第2話 先輩と後輩と残業確定の休憩プリン
ビビデバビデ、アブラカタブラ、テクマクマヤコン。幼いころによくつぶやいていたおまじないにも似た魔法の言葉を思い出さなくなったのは、いつからだろう。
震える手で採血の針を握って、良く浮いた血管をもう一度確かめるようになぞる日比野さんに「触っちゃったから、もう一回消毒して」と小さい声で伝える。細い体が揺さぶられたように揺れる。振り向いて、震えた瞳で私を見つめる。
今にも泣きそうにまつ毛が揺れるのを見ていると、いじめているような気持ちになる。血管をよく見るために血液の流れを遮る駆血帯を巻いてから、何分経っただろう。日比野さんは私のほうを向いたまま、動かない。私も見つめ返すことしかできない。横になる患者は目をつぶったまま、何も言わない。
「…できないです」
「交代するね」
何回めかの流れにそって針をセットする。逃げるようにどける日比野さんと、患者さんのベッドの間に自分の体をすり込ませる。アルコール面で軽く浮き出た血管を消毒して、刺す。少し黒い血が針の先を満たして、それを合図にスピッツを差し込む。三本あったスピッツにあっという間に血がたまっていく。患者さんは何も言わずに、ただ安心したように腕の力を緩ませる。
「終わりましたよ」
「わかりにくい血管でごめんね」
農家をやっているという梶村さんの血管は、駆血帯を巻かなくてもよいくらいに浮き出ていてる。
申し訳なさそうに眉を顰める梶村さんにも、病室の隅で小さくなっている日比野さんにもなんて言葉をかけていいのかわからなかった。教育の研修ではこの後、技術の振り返りをするのが良いなんて言っていたけど、何を振り返ればいいのかすらわからない。
針さすの怖いよね、でも必要なことだからね、なんて。そういう風に声をかけて大丈夫なんだろうか。
日比野さんは何も言わずに採血の道具をたくさん乗せたワゴンを押す。私はその後ろをついていく。落ち込んでいる新人にどんな声をかけていいのかマニュアルがあるのなら、教えてほしかった。
「上社さん」
声をかけてきた日比野さんの顔はよりいっそう白く、むしろ青白い。緊張しちゃうよね。患者さんにはキチンと接しているし大丈夫だよ。そう何度も声をかけるのを趣味レーションして、でも実際には下を向く日比野さんにどう声を掛けたらいいのかわからなかった。
「今日も採血できなくてすいません…これじゃ夜勤とかできませんよね」
「また次頑張ろう。次はうまくできるといいね」
日比野さんは頷いてワゴンを片付けに行く。次はうまくできるといいねなんて、ありきたりだっただろうか。日比野さんの小さくなっていく背中を見つめていると、うまくできなかったな、落第点だと思った。
日比野さんの採血がいつまでも合格できないように、私も指導者として不合格だといわれている気がした。
「またできなかったの?」
後ろから声をかけてきたのは、師長さんよりも主任さんたちよりも病棟を知り尽くしている矢場さんだった。濃いアイシャドウに飾られた瞳が困ったように細められる。
「はい…まだ怖いんですかね」
「一回とれれば自信になるんだけどね…あの子もあなたもね」
トン、と。勇気づけるように背中を押される。今年から教育担当になった私とは違って、慣れている矢場さんはこういう経験を何度もしてきたのだろうか。
体を吹いたたり、血圧を測ったりすることとは違う。患者さんの体を傷つける行為だから緊張するのだ。それはわかっていても、いつまでもそれでは困る。看護師なんて採血と点滴の針の留置ができないと成り立たないのだ。それは日比野さんもわかっているはずだ。
「俺の時なんて矢場さんに怒鳴られながら採血しましたけどね、上社さん優しいのになんでですかね」
矢場さんが去った後に話しかけてきたのは、聴診器を首に引っ掛けながらだるそうに歩く藤くんだった。ゆるめにパーマをかけた髪の毛をいじりながら、小さくなった日比野さんの背中を目を細めて見つめる。
藤くんはポケットの中でうなって彼を呼び続けるピッチの受話器のボタンを乱暴に押すと、ため息を吐き捨てるように空に放つ。
「さみしいからってナースコール連打するような人の相手しながら採血しないといけないのに」
「今日もすごいねえ」
鳴りやまないナースコール。私たちを呼ぶ人たちの部屋番号が表示される画面を藤君はめんどくさそうに見て、振り分けていく。
行くべき人とそうじゃない人を振り分けて、彼は仕事をこなす。
「日比野って俺の学校の後輩なんですけど、頭はよかった気がするんですけどねえ。度胸ってやつなんですかね最後は」
藤くんは聴診器の位置を直しながら、日比野さんへの意見をつらつらと述べ始める。新人に対するこういう文句を聞くのも指導者の役目なのかな。そう思いながら藤くんの横顔を見つめる。
その時だった。いつも鳴りやまないピッチの音が変わる。いつもの振動とは違うリズムが胸を揺らす。慌てたようにピッチを手に取った藤くんが、表示された部屋番号も見て走り出す。
そのあとに続いて足を動かす。表示されていたのは、さっきまで私たちのいた梶村さんの病室番号だった。
ナースコールには二種類ある。患者さんが看護師を呼ぶ一般的なナースコール。それからもう一つが、看護師が看護師に応援を呼ぶ緊急のナースコール。
この音に気づいたら全員が走り出す。今日もそうだった。私と藤くんがたどり着いた時にはもう何人か集まっていて、星ヶ丘さんが「私先生に報告します」と血圧計を加圧しながらピッチでなれたように番号を押し、通話をはじめている。矢場さんが点滴の速さを全開にして「個室一個空いてたでしょ?そこに移動するから」と指示を出すのに伏見さんがはじかれたように、うなずいている。
「日比野さん!病室きたの何時ごろ!?」
患者さんのベッドで先ほどとは違う様子で体を小さくしているのは、日比野さんだった。「三分くらい前です」と話す声は震えている。
星ヶ丘さんはそれを時刻に直して電話の向こうの意思に伝える。徐々に声色が険しく、声が大きくなっていく。
「点滴全開で採血追加。準備でき次第、MRIですね。」
「個室準備できてます!梶村さん!胸に心電図つけるよ」
「個室に移す前に検査行くよ。伏見さん酸素ボンベもってきて!日比野さんは」
「わ、わたし」
震えながら患者さんを見つめていた日比野さんがスポットライトの当たらない病室の隅から、立ち上がる。
一度大きく深呼吸して、彼女さんは意識のない梶村さんを見つめる。「わたしが」そう日比野さんがつぶやく。まっすぐに患者さんを見つめながら、彼女は体を動かした。
「採血します」
持っていた駆血帯を梶村さんの腕に慣れた手つきで巻く。藤くんはほかの看護師が用意してきた追加のスピッツを、少し悩みながら日比野さんの手元に置く。大丈夫かと語る目が日比野さんを見た後に、私を見つめる。日比野さんがどれだけ練習したのか知っている、私は知ってるんだから。だから私がいうことなんて一つだった。
「日比野さんいつも通りにやれば大丈夫だよ」
「はいっ!」
震えた指先を自分の手で抑えながら、日比野さんが血管に針を刺す。血管に入ったことを示す針先にあつまる血がないことに彼女は一瞬、目を見開く。
そのあと、ぎゅっと目をつぶって針先を動かす。血管の壁に当たっていただけの針はすぐに血をスピッツの中へと運ぶ。
「検査の準備できたよ!」
すべての追加の採血が完了したのと、矢場さんの声が聞こえたのは同じタイミングだった。
星ヶ丘さんがベッドのロックを外してベッドを押そうとする、藤くんも一緒に検査に行こうとしているようだった。
「私と日比野さんで行くよ。日比野さん受け持ちの患者さんだから行くよ」
日比野さんはもうおびえていなかった。しっかりと患者さんの顔を見てから頷く。
「はい」
そう力強く答えたの彼女の視線の先には患者さんがいて、その眼は力強かった。
「いやあ、脳梗塞とかじゃなくてよかったですね。一過性の意識消失」
「いやいや、原因がわからないほうが怖いだろ。」
朗らかにほほ笑む星ヶ丘さんを藤君はあきれたように笑う。個室に入った梶村さんの心臓の動きは規則正しく、ナースステーションでそれを見つめる日比野さんは何を考えているのだろうか。乱れることのない波形を彼女は息をのんで見守る。脈拍の動きが少し早くなるたびに、彼女の小さな体が揺れて。また元に戻ると、安心したように肩の力が抜けている。
17時チャイムが鳴って、何人かのため息が漏れる。矢場さんが手をゆっくり洗って、休憩室のカギを取る。
「矢場さんもう終わったんですか」
「私は今日深夜入りだから。それじゃあお疲れ様」
星ヶ丘さんがいいなあ、とつぶやいてパソコンに向かう。日比野さんはぼんやりとしていて、みんなもう記録をかいているのにまだモニターを見つめていた。
「日比野さんと上社さんちょっと休憩したら。冷蔵庫見てね」
そう言って矢場さんが去っていく。日比野さんが急に呼ばれた自分の名前に驚いたように振り向いて、目が合う。
「ちょっと休憩しようか」
「は、はい」
日比野さんははじかれたように私を見る。
矢場さんが作ってくれた会話の糸をうまくつかむことができた。
休憩室に行って、ソファに座る日比野さんは疲れたようにため息をついて、「すいません」と焦ったように口にする。それに曖昧に笑って、矢場さんに言われた通り冷蔵庫を開ける。
イチゴ味のプリンとバニラビーンズのたくさん入ったプリン。一個200円くらいするプリンが二つ、真ん中の段に丁寧に並べられていた。
「差し入れかな。日比野さんどっちのプリンがいい?いちごと普通の」
「えっと、普通のでいいです。イチゴ味食べれなくて」
「そ、そっか。じゃあ私いちごにするね」
丁寧にスプーンも添えてあるところが矢場さんらしい。
プラスチックのスプーンとプリンを手渡すと、日比野さんがうれしそうに微笑む。横に座って、丁寧な包装紙を外す。
ピンク色に染まった滑らかな生地からは一足遅い春の香りがして、スプーンですくうとき薄いバニラの膜がスプーンに重みをもたらす。
スプーンですくわれた部分から苺の香りとバニラのにおい、卵の優しい香りがする。口の中に含むと、よく冷えた食感は滑らかに口の中で広がる。口の中で味が広がって、疲れていた足先にまで広がっていく感じがする。ごくん、と一口飲みこんで、横を見る。日比野さんは目を輝かせて、パクパクと口の中に甘さを運んでいる。
「おいしいです」
「おいしいねえ」
ふふ、と笑いあって。また小さな容器に詰められた幸福を掬う。プリンの容器が空になるころに日比野さんがぽつぽつと話し出す。
「梶村さんが急変したって気づいたとき、おまじないをかけたんです。暗示っていうか、神頼みっていうか。自分の中での話ですけど」
「え?」
「私が採血うまくできたら…梶村さんがたすかるって。そしたら、できたんです!あんなにできなかったのに、うまくできたんです」
日比野さんの瞳に光が混ざって、楽しそうに輝く。頬はうれしそうに上気していて、明るく笑う彼女を初めて見た気すらした。
「す、すいません。人の命の危機なのに…他人任せみたいなことして」
日比野さんが申し訳なさそうに肩を落とす。ううん、と首を振ると彼女と目が合う。
人の命を救えたことに輝く瞳に私が移る。
不意に、初めて心臓マッサージをしたときのことを思い出した。人の体が自分の力ではねているときの感覚、怖いくらいに息が詰まった時のあの新人の時。
ああ、そうだ。私は何を考えていたのだろう、何を願っていただろう。アブラカタブラ、ビビデバビデ、そう頭の中で何回もつぶやいていた。心臓の波形を示す音と、頭の中で魔法の呪文が混ざっては、汗が滴り落ちていったあの時を思い出す。きしり、と手の中のプラスチックの容器が音を上げる。
「私もちょうどこのくらいの時期に、新人の時にね、初めて心臓マッサージしたの。その時、私魔法の呪文必死に頭の中で唱えてた。」
「そうなんですか?」
「昔好きだったアニメの。懐かしいなあ、ふふ」
「なんか変な感じですね。私、先輩の新人の頃の話聞きたいです」
「うーん、初めての夜勤の時にね」
いつも早く進む時計の針がなんだかわざとらしくゆっくり歩いてくれている気がした。
新人の頃、どんなだっただろう。そう思い返して、たわいもない話をする。日比野さんにとって、この時間が何年目になっても思い出せるような日になりますように。そう願って幼少期の思い出のまじないをつぶやいた。
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