの口の中から広がる血なまぐささが部屋中に充満している。いつから着ているかわからない服はもう洗濯しても着ることはできないだろう。ビニール袋に入れて密閉する。「捨ててもいいですか」そう問いかけるが、酸素マスクの音とモニターしか響かない病室に立ち尽くす女は答えない。

口を開いたまま、目を閉じている自分の父親を見ているだけだった。黒いマスカラで縁取られた瞳の奥は見えない。きれいに巻かれた長い髪を耳にかけることもなく、娘はなにも言えなくなった父親を見下ろすだけだった。


「なぐもさん」


「え」


「あ、苗字違いますか?」


「い、いえ。南雲であってます。もう離婚したので」


きらびやかに飾りつけられた指先が患者の家族に触れそうで触れない。寝返りもうてない患者と対照的に、娘は持て余すように体を動かす。肩にかかったままのバックの位置を直しながら、居心地悪そうに俺を見つめる。


「担当の先生からお話がありますのでこちらに」


「わかり、ました」

 


かみしめるように話す。病室のよどんだ空気をかみちぎるように、南雲さんはゆっくりと話す。俺の後について病室をでる南雲さんは、一度も父親のほうを見なかった。ゴボゴボとマスクを加湿する水音がする病室は水槽の中のようだった。


南雲さんの父親、患者の敏行さんが病院に運ばれたのは、昨日の深夜帯、12時間前ほどのことだった。

アパートの中で便と尿にまみれた部屋の真ん中に横たわっていたところをアパートの大家さんに発見された。いつからご飯を食べていないのかもわからない、いつからそこに横たわっていたのかもわからない。誰にいつからあっていないのかもわからない。その人がいつからそこに一人だったのか。それを語る人はもう話すことはできないだろう。

マスクから強制的に送られる酸素を受ける肺はもうろくに機能していないし、低栄養により治療に耐えることのできる体力もない。手の施しようがない状態だった。年に何回も救急車はそういう人を連れてくる。運びこまれて助かる人もいれば、冷たくなって誰も引き取りに来ることもない人もいる。敏行さんは、後者だと思っていた。3時間前までは。身寄りがなく、妻とも連絡の取れない状態の敏行さんに対して、市役所等への連絡もすんでいた時だった。

きらびやかな装いをした女性が現れた。香水のにおいと短いスカート、しっかりと飾られたすべて。父親の汚れた格好とは何もかも対照的な女性は「娘です」と小さく語った。


医師が示す肺の画像、検査データ等を医師が画面に淡々と移していく。南雲さんは画面を少し目を細めて見つめながら、医師の話に相槌を打つ。唇が震えていた。


「貴方のお父様ははっきり言って今日が峠です。今回は肺炎が主のようですが、もともとの疾患にも弁疾患もある。おそらく、膵臓に癌もあることは確定しています。抗生剤を投与していますが、体力的にも限界でしょう。現に酸素を投与していても呼吸状態はよくならない。会わせたい人がいるのなら、お会いになったほうがいい」



淡々と告げる。最後は優しい声色で話す。昨日外科の若い医師が入院させた敏行さんを押し付けられた内科の医師は、死にゆく人の状態を慣れたように話す。南雲さんは何度もうなずく、刻々と迫っている別れの時を受け入れている。


「あ、あの」


「何か質問がおありですか?」


南雲さんの背景には、彼女の父親のほとんど機能していない肺のレントゲン写真がうつしだされている。


「それって死にそうってことですか?なんでですか?」


内科の医師が俺のほうを見る、すがるような目だった。



ナースステーションに戻ると先輩たちが同情したように俺を見つめる。今のICの内容を記録するにも、長い説明に対して返ってきた返信があまりにも的外れなものばかりだったから、うまくまとめることができない。

ため息がこぼれたのを矢場さんは嫌そうに見つめる。


「藤君、ため息つかない」


「いや、今日くらいはいいんじゃないっすか。あの娘状況っていうものがまったくわかってないんですよ。人工呼吸器つけられたいのかっての」



回る椅子はもたれられた重みでギイギイときしむ。患者もしくは家族が認めなかったら、自然なかたちで旅立つことを拒否したのなら、俺たちにできることは治療しかない。心臓マッサージをして、最悪の場合人工呼吸器をつける。

ただ、それでもきっと敏行さんは助からない。心臓マッサージは他人の全力の力で何度の胸を押し付けられ、骨が折れることなんてよくあることだ。それに、人工呼吸器は苦痛にしかならないこともある。それをしてもきっと患者の命は数日、数時間しか伸びないだろう。

それを医師は理解してほしかったのだ。あの娘はそれを理解できなかった。だから、時間がかかった。


「じゃあDNARじゃないの?心マしないとねえ」


「助からないのにしていいんですかねえ。あの娘も何考えてんだか」



人工呼吸器につながれて、植物人間状態になって。それで助かったとしても、きっと数日だけだ。もし万が一、少しだけの余命を手に入れたとして。あの子供にその父親を一生介護し続ける能力と、思いはあるのだろうか。


「久しぶりに会って実の父親があの状態じゃ急すぎて理解が追いつかないのよ。」


矢場さんは慣れたように話す。今日の準夜勤のメンバーは俺と、矢場さん。それから同期の桜山。矢場さんは医師の説明に納得しない患者の家族に対しての対応など何度も経験してきたのだろう。うろたえる俺とは違い、悠然としていた。


「助からないっていうのが分からないなら藤が分かりやすく伝えないとだめじゃん。受け持ちでしょ」



桜山は点滴を詰めながら俺に嫌みのように話しかけてくる。桜山の担当している患者は落ち着いているし、今日は患者数も少ない。今日手がかかるのは俺の担当している南雲敏行さんだけであった。遅番の星ヶ丘がカートを押してナースステーションに帰ってくる。


「矢場さん休憩に行きますか?」


「落ち着いているし、行こうかしらね。藤君南雲君の家族にはもう一度説明したほうがよさそうね。私も行くわ」


「いや、俺が説明してきますよ。一応、先生の記事では最終的にDNARで同意を得たみたいだし、確認だけしてきます」


「あら、今日はずいぶんとやる気ね」



ナースステーションから一番近い南雲さんの病室に足を踏み入れる。娘さんはまた父親のそばに立ち尽くしていた。ぼんやりと見つめる、見つめて声もかけないまま。手も握らないまま。そこに立っていた。


「南雲さん血圧はかりますね」


血圧計を服を上げて腕に巻き付ける。「お願いします」そう告げた声は小さい。加圧して、表示された値は低く目の前の人物が死に向かっていることを表していた。


「南雲さんの血圧がだんだん低くなってきています。」



「この人死ぬんですね。もうすぐ…死ぬんだ」



かみしめるように医師に説明された内容を頭の中で思い出しているのだろう。何度もその言葉を口にする。俺はその決して触れ合わない、涙も流さないその親子のすがたをただ見つめることしかできなかった。


「看護師さん」


「最後まで耳は聞こえているって本当ですか」


「そうですね、最後の瞬間まで聴覚は保たれているといわれています。返事は返ってこなくても…届くと俺は思っています」



それを俺に教えてくれたのは矢場さんだった。

新人の頃、初めての夜勤。矢場さんはもうすぐ心臓が止まる瞬間まで患者に声をかけていた。その人は身寄りがなく、家もない。目の前の人と同じような格好をした。「今までよく頑張りましたね」そう告げた矢場さんの声を思い出した。安心したようにその患者の頬が緩んだような気がしたその瞬間を。


「そうなんですね、そっか。そうなんだ。」



南雲さんは安心したように肩の力を抜く。酸素マスクから供給される音が響く部屋に、モニターの音が響く。不整脈があることを示すモニターのアラーム音。南雲さんは驚いたように俺を見つめる。


「何か声をかけてあげてください」


「…そうは思うんですけど、なんて声かけていいのかわからなくて」


「えっ?」



南雲さんは困ったように笑う。乾いた笑い声だった。高いヒールで少しだけ患者の頭元に近づく。一歩、一歩戸惑うように歩み寄る姿はとても親子のように見えなかった。


「もう十年くらいあってなくて、私、家を飛び出してきたんです。だから、その。今日、急に昔からお世話になってたアパートのおばさんから連絡があって。きてみたら、こんなで。父親の顔なんて死ぬまで見たくなかったのに。なんて声かけていいのかわからないんです。いつも喧嘩しかしてなくて、必ず言い返してきてたのに。もう話さないんですよね、この人。」



そう淡々と話す。淡々と感情を整理するように告げる。それは俺に対して話しているのではなく、自分の感情を整理しているようで俺は相槌を打つことしかできなかった。


「お父さんとの思い出とかはないんですか」


「そうですね…いつも言い争いしてたから。あ、でも」




少し目が輝く、輝いてまた一歩だけ。父親に娘が歩み寄る、十年分の距離が少しずつ埋まっていく。


「おにぎり」


「おにぎりですか?」



「おにぎり作ってくれたんです。いつもスーパーの半額の弁当ばっかりだったけど、たまに。真ん中にウインナーいれたり、ミートボールが入ってた。塩つけすぎなやつ」



思い出なんて、そのくらいです。そう告げた顔の輪郭が柔らかい。南雲さんはうれしそうに少しだけ頬を緩ませる。

敏行さんにも彼女の声は届いているはずだった。そう願ってあの時の矢場さんも声をかけたんだろうか。

「看護師の仕事が何かわかる?いろいろしすぎて、任されすぎてわからなくなるでしょう。ときどきね、代弁者にもならないといけないの。藤、あんたにもわかるときがくるわ。死ぬときぐらいいい気持ちで死にたいじゃない」と。そういったとき、あの人はこんな気持ちだっただろうか。



「敏行さん、娘さん来てくれましたよ」


「看護師さん?」


「娘さんと十年くらいあってなかったんですよね。会いにくかったと思うけど、きてくれましたよ。敏行さんのおにぎり好きだったんですって。急いできてくれたんですよ」


俺の言葉を最初驚いたように聞いていた南雲さんの目がだんだんと涙ににじむ。一度も涙を流さなかった人の涙が頬を濡らす。


「そう、そうだよ。お父さん」



「私だよ、私来たよ。お父さん、お父さん。いままでごめんね。おとうさん、しなないで」



体に触れる。力ない腕に娘のきれいに彩られた指先が触れる。「お父さん」そうこどものように父親にすがる。敏行さんの頬に彼女の涙が落ちて、まるで泣いているようだった。



敏行さんの心臓の動きが止まったのはそれから一時間後だった。

娘さんのメイクは崩れていて、素顔は幼い印象だった。戸惑う娘さんに対して葬儀屋さんなどの手配について矢場さんが伝えている間、俺は桜山と南雲さんの冷たくなった体をきれいに整える。乾燥した肌には汚れがこびりついていて、きれいにするのになかなか時間がかかった。向きを変えるたびに力の入らない体は勢いよく動く。死んだ人間の重みは何度経験しても冷たくて、現実的だ。


「娘さん納得してよかったね」


「まあ俺の対応のおかげだな」


「そんなわけなくない?」


「真面目に返すな」



体をふき、きれいなパジャマはなかったからさっきまで来ていた服を再び着せる。少しこけた顔に化粧水を塗りながら桜山はあきれたように告げる。


「この人も短かったねえ。入院して一日、二日?くらい」


「最初から峠みたいなもんだったし。それにまあ、この人にとっては価値のある時間だっただろ」



汚く、物の散乱した部屋で飾られていた写真立て。その写真の中にいた人物がだれだったのかそんなのわかりきっていることだった。




部屋に明かりをつけ、いつも通り冷えたチューハイの缶を手にする。その時にいつもは見向きもしない炊飯器に視線が行く。その中にはちょうど一人分くらいの白米。不意に思い出すのは、南雲さんの声だった。

冷蔵庫の上段にストックにされていたウインナーに切れ目を入れて、適当に油を引いたフライパンの上に放つ。暑さに驚いたように、鉄の上でウインナーが躍るたびに油が跳ねていく。その粒子を目で追っているうちにほんのりと焦げ目をつけ始めたウインナーを、適当に皿に上げる。

湯気をまとったウインナーを見ながら思い出すのは、あの親子のことだった。

白い布で包まれた父親の体をみて「意外に小さいですね」と、そう告げた娘の顔はこの湯気の向こうの世界くらい穏やかだった。

蛇口から出して冷水で手を冷やし、かけてあった乾いたふきんで軽く手を拭く。前に調理実習かなんかで水が多すぎると水っぽくなるし、湿気がないと塩がなじみにくくなると習ったような気がする。

塩をなじませた掌の上に白米を置く。熱い白米を転がすように手のひらの中で握っていく。少し形が整ったところでウインナーを真ん中に埋め込むようにし、そこに白米を足していく。三角形、になるかと思ったがならない。不格好な丸いおにぎり、形だけは何とか整ったが、中の具を隠すようなおにぎりは大きい。敏行さんの武骨な手で握られたおにぎりは、こんな風だったのだろうか。

口を大きく開けてかみつく。塩っけの多い表面のご飯を頬張っているうちに、肉汁がじんわりとにじんだご飯が現れてくる。口の中に塩っ気と油のうまみが広がって空腹で軋んでいた腹の中に広がっていく。

時計を見れば深夜三時。もう夜というより朝が近い時間に食べるおにぎりは、陽だまりの中の味がした。

妙に塩味が強すぎて何だか涙が出てきた。明日も12時から仕事だ。明日は検査も多いし、病棟が忙しいことなど全く配慮されない緊急の入院もたくさん来るだろう。もう看護師になって三年たつが、いつまでもこの忙しさは割に合わないと思う。誰かの死を振り返る間もない、立ち止まることもできない。そう思いながら涙をぬぐった。明日は久しぶりに自分で弁当でも作ってみようと思いながら、残りのおにぎりを頬張った。

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