では、桜の下で

明里 好奇

第1話 桜の木の下のお兄さん


  あの桜は、今もあの日と変わらず美しく咲き誇っているのでしょうか。白く光るような、大きな桜の森の中に、私の居場所はあるんでしょうか。






 ある年、桜の森のひときわ大きな桜の木の下で、男の人が立っているのを見つけた。彼は目立っていたからよく覚えている。真っ黒の髪の毛に、濃紺の着流し、足元にはなぜか黒光りするブーツ。

 長身痩躯の立ち姿ですら、美しいと思った。


 桜が咲くころに現れて、桜が散った頃にはいつの間にか消えているのだ。桜の木の下を見ておかしいなと思ってはいるものの少しずつ、日々の出来事に埋もれていき忘れてしまう。次の桜が咲いてからやっと、彼のことを思い出すことが出来た。

 桜の花弁が舞う中、彼は木の下に立っていた。誰かを待つように、桜を愛でるように。


 風が吹いて、咲きだした桜の木と彼の髪や着物の裾が揺れる。その様子を見ていたら彼と目が合った。その時、彼と目が合ったのはこれが初めてだったと僕は気が付いた。時間の流れが止まった気がしたし、その中に二人だけになったような気がした。


 混じりけのない、深い黒だと思った。彼の肌はとても白かったから、余計に彼の髪や瞳の黒は際立って映えて、僕の目に焼き付いた。




 桜が咲いている期間だけ、彼と会うことができた。彼は桜の妖精のような存在だと僕に説明した。僕はそのままを受け入れて、彼と一緒に桜の木の下で同じ時間を過ごした。

 そんなある日、まだ薄暗い早朝彼が項垂れているのを見つけた。同じ木の下、彼の細く白いうなじが、良く見えた。早朝の冷え込みに目を覚ましてしまった僕は、普段と違う彼の姿を見つけて、走り寄った。


 彼は右の肩を強く握っていた。うっすらと汗が頬に光って、額に黒く長い前髪が張り付いている。そっと持ち上げられた彼の白い顔が、少しだけ緩んだのを見て泣きそうになった。

「どうしたの、痛いの?」

 桜の妖精にも、痛みはあるんだろうか。それでも確かに痛んでいるような気がした。力もなく吐き出された吐息に、肩が震える。どうか、なんでもないと言ってくれ。

「なに、大丈夫さ。聴いた話だが、私も昔は人間だったらしくてね。その名残のようなものだよ」

「お兄さん、人間だったの?」

 僕は彼の背中をそっと撫でた。触れるだけで、痛みを増してしまわないか、心配になりながら。いつもより寂しく見える広い背中は、撫でられても逃げたりしなかった。

 額に張り付いた前髪を払いながら、彼はゆっくりともう一度息をついて力を抜いた。今度の声は、少しだけ普段通りに近いものだった。

「ああ、まだこの国が戦をしていた頃のことさ。凝りもせず国盗り合戦をするくらいの昔。その頃、私はここで息絶えてた、らしい」

「らしい?」

「桜が散りだしたら毎年少し思い出すんだがなあ、眠りから覚めると忘れてしまって居るのだ。眠って起きたら、夢を忘れてしまうのと同じように」

 彼は懐から煙管を取り出して、草を詰めて火を入れた。煙をくゆらせて、紫煙を吐き出す。らしいということは、彼にそれを教える存在がいるということか。もしくは花が散りだした頃に思い出して、散ってしまったら眠る。すこし寂しい気がした。

 彼が右腕をそっと持ち上げた。ゆっくりと肩を回して、指を開いて閉じて。動かせることを確認して、僕を手招きした。先ほどの光景を目の当たりにして、僕は素直に隣に座ろうとは思えなかった。

「大丈夫、痛いわけではないんだ。私はもう生身の人間ではないから、『痛い感覚を覚えていてそんな気がしているだけ』なんだと思うから」

 おずおずと彼の隣に座る。桜の木の幹と根っこは、ごつごつとしていてそれでもどこか優しく感じた。彼が羽織を脱いで僕の肩にかけてくれる。彼には“人に近い熱”がある。だから、肩に彼の熱が伝わった。彼の横顔を眺めてみる。どこか涼し気に見えるから、暑かったのかもしれない。

「去年の秋、枝を切られたんだ」

 彼はそういうと、煙管の先を桜の木の上方を指した。彼の木は大きい。道路に面しており毎年素晴らしい桜の花を咲かせて、人に春の到来を告げてくれる。

 なのに、どうして彼の木の枝を切らねばならない……?

「怒るな怒るな。私が大きくなりすぎたのだ。道路の標識が見えなくなってしまうから、今はまだ花だから良いとしても、花が散れば次は葉を茂らせることになるだろう。標識が見えなければお前たちは困る。お前たちが困るのは、私も困る」

 彼は当然のことのようにそういうと、また煙を吐いた。吐き出された紫煙は、ゆっくりと立ち上り咲いた桜の薄い白に馴染んでいった。

「でも、痛いんでしょう?」

 僕らのせいで、彼が痛いなら。僕は彼に謝らないと。そう思ったけど、そうでもないらしい。

「枝を切られるのは、やり方さえ間違わなければ必要なんだよ。大きくなりすぎないように、綺麗に咲いて観てもらえるように、枯れてしまわないように」

 彼は少し節の目立った指を折りながら、説明してくれた。

「人間の散髪と同じさ。往来に面してここに咲いている木だから、ちょっと手を入れてもらわないといけない。ちゃんと切る時期も考えて切ってくれた。枯れることはないさ。現にこうやって咲いている。今年も見事なもんだろう?」

 困惑しだした僕を落ち着けるように、ゆっくりと彼は話してくれた。そうだったのかと、自分の無知を責めた。だって、桜の木は切ったら腐っちゃうっていうじゃない。それだけの軽い知識だったということだろう。

 張り詰めていた緊張が、彼の声でゆっくりと解かれた。息をつくと、少し暖かい陽の香りがした気がした。辺りは明るくなっていた。もうすっかり、夜が明けていた。

「痛そうで、びっくりした」

 立てた膝に顔を埋めた。うつむいたまま、少しずつ吐いていく。

「汗までかいてさ、痛そうだった」

「どうしたらいいかわからなくて、僕こわかった」

「おにいさんがいなくなっちゃうのかと思って、すごくこわかった」

 ひとつずつ吐き出すのを、お兄さんは黙って拾い集めてくれていた。頭の上に暖かい掌の感触。お兄さんの掌が乗っている。ゆっくりと動いて、短い髪を梳いていく。

「驚かせて、悪かった。人間だったころの痛覚を忘れ切れていなかったようで、そんな気がしていたんだ。何のことはない、幻肢痛のようなものだ。もしくは深爪」

「深爪ぇ?」

「そうだ。だから、泣くなんてもったいない」

「泣いてなんかない! 優しくするな!」

「優しく?」

 彼は首を傾げている。頭を撫でるな。それも慈しむように。それが優しくないとしたら、いったいなんなんだろう。

 小さく笑んで、「何を言っているんだ」と言ってから、

「お前が私にしてくれていたことを返しただけだ。問題なんてないだろう?」

 いたずらを思いついたような顔をして、彼は笑んだ。よく考えたら10数年しか生きていない人間の若造が、数百年を(桜の咲いている時期だけだとしても)生きている桜の木の妖精に勝てるわけがないのだ。僕は吹き出すように笑うと、ため息をついた。

「よかった。今は痛くないなら、それでいいや」

と、言って次に彼と一緒に何を食べようか考えた。




 桜の花は、どれだけ時間が経っても同じように咲いているんだろうか。彼がこの木の下で、息絶えたその日も、同じように美しく咲き誇っていたんだろうか。

 桜の花を愛でながら紫煙を燻らせる彼の横顔を眺めていた。



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