歪み

りんこ

第1話


河原でススキが揺れていた。

塾が休みの日の放課後、土手小学校六年一組、出席番号二番の岩本成美は多摩川の土手でタイツにスカート、ピンク色のダウンジャケットを羽織り、坂の上の歩道に自転車を置き、一人。長いススキを一本手にして下の河原を歩いていた。

「わたしは美少女剣士、ボニータ……この世の全ては美しい、だから悪は許さない」

成美はススキを振りながら、ひとりごち、ポーズを決めていた。

土手の端には、濡れた雑誌がしわしわになって落ちていた。ちらと目を寄せると雑誌の中では裸の女の人が豊満な胸を寄せている。

見てはいけないものをみたような気がしたが、目は卑猥な記事を載せている雑誌にくぎ付けになってしまっていた。

が、水浸しで汚そうなので、近くには寄らず、遠目からしか見なかった。

ススキを振りながら「あなたは突然 ♪ 私の前に現れる、ねえ一体誰? わたしの名はそう、ボニーター ♪」と、アニメの主題歌を歌いながら歩いていたら、耳の中に五時の鐘のメロディが飛び込んできた。

「げ、ヤバい!」

思わず大きな声で口にだしてしまった。

最終門限の……五時になっていた。自分の体内時計ではまだ、四時半のつもりだった。

急いで帰らなければならない。

どうしよう……。

ここからどう頑張っても家まで、十分以上かかる。

成美は、頭の中で言い訳を沢山考えた。

今日は塾の無い日だと、祖母は知っている。

塾の無い日の帰宅が、五時を一分でも過ぎると、機嫌の悪いときの祖母は激怒し、成美をキムチ用の干した大根や白菜で殴るのだ。

運悪く、今日の祖母は、朝から機嫌が悪かった。

また、父が酔っぱらって、祖母に迷惑をかけたとかで、朝ご飯のときから、キムチ納豆をかき混ぜる姿が怒りに満ち、機嫌が悪いことを身体全体から放出させていた。

このままでは確実に殴られる。こわい。どうしたらいいのだろうか。

……そうだ! 怪我をしてしまえばいいのではないのだろうか。

土手の上を見上げる。あそこから自転車で落ちて、助けを呼んだが、助けがなかなか来ず、帰るのが遅くなってしまった。

よし、それでいこう。

と、成美は決心し、歩道まで登って自転車に乗った。

自転車にまたがり、手を離して思い切り斜面を下る。自転車の車輪が斜めになって、盛大にスッ転ぶことができた。

車輪が勢いよく回って、ペダルが成美のアキレス腱に直撃した。

「うぎゃ!」

叫ぶほどに痛かった。

タイツを履いているので、アキレス腱がどうなっているのかがわからないが、じんわりと浸みるものがある。

タイツの上から、指を触れると、指先が赤く染まった。

切ってしまった……。確実に切ってしまったと成美は感じた

くううううう。

と、成美は、痛さに顔を歪めた。うかつにも、本気で怪我をしてしまった。

かすり傷程度ですませるつもりだったのに。タイツの為、脱いで傷口を確認することはできないが、感触からして結構な切り傷になっているのではなかろうかと予測した。多分、パペットマペットの口みたいにぱっくり開いてしまっている。

先日、テレビのロードショーでやっていたホラー映画の中で、おじいさんが、悪魔になってしまった子供にアキレス腱をナイフで切られていたのを思い出した。あの傷口は、まさにパペットマペットの口みたいだった。

成美は椅子の曲がった自転車を起した。ハンドルも曲がっていた。

困った。

かすり傷程度で、自転車も壊す予定ではなかった。

歩くと、アキレス腱がジンジン痛む。

空からは、闇が落ちてきていた。ふっと、大きく風が吹いて群生しているススキが揺れた。

「ああ、……ああん」

ススキの群れの中、猫のような女性のような声が聞こえた。そして、同時にはぁはぁと、獣のような息遣いも聞こえる。

――なにか、いる。

まさか、ライオン?

ライオンが逃げ出して女の人が食べられているのか? それか、捨て猫が鳴いているのか……。いや、そんなわけがない。

卑猥なにおいがする。

成美は固まった。

そっと、ススキの隙間から声のほうを覗くと、そこには、制服を着た男と女が寝ころび重なり合っていた。

男は、ズボンとパンツを下ろして、女の上で揺れていた。女の下半身に乗った、ぷりんとした丸くて黒い筋肉質な尻が、なんだか小さなバスケットボールのように見えた。

男は成美の視線に気づき、動きを止め、ズボンをあげずに立ち上がり、こちらに向かって叫んだ。

「なんだ、ガキかよ、もう、暗いんだから、早く帰れ、あぶねーぞ」

「なに? もしかして、ナルじゃん、なんでこんなとこいんのよ、ちょっとやだー、ウケるんだけど」

起き上がった女は、よくみると、近所に住む幼馴染の晴美姉ちゃんだった。

「なんだよ、知り合いかよ、おい、子供は早く帰れ、人にいうなよ、お母さん心配すっぞ」

「ナルはお母さんいないんだよ、タカユキ、まず、チンコしまいなよ、教育上よくないよ」

言いながら晴美姉ちゃんは、くすくすと笑っている。

「馬鹿、いいんだよ、性教育だよな、ほら、お兄さんとお姉さんはセックスをしているんだから早く帰れ」

成美は固まったまま、「あが、あが」と、言いながら、動こうとしたが、うまく言葉を発せないし、びっくりして足が動かない。

晴美姉ちゃんにタカユキと呼ばれた男は、美しい顔をしている。土曜日六時から放映中のアニメ『獣王の決戦』の、獣王三人衆、チェーン使いの飛鳥シャンディに似ていた。

晴美姉ちゃんの彼氏なのかな……。

晴美姉ちゃんは、痩せていて色素が薄くて近所でも評判の美人だ。でも、中学の途中から髪の毛を金色に染めたりピアスを開けたりして、グレて、問題児に思われている。

美しい男、タカユキの股の間には、赤黒い蛇がいた。

あれが、チンコというものなのか……。成美は激しい胸の鼓動を感じると同時に、とてつもない畏怖を覚えた。

なんて、恐ろしい形をしているのだろう。

性器は保健体育の教科書に載っている断面図と違い、太くて黒くて三角の頭が上を向いていた。

「あが、あがえりります!」

はい、帰ります! と言ったつもりが舌のもつれで意味不明の言葉になった。

「あっはっは、なにいってんのか、わっかんねーし」

と、晴美姉ちゃんとタカユキが、どっと笑った。

蛇に睨まれ混乱した成美は、ずきずきと痛むアキレス腱をかばうようにして早足で自転車を持って歩き、土手の坂を上って行った。

絶対、アキレス腱、割れている。絶対アキレス腱は割れている。思いながら、無事、土手の上について、自転車にまたがった。

椅子もハンドルも籠もいろんなところが曲がっていたが、自転車はふつうに漕ぐことができた。

もう、夕日はすっかり影を潜め、道路には街灯がついている。

冬の夜の街を自転車で走る。酒屋の電気がついて、自動販売機が光っている。

晴美姉ちゃんは成美の家の四軒隣にある『四千里』という焼肉屋の娘だ。晴美姉ちゃんは、小さい頃、学童保育が一緒でよく遊んでくれていた。晴美姉ちゃんが中学に入ってから、あまり会わなくなってしまったけれども、成美は、綺麗であっけらかんとして頼りがいのある晴美姉ちゃんに憧れていた。

『四千里』の前を通ると、たれに漬かった肉が焼けるいい匂いの煙が沢山たちのぼっている。

中から酔っぱらいの団体客の笑い声が聞こえてくる。

楽しそうでいい気なもんだ、と成美は嘆息をついた。

こんなずたぼろの自転車を持って帰って来て、祖母は怒るだろうか、心配してくれるだろうか。いや、心配してくれるわけはないが、けが人だから叩いて怒るのはやめてくれるだろう。賭けだった。が、アキレス腱が切れているのだから、きっと怒らないでいてくれるだろう。

成美は家の少し手前で、足をひきずる真似をしながら、自転車を押し家へと急いだ。

タカユキ。姿形は美しい男だった。が、あの、赤黒い蛇のような性器には、見られると石になって固まってしまうようなとてつもない恐ろしさがあった。

セックスというものは知っている。父の持っている漫画で読んだこともある。でも、あんな赤黒い蛇は漫画にはでてこなかった。

セックスをしている男の股はいつも光っているか、天狗だった。

ぞわりと、背筋が凍るような感じがした。タカユキの蛇が恐かった。

家に着いてすぐに、険しい顔をして待ち構えていた祖母に遅くなった理由を聞かれ、成美は土手から転んで落ちてしまったことを話した。

タイツを脱いで怪我した個所をみてもらったが、ほんの少し皮膚が切れていただけで、アキレス腱は切れておらず、血も止まっていた。

祖母は、壊れた自転車を見て、呆れていた、思ったよりも怒っていなかった。

「でもなんで、そんなところから落ちるんだい、普通に運転していたら、落ちないだろ、おかしいだろう」

「なんか、犬が飛び出してきて、避けたら……滑っちゃった」

祖母は、大きな嘆息を漏らした。嘘に気付いているようだった。

殴られなかったことにほっとしたが、そのかわり、冬休みの間、塾以外の外出禁止命令が出された。

まあ、遊びに行く友達もいないから、特に不自由はないけれども、ずっと、祖母の監視下にいるのは苦痛だ。

殴られたほうがましだったかもしれない。

「おお、成美、お前、自転車で、転んだんだって? どうせ嘘だろ、わざとなんだろ」

台所でイカをあぶっていた父に言われて、かっと、顔が熱くなる。

「嘘じゃないもん、本当に転んだの」

「どうせ、ばあちゃんに怒られるから、自分で転んだんだろう」

本当のことを指摘されて、悔しさに涙がでてくる。

「嘘じゃないもん」

「成美は、嘘つきだからなぁ、どうして、そんなに嘘つきになっちゃったんだろうな」

父はすでに相当酒を飲んでいるようだった。顔が赤い、煙草をくわえ、紫煙をくゆらし、祖母に「馬鹿! 外か換気扇の下で吸えって、いつも言ってんだろ!」と怒られ、しぶしぶ灰皿とワンカップを持って換気扇の下へと移動していた。

思春期だからか、成美は、最近、父のことを気持ち悪く感じてしまう。

昔は父のことが大好きだった。小さい頃は父と遊ぶのを心待ちにしていた。

父は、背が高く筋肉質で顔も変ではない。だが、おなかだけがぽっこり出ていて、酔うとつまらないダジャレを言ってくる。

成美は父が四十歳の時の子供だから、もう、五十二歳になる。

自営で非鉄金属を扱う肉体労働をしているからか、腕の筋肉が盛り上がっていて、小さい頃は、ポパイみたいな父の腕にぶら下がるのが成美の楽しみだった。

そういえば、父の股間の間には、力のない象がいた。

風呂上がりにみたことがある。もじゃもじゃとした毛が生えた鼻と耳の長い象の顔がいた。象のこともちょっと気色悪いと思っていたけれども、タカユキの蛇の怖さは別格だった。

男性の性器は、皆、動物に似ているのだろうか。

もう、何年も前から茅ケ崎の介護老人ホームに入っている祖父の股には柔らかそうな袋に入ったクルミがふたつぶら下がっていた。まだ母が家にいたほどに幼い頃だったからか、祖父の性器は全く怖くなかった。

動物とは限らないのかな……。成美はタカユキの股座についていた蛇をまた思い出してしまった。なんだか、手がもじもじ痒くなって吐き気がした。

夜、風呂に入りながら、成美は自分の股間を見た。ただ、まっすぐな線がはいっているだけだった。

風呂に入ると、うっすら切れたアキレス腱が湯にしみて痛かった。



成美の母は成美がまだ小さな頃に家から出て行き、成美の前からいなくなった。

父も祖母も在日韓国人で、町工場を営む成金だった。

母は九州かどこか、成美の知らない土地出身の日本人だった。

母は父と年が二十歳以上も離れていて、成美を産んだ時、母はまだ十九歳だった。大学に行きながら学費を稼ぐために銀座のクラブでホステスをしていて、父は毎日のようにそこに通っていたのだと聞いた。 

父と母はできちゃった結婚をして、母は大学を辞めて専業主婦になったのだが、同居した祖母と性格が合わず、それが原因で出て行ってしまったのではないだろうかと成美は勝手に推測している。(真実は知らないけれども)

母のことはあまりよく覚えていない。だから、成美の育ての母親は祖母なのだ。

「あのバカ息子がおばあちゃんのもってきた縁談断ったから ……」と、今でも祖母は口癖のようによく言う。

「あいつがちゃんとおばあちゃんの言うこと聞いて、若いうちに韓国の人と結婚していたらね、うちは、もっと幸せで今頃もっと裕福だったよ、本当にいい縁談だったのに」

祖母の口からは悪口ばかり、毎日、よくぞそんなに飽きないのかというくらい飛び出してくる。永遠に続く、口から国旗が出てくる手品のようだ。

「子供なんかちっともほしくなかったけどさ、ハンメちゃんのために産んだようなもんだよ」

ハンメちゃんとは、祖母の母。つまり成美の曾祖母にあたる人だ。                                 


父は、子供の頃から、ほしくなかった子供だったことを祖母に言い聞かされていて、どんな気持ちだったのだろう。

『あなたが生まれた瞬間、ママは、本当の幸せがなんなのかわかったの』

一時期、柔らかそうな赤ちゃんを抱く綺麗なお母さんがそんな台詞を優しげに言う、鉄分の多く入った粉ミルクのCMがテレビで流れていた。

そのCMが流れるたびに

「こんなの嘘だね、あたしは産まれてきた子供の顔見た瞬間にさ、ああ、地獄のはじまりだと思ったよ」

と、いう祖母の言葉を聞いて育ったおかげで、そのCMのセリフが綿菓子みたいに甘いのに、すぐに溶けてしまいそうな儚いものに思えた。

母がいまどこでなにをしているのか、成美は全く知らない。

成美の家には、母が置いていった私物がいくつか残っている。

その中に、CDプレイヤーとCDがあった。

成美は、母の置いていったCDをよく聞いていた。

決して古いアーティストのものではなく、今も一線で活躍する『サッドマン』というアーティストの初期のアルバムなどだった。

成美は、父のいう通り嘘つきだから、今では友達が一人もいない。

成美は、目がぱっちりとしていて、鼻も顔も小さく、歯並びが良かったので、どこに行ってもかわいいと褒められるような子供だった。

だから、ずっと自分を特別な女の子だと信じていた。

テレビを観ていても、自分よりかわいい子役なんて出てこないし、いつか自分もあの中にいけるのだと思っていた。

だから、昼の番組でゲストに呼ばれたときの練習や、一人でラジオの番組の司会の練習なんかもしていた。

小学校三年生の時、『サニー』という子役がたくさん出演する有名なミュージカルのオーディションを受けたら書類選考に合格した。

打ち明けるとクラス中が湧いた。

「岩本さんがサニーにでることになったらみんなで観に行こう」

と、クラスのみんなが言ってくれていたが、都内で行われた二次審査ではダンスが全くできずに、落ちた。しかし成美は落ちたとは言えずに嘘をついた。

「本当は選ばれたんだけど、わたしから断ったんだ」

そこから、歪が生じてきた。

はじめは、友達が離れていった程度のものだったが今は、むしろ嫌われて、避けられている。

原因は、今年の夏に成美がしでかした『わたしには幽霊が見える』事件のせいだった。

テレビで、霊能力者の人が霊の存在を指摘しているのを見て、その特別感あふれる姿に成美は憧れ、自分にもその能力があると思い込んで『教室の隅に女の子がいつも座っている』と、発言したのをきっかけに、一時期、成美は再びクラスで時の人となった。

たまたま、十年以上前に、そのクラスに在籍していた女の子が病気で亡くなっていたらしく、クラス中がざわめいた。泣き出す女の子もいた。

そして、図書室に保管してあった歴代卒業アルバムを調べ、亡くなった女の子のお家にみんなでお線香をあげにいったりもした。

「どうか、やすらかに成仏してください」

と、教室の隅で、成美が考えたとんちんかんな呪文を唱え、皆でお花を供えてお祈りしたりもした。

六年ではじめて担任になった大橋久美子先生は、はじめはそれをみてみないようなふりをしていた。

今年一年目に土手小学校に着任したばかりの若い女の先生だった。

成美の思い込みは留まることを知らず、学校のどこに霊がいるのかを散策したり、いきなり、授業中、幽霊に憑依されたりする真似をするようになった。

ときに、それは、動物だったり、おじさんだったり、声色を変えて、皆を怖がらせた。

だんだんと、自分でも、芝居と、本当の区別がつかなくなっていた。

どこかで良心の呵責があった。

本当は、金縛りの一回にもあったこともない。

幽霊なんてみたこともない。

こうなったら、と、苦肉の策で特別な力を得るために、『本当にあった不思議な体験』という雑誌に載っていた『(にんげん)と百回唱えてから白い壁に思い切りぶつかると異次元の世界に行けて、特別な霊能力を得ることができる』という、行為に何度も挑戦した。

何度やっても異次元に行けないので、途中で『にんげん』が、『いんげん』という発音になってしまっているのかもしれない、

……とも考えたが、やはり、注意深くゆっくり発音してみても、ただ、壁にぶつかって痛いだけで結局異次元の世界には行けなかった。

成美は、「実は、幽霊見えるの、嘘だったんだ」の一言が言えなくなってしまっていたことに苦しさを覚えるようになっていたが、もう、憑依される人になりきるしかなくなっていった。

しかし、小学校六年生にもなると、まっとうな猜疑心を持つ子もいる。

――もしかしたらさ、岩本さんって虚言症なんじゃないかな? うちのお父さんに診察してもらいなよ。

言い出したのは偏差値の高い私立中学を受験予定でクラスの学級委員をつとめている優等生。

成美の家の近所に住んでいる沢井創くんだった。

沢井君とは、小さい頃は仲良しだった。

三年生のときの理科の実験で蚕を飼っていたときには、お蚕探偵団という二人だけの探偵団を作った仲間同士だったが沢井君のお父さんは精神科医で、沢井君もいつかは医者にならなければと、塾に通い勉強に勤しむようになり、最近はあまり話さなくなっていった。

沢井君の発言がもとで、幽霊事件は一気に終息した。担任の先生の悲鳴に似た嗚咽と、学年主任の先生の怒りの説教で終わった。

成美のせいで担任の先生は精神を病んでしまったそうだった。

授業中、いきなり学校の前で事故死したという犬に憑依され、「ワンワン!」と、泣き声をマネして机に乗っかり、四つん這い  で走り回り吠える成美。

五円玉をヒモに垂らしそれと闘うクラスメイト達。

先生は、もう耐えられない。と、悟ったらしく、沢井君のお父さんの病院で、自分のことを相談したらしい。

朝起きると、学校に行くのがつらくて、涙が止まらなくなるんです……。

大橋久美子先生は成美のせいで、うつ病になっていた。

うつ病と診断され、学年主任に相談し、道徳の授業は『岩本さんの幽霊が見えるという嘘の話を終わらせよう』という話し合いのためにつぶれた。

先生を困らせてしまったみんなが、学年主任の男の先生に怒鳴られ、男の子も女の子も、しくしくと泣いていた。

当事者である成美は、黒板の前に立たされて、謝るように促された。

それでも、嘘をついたとは認めたくなく、成美はいきなり身体を震わせて倒れ「さっきまでの記憶がなくなった」と、嘘を重ねた。

あのとき、一斉に見られた沢井君以外の六十六の冷たく呆れた瞳を忘れることができない。

沢井君だけは、ちょっと笑っていた。(謝っちゃえばいいのに)と、小さく口を動かされた。冷たく呆れられて見られるより恥ずかしかった。

成美は、親を呼ばれた。

丁度、都合よく祖母が晴美姉ちゃんのおばあちゃんと福島のハワイアンセンターに旅行にいっていたため、父が来てくれた。

迎えに来たのが祖母だったら、きっともっと大変なことになっていただろう。

父は先生たちに「いやあ、本当に、父子家庭なもんですから、いたらなくて本当にすみません」と、父子家庭を強調し、大げさに謝ったあと、成美を連れて、ワンカップを自販機で買い、飲みながら公園のベンチで煙草を吸って呆れていた。

「なんか、お前さ、やっぱりそういう病院みたいなので、脳波とかみてもらったほうがいいのかもな、本当にそういう嘘つき病かもしれないぞ」

父の言葉で、事件を演じて以来、ずっと、胸の奥に痞えていたヘドロみたいなものが胃からせりあがって来て、成美は道路わきの排水溝に盛大に吐いた。

「うわっ、きたねぇな、大丈夫かよ」

「でも、でも、本当に記憶がないんだもん」

成美は吐いた後、わんわんと泣いた。それでも、本当のことも、ごめんなさいも言えなかった。

認めたくなかった。嘘を認めるほど恥ずかしいことはない。

「まあ、おばあちゃんいないときでよかったよ、お前、学校では嘘つくのもうやめろよ、お父さんだって、仕事あるんだから、暇じゃないんだしよ」

父は顔を赤らめて、遠い目をしながら、成美の肩をさすり、なぜか帰りにコンビニで成美の好きなチョコレートのアイスを買ってくれた。


そんなわけで、成美はみんなから『虚言症』のレッテルを貼られ、沢井君以外のクラスメイト全員から避けられるようになるという暗黒小学校時代を過ごし(沢井君は勉強に忙しく、それどころじゃなさそうだった)六年の秋の日光修学旅行も、具合が悪いと嘘をついて、いかなかった。

もう、このまま地元にいたら人生終わりだと考え、地元から離れるためだけに中学は私立の女子中学を受験させてもらうように頼んだ。

祖母は成美の私立受験を賛成してくれた。成美の地元はあまり、治安のよくない場所だったし、在日の祖母にとっては『公立ではなく私立に行く』というのが一種のステイタスだったのだ。

(ちなみに父も中学から大学まで私立の一貫校で過ごしたらしい)

受験を決め、すぐに塾に通い始めた。

志望校は偏差値も高すぎず、低すぎず、比較的入りやすい女子校だった。模試の判定は少し勉強したらすぐにAになった。

制服も可愛いいと評判の学校だったので成美は受験を楽しみに塾通いに勤しんだ。

 

クラスで一人ぼっちでも、寂しくなかった。むしろ嘘をつかなくていいことに解放感を覚えていた。

もともと、一人でいるほうが性にあっていたのだ。勉強に飽きるとノートに漫画を描いたり鏡の前で本を音読して一人芝居をして遊んだ。

とにかく早く卒業したかった。

たまに、沢井君だけが話しかけてきてくれた。

「お互い、受験頑張ろうね」

沢井君が悪気があって成美の嘘を指摘したわけではないことは、よくわかっている。

ただ、嘘に絡められた成美を救ってくれようとしたのだと思う。

メガネをかけていて、顔のパーツが濃くて、真面目という言葉がしっくりとした顔をしている少しだけ活舌の悪い沢井君。

沢井君は、探偵団を組んでいた時、成美のことが好きだったことを、成美は知っていた。

こっそり盗み見した沢井君のノートの端に、小さく、『なるみちゃん好き』と書いていたのを発見してしまったのだ。

成美は、なんとなく、気まずい思いに駆られた。成美も沢井君と遊ぶのは楽しかったけれども、好きの種類が違うような気がして、今後、どう沢井君と接していいのか悩んでしまった。

だから、沢井君が塾通いで探偵団を抜けると言ったときに、少しほっとした。

成美は幽霊事件後、沢井君に話しかけられるたびに、黒くて重いどろりとした劣等感に心を覆われた。

沢井君の家は両親がそろっていて、お父さんはお医者さんで、お母さんは美人で、三年生の妹さんは可愛くて、沢井君には、つい癖で嘘をついてしまう成美の気持ちなんて絶対わかるわけない。

冬休みは外出禁止になって、自転車で転んでから土手に行くのも禁止され、受験勉強も佳境に入ると、赤黒い蛇を股に飼うタカユキと、金髪にしていた晴美姉ちゃんのことも、幽霊事件のせいでクラスでハブられていることも記憶から薄れていった。


そして、成美は二月に無事、都内にあるS女子学園に合格し春に入学式が行われた。

祖母は嬉しそうだった。近所の他の子と違う制服を着て、都内の学校に通っていることを誇らしげに電話で『四千里』のおばあちゃんに話しているのを聞いた。

祖母は時期になると『四千里』や、そのほかの焼肉屋にキムチを売って稼いでいた。祖母の漬けるキムチは美味しいと評判だった。

S女子学園は、家から電車で一時間もかかるので遠かったが、小学校のときの成美を知っている人がいなかったら快適だった。

人見知りの成美だったが、入学式の翌日にすぐに友人ができた。

セリーズ事務所の男性五人組アイドル『コインズ』というグループのファンクラブに入っているという安藤瑠香と、『フィフティ』というお笑いコンビのおっかけをしているという井上樹里。

席が出席番号順だったので、必然的に三人組になってしまった。

瑠香と樹里は若干、同じ匂いがするな。と、いうのが第一印象だった。

同じ匂いと言うのは、何か、あんまりいい匂いでもない。

決してラフォーレ原宿に行って服を買ったり、流行のパンケーキを大勢で食べに行ってインスタグラムにあげたり、耳にピアスを開けたり、制服のスカートを短くしたりしないような地味っぽい雰囲気。

「岩本さんはさ……なんか、趣味とかある?」

前の席に座っていた成美に聞いてきた樹里は、顔は悪くないが声が小さかった。背が高く小顔で、身体はやせぎすで眼鏡をかけている。聞き取りにくいぼそぼそとした声をしていた。よくみると、歯に矯正中の器具をつけていた。

「わたしは……」

自分自身がアイドルとか女優とか、漫画家になって有名になりたかったので誰かのファンになるという心理があまりわからなかった。

しかし、そんなことを言ったら初対面なのに心証が悪くなりそうだったので、『サッドマン』の曲が好きでよく聞いているのだと話した。

そっちのほうが大人っぽくてかっこいい感じもしたのだ。

『サッドマン』は、活動二十年にもなる息の長いアーティストで、CMやドラマでも曲が使われたりしていたので、樹里も、瑠香も、「あ、わたしもあの曲とか好き」と、話に食いついてきてくれた。

「岩本さんてさ、ハーフ?」

樹里に言われて、成美は、驚いた。

ハーフに見えるのか? 確かに、韓国人と日本人のハーフだけれども。

「え、ああ、まあ」

「やっぱり、色白くて鼻が高いから、ハーフなのかな?って、さっき瑠香ちゃんと、話してたんだ」

「でも、アジアだよ、韓国」

成美は、中学に入ったら、なるべく回収できないような嘘を吐くのはやめようと決めていた。

嘘の泥に足をとられ、本当のことを言えずに、裁判みたいなものにかけられ、被告人扱いされたりするのはもううんざりだった。

「えーすごい、韓流だー、岩本さん、成美って呼んでいい?」

少し太めで、背が小さく、顔のパーツの存在感が全体的に大きく南国の血をひいているような顔をしている瑠香に言われ「うん、いいよ」と、言わざるを得なかった。

その日の帰りは、三人でカラオケに行った。

カラオケはまあまあ楽しめた。友達とカラオケ……。

なんだかリアルに充実している人になった錯覚を覚えた。

瑠香が歌うコインズの歌も、聞いたことある曲が多かったので、手拍子もできた。

たまに、成美の知らない曲で、ふたりが盛り上がっていると、ほんの少し、腹の底で憎悪が湧いた。が、嬌声に紛れて憎悪はすぐに消えた。

成美の人生はいまからが本物なのだと思った。

電車に揺られて学校に向かう毎日。

成美は、入学祝いに祖母に手のひらサイズのウォークマンを買ってもらった。

授業で使うノートパソコンも買ってもらえたのでレンタルショップで持っていなかったサッドマンのCDを全部借り、ウォークマンに入れて聴きながら通学していた。

父からはスマホも買ってもらえた。部活に入ったと嘘をついたら、門限ものびた。

自由を手に入れ、心が跳ねた。

電車で本を読む女の子を演出したくて、古本センターに行き、十円で売っている文庫本を買い、電車で読んだりもしていた。

スマホをいじっているよりも本を読んでいるほうが、見ている人の心証が『知的な美少女』になるような気がしたのだ。

結局、そのまま部活には入らず、休み時間や放課後は瑠香と樹里と過ごし、楽しい学生生活の幕開けがはじまったと思っていた。

しかし、思春期だからか、予想外に成美の顔にニキビが出現しだした。

ひとつ、またひとつ。できるたびに、突起は赤く腫れ、中の白い膿が透けて見えた。

「にきびはつぶすんじゃないよ」と、祖母に当たり前のように言われていたが、赤い突起をみつけると、つぶしたい衝動に勝てない。

帰宅すると、成美はすぐに、鏡の前でニキビつぶしに勤しんだ。

鏡に飛散する血液、白い膿。

芯がでると、ほっとするが、つぶしたあとの頬や額はじんじんと痛んだ。

チョコレートをやめて、食生活にも気を付けて、夜更かしもせずにニキビ治療薬を毎日塗ったが、ニキビは治まらなかった。

瑠香も樹里も肌は綺麗だったから、成美の肌の悩みについて、あまりわかってもらえない。

「そのうち、治るよー」

と、あっけらかんと言われ、銀杏くらいの大きさの憎しみが沢山、ぽつん、ぽつんと出現した。

顔の造形は、二人よりも圧倒的に成美のほうが綺麗なのに、どうして自分ばかりが。

と、成美は瑠香と樹里を羨ましく、疎ましく思っていた。

早々とスカウトされて芸能界に行くはずだったのに・・・・・と、成美は自分の肌の醜さを呪った。

「ねえ、この先の目標とかある?」

昼休み、矯正器具が外れてコンタクトにして、少し活舌も見た目も良くなった樹里が、コンビニで売っている焼肉ピラフを食べながら聞いてきた。

雑誌モデルにスカウトされて、いきなり主演映画に抜擢されたい。CDも出したい。

成美は、そんなことを妄想していたが、こんな肌になってしまい、身の程知らずと思われたら嫌で言えなかった。

なので「人間ドラマニアの舞台を観に行くことかな」と、チケットの取れないことで有名な劇団の舞台を観に行きたいと、適当なことを得意げに言った。

(さすが、成美の趣味はみんなと一味違うな)と、思われたかったのだ。

しかし、瑠香と樹里の妄想(目標)は、身の程知らずなんて言葉はこの世に無いもののように思えるくらいに一枚うわてだった。

樹里は『フィフティ』のツッコミ、滝川くんの出待ちを続け、年齢を詐称し、カキタレ(お笑い業界用語でセックスフレンドのことらしい)になること……。

瑠香は『コインズ』の悠馬君にぶつかって、怪我したふりをして、悠馬君に『大丈夫?』と聞かれたら、『大好きな悠馬君に迷惑かけられませんから♡』と、笑顔で言いながらも、足が折れて立てないふりをし、結局助けてもらい(なんて謙虚で可愛い子なんだ♡)と思ってくれた悠馬君とラインのアドレスの交換をし合う。

というものだった。

「それ、超いい、まじ、いける、みんなそれぞれ頑張ろうね!」と、三人で手を合わせながら、成美は白けていた。

成美には二人の気持ちが全く分からなかった。そんなことになってなにが、楽しいのだろうか。

瑠香のはまだわかる。夢見る乙女だ。しかし、樹里の目標はちょっとおかしいのではなかろうか。

成美は、セックスと聞くと気持ちが悪くなる。父の漫画の卑猥なシーンや小説の中でなら読んでもなんとも思わないけれど、生きている人間がセックスをしたいと言っているのを聞くと虫唾が走る。

まぁ、とりあえず『人間ドラマニア』はどうでもいいから、まずこれが治ってくれないとな……と、思いながら成美は爪の先で新しくできたニキビの先を引っ張ってつぶした。白い芯が、指先にのっていた。


中一は、誰も目標を達成できないまま終わった。

季節は回り、中学二年生になった。

さすがに、ニキビが治らないので皮膚科に連れて行ってもらうと、成美の肌は、ホルモンバランスが崩れているせいだと病院で言われた。

成美は、まだ初潮を迎えていなかったのだ。

せっせと毎日処方された薬を塗って飲み薬を飲んでいたら幾分か、ましにはなってきた。

こんなことなら早く病院に行けばよかったと後悔した。

休日や放課後は、薄くファンデーションを塗ってごまかしたりもしていた。

いつの間にか、中二の夏になっていた。

十三歳は、立派な大人だ。法律がそれを許さないだけで、本当はもう誰の助けも借りずに一人で生きていくことができる。

瑠香は相変わらず甲斐甲斐しく『コインズ』のコンサートに通っていた。コンサートの前になると、樹里と一緒にうちわに悠馬君の写真をはりつけたりする作業を手伝った。

樹里は『フィフティ』が有名なお笑いコンテストで準優勝し、テレビに頻繁に出るようになって人気が出てきたから、滝川君のおっかけをやめたらしい。

「なんか、これからは、やっぱ、チャーメンだよね」

と、チャーメンというまだ、あまり売れていないコンビのボケ担当のゆうじの追っかけに鞍替えしていた。

滝川君のほうが顔はかっこよかったけれどもカキタレが大勢いるらしいし、ゆうじだったら彼女になれるかもしれないから。と、目を輝かせていた。



成美は、夏が好きだった。暑くて嫌だとみんな言うけど、夏は気持ちがいい。夜が来るのが遅くて、朝が来るのが早くて気分が高揚する。

成美は、夏の夜、皆が寝た後にこっそり家を抜け出し、虫よけスプレーをし、自転車に乗って土手を走ったりしていた。

夜中、土手を走っていたら、土手の脇の厩舎から近くの競馬場に運ばれていく馬を見た。馬はすごく大きかった。後ろの道路を通り過ぎる車のヘッドライトに照らされた馬は、合戦の合図が聞こえてきそうなほどに神々しく見えた。


「お前、沢井君、同級生だったろ、沢井君のお父さん、亡くなったんだよ、明日、みんなで通夜にいくから支度しとけよな」

と、夏休みに入った翌日に、父に言われ驚いた。

沢井君は、有名な私立中学に合格していた。方向が同じだったのでたまに駅でみかけることがあったが、成美は沢井君をさけていた。

小学校のときの知り合いに会いたくなかったし、この荒れた肌を見られるのも嫌だった。

父に通夜に行くと言われる何日か前も、ホームで単語帳を開いている沢井君を見かけていた。

だから、突然の沢井君のお父さんの訃報に驚いた。

父と祖母と一緒にお通夜に出かけた。沢井君のお父さんには小さい頃、町内のお祭りで太鼓を教えてもらったこともある。

沢井君に似ていて、メガネをかけていて、優しそうな人だった。

葬儀が行われたのは、近所で一番大きな斎場だった。

通夜の席で久しぶりに晴美姉ちゃんに会った。

むしむしと暑い夜で、いつまでたっても、空が暗くならなかった。薄い青色の中に紫の絵の具が溶かされたような夕日。

じんじんと蝉が鳴いていた。

「ナル、ひさしぶりじゃん」

葬儀場の下で声をかけてきた晴美姉ちゃんは、金髪ではなく髪が茶色になっていた。学校を辞め、家を出て、十八歳になったので都内のキャバクラで働いているのだと話してくれた。

喪服姿が綺麗で、見惚れてしまった。

「沢井先生って、実はタカユキの叔父さんなんだよね」

タカユキ……と、言われて、記憶がよみがえる。

赤黒い蛇を股に飼っていた、あの男!。

「え、じゃあ、あの人、沢井君のいとこなの? 晴美姉ちゃん、まだあの人と、付き合ってるの?」

「うん、まあ、あいつ、大学受験だからさ、あんまり会えないけど、たまに家に遊びにくるよ、六本木なんだけど、ナルも今度、遊びに来なよ」

「うん……行く」

言いながら、学校の方面と違うから、六本木にはきっと行かないだろうな、と成美は思っていた。

「沢井先生、なんで亡くなったか知ってる?」

ううん、と、成美が首をふると、晴美姉ちゃんは小声で

「患者さんに殺されたんだって」

と、言った。まるで、晴美姉ちゃんの言葉は、外国語をしゃべっている人の言葉みたいに聞こえた。

殺された……。

身近な人が殺されるなんて、そんなことがあるのだろうか。

あ、と、成美は最近読んでいた本の話を思い出していた。

成美が生まれるずっと前にベストセラーになったという、大事な人が殺されてしまう本だった。

でも、残された人は、喪失感の中に漂いながら、なにか、希望のようなものを見出していた。

沢井君のことが心配になった。いま、彼は喪失感の中で苦しみと戦っているのだろうか。

通夜にはいろんな人が来ていて、大人たちは、焼香の後、用意された会場でビールや酒を飲んで、寿司を食べていた。

斎場には、沢井君のお父さんが笑っている大きな写真。白い花。

棺の横から少し離れて座っている、家族席の沢井君は泣いていなかった。焼香している人に何度も頭を下げていた。

横にいる妹さんは、泣くのを必死でこらえているようだった。

お母さんも泣いていなかった。ただ、ぼんやりと、空中を見ながら弔問客に頭を下げていた。

祖母は焼香のあと、腰が痛いから、と言って早々と四千里のおばあちゃんと一緒に帰っていったが、ちゃっかり、寿司をタッパーに詰めて持って帰るのをみてしまった。

父は、近所の人たちと、用意された会場で酒を飲んで、もう相当に酔っていた。

「いい人だったのになぁ」

と、泣いているが、父と沢井君のお父さんには、近所で子供が同級生という以外の接点はあまり見当たらなかった。

会場には黒い服を着た人がたくさんいて、なんだか暗くて、海に沈んだ青い部屋に蛍光灯が点いているように見える。

成美は、晴美姉ちゃんの煙草につき合って、外の喫煙所に行った。

晴美姉ちゃんが煙草を吸っていたら、制服を着た、少しだけ茶髪のタカユキが「晴美ぃ」と、大きな声で言って近寄ってきた。

よく見ると、その制服は、沢井君が行った学校の高等部ものだった。

あんなに堂々と外でセックスをしていた人が、そんなに偏差値の高い学校に行っていたなんて。と、意外に思った。

裏口入学かな。

でも、じゃあ、タカユキも医者になろうとしているのだろうか。どうみたって歌舞伎町のホストみたいに見えるのに。

「あれ? お前、むかーし、土手にいた女の子だよな?」

タカユキは、全く悲しそうではなかった。あまり故人とつながりがなかったのか、それとも、成美と晴美の手前、そういう風にしているのか。

「お前、肌、どうしたの? 大丈夫?」

いきなり肌のことを指摘され、成美は顔が熱くなって、俯いた。

自分ではだいぶマシになっていたと思っていたのに、成美の顔をみた人は、実は腹の中でそう思っていたのかと考えたら悔しくて歯がゆくなって恥に刺された。

「タカユキ、そういうの、やめてよ」

晴美姉ちゃんが本気で怒ってくれて、タカユキはそれ以上、成美の肌については言ってこなかった。

タカユキの言葉で、成美の口にはチャックが付いた。それは、ジィィィィと、しっかり閉まって開かなかった。

晴美姉ちゃんとタカユキが喋っている中で成美は、そこから黙って走って逃げた。

「ナル、ちょっと」

と、晴美姉ちゃんに呼ばれたが聞こえないふりをした。

ほら、あんたは本当にデリカシーないんだから……。

と、嘆息を漏らす晴美姉ちゃんの声が背中から聞こえてきた。

いや、悪気があったわけじゃないんだよ。と、タカユキが謝っている。

歩きながら、斎場に戻ると白いリノウムの床に、ぼとん、ぼとんと涙が落ちて小さな水たまりができていた。

故人を偲んだわけではない。ただ、肌が汚いことを指摘され、悔しくて、泣いていた。

一通り通夜が終わったらしく、ぱらぱらと人が帰り始めていた。

成美も斎場を出て、隣の公園でブランコに乗って月を見ていた。

斎場から出てくる父の姿が見えた。相当酔っぱらって、他のおじさんたちと肩を組み、もう一軒行こうという話をしているのが聞こえた。

成美は、瑠香や樹里とたわいもないラインをしながら(いま、音楽番組で悠馬君が踊っていて、やばい、鼻血でた。とか、いや、でないだろ。とか)スマホに指をスライドさせながら酔った父を遠くから眺めながら、父を待っていたけどいつまでたっても来なくて帰宅が遅くなってしまったと、祖母に言おうと考えていた。

いや、最近、祖母は年齢のせいか寝るのが早いから、もう寝ているかもしれない。

不謹慎だが、通夜の終わりは祭りの後に似ていた。

夏だからかもしれない。成美の心は凪いでいた。遠くから、虫の鳴く音が聞こえる。

タカユキのデリカシーのない言葉も、静かで寒い冬だったら耐えられなくて、もっと泣いていたかもしれない。

でも、夏だから大丈夫。すぐに朝が来るから、大丈夫。

「岩本さん」

聞き知った声。いや、少し低くなったか? 振り向くと、沢井君が立っていた。

月夜に照らされた沢井君は、駅のホームで見かけるよりも背が高く見えた。

「あ、このたびは……」

なんていうんだっけ。お悔やみ申し上げますだっけ?

ご愁傷様です。だっけ。

考えていたら、隣のブランコに沢井君が座った。

成美はラインに『またね』と、手を振るクマのスタンプを送信し、スマホをポケットにしまった。

「岩本さん、わざわざ、来てくれてありがとうね」

「ううん……」

なんて声をかけていいのかわからないのと、沢井君に肌を見られたくなくて、成美は顔を下に向けて髪の毛を頬にたらした。

「いま、話せる? 時間平気?」

沢井君に言われて、成美は「うん」と、顔をなるべく動かさずに言った。

「今日、岩本さんが来てくれて、嬉しかったんだ、駅のホームではいつも本読んでるからさ、話しかけちゃいけないかと思って」

「うん……」

「学校楽しい?」

「うん」

「よかった」

沢井君のお父さんが亡くなったのに、なんだか沢井君は落ち込んでいる感じではなかった。不思議に思って、つい聞いてしまった。

「沢井君、悲しくないの……? 泣かないの?」

成美の言葉に、沢井君は、一瞬、黙った。

「岩本さん、顔あげてよ」

「え、やだやだ」

タカユキに言われて肌のことが気になってしまっていた。さっきつぶしたばかりのニキビがあるのだ。

嫌だ。見られたくない。

「タカユキ兄ちゃんが、肌のこと言って悪かったって、謝ってたよ」

また、顔が熱くなった。なんだよ、沢井君も知ってたんじゃないか。先に言ってよ。

「じゃあ、そのままでいいからさ、話聞いてくれる?」

沢井君に言われて、成美は顔をあげずに、うんとうなづきながら、足の先でブランコの下の砂に丸を書いた。

「うちのお父さんさ、殺されたって聞いたでしょ」

うん。と、頷く。

「それ、ちょっと違うんだ、でもね結局、無理心中って言うのかな。なんかね、お父さんが受けもっていた患者さんで岩田さんって五十五歳のおじさんがいてね、その人の中に他の人格が何人もいてさ」

「え? 多重人格、ってやつ?」

知ってる。最近、そういう映画を観たことがあった。男の人なのに女の人になったり、子供になったり。

「うん、多重人格にもいろいろあってさ、岩田さんの中には八人いて、その中の一人のキャンディさんっていう、二十二歳の女の人が別の精神疾患を患っていてさ、お父さんのこと、すごく好きになってしまったみたいでね」

うん……。と、頷きながらも、頭が混乱してきそうな話だった。

「キャンディさんがね、もう、生きているのがつらいから一緒に死んでほしいってお父さんに言いながら病院の屋上に立っていて、お父さん、それを助けようとして一緒に落ちちゃったんだよ、だから、殺されたとか、そういうわけじゃないんだ、不幸な事故だったんだよね」

語尾のほうで、いままで明るかった、沢井君の声が震えているのがわかった。

成美は顔をあげた。声だけではなく、沢井くんの肩も少しだけ、震えている。

「岩田さん自身は、すごくいい人でね、僕も会ったことあって・・・・・だから、誰も悪くないんだ、寿命だったんだよ」

成美は、無言のまま、足元に描いた丸の中にもうひとつ○を描いた。

「沢井君さ」

「うん」

「泣かないの?」

「うん」

「なんで?」

「なんでか、泣けないんだ」

成美は、震えている沢井君の背中をさすった。

咳が止まらない人にそうしてあげるみたいに。

 すると、沢井君は、足元を、ささ、と動かし、土をなじった。なじられた土の色が少しだけ変わった。

「岩本さん、僕の気持ち知っていたんでしょ」

沢井君が、そっけなく言った。

「なにを」

ああ、なんか、今、己が発した冷たい言い方がばあちゃんに似ている。と、成美は思った。

「僕が、岩本さんのこと、好きだったこと」

知ってる。と、言ったほうがいいのかどうか、成美はわからず、黙った。

「いや、岩本さんが僕のノート見てるの、見ちゃってたんだよ、ごめん」

もう、恥を通り越して、恥辱だった。こっそりしたとおもったことが筒抜けだったなんて。

しかも、成美はいまだに他人のノートを盗み見する。

もう、癖になっている。回収できる程度のちょっとした嘘も、盗み見も。その癖は治っていない。そんなに簡単に治るものなら治したいが、治らない。

学校でも人の鞄の中のノートを盗み見たり、机の中に入っている手紙を読んだり、スマホのロックの番号を盗み見て、いない間にスマホの中をこっそり見て、瑠香や樹里やクラスメイトのツイッターの裏アカウントを調べて読み漁ったりしている。

見たい。という衝動がおさえられない。

プライバシーを侵害したい。だからと言って、知ってどうするわけでもない。傷つくことのほうが多い。優越感にひたるわけでもない。

裏アカウントや他人のノートやスマホを見て得るものなど何もないのに、見たくてたまらなくなってしまうのだ。

「いや、あの、 責めてるんじゃなくて、あの、その、こんなときにこんなこと言うの、不謹慎だけど、あのときと、気持ち変わってないから」

「は? な、なにゆえ?」

成美は顔を歪めてしまった。盗み見癖や虚言症、はては、今では痘痕顔の成美を全部知っていて好きだと? しかも、実の父親の通夜の席だ。沢井君はどうかしているのか。

「沢井君、いま、混乱してるんだよ、可哀想なわたしに同情してるんだよ」

「いや、どっちかっていうと、可哀想なシチュエーション僕の方だから……」

言われて、ごもっとも。と、心の中で頷いた。

「ねえ、岩本さん、お父さんの顔、ちゃんと見てくれない? 結構、損傷が激しかったから、ずっとお棺の窓、閉めちゃってたんだけど、岩本さんには、見てもらいたいんだ」

空を見上げる、さっきよりも月が、青白く、大きく見えた。

「うん、見る」

一斉に、体中に蟲がうごめくように成美の好奇心がざわめいた。

沢井君に手を取られて、走りながら斎場に戻ると、もう、人がまだらだった。

沢井君は棺桶の乗っている一段高いところに足をかけて、窓を開け、棺桶をのぞきこみ、「ほら」と、お父さんの顔を見せてくれた。

写真に写っている人と同じ人なのに、違う。

確かに、人なのに、物に見えた。

沢井君のお父さんの顔は半分潰れていたらしく、白い包帯が巻いてある。

成美は、沢井君のお父さんに話しかけた。

「お祭りのとき、お太鼓教えてくださってありがとうございました。沢井君をこの世に産んでくれてありがとうございました」

成美は言ってから目をつぶり、手を合わせた。

沢井君が「お父さん、岩本さんだよ、知ってるよね」と、お父さんに話しかけている。

もちろん返答はない。

棺桶をのぞきながら沢井君は微笑んでいた。笑うと本当に、優しい顔をしている人だな。と思った。

成美は、沢井君とラインのアドレスを交換した。

「ねえ、わたしの、なにが、どこが好きなの?」

帰り際、斎場の前で、沢井君に聞いてみた。

「わかんない、なんでなんだろうね」

沢井君自身もよくわからないようだ。

沢井君は、今日は一人で斎場に泊まるのだと言った。成美も、本当はもっとここにいたかったが、祖母が起きて待っていたら、と考えたら怒られるのが怖くなったので、一度家に戻ることにした。

「もし、ばあちゃん寝てたら、もう一回来てもいい?」

成美が聞くと、沢井君は「もちろんだよ」と、白い歯を見せてくれた。

急いで家に戻ると、運よく、祖母はいびきをかいて寝ていた。父はまだ帰っていないみたいだったから、成美は急いで自分の布団の中に大きなぬいぐるみと、タオルをいれて、人が寝ている偽装をした。

部屋の窓の鍵をあけて、隣家のブロック塀に足を置き、家から抜け出し、斎場へと向かった。

 

『おばあちゃん、寝てたよ。もう、外出たから、そっち行っても平気?』

『うん! 待ってるね』

夏の夜を自転車で走り、沢井君のもとへ行く成美の心は、肌の突起のことを忘れてしまうくらいに高揚していた。

不謹慎だ。人が亡くなったというのに、不謹慎極まりない。でも、初めて感じた気持だった。

生まれてからはじめて、ちゃんとした人間の死体を見たからかもしれない。

空っぽの肉の塊。

授業で読んだ聖書の一節に、肉体は心の道具で、物質である……。

そんなことが書いてあったことを思い出した。

じゃあ、沢井君のお父さんは、まだ、どこかにいるのだろうか、物質から抜け出しただけで、存在はあるのだろうか。

考えていたら、股の間にどろりとした感触あった。

成美は自転車を止め、パンツに手を入れた。

赤黒い血と、透明な液が混ざったものがでてきていた。初潮がはじまってしまったのだ。

成美は、愕然とした。

顔が歪んだ。生臭い血の付いた液を吐き出す自分の陰部が、汚らしく思えた。

とりあえず、そのまま斎場に向かい、斎場のトイレでどうにかしてみようとペダルを漕ぐ足を動かした。


こっそり斎場に入り、親族が泊まるという部屋に案内してもらった。

お母さんと妹さんは憔悴しきって、家に帰ったらしい。

部屋は簡素で、テレビも置いていない。畳の上に布団が敷いてあるだけだ。

「あのさ、トイレってどこ?」

成美が聞くと沢井君は、まるで自分の家なのかというように、すいすいと案内してくれた。

「来る途中で、生理来ちゃったみたいなんだ」

「そっか、痛くない?」

痛くなかった。瑠香や樹里は生理がはじまるたびに痛い痛いとわめいていたが、成美は全く痛くない。

ただ、パンツが湿る感覚が気持ち悪い。

トイレに入って、トイレットペーパーを折りたたみ、パンツに敷いた。

ついでに放尿をしたら、尿に混じって赤い線が便器に弧を描いていた。さっきみた赤黒い血とは違って鮮やかな赤だ。

成美がトイレから出ると沢井君が待っていてくれた。

「痛み止めとか、生理用品とか大丈夫?」

「沢井君、くわしいね」

「妹が、初潮早かったし、一応これでも、お医者さん目指しているからね」

「わたし、今、初めて生理来たんだよ、こんな感じなんだね」

「ええ? ほんとに? 遅かったんだね」

「うん、ほんと、ほんと、遅いよね、生理用品とか、家、あるのかな、ばあちゃんが生理になってるの見たことないかも」

「そっか、え、じゃあ、いま、なに敷いてるの?」

「え、ティッシュ」

「え、ティッシュ? だめじゃない? え、じゃあ、コンビニにナプキン買いに行こうよ」

「やっぱティッシュじゃだめなのかな」

「いや、ずれちゃうでしょ、ついでにちょっとお腹減ったし、コンビニ行こって」

お母さんみたいな口調の沢井君に連れられて、近くのコンビニに行った。

沢井君はアメリカンドッグを、成美は、ナプキンとゼロカロリーのコーラとニキビによくないな、とおもいつつ、ポッキーも籠に入れた。

レジでナプキンだけ別の茶色い紙袋に入れられるのを見て、なんか、ナプキンって、そんなに恥ずかしいものなのかな。と、成美は自分が淫らなものになってしまったように思えた。

沢井君がお会計を驕ってくれて、どちらともなしに、手をつないで斎場まで戻り、成美はもう一度トイレに行って、ティッシュをナプキンに取り換えた。

たしかに。肌触りが全く違う。ごわごわしていた股座が快適になった。ナプキンってすごい。

成美は感心しながら、手を洗い、洗面所の鏡で自分の顔を見た。

心なしか、ニキビが目立たなくなっているような気がする。ホルモンバランスが治ってきたのかもしれない。

 

ポッキーを食べながら、部屋で沢井君といろんな話をした。

タカユキの父親は美容外科医でタカユキもそっちの方面にいく予定だが、学校の成績がかんばしくなくて浪人しそうで大変なのだとか、亡くなった沢井君の父とタカユキの父親はあまり仲が良くなくて、伯父に会ったのは今日が久しぶりだったという話。

成美は、瑠香と樹里の話をした。

瑠香はアイドルのおっかけ、樹里はお笑いコンビのおっかけをしていると言ったら驚いていた。

「なんか、二人とも、ものすごーい、女子って感じだね」

「まあ、わたしも女子だがね」

「いや、岩本さんは女子って感じと違うよ」

確かに、女子であるということを面倒だと感じる。可愛いと言われて特別扱いされるのは快感だったが、それは、『可愛い』でなくてもよかった。

だれよりも特別な存在でありたい。例えば、かっこいい。才能がある。おもしろい。霊感がある。肩書はなんでもよかった。

人と違うなにかを持っていると思われたかった。

だから、自分に生理が来てしまったことを、憂鬱に感じていた。

『女』になったことによって、『女』というくくりに縛り付けられたような気がしていた。

大人の階段上る、きみはまだ……。なんだっけ、この歌。 

ああ、音楽の授業の合唱の時間に歌わされたんだった。

歌詞の中の『少女』の部分を『処女だったといつの日か、思う時が来るのさ~ ♪』

と、いう替え歌を樹里が歌って、みんなが笑って、樹里は先生に怒られていた。

中二の六月、いつもの焼肉ピラフ。に加えシーフードヌードルを食べながら樹里は、実はこの間、本当に処女じゃなくなったのだと成美と瑠香に打ち明けた。

ライブに行ってチャーメンの出待ちをしていたら、チャーメンのゆうじの友達だという男性に声をかけられ、「ゆうじ」の大ファンだと話すと、「ゆうじ」に会わせてあげるよ、と誘われてライブ会場の脇にあるラブホテルに行ったらしい。

男は、別段、かっこよくも、かっこ悪くもなかったので、「ゆうじ」に会えるならと、樹里は緊張しながらも男とベッドを共にし、処女を失った。

樹里の陰部は固く閉ざされ、なかなか入らなく、男は自分の唾をべろりと指に垂らし、樹里の陰部を濡らして、コンドームをつけ、ぐいと、挿入してきた。固い棒を突っ込まれたような変な感じがして下腹部に鈍痛が走り、「痛い」というと、男は腰を動かしながら、水分の足りない犬のような顔をし、息を荒げ果てたらしい。

「ゆうじにはいつ会えるの?」と、聞くと、男は、もごもごと口を濁して、「とりあえずでようか」と、着替えてホテルを出た瞬間、そのまま早歩きでいなくなったそうだ。

走られたわけではなかったので、逃げられたという実感がなかったが、男はもうどこにもいなかった。

最初からゆうじと友達だったなんて、嘘だったのかもしれない。と、気が付いたのは、帰りの電車の中でだった。

「処女喪失がやり逃げとか、まじ終わってるよね~ 」

自虐的に言いながらも、樹里はきっと傷ついたのだろうなと感じた。そんな樹里をかわいそうに思いながら、でも、なんだか、話の内容が細部までリアルで気持ちが悪くなった。

その日の帰りはカラオケに行って、『男なんて最低だ』とか、そんな歌詞のロックで激しめな曲を樹里が熱唱していたことを沢井くんに話した。

沢井君は「かわいそうに……」と、樹里を憐れんでいた。

「なんか、女子ってさ、面倒だよね、力も弱いし、身体から毎月血が出るとか気持ち悪いし、樹里みたいにやり逃げされたりとかさ、いや、樹里も悪いんだけどさなんかさ、悲しいよね」

成美は話しながら、ポッキーを咥えて、口で揺らした。

「男の生態として、若いときはそうなんだって、好きとか嫌いとか、どうでもよくって、精子を放出したいんだって、だからさ、根本的になんていうか、性に対する考え方が違うんだろうね」

「沢井君は? 沢井君はそういう気持ちになることある? だれでもいいから、チンコを突っ込みたいと思ったりするの?」

成美が聞くと、沢井君は苦い顔をした。

「仮にもさっき、僕は、岩本さんに告白した身なんだけども……」

「ああ、そうだった」

「いや、いいんだよ、そういうところが、好きなのかもしれないから」

「あの、さ、じゃあ、沢井くんが答えにくいこと聞いてもいい?」

「いいよ」

「わたしに、自分の性器を突っ込みたいと思う?」

沢井君の顔を覗きながら、沢井君の顔が、固まって見えた。

「じゃあさ、岩本さんが、聞いたら困るような話をしてもいい?」

「もちろん、いいよ」

只今、告解大会開催中です! 成美は頭の中でふとそんなタイトルを思っていた。

「僕ね、生殖器官、ないんだ、生まれつき」

「え?」

「排泄器官としての陰茎、つまり尿道はあるんだけど、生殖器官がないの」

「それって、男じゃないってことなの?」

「ううん、いわゆる、うーん、言い方悪いけど、奇形だったってことなのかな」

「本当?」

「いや、こんな嘘つかないでしょ」

沢井君は、笑ってくれた。固まっていた飴が柔らかくなったような笑い方だった。

 「じゃあ、性欲のようなものは?」

「その、女の子の中に陰茎を挿入したいとかという性欲のようなものがないんだよね、ただ、触れたいとか、会いたいとか、そう言うのも、性欲だとしたら、ある、に入るかもしれない」

沢井君は、男、なのに、男じゃない?

どういうこと?

「チンコの形どうなってんの」

「岩本さん、女子なのに、チンコって言い方あんまりよくないよ」

「え、ごめん、えっと、なんて言ったら……」

「うーん、男性器だと、性器を放出するものだから、なんだろ、陰茎でいいんじゃない?」

「陰茎は、あれなの、沢井君も動物みたいな感じのやつがついてるの?」

あっはっは。と、沢井君は、昔話に出てくるおじいさんのような笑い方をした。

「え、岩本さん、みたことあるの?」

成美は、小6のとき、河原で晴美姉ちゃんと交わっていたタカユキの赤黒い蛇を見た話をした。

ついでに、おじいちゃんの持っているクルミ袋の話も。

「タカユキ兄ちゃんは、なんでまた、外で、しかも岩本さんに見せるなんて」

「いや、わからないんだけど、そんとき、まだ二人とも若かったし……なんかムラムラして我慢できなかったんじゃないの?」

「でも、それを見せるなんて、セクハラだよ」

冷静な沢井君が珍しく憤慨している。なんだか、嬉しいようなくすぐったいような。

「僕、タカユキ兄ちゃんと、あんまり合わないのかも、生きるパワーがちょっと暴力的だし、悪い人じゃないんだけど」

「うん、たしかに、わたしも、苦手」

十三歳のわたしたちは無力なのだと、ひらひらと落ちてゆき地面に着けば無くなってしまう雪のように透明に等しい存在なのだと、成美は感じていた。

「わたしね、実は、チンコが怖いの、小説とか、マンガとか、映画の中のだと平気なんだけど、本当にセックスしたとか聞くとちょっと、気持ち悪くなる」

成美は、初めて他人に、長年胸の中に溜めていた気持ちを打ち明けた。瑠香にも樹里にも言えないことだった。

ましては処女を失ったという樹里には絶対に言えない。

「樹里も友達だし、晴美姉ちゃんのことも大好きだけどさ、なんか、異物? 異星人みたいに思える。本当は、もう、段々、自分のマンコも気持ち悪くなってるの」

「岩本さんは、性器や性行為恐怖症なのかもね、でも、本当に、女の子なんだからさ、チンコとかマンコとか言い方あんまりよくないよ」

「ああ、たしかに、でもなんて言っていいのかわかんなくて、え? 恐怖症? そんなことってあるの?」

「あるみたいだよ、お父さんの持っていた本に書いてあった」

「なんかさ、嫌だな。チンコに恐怖を感じないような人間になりたい」

「また、言ってる。岩本さんは、だから女子っぽくないのかもね」

「でも、綺麗になりたいとか、太りたくないとかは思うよ、そういうのは女子だよ」

「たしかに、そうだね、なんなんだろうね、でもさ、なんでも言葉ではひとくくりにできないと僕は思うよ」

何も触っていないのに、急に部屋の中のクーラーの音が大きく聞こえて、開いているドアの外で気配がした。

「なんか、いる……?」

ぞわぞわと、一斉に肌が粟だった。

沢井君もなにかを感じたようだった。瞬間、どろり、と、下腹部から塊のようなものが出てきて膣に肉片が挟まっているような気がした。

もしや…沢井君のお父さんが、見に来たのか。

成美が思っていたら、なんてことない、警備会社の人が巡回していただけだった。

「あれま、もう、十二時になるよ、少しでも寝なさいねぇ」

言葉尻が訛っていて、太っていて大量に汗をかいていて、警察と見まがうような制服を着たおじさんだった。マシュマロみたいな柔らかそうな肉質と色の白さだ。

「暑いから、クーラーの温度あげておいたからね」

それは、多分、おじさんが太っているからですよ……。

沢井君も同じような気持ちだったらしい。

アルカイックスマイルを貼り付けながら「ありがとうございます」と、お辞儀をしていた。

「なんだ、ちょっと、びっくりしたね」

「うん、なんか、幽霊とかきたと思っちゃった」

くすくすと、二人で笑った。沢井君のおかげで、幽霊が見えると嘘をついてみんなをだましたことが赦されたような気がした。

「幽霊ってさ、そんなに簡単に出てこられないらしいよ、生きている人間に見えるくらいのが出てくるのはすんごい膨大なエネルギーを使うんだって」

「そうなんだ、まあ、そうだろうね、出てきたくて出てこれるんだったらさ、もっとたくさん見えているはずだもんね」

十二時、もうそろそろ帰ったほうがよさそうだ。

「そろそろ行くね」

「あ、じゃあ、外まで送るよ」

沢井君と手をつなぎながら(クーラーが効きすぎて寒かったから、沢井君の体温がとても愛おしく感じられた)

非常灯しかついていない廊下を歩いていたら、沢井君のお父さんが眠っている部屋の前に私服のおじさんが佇んでいるのが見えた。

私服のおじさんは、沢井君をみて、ゆっくりと頭をさげた。

そして、廊下の角を曲がって消えていった。

沢井君は、おじさんが消えていった方向に手を合わせ、お祈りするみたいにお辞儀をした。

「知り合い?」

「うん、岩田さん」

「え!」

今頃、念願かなって幽霊をみてしまった。でも、なんだかちっとも怖くなかった。

キャンディさんの件で謝りに来てくれたんだと思う……と、沢井君が耳打ちしてくれた。


そのまま外に出て、自転車にまたがると、成美の手を、ぎゅうと力強く、沢井君が握った。

「岩本さんのこと、好きだからね」

「わたしも……沢井君のこと好きなような気がする」

顔が熱くなった。チンコがついていないと聞いたおかげもあってか、沢井君といると、胸が高鳴っている自分を認識できた。

「おなじない」

沢井君が言って、成美の両頬、おでこ、あごを、優しく撫でて、頬を舐めてくれた。

沢井君はいつのまにか、ミントの味のするガムか何かをたべていたのか、メントールが肌にひんやりとした。

「すーすーするね」

嫌じゃ何かった。大きな動物の親に、優しく顔を舐められたような安心感があった。

「うん、フリスク」

「なるほどな」

「また、連絡するね、岩本さんもしてね」

「うん、ありがとう」

自転車に乗りながら、何度も、振り返った。沢井君は、ずっと手を振っていてくれていた。

蒸し暑いのに、頬にあたる暑さの含んだぬるい風が心地よかった。まだ、少し頬がスース―する。

やっぱりクーラーが寒すぎたんだ。外気のぬるさが気持ちいい。

家に帰って、隣の家の塀から、窓をつたって部屋に入ると、布団がはがされていた。

ぬいぐるみとタオルが見えている。出て行ったのがばれてしまっていた。

やばい。

明日、祖母に怒られる。

いや『生理がはじまったからコンビニに行ってナプキンを買ってきた』と言えば許してもらえるだろう。

生理は憂鬱だが、言い訳があるのは助かった。

トイレでナプキンを確認すると、臓物みたいな赤黒い塊がついていた。


翌日の沢井君のお父さんの火葬の日は雲の少ない真っ青な空だった。

さんさんと太陽が輝く気持ちの良い天気。

沢井君のお父さんが焼けていくのを想像しながら、毎日、人が生まれて、人が亡くなる。最近観た昔の映画で、煙突から立ち上る煙を見て、川で魚を釣っている夫婦が、そんなふうに話していたのを思い出していた。

成美は、ばれてしまった昨夜の深夜の外出を『生理』を武器にしていいわけをした。

やはり怒られずに済んだ。

祖母は、赤飯を買ってきて、食卓に出したが、赤飯より白米のほうがよかった。

もともと豆ごはんが好きじゃないのだ。まずかったけど、お祝いしてくれている気持ちをくんで、赤い豆だけぬいて食べた。

成美の肌は、沢井君のおまじないのおかげなのか生理が来てから新しい突起が出現しなくなっていた。

頬をさわると、ざらざらしていたところがやわらかくなって、ひっかかりがなくなってきている。

突起がなくなってくると祖母や、父、会う人みんなに、「肌、綺麗になってきてよかったな」と、安堵の言葉を投げかけられた。

肌がきれいになってきて、鏡の前でニキビをつぶす時間がなくなった。

それでも、少し怖くなるから、完璧な自信は持てない。沢井君のおまじないの効力が切れてしまったら、突起が出現してくるのかという、不安が完璧にはなくならい。

沢井君と気持ちを確認し合ってからというもの、樹里と瑠香との『女子的な』付き合いが面倒になってきた。

夏休みはいろいろ遊びに行こうと話していて、はじめは一緒に遊びに行っていたのだが、街でナンパされて。きゃっきゃと喜んでいる二人が、低能で発情した雌みたいに思えた。

樹里は、だんだん派手になっていって、髪の毛を茶色く染めてピアスをあけていた。

いわゆる『ヤリマン』に変化していく樹里を見ていると、芋虫が脱皮してマンコから膿を吐き出す怪物になっているように思えた。

しかも瑠香も相変わらず悠馬君の追っかけを続けていたのだが、悠馬君の事務所の研究生に渋谷でナンパされたらしく、その彼といい雰囲気になって今度デートするかも。と、ラインで報告してきた。

気色悪かった。

肉付きの良い毛深いごつい瑠香が、裸になって、男のチンコをマンコに入れられて喘いでいる姿を想像したら眉間にしわが寄ってしまった。

『成美は? まだ好きな人できないのー』

可愛らしいスタンプと共に聞かれて、成美は『わたしは、なんか、あんまり、いま、恋愛には興味ないかもなー 笑』と、大人ぶった答えを返した。

『成美は、やっぱ他の人と一味違うよねー まじで、超かっこいい、尊敬する 成美と親友でいられて瑠香は嬉しいのだ』

『わたしもー、やっぱり美人は目の保養になるし、成美の写真、誰に見せても自慢できる!』

『ふたりとも、言ってることおかしい(笑)嬉しいけどー」

白々しいラインのやりとりのあと、決まって成美はふたりの裏アカウントのつぶやきをチェックする。


リアン@恋に生きる @JYU1543  

『親友なんだがな、言動がな、いつも上から目線なんだな、やつは』


ゆーまん  @Lu9999  ルカポックのつぶやき  

『恋のない人生なんてもったいない! でも、すごく美人なのに不幸そうな親友を見ていると、人間、顔じゃないんだなって思う』


ゆーまんこと瑠香の『イイネ』が8。リアンこと、樹里のイイネは2。

成美は、二人の裏アカウントを見ると安堵する。

本音はこっちにある。二人が成美を親友と言いながら、本音は、成美を快く思っていないという事実を知っているということに。

この間、樹里のスマホを盗み見て、成美の文句が羅列された樹里と瑠香のラインのやりとりを覗いた。

文句を言われているのが悲しくなかった。ただ、興味があった。むしろ、高揚としてしまっている自分に惑った。

親友って、何なんだろう。『親友』というものがないと、『女子』はいけないのかな。うちら三人は、心の友と書いて心友だよね。と、いつか、樹里が言っていたことを思い出して成美は、陳腐な台詞だな。と、考えていた。



「わたしは、心が歪んでるのかな」

「いや、成美ちゃんだけではなく、昨今、みんな、歪んでるんだよ」

夏期講習を終えた沢井君と待ち合わせ、公園でアイスを食べながらタコの形をした遊具に乗って話した。

『岩本さん』が『成美ちゃん』になる頻度が増えてきて少しうれしい。

さいきん祖母の具合がよくなく、夏なのに布団の中でずっと寝ている。

だから夜に外にでかけてもなにも言われなくなった。ありがたいが、少し心配だった。

そういえば、ホームにいるじいちゃんの様子もずっと見に行っていない。

ホームは明るく、綺麗なのになんだか怖いのだ。老いに流されていき明日逝ってもおかしくない人たちを見るのが。

父は、沢井君のお父さんのお通夜以来、飲み歩く回数が増えていた。もともと飲んでばかりだったけど、お通夜で旧友に会って、またみんなで集まるようになったらしい。

五十をとうに超えた近所のおっさんたちが夜な夜な顔を赤らめ飲み歩いているのを見ていると、反吐が出そうになる。

お前らの人生、それでいいのか。

と、言いたくなってしまう。

沢井君のお父さんのように、まっとうに生きていた人が早くに亡くなり、父のような、ちゃらんぽらんな輩が元気なのを見るとなんだか不条理に思える。

祖母に父の悪口を散々吹きこまれて来たせいか、父を尊敬することができない。

『お父さんのような人になりたい』

と、行っている沢井君をみていると、少しだけ羨ましくなる。

成美は、最近、家で邪魔者扱いされているような気がしていた。

母に捨てられ、父に嘘つきをなじられ、祖母には大根で殴られてたし……。唯一優しかった祖父は、呆けて乾燥材を金平糖と間違えて食べてしまい、あっという間に介護ホームに入れられてしまった。

まあ、家に財力があるのだけが救いなのだけども。

はた、と、成美は気が付く。この疎外感、閉塞感、自分が不幸だと感じる気持ち。

もしやこれは中二病なのか?

「沢井君、もしかしたら、わたしは中二病かもしれない」

「え、どうした突然」

「ちょっといま、確認してみる」

スマホで中二病を検索してみる『中学二年生頃の思春期に観られる、背伸びしがちな言動を自虐する言葉。転じて自己愛に満ちた空想や思考などを揶揄したネットスラング』

「病」という表現を含むが、実際に治療の必要とされる医学的な意味での病気、または精神疾患とは無関係である。』

「成美ちゃん、中二病は病気じゃないよ」

「うん、そう書いてあった」

「成美ちゃんは、どちらかというと、発達障害気味とか、そういう感じだと思う」

「え? なにそれ」

「まあ、でも、重度ではないと思うから、そんなに気にしなくていいよ」

「なに、発達障害って、やばいんじゃないのそれ」

「いや、すごいんだよ、アインシュタインとか、名を遺した著名人は発達障害の人多いんだ」

「じゃあ、なんか、名前がやだね」

「たしかに、まあ、精神にはいろんな病があるんだよね、それでも、身体が正常で元気っていいことだよ」

成美は、生殖機能のない沢井君に対して、デリカシーのないことを言ってしまったのかもしれない、と、己の発言を後悔した。

「あのさ、成美ちゃんのおじいちゃんて茅ヶ崎のホームにいるんだっけ?」

「うん、たしか駅は茅ヶ崎で、そっからバスだったよ」

「海、近い?」

「うん、海のすぐそばだった」

「成美ちゃん、一緒に行ってみない?」

「え、なんで、急に」

「海、見たいし、成美ちゃんのおじいちゃんに会ってみたい」

沢井君の眼鏡に街灯が映っていて、波を描いていた。

もしや、祖父が乗り移ったのか。見舞いに来いと言っているのか。

成美は疑った。斎場で、普通に岩田さんを見てしまってから、そういうことが不思議ではないような気がする。

「いいよ、いついく?」

「明日は? 僕、塾、午前で終わるから」

「うん、いいよ、でも、おじいちゃん、痴呆だからわたしのことわからないかもよ」

「うん、大丈夫、成美ちゃんのルーツ? みたいなの知りたいんだ」

舐めていたアイスの棒に、『あたり』という茶色い文字が薄く彫ってあった。


翌日、東海道線に乗って茅ヶ崎駅で降り、駅ビルで祖父の好きだった粒あんの饅頭を買いバスに乗って祖父のいる『やすらぎホーム』へと、向かった。

日に照らされた海がきらめいていた。

バスには日焼けをしているサーファーみたいな人達がいた。沢井君も成美も色が白い。

成美は、SPF50の日焼け止めを塗っていたし、沢井君は勉強ばかりしているからか、焼けていない。

今日、沢井君は、メガネではなくコンタクトをしていた。

沢井君は痩せていて鼻が高いから、メガネを外すと最近よくみる外国の俳優さんに似ていた。

小さいころはハリーポッターに似ていると思っていたけれども、今では似ていない。

「夏って気持ちいいね」

座席に座って、太陽光の反射に照らされている沢井君が透明になっていってしまいそうで少し不安になった。

成美は、沢井君が実体ではないのではないのかと疑ってしまった。

腕をつかむと、確かに、肉の感触がして、ほっとする。

成美の掌は汗ばんでいて、「どうしたの? 緊張してるの?」と、聞かれ。ううんと首をふった。

「実体かどうか気になって……」

「え?」

「なんか、透けてみえたような気がしたから」

成美が言うと、沢井君は、息を、ぶふーと、噴いて笑った。

「成美ちゃんのそういうところいいよね」

もちろん、沢井君でなければ言わない。思ったとしても、そのまま、胸の裡にとどめておく。でも、なんだか、沢井君には、言ってしまう。

盗み見癖も、いろんな人の裏アカウントを見ていることも沢井君は知っている。

打ち明けたとき、沢井君は「僕のだったらいくらでも見ていいよ」と、スマホを渡してくれた。

それから、会うたびに、沢井君はほかの人とのやりとりを見せてくれる。

ツイッターやインスタグラムはやっていないからみれないけれども、ラインとメールだったらいいよ。

と、言ってくれる。

「スマホみせて」

と、成美が言うと「はい」と、沢井君は、どんなときでもなんの躊躇もなく渡してくれるのだ。

ラインを開くと、学校の友人のグループラインのメッセージが沢山たまっていた。

未読は50件以上あったが、成美には全く関係のない、大したことのない話だった。

夏期講習はどこのがいいのかとか、新しく出た漫画の新刊がよかったとか。

成美の知らない沢井君の世界が垣間見られるのは楽しかった。

『次は~ やすらぎホーム前~  やすらぎホーム前でございます』

 スピーカーから優し気な女性の案内の声が聞こえて、『降ります』というボタンを押した。

天井のマイクからは魚屋の競りのときみたいな声で「ドア開きます、足元お気をつけてお降りください」

と、後ろ姿しか見えない運転手さんが言っていた。


バス停からすぐのところに、薄い黄色と言うか、カスタード色のやすらぎホームがあった。

周りは海に囲まれていて、吹く風が少し塩辛いような気がした。

「綺麗なところだね」

「うん」

「沢井君は、おじいちゃんいないの?」

「うちは、僕が生まれる前にどちら方も亡くなっていたから、おじいちゃんもおばあちゃんも知らないんだよね」

「核家族!」

「うん。 核家族」

照りつける太陽で背中と頭皮が熱い。広い庭の緑が続く。車いすで家族と海を見ているおばあさんがいた。

優しそうな皺の多い白髪のおばあさんだった。後ろに女の人が立っている。

距離感からしてお嫁さんに見える。近くを通るとその優し気で安らかな光景と話している内容が一致しないもので驚いた。

「そりゃ、あなたが離婚したいって言うならしょうがないけど、家にはなんの落ち度もありませんからね、祐司君は置いていってもらいますよ、大事な跡取りなんだから、大体、あなたはいつも我慢が足りないんですよ……」


うへえ、きっついおばあちゃんだなぁ


沢井君と顔を見合せた。

老人だから優しくなるわけではない。祖母を見ていてよくわかる。

ただ、身体がおもうように動かなくなっていくから、今までがんばってくれていた老人に優しくしなければならないだけだ。

ちいさいころはそれがわからなくて、意味も分からず老人には優しくしなければならないと教えられてきた。

でも、老人も人間なのだ。長く生きてきた分、歩んできた道が長い分、優しくなるか、わがままになるかは、その人次第でわからない。



「岩本さん、お孫さんですよ」

エプロンをしたヘルパーさんに話しかけられ、寝ていた祖父が身体を起した。

「おまご?」

「そうですよ、お、ま、ご、さん」

「ああ、おなごさん」

祖父は、痩せて背骨が曲がっていた。成美がまだ小さな頃は、祖父と父は一緒に働いていて、まだ実家の横に工場の倉庫があった。(父が一人になってから、工場の倉庫は人に貸している)

倉庫には小さな薪ストウブがあった。

祖父は、よくそこで、焼き芋を焼いてくれた。アルミホイルに包まれた焼き芋は、外はまっくろに焦げていたけれども、中はほくほくして美味しかった。

「じーちゃん、成美だよ」

「えぇ、なるみさん、ええ、なるみさんね」

言いながらも顔に?が見える。

祖父の歯は、一本間隔で抜けているので、息がヒューヒューとそこからぬけ出てしまっている。

「こんにちは、なるみさんの友達の沢井です、これ、おまんじゅうです」

沢井君が祖父の好物の饅頭を差し出すと、祖父は、顔を綻ばせた。

七福神の一人、大黒様の目みたいな三日月形だった。

「おまんじゅう、ありがとう、わたしはこれ、すきでね、ねえ、粒あんがすきなんだよ、ねえ」

祖父がヘルパーさんに同意を求めていた。

「岩本さん、おまんじゅう大好きですよね」

ヘルパーさんは優しそうでふくよかな中年の女性だ。そうか、老人には相手の言葉をリピートするといいのか、と、成美はヘルパーさんの会話術を聞きながら学んだ。

「みんなで、たべよう、ね、おなごさんたちも、ね、一緒に」

祖父の中に成美の記憶が消えていなければ、成美は小さい少女のままのはずだ。

そりゃ、離れてから何年も経つから忘れられてもしょうがないのだけど、少しだけさみしく感じる。

祖父は、いつも、成美を可愛がってくれた。膝にのせて、まるで、ネコかなんかを可愛がるみたいに、「ナルや、ナルや」と、成美を探して呼んでくれていた。

祖母に文句を言われていても、祖父が怒った顔をしているのをみたことはない。

「きれいな、おなごさんだねぇ」

何回か成美だよ。と言っても、「おなご」になってしまう。

まあ、いいか、と、諦めて、成美も沢井君と祖父とヘルパーさんと一緒に粒あんの饅頭を食べた。皮が餅粉できているのか、もちもちしていて美味しい。

『天皇陛下献上品』

と、箱に書いてある。そんなものが茅ケ崎のデパ地下に売っているのか。と、懐疑を拭えなかった。

祖父が饅頭を食べながらヘルパーさんに耳打ちしている。

ヘルパーさんがくすくすと笑った。

「お孫さんね、美樹さんって人にとてもよく似ているんですって」

祖父は明らかに、照れていた。かわいらしいなと思った途端に、なんだか胸の中がとても苦しくなった。

美樹さんとは、母のことだ。

祖父と母は、仲が良かったのかな……。

どうして、もっと今まで頻繁に会いに来てあげなかったのだろう。

でも、きっと、またしばらくは来ないのだろう。

祖父が喜んでいる顔の横で、早く帰りたいなと思っている自分の優しくなさが痛い。



ホームを後にして海まで歩いた。

サーフボードを持った、肌の浅黒いひとたちとすれ違う。

「優しいおじいさんだったね」

「うん、昔から、すごく優しかったんだよね、ナルや、ナルや、って、いつも呼んでくれてた」

「ナルや。だって、内田百閒先生みたいだね」

「なにひゃっけん先生って?」

「内田百閒先生って作家さんが、ノラって猫を溺愛していたって話、知らない?」

「知らない、最近の人?」

「ううん、すごく昔の作家さん」

「へぇ」

「成美ちゃん、お父さん、一人息子さんなの?」

「うん」

「孫は、成美ちゃんだけ?」

「そうだよ」

「じゃあ、もう、本当に成美ちゃんのこと、たまらなく可愛かったんだろうね」

 うん。

と、言いながら下を見たら、長い影ができていた。

道の横に高い白い壁が続いているから、海の匂いはするのに、海が見えない。

成美がサッドマンの曲を口づさむと、沢井君が一緒にのっかってきた。

沢井君は重度の音痴だ。

だから、なんだかハモッているみたいだった。

白い壁が途切れて、海が見えた。

砂浜に人がまだらにいた。遠くに朱に紫色がかった夕日が浮かんでいる。

夕日を目にした途端、いきなり沢井君がテノールのオペラ風に歌いだした。

「夕日が、背中を押してくるー♪、でっかい、うーでで、おしてくる♪ あーるくぼくらのうしろからー ♪でっかいこーえでよびかけるー ♪」

ああ、懐かしいなと、思いながら成美も歌った。

「さーよなーら、さーよーなーらー、さーよなら、きみたち、ばーんごはんがまってるぞ、明日のあーさ、ねすごすな♪」

小学校の頃、音楽の授業で歌った曲だった。

あのころは、まだ、音楽室のベートベンとかショパンの肖像画が怖くて、音楽の授業中、ずっとベートベンの目が動くような気がして、歌わずに絵を見ていたら先生に怒られたりしていた。

なんだか、この歌のせいか、夕日が怖かった。いや、夕方とか5時の鐘が怖かった。

人の家から漂ってくる晩御飯の匂いが怖かった。優しそうなお母さんの声が聞こえてくる他人の家が怖かった。

怖いものが沢山あったのに、怖いものに憧れていた。じっと、押入れの中、暗闇の中で目をおさえて見える星空が好きだった。

(ただ単に網膜が圧迫されて残光が残っていただけなのだけれども)

いまは、何が怖いものなのだろう。沢井君以外の男が怖いかもしれない。

どんどん変化していく自分の身体が怖い。身体に穴を開けていく友達が怖い。

沢井君の手が、成美の指先に触れた。

沢井君の指先が成美の手より冷たくて、成美は沢井君の顔をみた。

やっぱり実体だよね。と、思いながら手を握り合った。

予感、だったのかもしれない。と、この日の光景を成美はのちに何度か思う。

あの日、沢井君が透明に見えたのも、夕日の歌の「さよなら」も。



時間が経つのなんて本当にあっという間だ。

成美と沢井君は、ずっと中学時代を仲良く過ごした。パートナーや、同志というような言葉がしっくりくるような関係だった。

愛と呼べるものが確かにあったと思う。

付き合ってはいるが性的な行為はないまま、(手はつなぐけど口と口は触れなかった)沢井君は高校一年の途中から、今の学校の校風が自分に合わないと判断したらしく、留学し、ドイツの高校に転入してしまった。

祖父は見舞いに行ってしばらくしてから老衰で亡くなり、(結局、あれから一度も見舞いには行かなかった。成美は付属の高校に進学して三年生になっていた。そろそろ真面目に進路を考えなければならない)

大人になればなるほど、真面目に考えなければならないことが多くなる。

樹里は高校二年で退学した。他のグループの女の子と喧嘩したのがきっかけらしい。憤慨し、勢いでやめたような感じだった。この間、ラインの友達欄から消されていたから近況は知らない。瑠香とは普通に友人のまま、学校ではなにも変わらずに過ごしている。

結局、瑠香はリアルな男子とはうまくいなかったらしく、いまだに悠馬君の追っかけを続けている。

あんなじいさん大嫌いだったと言っていたわりに、祖父が亡くなってからの祖母は食欲がなくなったと言って、とても痩せてしまっていた。

昔は、ばあさんのわりに巨乳でグラマーだったのに、最近は拒食気味で、骨と皮だけみたいになっていた。

父は、飲み歩くうちに外に恋人ができたらしく、ほとんど家に帰らなくなっていた。


祖母が亡くなった。ちょうど、衣替えで半袖になった日だった。

祖母の遺骸の第一発見者は成美だった。

最初は寝ているのかと思って、気にしないでいたのだが、あまりにずっと寝ているので、肩をゆすろうとしたら、もうすでに骨ばった空っぽの入れ物になっていた。

亡くなる何日か前、台所で会ったときに白濁した眼を向けて、屍みたいに痩せた祖母は、真剣な口調で成美に話していた。

「おばあちゃんはね、むかしは、金稼ぐためになんでもしたよ、お前の父ちゃんが子供の頃、工場が軌道に乗るまではね。いまじゃ人に言えない仕事をたくさんしたさ、それでたくさん金を稼いで工場も家も建てたんだ。でも、そういう仕事をしたことに対して後悔はしてないよ、みんな、ばあちゃんが身ひとつで稼いだんだ。本当はね、じいさんと結婚する前、好きな人がいたのさ、その人にさ、求婚されてたんだよ。だけど、その人、日本人だったからね、結婚はできなかったさ。悲しかったよ、あんなに泣いたのはあれっきりだね、それでね丁度ハンメちゃんが持ってきた朝鮮人との縁談を受け入れてあげたんだよ。ハンメちゃんは沢山子供産んだのに、子供がみんな死んじゃって、おばあちゃんしか残らなくてさ、子供で苦労した人だったからね、おばあちゃんはね、ハンメちゃんの言うことを聞いてあげたんだ。ハンメちゃんは、同族と結婚したことを喜んでくれたし、わたしが男の子を産んだから、親孝行もできたんだよ。そうだな、これでよかったんだよな。それが運命ってやつだったんだよな。成美、よく聞いときな、この世で一番汚くて一番きれいなのは金だよ、金しか信用しちゃだめだよ、愛とか恋とか、そんなもんじゃ食べていけないし、生きていけないんだからね、愛なんてもん信じたらいけないよ」

最近、ずっと無口だったのに、めずらしくよく話をしたから元気を取り戻したのかと思ったら、よく言う、ろうそくの火が消える前の最後の灯とかいうやつだった。



父は基本、生きている人間以外には異常にケチだということが判明した。

祖父の葬式も祖母の葬式も、沢井君のお父さんのときとは、比べ物にならないほどに質素だった。

祖父のときなんか、葬式はせず、祖母と成美と父と三人でお棺に花をいれて、焼いて骨を墓に入れただけだった。

祖父が亡くなったとき、父も祖母も泣いていなかった。

「おやじがあんとき、倒れなかったら、家なんか継がないで俺、商社に内定決まっていたんだけどなあ、本当は商社に行きたかったよ、まあ、今更の話だけどなあ」と、焼き場で、父は物言わぬ遺影にひとりごち愚痴っていた。

祖父が亡くなったのは正月を過ぎてすぐの寒い時期だったから、焼かれた祖父の骨から発される温かさが、なんだか心地よかった。

祖父は骨が頑丈で、骨太だったので細かくしても壺に入りきらなかった。

「壺に入らない分は、ここで捨てちゃってもらえる?」と、祖母が言って、焼き場の人が「それはちょっと……」と、困っていたので、成美は「なにか、袋とかにいれてもらっていいですか?」と、フォローした。

「ほら、のどぼとけが仏様の形をしてるだろ」

と、祖母にいわれたけれども、仏様の形には見えなかった。

どちらかと言うとコムタンスープに入っている肉の骨に似ていると思った。

『ナルや』

のどぼとけを掌に盛った途端に、祖父の声が聞こえた気がした。

お見舞いに行けなかった分の後悔があったので、成美は祖父ののどぼとけを優しく撫で、家に帰ってから庭に埋めた。

余った骨も、庭に巻いた。

埋めたところから、のどぼとけの木が生えてきたら面白いな、と思った。

そんな祖父の送り出しに比べたら、祖母の葬式はまだマシだった。

四千里のおばあちゃんや、近所の祖母の友人たちが手伝ってくれたので一応葬儀場(でも、父が金をケチったのでこの地域では一番安いプランのところ)で行われた。

準備中、小さな葬儀場にそぐわぬ、ものすごく大きな高級そうなスタンド花が送られていた。

差出人は、晴美姉ちゃんだった。

お坊さんが来るまでお棺の中の祖母の遺骸をじっと見ていると、たましいが抜けた人間の身体はみんな、同じ顔をしているのだなあと不思議な感じがした。

肉体は、物質である。

肉体は心の道具で……。

って、何で読んだんだっけな。と、成美は考えていた。

しばらくしたら袈裟を着たお坊さんが入って来て、なんだか難しい話をしてから、お経を読みだした。

しんと、している。いろんな人のすすり泣く声が聞こえる。

しばらくお経を聞いていたら、あ、さっきのは授業で読んだ聖書の話だった。と、思い出し、すっきりしたので、脳内でお経をリズムにのせて聴いていた。

お経は、なんだか、ジャパニーズラップみたいに聞こえた。

不謹慎だが、『ほんにゃらこんにゃくオブザイヤー』と、聞こえたときに、成美はお経をアレンジして作曲したら、ラップができるのではないかと、ひらめいていた。

(あとで『お経』『ラップ』と検索したら実は、とっくのとうに、現役のお坊さんでラッパーを兼業している人がYouTubeにでてきた。ちょっとイケてる感じだったけど、大ブレイクの予感はしなかった)

父は、遅れて葬儀場にやってきたうえに、酔っぱらっていた。

元来マザコン気味の父だったのだ。酔いが回って感情が高ぶっていたみたいで、入ってきた途端に大人げない子供みたいな泣き声をあげた。

「おかああああさあああん」

と、お経を遮り、お棺にうっ伏して泣いた。

葬儀場の人に席に戻るように促され、それでもお棺から離れなかった。そんな中でもお坊さんは、無表情でお経を唱えていた。

用意されていた父の席の横には一応喪服を着た、父の恋人らしき人が座った。

恋人らしき人は不愛想な娘を連れていた。

父が葬儀に遅れてきたので(しかも痛風で足を悪くしたらしく父は茶色い便所サンダルを履いていた、のちにそれを便所サンダル事件と成美は命名した)恋人らしき女の人は、成美を見ようとしなかった。

こちらに一礼もせず、前を向いている。

全く綺麗じゃない地味な顔で、化粧が濃く、ちょっと骨が太い感じで太っていて、ださいパーマをかけて、金髪のメッシュをいれている。三十歳くらいだろうか。なんでこんなところにこいつがいるのかと腹が立った。

女の子は、多分小学校三年生くらい。

白いブラウスを着て、紺色のスカートを履き、ちっともかわいくなかった。ゲーム機をいじりながらつまらなそうにしている。


関係ない奴は、くるなよ。

成美は思いながら、舌打ちをこらえた。

祖母に、もっと優しくしてあげればよかったかな。

後悔のほうが多くて、泣く資格がないように思えて全く涙が出てこない。

お経も終盤にさしかかってきたらしきところで、入り口で、四千里のおばあちゃんが怒っている声が聞こえてきた。

(ちょっと、なに、あんた、そんな胸の開いた服着てきて……)

(だって、黒い服これしかなくて、なんで、もっと早く知らせてくれなかったのよ、花はさあ、ネットですぐ注文できるけど、服は買いに行く時間なかったよ)

晴美姉ちゃんの声だとわかって、成美は顔をあげた。

推定、Gカップはあるであろう巨大で人工的な乳。

谷間のできた胸元。短い丈で袖が下がった黒いワンピースを着ている晴美姉ちゃんは、成美と目が合った瞬間に満面の笑みを向けて手を振ってきた。

晴美姉ちゃんは、いまや、ある特定の人の間では超のつく有名人になっていた。

いや、たまにネットニュースにでていたりするくらいだから世間でも相当に有名なのだと思う。

『遥さくら』

と、言う芸名で、セクシー女優になった晴美姉ちゃんは、もともと可愛らしい感じだったのに、整形して、大きな胸に高い鼻筋、目頭の広い美女に変貌していた。

女神のようなスタイルで、そこら辺の有名な一般女優さんに負けないくらいの美しい顔をしているのに、セックスのプレイにNGなしというコンセプトが大ウケしたらしく、深夜のテレビなんかにも出て、異国でも莫大な人気を誇っているらしかった。

沢井君はドイツで『日本人? サクラ、シッテル? サクラ ハルカ』と、クラスメイトに話しかけられて、近所に住んでいたと言ったら、ジョークだと思われて笑われたらしい。

整形して顔が変わっているのに、斎場に来ている近所のみんなは、すぐに四千里の晴美姉ちゃんだとわかっているみたいだった。

いくら少し形を変えても、人間には、何か、オーラみたいなものが発信されているのかもしれない。

不思議なものなのだなと。思った。

お経が終わり、お坊さんが、締めの挨拶をした。

みな、用意された、こじんまりとした会場に向かった。

ネタの乾いた安そうな寿司やビールが並んでいる中で、四千里のおばあちゃんが、持ってきてくれた自家製のナムルやキムチを出してくれた。

「ヨネちゃんのキムチが一番美味しかったんだったんだけどねえ」

祖母は日本名を米子と名乗っていたので、みんなからヨネちゃんと呼ばれていた。

四千里のおばあちゃんが、「若い頃は、ずいぶん、みんな、困ったときはヨネちゃんに助けてもらったよ、まあ、口が悪いから憎まれてもいたけど、本当に面倒見のいい人でね、婦人会もヨネちゃんがいたから楽しかったんだよ」

四千里のおばあちゃんは、みんなからは、おばちゃんとかおばあちゃんとかいろいろ呼ばれているけれども、本来は晴美姉ちゃんのおばあちゃんにあたる人で、晴美姉ちゃんにも成美と同様、母親がいないのだ。

晴美姉ちゃんの母親は、成美の母のように出て行っていなくなったわけではなく、もともと身体が弱く病気を患っていて、晴美姉ちゃんを産んだときに亡くなった。

色が白くて晴美姉ちゃんに似た、とても綺麗な人だったらしい。

『美人薄命』とは、ほんとあの子のことだったよねぇ。

と、祖母はよく言っていた。

「ヨネばあちゃんのキムチ、レシピ聞いてないの?」

晴美姉ちゃんがキムチを食べながら四千里のおばあちゃんに聞いた。

「いや、毎回さ、年によって違うって言ってたからさ、いくつかは聞いたんだけど同じような味にならないのよねぇ、もう、あんた、なんか、羽織りなさいよ、本当にみっともない」

晴美姉ちゃんが、キムチを割りばしで口に運びながら「とか言ってさ、お店、あたしの稼いだ金で結構改装してたじゃんかよー!」と笑いながら呑気に言った。

「ナル、元気だった? どんくらいぶりだ? いま、高三だっけ? あんた、綺麗になったねぇ、十八になったらうちの業界来れば? 胸いれたら、あんた絶対売れるよ」


ぜったいむりー。まず、そういう行為が無理―。


言わずに心の中で思った。

「いやいや、一応わたし、四年制の大学に行くつもりだし、晴美姉ちゃんみたいに綺麗じゃないし」

「まあね、確かに、まともに生きたかったらくるとこじゃないかもな、お金は稼げるけど」

付属の短大ではなく四年制の大学に行って、なにを勉強しようとは決めていなかったが、とにかく、成美は今の世の中、就職に有利になるような学歴だけは持っておかねばと考えていた。

「でもさ、綺麗っていうけど、わたし、まじ、超サイボーグだからね、これさ、全部タカユキのお父さんにやってもらったんだよ、やっぱ、うまいよね」

タカユキ……! 晴美姉ちゃん、まだタカユキと付き合っていたのか。いや、一応沢井君の従兄だからだからあれだけど。

「晴美姉ちゃん、まだ、あの人と付き合ってんの?」

「うん、あいつさ、浪人して、いまやっと愛知県の医学部行ってるんだ」

「つきあい長くない? どこがいいの? 晴美姉ちゃんだったら、芸能人とか有名人とか超お金持ちとかのイケメンとかに誘われるでしょ」

「うーん、まあ、確かに、誘われるし、たまにノリでやったりするけど、タカユキは別格だよ」

晴美姉ちゃんは、中華街の巨大肉まんみたいな真っ白くて柔らかそうな胸を抱えながらキムチを頬張っている。

あんなに有名人になっているのに中身は変わっていないみたいで少しうれしかった。

四千里のおばあちゃんが席を外してすぐに「ナル、煙草つきあって」と、誘われて外にでた。

外の喫煙所でバックから取り出した晴美姉ちゃんのタバコは電子タバコに変わっていた。

「タカユキさ、実はあの人、超ド変態なんだよ」

焼き芋みたいな匂いのする蒸気を吐き出す晴美姉ちゃんの横で、成美は、自販機でゼロカロリーのコーラを買って飲んでいたので、いきなりの告白に、ぶーと、ふいてしまった。

炭酸が鼻に入って痛い。

「ちょっと、まじ、晴美姉ちゃん、コーラ飲んでるときにそういうのやめてよ」

「ごめんごめん、タカユキの話できる人って、他にあんまりいないからさ」

「なに、超ド変態って」

「わたしがAV業界入ったのも、タカユキがね、他の人と私がセックスしているのを大画面で観たいって言ってきた話がきっかけでさ、土下座までされたのよ、まあ、わたしも、タカユキが言うならって感じでさ、そんで、タカユキのお父さんにいろいろいじってもらって、キャバのときの知り合いに事務所やってる人いたから、とんとん拍子に決まってしまって、まさかこんなに自分が有名になるとは思ってなかったんだよね」

「まじで? それ……?」

にわかに信じがたい話だったが、まだ、そんなの序の口だった。

「わたしたちね、もう、ずっと一緒にいるじゃん、あたしはもうタカユキ無しだと、無理なわけ、タカユキがいて、わたしなの、いや、それだけ聞くとすごく綺麗ごとみたいな言葉なんだけど、そういうんじゃなくて」

「うん、たしかに。いや、それ、でもさ、タカユキおかしいよ、ってか、タカユキのお父さんは、晴美姉ちゃんとタカユキの関係を知ってるの?」

「そりゃ、知ってるよ、長い付き合いだもん」

「息子の彼女の整形とか、反対されなかったの?」

「いや、おじさん、手術するの大好きでさ、喜んでやってくれたよ」

「じゃあ、タカユキのお母さんも整形しているの?」

「いや、タカユキのお母さんとお姉ちゃんはね、めっちゃ普通なんだよ、あんまり会ったことないんだけど、どこもいじってないらしいよ」

「なんか、タカユキのお父さんもタカユキもどっか歪んでるね」

「歪んでるよ、あの人たちは、ユガンマーだよ」

「なに、ユガンマーって」

「いや、わたしが作った言葉だけどさ、なんか、今気づいたんだけど、ユアン・マクレガーみたいじゃない? ユガンマー、いや、ユアン・マクレガーは全くユガンマーじゃないんだろうけどさ」

成美は、再びコーラを噴出してしまった。

今度は鼻に入る前に、口から出したのでセーフだった。

まるで、沢井家の陰と陽だ。兄弟や従兄なのに真逆な一族なのだと思った。

タカユキもタカユキ父も、沢井君も故沢井君のお父さんも。

「でもね、タカユキのおかげで、遥さくらさんになれたことに、わたしは、なんの後悔もないよ」

自分が遥さくらなのに、まるで他人事みたいな言い方だった。

「わたしたち、心の底から必要とし合っているの、愛してるの。ナル、性と愛は違うんだよ、タカユキが興奮して喜んでくれるならさ、わたしはなんでもしてあげたいと思ってしまうの、それがわたしたちの愛し合い方なの」

成美は晴美姉ちゃんの話を聞きながら、本当の愛と言うのは、性の介在しない成美と沢井君のような関係を言うのではないだろうかと、ほんのすこしばかり優越感に浸っていた。

我々は、身体なんて繋がらなくても、魂で、必要とし合っている。

それを本当の愛と呼ぶのではないか。

「晴美姉ちゃんは、優しすぎるんだよ」

「優しくないよ、馬鹿なんだよ。でもね、本当は、撮影のセックスなんてちっとも気持ちよくないんだよ」

超人気セクシー女優の衝撃的発言だった。

もしこれを聞いてしまったら、世界中の男たちがむせび泣くであろう爆弾発言。

「え……」

「いや、まじで、まじで、内緒だけど撮影でイッたこととかないし」

成美は、いまだに性行為や性器が苦手なので晴美姉ちゃんの性行為をしている映像を見たことはなかったが、『最強美女なのに、すぐに潮を吹くドスケベ淫乱、毎回イキまくり』とか、いうフレーズは雑誌や深夜テレビなどで見たことがあった。

だから、本当に淫乱なのかと思っていた。

「正直に言うとさ、セックスでイクとかも知らないんだよ」

昔、樹里が、潮を吹いたとか、ローターでイッたとかいう話をしていたのを思い出した。

イク。って、なんのことか全くわからないけれども、それが、多分、男の満足を刺激するものなのはわかる。

(もちろん、男のイクが、射精だということは知っている)

「ナル、いま、十七歳だよね?」

「うん、十七歳だよ」

サッドマンの歌に『セブンティーン』という歌があった。

大人にも子供にも属さない時期だとか、わかっているつもりでわかっていなくて、でもまだ一人ではなにもできなくて、固まっていない半熟卵だとか、そういう、サッドマン自身が十七歳だったころを懐かしんでいるような歌詞だった。

「そっか、セブンティーンか、いいなあ、彼氏は?」

「一応いるけど……わたしもいま、遠距離だから」

「へえ、一緒だ! なんか、ナルとは、通じるね」

なんとなく、沢井君と付き合っていると言うことを躊躇してしまった。

タカユキは、もしかしたら身内だから沢井君の身体のことを知っているのだろうか。生殖器がないこと。勃起がないこと。射精がないこと……。

晴美姉ちゃんは遠い目をして蒸気を吐き出した。

丁度電子タバコを吸い終わったみたいだった。小さな巻物みたいな紙が指先にある。

「忍者の巻物みたい」

思わず言ってしまったら「あはは、本当だ。ナルは、そのままでいなよね、わたしは、そういうナルが可愛いんだから」

と、いって電子タバコを吸いガラ入れに入れた後

「ナルはナルのままで、そのままでいてください そのままで~ ♪」

と、歌いながら身体を揺らしてのっていた。

父がよく昔、歌っていた曲だった。晴美姉ちゃんのお父さんと成美の父は同じ青年部の仲間で、仲がよかったから、祭りの余興で二人で肩を組んで歌っているのをみたことがある。

そういえば、今日、晴美姉ちゃんのお父さんの姿をみていない。

「晴美姉ちゃんのお父さんは? 今日、来てないの?」

店があるからかな。と思っていたら晴美姉ちゃんが言った。

「父ちゃんはね、わたしにもう一生会いたくないって、とっくに勘当されてるんだよね、わたし。明日の告別式には来るみたいだよ、だから、わたしはお通夜に来たんだよ」

「そうなんだ」

「ナル、ラインやってないの? おしえてよ」

「うん、やってるよ」

IDを教え合って、晴美姉ちゃんが、友達欄に追加された。

『SAKURA HARUKA』

『沢井創』の下に名前が表示されて、なんだか、不思議な気分になった。

晴美姉ちゃんはお棺の中の祖母の顔をもう一回見に行って、「ヨネばあさま。いままで、ありがとうね、ゆっくり寝てね」と話しかけ、冷たい祖母の額を撫でていた。

タクシーを呼び、乗ってから晴美姉ちゃんが言った。

「いま、わたし、西新宿にある事務所の近くのマンションに住んでるからさ、新宿来ることあったら遊びおいで」

「うん」

新宿か……。

新宿は学校の帰りに、たまに映画を観に行く場所だ。

近いうち、また晴美姉ちゃんに会いたいな、と思いながら手を振って別れた。


その夜、父は帰ってこなかった。はじめてひとりきり、広い家の中で過ごした。

(狭い葬儀場だったので沢井君のお父さんの葬儀のときのように泊まる場所はなかった)

がらんとした家の中は、過去に置き忘れた家みたいだった。

神様が、そこだけこの世にあることを、見落としているような感じがした。

成美はドイツにいる同じく十七歳の沢井君に、ラインではなく手紙を書きたくなり抽斗から便せんをだした。

拝啓 

沢井創くん。

突然ですが、祖母が亡くなりました。

と、成美はペンを紙に滑らせる。

そして、いつも冷蔵庫がキムチ臭くて嫌だったけど、もう、そんなことを思わずにすむのだということを面白おかしく書き、大学に行こうと思っているけれどもいまから勉強してどのランクの学校にいけるか悩んでいることを続けた。

通夜に晴美姉ちゃんが来てくれて、まるで結婚式みたいな大きくて真っ白い花を送ってくれたことも。

父の恋人が子供を連れて来ていたけど、不細工で挨拶一つなかったから、腹が立ったことも。

父は大泣きしていたくせに、家には帰ってきていないこと。自分の父親ながら便所サンダルで葬式に来て、呆れたことも。

多分、今頃あの不細工な恋人のもとにいっていることを考えると気分が悪くなることも。

 便せんが三枚になってしまったときに、瑠香からラインが来た。

『なるー、元気? ねー、悠馬君の熱愛報道みた? まじ、コインズオタの掲示板大炎上だし、瑠香は超絶凹み中』

『えー、まじ? あのね、身内に不幸あって今日お通夜だったのから、全然知らんかったよー すまぬ』

『え、タイミング悪くてこちらこそすまぬ、おくやみー! じゃあ、また、落ち着いたら教えてぴよ』

『おけおけ、すまんよー』

あえて、母親と同じ役割をしてくれていた祖母が亡くなった。とは言わなかった。同情されるのが嫌だった。

瑠香にも樹里にも、自分が父子家庭で、祖母に育てられたということは言っていなかった。

とくにいう必要もないし、色眼鏡で見られるのが嫌だったからだ。

便せんに続きをつづろうとして、何を伝えたかったのかわからなくなった。たくさんありすぎて頭の中がこんがらがってしまった。

ああ、タカユキがド変態だということを言ってやろうと思ったんだ。

けれども、なんだか、それは晴美姉ちゃんに申し訳ない気がして、ペンが止まった。


『とにかく、わたしはね、性って、愛には必要のないものなのだと思ったの。だから、沢井君がいてくれて、本当に良かった、わたしたちが出逢えたことは必然だったんだね。ありがとう。夏休みは帰ってくるのかな? 日にち決まったら教えてね。急に手紙なんか書いてごめんね、でも、なんか今日は手紙を書きたかったんだ』

書きながら、沢井君と祖父のお見舞いに行った日を思い出していた。

(祖父が亡くなったときは、ラインですぐに報告した、沢井君はとても悲しんでくれていた)

あのときの潮風、気持ちよかったな。

いつも味噌汁代わりに台所のコンロの上には納豆とキムチを味噌で煮たものがあって、それは臭いけど美味しかった。成美の好物だった。


もう、ばあちゃんの作ったごはん、二度と食べられないんだな。


小さい頃、熱を出すと、祖母はずうっと横で、アイスノンをタオルでまいたものを頭の下においてうちわを仰いで歌っていてくれた。

(アイスノンはいつもキムチ臭かった。うちだけの特徴だと思っていたら恋人の家のアイスノンがキムチ臭かったという小説を読んで、いたく感動したことがある)

「ゆりかごのうーたーを♪ カナリアがうたうよ ♪ねーんねーこ、ねーんねーこ、ねーんねーこよ」

祖母は日本語がうまく書けなくて、お年玉袋には毎年変な日本語が描いてあった。

『おはあざんより』とか、「おあばんより」とか。

『おぱーやん』だった年もあった。

『おぱーやん』って!……。

と、おかしくて笑ってしまったけど、祖母には全く可笑しくなかったみたいで最初は笑われて怒っていた。けれども、そのうち、成美の笑い声につられて、なんだかよくわかんないけど。という感じで笑っていた。

 せめて、成人式まで生きてくれていたらよかったのに。

急に鼻が痛くなった。

鼻血が出る前兆かと思ったら、頬がなまぬるく濡れていた。

あごから、生ぬるい液体が、ぽたぽたと垂れていた。成美は手で拭った。

ああ、泣くなんて、やだやだ。みっともない。

と、思いながらも、目の前は滲んで全く見えなくなった、水の中にいるみたいだった。

十七歳にもなって、祖母が亡くなって泣くなんて、なんだか、自分の置かれた環境に酔っている人のように思えたのだ。

十三歳の沢井君は、お父さんが亡くなっても泣いていなかったのに。

くやしかった。人がいなくなることで、こんなにも心が痛くなるなんて。

しかも、あの恐かった祖母がいなくなっただけのことなのに。

この世にいなくなってしまっただけのことなのに。


ふ、ぐ……うううううううう

 

ジャングルにいる動物の夜中の鳴き声みたいな泣き声が、がらんとした部屋に響いた。

十七歳。あと何か月か経てば十八歳になる。夏になるほんの少し前の出来事。

成美は育ての親という大切な人を失くした。

きっと、やはり十七歳って特別な歳なのだと思う。

だって、いろんな著名な人たちが歌や映画や小説にするくらいだもの。

十七歳になったら、みんなこうして試されているのかもしれない。

強くなるように、悲しみを与えて鍛えられているのかもしれない。


                      

告別式のすぐあとに、父の恋人が家に引っ越してきた。

不細工で太ったあの女と、その娘だ。

祖母の不在に疲弊していて、反対する気力もなかったけれども、あまりにも早い父の行動に腹が立ち、成美は家を出たいと父に直訴した。

「まあ、成美にもそっちのほうがいいだろう」

父は顔を綻ばせた。すぐに知り合いの不動産屋に頼んで学校の近くのワンルームのマンションを借りてくれた。

父は自分に都合のいいことには惜しみなく金を出す男だった。

「自立はいいことだよ、お父さんもな、成美くらいのときには、もう、大学の近くのアパートにいたんだし、一人だと受験勉強もしやすいだろ」

お前は、そんときはもう大学生だっただろうがよ。と、毒づきたくなったが、こらえた。

引っ越しは、父がトラックをだして全部やってくれたしお餞別を結構くれたし家賃も払って仕送りもしてくれると約束してくれた。 予備校の夏期講習の手続きやらなんやらもしてくれて成美の希望を全部聞いてくれた。

多分、後ろめたかったのだと思う。

現金なもので、父に対する憎しみは薄れた。

地元には何の未練もなかったが、四千里のおばあちゃんが小さなタッパーにキムチを持たせてくれた時は、すこしだけ、切なくこみあげるものがあった。

キムチのタッパーに、手紙がついていた。

「ぜんきでぬ、すっかりやら」

四千里のおばあちゃんも日本語を書くのがヘタだった。


成美が引っ越したのは、学校へ地下鉄一本ですぐに行ける小さな街だった。

築年数も新しくない小さなワンルームの部屋だったが、駅から徒歩すぐに行けるので満足だった。

予備校も駅前にあったので通うのが楽だ。

学生が多く、ネットで検索するとこの街はラーメン屋や安い定食が多いところらしい。

成美は浮足立った。浮足立ちながらも、沢井君から、手紙の返事が来ないことを少し不安に思っていた。

とりあえず、引っ越したことはラインで伝えたのだが、なぜだか既読になるけど返事が来ない。

勉強が忙しいのかな。と、思って、成美は自分からの連絡を控えた。

成美への手紙は、父に郵送してもらうように頼んであるし、まあ、大丈夫だろうと思いながらも、ぼんやりとした嫌な予感が拭えなかった。

引っ越し用の段ボールを片付けていたら、スマホに同時にラインのメッセージが来ていた。ちょうど、晴美姉ちゃんと瑠香からだった。

瑠香は、悠馬君の熱愛報道でかなり憤慨していた。

しかも、相手がセクシー女優『遥さくら』だったことに腹を立て、いろいろな掲示板に『遥さくら』の悪口をかきこみまくっているらしい。

当の遥さくらこと、晴美姉ちゃんは、「誘われたから、一回やっただけなんだけど」と、特に悪びれる様子もなく言っていた。が、取材された週刊誌やメディアには、『えー、飲み会で少し喋っただけですけど』と答えていた。

成美は、当事者と、加害者? 被害者? よくわからないが二人とのラインのやりとりを同時にこなしていた。

瑠香からは『まじ、死んでほしい、殺したい、あんな女に騙されて、わたしの悠馬くんが汚れた』と、呪いみたいな恐ろしい言葉が来ていて、晴美姉ちゃんからは『ナル、引っ越しどう? わたし撮影終わって暇だから、なんか手伝いにいこうか?』と、瑠香とは対照的に女神のような優しい気遣いの言葉が来ていた。

遥さくらはメーカーと専属契約をしているので、月に撮る本数が決まっていて、意外にも暇な時間が多いらしい。

成美は瑠香には『悠馬くんはきっと潔白だよ、メディアがおもしろおかしくしているだけだよ、遥さくらなんてどうせAV女優じゃん、忘れたほうがいいよ』

と、瑠香をいたわる返信をしながらも、晴美姉ちゃんには『わあ、来てくれたらありがたい、めっちゃ、うれしい』と返信していた。


晴美姉ちゃんは、新宿からタクシーに乗ってやってきた。

薄い白いサマーセーターに短いスカートのセクシーな私服を着ている。

部屋を片づけながら「ひとり暮らし、さみしくない?」

と聞かれ、「全然、むしろ、めっちゃうれしい」と答えると

「ナルは、ヨネばあちゃんがいなかったら、とっくに家出してたのかもね」

と、晴美姉ちゃんは言ってから、うんうん、と頷き勝手に納得しながら笑っていた。

「お腹減んない?」

と、聞かれ、そういえば胃が空っぽだったことに気が付いた。

きゅう。と、腹が鳴った。

押すと、音の鳴るぬいぐるみみたいな音だった。

「ピザでいいかしらん」と、晴美姉ちゃんは宅配ピザをネットで頼んでくれた。

混んでいて三十分くらいかかるというので、その間、飲み物などを買いにコンビニに行くことにした。

晴美姉ちゃんが家に買ってきてくれたのはトイレットペーパーと、いい匂いのする外国のルームスプレーと、高そうなアロマポットと、洗剤と柔軟剤だった。

手慣れた感じでいろんな場所に設置してくれた。

「女はさ、匂いが大事だから、まじ、うちらは、なんか、キムチ臭とか焼肉の匂いに慣れていたからね、あんまり気が付かなかったけど、女の部屋はいい匂いにしといたほうがいいよ」と、シューシュー、と、ルームスプレーをまきまくって部屋の空気が少し白くなていた。

たしかに、ココナッツとバニラのいい香りに、幸せな気分になった。

父が家電量販店で必要なものを買ってくれていたので、足りないのはこまごまとしたものだけだった。

近くに百円ショップがあったから、とりあえずそこで、フォークやナイフ、コップを買って、コンビニでお菓子や飲み物を買った。

テレビはあまり見ないから、買わなかった。

「いまどきの若いやつは本当にテレビ離れしてるんだな」と、父には驚かれたが、成美は最近、テレビが苦手になっていた。

(自分がテレビの世界で活躍できなかったやきもちがあったことは認める)

面識はないのに知っている気のする誰かがいる。そんな嘘の世界に白けてしまうのだ。

替わりに新しいパソコンとタブレットを買ってもらった。

世間のニュースを知ることや映画を観るのもスマホやパソコンがあればできる。十分だ。

丁度コンビニと百円ショップから帰宅してすぐに宅配ピザが来た。持ってきたのは、若い男の子だった。

会計をして、ピザを受け取ってくれた晴美姉ちゃんを見て動揺し顔を赤くしていた。

「いまの男の子、今頃、勃起してるかな」

ピザ屋が帰った後、だらりと、CMみたいにチーズを長く伸ばしながらピザをかじり、コーラを飲みながら晴美姉ちゃんが笑っていた。

あぐらをかいていたから、股座が透けて見えたが、晴美姉ちゃんだからか、あんまり嫌な感じがしない。

「晴美姉ちゃん、悠馬くんとは、もう関係ないの?」

「ないない」

と、横に手を振って、晴美姉ちゃんは、嘆息をついた。

「だって、本当に、飲みの席で一緒になってさ、なんとなくだったんだよ、そんなのよくあることじゃん、そしたら、たまたま撮られてね。一回しかやってないのにさー、なんか、タカユキは喜んでたけどね、今度、その状況を再現しながらやりたいとか言っていたよ」

「えええええ、タカユキはさ、嫌じゃないの? 本当にそれで興奮するの?」

「ナル、教えてあげる。タカユキだけじゃなくてね、そういう性癖があるんだよ『寝取られフェチ』っつったかな、なんかそんなんがあるらしいよ」

「まじで? 本当にユガンマーだな……でもさ、タカユキと晴美姉ちゃんはこの先どうするの? 結婚とかするの?」

「するよ、するに決まってるじゃん、わたしたちは、ずっと一緒なんだから」

成美は少し、ほっとして、胸をなでおろした。

話だけを聞いていたら、なんだか晴美姉ちゃんがぞんざいに扱われているみたいで気分が悪かったのだ。

「しかも、悠馬くんの、アレ、あんまおっきくないし……もしまた誘われても、ないな」

晴美姉ちゃんが言った言葉を瑠香が聞いたら、包丁で晴美姉ちゃんを刺してしまいそうだと思った。

晴美姉ちゃんは、光を照らす棒や、顔写真のついたうちわをもって、生活のほとんどのエネルギーを費やし悠馬君を応援し続ける側の瑠香とは違う。

光に照らされ、輝いている側の人のほうなのだ。

「ナルは、彼とどうなの?」

「なんか、最近、連絡ないんだよね、なんかあったのかな」

つい、するっと、卵の白身がこぼれるみたいに話してしまった。

「ねぇ、ナルの彼って、もしかしたら、創くん?」

ぎゃ! す・る・ど・い

と、思わず、クラッカーを鳴らし、『正解です!』と言って、景品を渡したくなった。

が、成美はすぐには答えなかった。

沈黙が続く……ピザは冷めてきて、チーズが固まり、パンは水分を失いぼそぼそとしてきた。

「ナル、もしかして、いま創くん、ドイツで入院してるの、知らなかったの?」

「え! うそ」

「まじまじ、タカユキが言ってたよ、ちょうどヨネばあちゃんが亡くなったころかな、ドイツで交通事故にあったんだって」

……沈黙の沈黙の沈黙。まさにサイレンス。

パンをちぎっていた成美の手が止まる。え、どうしたらいいのだろうか、ああ、こういうときって本当に喉がつかえて声が出ないのか、と、妙に納得してしまった。

「お母さんがドイツに行っているみたいで、妹さんは学校あるからさ、いま、タカユキのお父さんの家に預けられているんだよ」

「うそ……」

「いや、本当だってば、やっぱ、創くんだったのか、もっと早く言ってくれたらよかったのに、タカユキに現状聞いてみてあげるよ」

「え、あ、いや、タカユキには、付き合っているとか、そういうの言わないでほしいんだけど」

「ナル、中学生じゃないんだからさ、誰もそんなの気にしないよ、緊急事態じゃんかよ」

たしかに。でも、なんとなく、嫌だった。沢井君にまで迷惑がかかってしまったらと思ったら、口が膨らみ、歪んだ。

「ちょっと、ナル、曲がりなりにも、タカユキはわたしが一番信頼している人なんだからさ」

「ん」

口が歪んでふくらんだまま、うまくひらかない。

どうしても、あの赤黒い蛇や、肌が汚いと言ってきたタカユキのイメージが払しょくできない。

(肌が汚いと、ちゃんと言われたわけではないけど、成美にとっては同じ意味だった)

「あ、きた」

いつの間にか、晴美姉ちゃんはタカユキにラインをしていたらしい。

『なんか、まだ意識も戻っていないみたいだぜ』

見せてもらうと、しょんぼりとして泣いている鳥のスタンプが添えられている。

「意識不明ってこと? そんなに悪いの?」

がくがくと、意識せずに成美の手が震えだした。変な感覚だった。自分の手なのに自分のものではないような。そして脳が痺れてきた。

び、び、と、微かな電流が流れているような感じ。

だったら、あの手紙は、届いていないんだ。ラインの既読はお母さんか。

沢井君が意識不明だというのに、どこかで、連絡の来ない理由がわかってほっとしている自分が否めなかった。

嫌われていなくてよかった。こんなときにそんなことを思ってしまう自分を異常だとわかってはいたけれども、思わずにはいられなかった。

『命がヤバいとかなの?』

晴美姉ちゃんが送るとすぐに返事が来た。

『命に別状はないみたいだけどな、でも、もしかしたらなんかの障害が残るかもしれないよな』

タカユキのラインの文面を見て、頭の中で、キンと貴金属がぶつかるような音がした。

きっと、大丈夫だよ。とか、なんで、この人言えないのだろう。

沢井君だったら、きっとそう言ってくれるのに。

一時的にでも、救いを欲しているものの気持ちをなぜ汲めないのだ。

「命に別状はないって、よかったね」

「うん、でも、交通事故って、一体なんで? どこで?」

「わかんない、タカユキも、あんまり詳しくは知らないみたいだし、ドイツは……遠いね」

すぐに行こうと思っていけるものではなかった。

「ナル、夏休みいつからなの」

「来月の二十日」

「パスポート取りに行こう、会いに行きなよ、ドイツ、わたし、お金出してあげる」

「そんな、だめだよ」

言いながらも、胸の奥がバクンと音を立てた。会いたい。沢井君に会いたい。

もしもベッドで寝ているだけだとしても、その手を握りたい。

「行きなよ、後悔するよ、好きな人には、会える時に会っておかないと、いつ会えなくなるかわからないんだよ」

晴美姉ちゃんの言葉には説得力があった。

祖父と祖母を失くし、成美の中で後悔が拭えていなかった。

存命中に、本当はできることがたくさんあったのではないか。

生きているときは煩わしいとすら思っていたのに、亡くなった途端に後悔の対象となる。

こんなの、自分勝手で、究極のエゴイスティックだ。

けれども、悲しかった。エゴでもなんでも。戻らない日々の思い出に浸り、心の隙間に吹く風の感覚に悲しくなる。

「わかった、パスポートとる」

「うん、未成年だし、多分、お父さんに言って、同意書を書いてもらわないとだから、よし、来週くらいにタクシーで一回、実家に行こう、一緒に行くよ」

「え、遠いよ、電車で行こうよ」

「ナル、わたし、電車だめなのよ、パニック障害だから」

パニック障害……。

聞いたことはあるけど、よくは知らないのでググる。

なんて便利な世の中なのだろうか。

辞書がいらない。スマホ一台でなんでもわかってしまう。

『パニック障害    パニック障害の発作は、満員電車などの人が混雑している閉鎖的な狭い空間、車道や広場などを歩行中に突然強いストレスを覚えて発症することがあり……』

「うん、……なんとなくだけどわかった。晴美姉ちゃん、病気なの? 大丈夫なの?」

「うーん、結構それね、前からなのよ、だから別に慣れてるし、大丈夫なんだけどさ」

なんだか、それ以上詳しく聞くのを憚られた。

晴美姉ちゃんはいつも、綺麗で明るくてあっけらかんとしていて、たのもしくて、笑っていて。


でも、精神疾患を抱えているらしい。


みんな、なにかを抱えているのだと、成美は思った。

自分だけが大変な状況にある。そんな風に考えてしまいがちだが、例えば瑠香の悠馬くんの問題だって、瑠香にとっては、一分たりとも脳から追い出せない苦しみなのだろうし、それぞれに苦しみがあるのだ。

しかしまた、どうして、沢井君みたいないい人に不幸なことが立て続けに起こるのだろう。

ずっと差別なく、実直に生きていて、『お父さんのようなお医者さんになりたい』と言っていた沢井君。

なぜ、彼のような人が、交通事故になんて遭ってしまうのだろう。お父さんを亡くしてしまうのだろう。生殖器を持てなかったのだろう。

その別、タカユキのような輩が、晴美姉ちゃんみたいな、みんなの憧れの人の心を独り占めにして、タカユキ父は、最近メディアにも頻繁に露出しているし。

『ゴッドハンド』とかなんとか言われて、芸能人の整形事情なんかを話したりもしている。

沢井クリニックを拡大し、CMまで流して、今では沢井クリニックは全国に展開している。大手美容外科だ。

成美にはわからなかった。どうやって生きたら、うまく生きていけるのか。

有名になりたかったのは、他と人は違うという優越感が欲しかったのだと思う。

有名になりたい欲はいつの間にか薄れていた。

いまは、そんな気力がない。

相変わらず性器が怖いし。やっぱり男の人が苦手だ。

自分の性格が異常だということがわかってしまった。

沢井君のおまじないのおかげで肌は綺麗になったが、まだ、痕が少し残っている。

透き通るような肌を持つ、選ばれたアイドルや女優やモデルになれるほどの可愛さはないことを自覚してしまった。

漫画だってずっと描いていないし。

なりたいものがわからない。

空虚に、無駄に生きているような気がする。

なにかに熱中できる晴美姉ちゃんや瑠香をうらやましいと感じることがある。自分はただ、生命を消費し、無気力に生きているだけだった。


               

『自分たちの子供は望めないとしても、いつか、養子でもとってさ、みんなで暮らしていくとかいいかもね』

一人暮らし初めての孤独と寄り添った夜。

新品の匂いのするベッドの中で沢井君が言っていたことを思い出した。

自分が片方だけになってしまったような気がしていた。

晴美姉ちゃんが、タカユキを自分の半分だと言っていた意味がわかる。

沢井君は成美の半分。いや、それ以上だった。

自分が小豆ほどの大きさの豆だったら。それを包んでくれている柔らかく甘い優しいお餅だった。

お餅は、事故に遭って乾燥し、固くなってしまったのかもしれない。固くなってひびが入って、割れてしまっているのかもしれない。

沢井君のことを考えると胸がくるしい。

「うっ……」

明日は学校なのに、泣いたら目が腫れてしまう。

成美は、掌で顔を覆い、タオルケットにくるまった。

蒸した湿気のある夜だった。

買ったばかりの扇風機を回したら、心地よい風が涙を乾かしてくれた。

人工的な風に吹かれて涼んでいたら、いつのまにか、眠りについていた。

朝の光が眩しくて、起きた。

今までと天井の模様が違うことに惑いながら、ああ、もう、ひとり暮らしなのだった。と、思い出し、時計を見たらまだ朝の五時半だった。

起きるには早すぎるがもう、寝る気がしない。

冷蔵庫から昨日買ったゼロカロリーのコーラを取り出して飲むと、急に、ふと、走りたくなった。

(先日観た映画の主人公が、上司と妹と三人で飲んでいたら、自分の家なのに上司と妹がセックスをおっぱじめたことに何も言えずにやるせなくなって、ウェアに着替えニューヨークの街を走っていた光景を、とても気持ちよさそうだと思ったのだ)

成美は、ランニングシューズを持っていなかったので、普通の運動靴を出して、靴ひもを結んだ。

家に鍵をかけ、小銭を持ち、ウォークマンのイヤホンを耳にさし、サイケデリックでリズミカルな曲をかけながら一歩を踏み出して街を走った。

早朝だったので街には人影がなく、もう一つの地球。パラレルワールドにいるような気分になった。

店のシャッターがおりている、知らない街。

昨日、雑貨を買いに行った百円ショップの看板が見えて、妙にそこにだけ親近感が湧いた。

どこか遠くで犬が吠えている。命の気配を感じることができて、ああ、ここは現実なのだと認識する。

息が上がって、肺が苦しくなってきた。いや、横っ腹も痛くなってきた。

でも、身体が、血が巡って気持ちがいいと言っているような気がした。

こんな長距離は小学校のマラソン大会で走った以来だ。

S女子学園にはマラソン大会はなかった。かわりに中学の時、長距離徒歩大会はあったのだが、樹里と瑠香と一緒に欠席した。おかげで、補習を受けさせられたが、団体行動が面倒だったのだ。

 走っていたら、だんだんと叫びだしたいような衝動に駆られてきた。脈動が、神経を刺激している。

誰もいない街。聞こえるのは、耳に響く音楽と、自分の息遣い、心臓の鼓動。姿の見えない犬の声。

「おはようございます!」

自転車に乗った新聞配達のおじさんに声をかけられて「うおおお」と、声を出してびっくりしてしまった。

驚かれたおじさんもびっくりして、自転車がよろめいていた。

帰り道、コンビニで水を買って飲みながら、明日も走ってみようと、成美は思った。

成美は痩せてはいるが、筋肉が付いていなくて、体力がない。

地元で走る気なんて微塵も起きなかったけど。知らない街でなら、違う自分になることのできるような気がした。

走ってからシャワーを浴びると、とても気持ちがよかった。

全ての汚れが流れていくような感じがした。

朝食のバナナがいつもよりおいしく感じられた。

同じ学校へ行くのに道順が変わったことに、少しばかりの不安を覚えながらも無事に電車に乗ると口元が上がって気分が高揚していた。

十七歳なんてそんなものだ。変わった環境にすぐ順応できるのが若者のいいところなのだ。

スマホを開くと、瑠香からラインが来ていた。

たわいもない、悠馬君の話だった。セクシー女優の遥さくらとは、ただの友達だったらしいと、他のベテランコインズオタ仲間からの間違いのない情報を得た。

と、歓喜のスタンプが添えられていた。

情報。情報。情報は氾濫している。果たして、本当の情報なんて、一体どこにあるのだろう。

電車の中の広告。

『読むだけで偏差値が四十アップした本当の話』

『砂糖が脳を老化させる』

成美は、スマホにイヤホンをさし、映画を観ることにした。

本を読むにはうるさすぎる電車だった。映画なら、物語に入ってしまえば何も聞こえなくなる。

何も聞こえない……誰も教えてくれない……だったっけ。

ふいに父が歌っていた歌を思い出した。

壊れかけの、なんだっけ。ラジカセ? ラジカセってまだあるのかな、そもそも、カセット自体がもうあまり無いもんな。

時代は流れていくのだと思いながら、以前、沢井君が勧めてくれた映画をスマホで再生する。

『この中の誰かが死ぬ』

というキャッチフレーズの暗い青春映画。

沢井君は、だいじょうぶなのだろうか。

何も、できない。誰も教えてくれない……ドイツは遠い ♪

映画のオープニング中、成美の脳の中で、勝手に作った歌詞がメロディにのせられ流れていた。


      

電車を降りて、ラインが来ていることに気が付いた。

驚くべきことに、沢井君から。だった。


『成美ちゃん。長文になってしまうかもで先に謝っておきます。

情報が錯綜しているようで、ちょっと、いま、包帯でまかれていて手が動かないので、母にこのメッセージを送ってもらっています。

送っていただいた手紙もまだ開封していなくて、本当にごめんなさい。実は、学校に行く途中に僕の不注意で車にぶつかってしまって少しの間、意識がなかったらしいのだけど、もう、意識はありますから安心してください。タカユキ兄ちゃんから母に連絡があったって聞いて、もっと早く成美ちゃんに連絡したかったのだけれども、心配させてごめんなさい。身体がまだ、うまく動かなくて、なかなか連絡もできないけれども、お医者さんの話だと、早くて秋、遅くても冬くらいにはだいぶよくなるらしいので、しばらく不自由かけますがごめんなさい。成美ちゃんが元気でいてくれていますように。回復したら、一旦日本に戻ります。その時にでも詳しく話せたら、と思います   沢井創』

いきなり、身体から臓腑がなくなって隙間に風が吹いたような、そんな激しい安堵が、成美の膝を震わせた。

あ、とりあえず、晴美姉ちゃんに連絡しなきゃ、と思いながらもスマホを打つ手が震えてしまう。

『沢井君から連絡来た、意識は回復していたらしい、身体が回復したら日本に一旦帰ってきてくれるって、だからドイツ行かなくて大丈夫! ありがとうね』

既読がつかない。

まだ、朝だからきっと、まだ寝ているのだろう。そういえば、なんか、有名なバンドのだれかの誕生日パーティーに誘われているから、夜ちょっと顔をだすとかいっていたな。

ざわざわとして、苦しかった喉の奥がすっとつかえがとれたみたいにすっきりして一斉に血流が正常に戻っていくような感じに背筋が震えた。

でも、沢井君のお母さんがこのラインを送ったと考えたら少し気恥ずかしい。


まあ、いいか。


とにかく、沢井君が無事でよかった。

行方不明だった自分の半分が、見つかったという知らせを受けたような気がした。

晴美姉ちゃんから返事が来たのは、授業が終わって帰るころだった。

『よかった、まじよかったー、とりあえず安心だね』

『うん、いろいろありがとうね』

『そういや、ナルさー、サッドマン好きだったよね』

『うん、好きだったよ』

って、いうか、お母さんが好きだったらしいのだけど。

最近気が付いたのだが、サッドマンの曲はなんだか、歌詞が女々しい。

メロディラインは好きなのだけど、途中からプロデューサーが変わったらしく、曲調が今までと違うようになって、あまり興味がなくなってきた。

だからこの頃はサイケデリックな洋楽をよく聞いていた。

『サッドマンのボーカルの人がさ、昨日、飲み会に来ていてさー、まだ高校生の妹がファンなんですって言っといたよ』

『え、まじ?』

『そしたら、JK? って、超喜んでたよー(笑)新作のアルバムくれたー、サイン付けてくれたよ』

『わあ、ありがとう』

言いながらも、あまりうれしくなかった。晴美姉ちゃんはやっぱりすごいな。スターなんだな。と、感心しながらも、嫉妬のようなものがこみ上げてくる。

そしてそれを認めたくない自分が、晴美姉ちゃんにおべっかを使うのだ。

『さすがだね、晴美姉ちゃんは』

『いや、でもサイボーグだから(笑)』

サイボーグでもなんでも、あっち側にいる晴美姉ちゃんに、成美は嫉妬していた。

一般人である自分が歯がゆい。

沢井君も、きっと、医者になったら、みんなから尊敬されるあっち側の人になっていくのだ。

成美は、何にもなれていない、何になっていいのか、何になれるのかわからなくて惑っている。


毎日の朝ランニングを日課にしていたら、おのずと身体が引き締まってきた。

白い肌を保ちたくて、日焼け止めを塗り、長袖に帽子をかぶるので大量に汗をかくようになってきた。

こころなしか、肌の質感も良くなってきたような気がする。

街で、男の人に声をかけられる回数が増えた。(そのたびに、腹に小石が溜まるみたいな嫌な気持ちになるのだけれども)

 一人暮らしに慣れてきて、実家の記憶が遠のいていく。

父とは、予備校の手続きや家賃や仕送りの振り込みなどの事務的な連絡以外はとっていない。

晴美姉ちゃんに貰ったサッドマンのアルバムは、一度聞いたけど、あまり好みではなく、すぐ売ろうかと思ったけれども『ナルミちゃんへ♡』と、名前とサインが入ってしまっているので売れない。

 瑠香は相変わらず悠馬君一筋で、夏休みは全国ツアーのほとんどの会場を回るらしい。

 「なんか、成美、綺麗になったね、なんか、化粧品変えたとか?」

「いやいやいや、なんもしてないよ」

昼休み、昼食を中庭で食べながら謙遜しつつも、毎朝のランニングの手ごたえを十分感じていた。

ただのやせっぽちから、筋肉が付いたおかげか、地元を抜けて自由になったおかげか、自分でも、己の変化がわかる。

食事にも気を付けるようになった。

毎日、同じメニューしか食べておらず炭水化物はほとんどとっていない。

今日もいつもと同じコンビニのサラダチキンとチーズと牛乳が成美の昼食だ。

晴美姉ちゃんみたいに綺麗になりたいという願望が成美をストイックにさせていた。

多分、いまのS女子学園の中ではピラミッドの上位クラスといっても過言ではないほどに成美は綺麗になっていた。 

「ねえ、成美さ、樹里、いま、どうしているか知ってる?」

「いや、なんか、ラインブロックされてから、全然」

「あのね、樹里と最近つるんでいたらしい知り合いに聞いたんだけどさ……」

瞬間、瑠香の目が、卑猥に歪んだ気がした。

樹里は、四月生まれだから、みんなよりも早くに十八歳になっていた。

渋谷のギャル系ショップでアパレルのバイトをしながら夜はクラブで遊びほうけ、DJと同棲していたが、このあいだ、大麻所持と使用容疑で警察に捕まったらしい。

「なんかさ、悲しいよね、あのときさ、偽装チャーメン男にやり逃げされてなかったら、樹里だってこんなことにならなかったと思うんだ、わたし……樹里のこと可哀想になっちゃって」

成美は、正直、樹里のことなどどうでもよかった。

薬物におぼれて醜く人生が崩壊していく映画を沢山観ていたので、大麻で捕まった樹里をかわいそうだと思えなかった。愚かだと思った。

「うん、そうだね、可哀想に」

可哀想、って、なんなんだろう。

樹里は自分で選んだ道を誤っているのだ。違法なものをやったら逮捕されることくらいみんな知っている。

たしか、樹里の家族は普通の家族だった。

お姉ちゃんがいて、お母さんがいて、お父さんがいて。

中学から私立に行けるくらいの財力はあって。

それなのに、樹里は自分で道を逸れたのだ。

瑠香の目の奥に含んだ好奇は、あふれ出てしまって興奮して目が充血している。

「わたしさ、樹里に会いに行こうと思うんだけど」

「なに、それ、面会ってこと? 留置されてるの?」

「いや、わからないけどさ、樹里の家に連絡して聞いてみようかなって」

「ふぅん」

瑠香は、それが最善だと思っているのだろうか。会ってどうするのだろうか。もう、一年以上会ってないのに。

「だってさ、私たち、親友だったじゃない、困ったときに助け合えるのが親友じゃない」

瑠香が言った途端に成美は軽い吐き気のようなものを覚えた。

ライン、ブロックされているのに?

「いや、わたしは、いいよ、やめとく」

「でもね、樹里、ずっと、成美に憧れてたんだよ、成美みたいになりたいって、いつも言ってたんだよ」

「瑠香は、直接樹里と連絡取ってたの?」

「うん、まあ、一応、ほら、成美はライン以外のSNSやってないけど、わたしはいろいろインスタもフェイスブックもやってるし、繋がってはいたし、そういう、大麻とかは、まさか、知らなかったけど、ちょっと、様子がおかしいときとかあったんだよね……最近、つるんでた子も派手な子だったし、なんで気付いてあげられなかったんだろう」

だったらなおさら、自分なんか行かないほうがいいに決まっているのに。

なんでそんな簡単なことがわからないのだろうか。

「ごめん、わたしは、遠慮しとく、樹里にとってもそっちのほうがいいと思うよ」

「そっか……成美のそういうところ、なんだか、悲しい」

瑠香が、母親の手作り弁当に涙を垂らした。

いつも丁寧に作られているカロリーの高そうなお弁当。

二段になった弁当箱。白米にから揚げに卵焼きに……。ポテトサラダ。プチトマト。ウィンナー、ちくわの磯部揚げ。

高校三年生になってからの瑠香は、ますます太ってごつくなっていた。

悲しいねって、なにが?

なにが悲しいの? わたしが、樹里に会いにいかないことが、樹里にとってもいいことだって、なぜ、わからないの?

「わたし、ライン、辞めようかなって思って」

急に思いついたことが口について出た。

「え? なんで?」

「いや、ちょっと、まじめに受験勉強したいし、大学受かるまでは集中したいし、一人になりたい。昼休みもさ、一緒に食べるの、もうやめよう」

「なに? それってさ、わたしたちが邪魔って意味?」

瑠香がずけずけと責めてくるので、成美も、悪い意味で興奮してしまう。

「もっと、将来のためにさ、真面目にちゃんとした学校で勉強したいんだ。ごめん、なんか、このままじゃ、いけないような気がするから」

「それって、わたしが真面目じゃないってこと? ちゃんとしてないって言いたいの? そっか、わかった……成美の好きにしたらいいよ……でもさ、ずっと、親友だと思っていたのに、成美、ひどいよ」

言われて、サイレンス……。

何も言えない。何も聞こえない。何を言われているのかが。自分でもよくわからない。

壊れかけの……なんとかのメロディラインにのって、脳内で歌が流れた。

もちろん、ラインはやめない。瑠香、および、瑠香と関係のある学校の友人をブロックするだけだ。

「ちょっと、用事あるから、もう行くね、ごめん」

暗い雰囲気に耐えられなかった。立った途端に、瑠香が低い声で呪いを吐くみたいに言った。

「成美はさ、そんなんじゃ、いつか、ひとりぼっちになっちゃうよ」

ひとりぼっち? 合わない人と無理して一緒にいるより、よっぽどマシだよ。

思ったが、言わない。

「ごめんね」

これで瑠香とは完璧に終わりだな、と感じた。後悔は全くない。むしろ、足が軽くなった気がする。

友情ごっこはもう終わりだ。こうなってくると本当ははじめから、『友達』というものが苦手だったような気がする。

いまや、瑠香の裏アカウントにも興味がないし、人の情報を盗み見する癖は、いつのまにか無くなっていた。

あれは思春期特有の『はしか』のようなものだったのかもしれない。

パックの牛乳を飲んで、にぎりつぶす。ぱふん。と、間の抜けた音がした。

成美は運動着に着替え、日焼け止めを塗り、他人の目も気にせず、校庭を走った。

(なに、罰ゲーム?)

(校則違反とかかな)

庭や教室などで昼飯を食べている女の子たちがひそひそと話しているのが、耳をかすり,そよ風みたいに通り抜けていく。

照りつける太陽はまぶしいが、走るとすっきりした。気持ちがよかった。

人間は、助け合う生き物です。人は一人では生きていけません。

友達は大事です。

そんなのきれいごとだ。

『憐れみ深い人は幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです』

聖書の一説が頭をよぎった。

憐れみなんて、うけるのは、まっぴら。

砂を蹴る音、足裏に伝わる振動、滴る汗。成美は、自分の臓器が揺れ、頭がクリアになっていくのを感じていた。

こうして走るのは気持ちがいい。一人だ。完全に一人でいることができる。

マラソン大会には出たいとは思わない。沿道で応援されたりするのは勘弁してもらいたい。

「成美、なに、罰ゲーム?」

同じクラスの別のグループのボス的な子が大きな声で問いかけてきた。

「うん、そう!」

「うけるー! かっこいい! カモシカみたいだよ」

女の子たちの嬌声が響いていた。

人づきあいが面倒だったけれども、女子高で六年間も一人でいるのはなんだかおかしな気がして、友だちごっこをしていたのかもしれない。

走りすぎていく成美の目の中、弁当箱を鞄に丁寧にしまって、ゆっくりと大きな体を抱えながらハンカチで顔をおさえて庭を去る瑠香が見えた。

ずん、と、胸の中に空砲を打たれたような感じがした。

楽しかった時もあった。笑っていたのも嘘じゃない。樹里も一緒にいた頃は優しい言葉をかけてくれるいい子だったときもあった。 瑠香も、素直で一途で、たまにエキセントリックだったけど、優しい子だった。

手のひらから、白身が零れ落ちていく。指の隙間に黄色くどろりとした、生命のできそこないがべったりとついているような感じが拭えなかった



夏休みになった。

今年は猛暑だと聞いていたのに、あまり暑い感じがしないのは、予備校のクーラーが効きすぎているせいだ。

成美の第一志望校は女子大だったが、予備校のクラスは共学で男子のほうが多い。

久しぶりに見る男子の大群にはじめは嫌悪を覚えたが、男の子たちがこちらに話しかけてくることはなかったので、なんとか予備校に慣れることができた。

(チンコのない、ただの人間だと思えばいいんだ)

そう、何度も自分に言い聞かせていると、不思議とそのように思えてくる。

男も女も関係なく、人間だと思えば、なんとか大丈夫。

そうだ、なんで、そんなことにいままでずっと気が付かなかったのだろう。

本格的に大学受験をする決心をしたことを沢井君に報告したかったが、ラインも手紙も通じないので、成す術がない。

ラインを送れば、沢井君の母親に検閲されてしまうし、手紙も開封してもらえない。

なんだか、まるで囚人と付き合っているような不自由さだ。

『ナル、話したいことあるんだけど、今日何時に終わるの?』

授業が終わってちょうどスマホの電源を入れたタイミングで晴美姉ちゃんからラインが来た。

『ナイスタイミング、いまちょうど終わったよん』

『まじ? 『にくとも』で焼肉食べない? オーナーが仲良くて個室とれるからさ、いま地図送るわ』

『え? 『にくとも』? すごいね、セレブしか行けないんでしょ? やったー』

『にくとも』は芸能人がよく通い、一般人の予約は二か月前からではないととれないという超有名店だ。

晴美姉ちゃんは、成美が東京に来てから、何度かそういう有名なお店に招待してくれた。

「わたしの妹~」

と、晴美姉ちゃんがいうと、みんな本物の妹だと信じた。

まあ、妹的存在と言う意味ではあながち嘘ではなかったのだが。

晴美姉ちゃんと一緒にいると、どこでもビップ待遇だった。

けれども、いつもどんなに華やかな店に行っても、なんだか、『遥さくら』の妹さん。

『おまけ』みたいな劣等感がつきまとうようになった。

『十八歳になったら、成美ちゃんもぜひデビューしようよ! 絶対、いじんなくても、そのままでも可愛いから売れるよ!』

と、晴美姉ちゃんの事務所の社長。黒光りした肌の池田さんに言われたこともあったがアダルトなんて絶対に嫌だ。

(いや、晴美姉ちゃんのような仕事をしている人のことは尊敬している。その裸体およびマンコという内臓をさらけだす覚悟があるのだし、人生をかけていて、ある意味かっこいいとも思う)

しかし成美は、まっとうに生きたかった。ちゃんと大学に行って、安定した企業に就職して、安定した生活をしようと決めていた。

(まあ、できれば、沢井君と結婚したいという思いもなくはなかったが、一緒にいるのであれば、結婚という形にこだわらなくてもいいとも思った。いわゆるフランス式でもまったく問題ない)

晴美姉ちゃんと行動を共にすればするほどに、有名になりたい欲はますます無くなっていった。

晴美姉ちゃんの話を聞いていたら、有名になればなるほどに、なにか、人間の尊厳みたいなものが剝がされていくような気がしてしまっていたのだ。

サッドマンのボーカルとも関係を持ったと聞いたときは、鼻白んでウォークマンからサッドマンの曲を全部消した。

『なんかさ、あの人、チンコ長くて、バックでしたんだけど、しばらく、なんか子宮が痛かったわ、しかもー、ちょっと甘えん坊言葉になるんだよね』

たしかに、チンコの長そうな顔だ。しかも甘えん坊言葉……。

おおお。気色悪い。

しかしたしかに、サッドマンの女々しい歌詞とぴったりだな。

母が好きだったから、CDがあったから、みんなにも人気があったから。

『サッドマン』を好きだった理由は、それだけだったと気が付いた。

十七歳には、気付くことがたくさんある。

自分の身の程、しなくていいこと、しなければならないこと。

もう、二度と子供に戻ることはできない。

大人の世界に飛び立つ前の準備期間。


「いや、実はわたし、妊娠してるんだわ」

ユッケジャンスープを口に運んだ途端言われたので、成美は、ユッケジャンスープを噴出し、唐辛子の痛みに咽た。

辛い、痛い!

どうして晴美姉ちゃんは、いつも変なタイミングで驚かすのだ。

おかげで、鼻の粘膜がどうかしてしまいそうだ。

『にくとも』は、南青山の骨董通りの奥にひっそりとあって、入り口から少し見えた来店客の多くは業界人風だった。

空いていた個室は六人用だったらしく、『美女と野獣』で観た、広い豪華な長テーブルで二人きりの夕食を再現しているような感じがした。

壁には、牛の顔が飾ってある。ちっとグロテスクだな。と、思いながらも、ユッケジャンスープとキムチとレバーを頼んだのだった。

「ナル、カルビとか食べないの? ダイエッターなの?」

「いや、なんか、最近、脂はきついんだよね、いやいや、それよりさ、なに、誰の子」

「タカユキに決まってるじゃん、だって、他は全員ゴムしないと、病気恐いし、ってか、脂がきついって、ババアじゃないんだから」

「いや、まあ、そうなんだけど、え、タカユキとは避妊してなかったの?」

晴美姉ちゃんはヤリマンだが、意外に病気とか妊娠とか、そういうところにはしっかりとしていたらしい。

セックスをするときは、必ずゴムを着用するし、月に一度はちゃんと病院で性病検査をしていると聞いたことがあった。

「ええ、どうすんの?」

「そりゃ産むに決まってるんだけどさ、実は困ったことに、沢田家は、堕胎してくれの一点張りでね」

「え、なにそれ、うそ、タカユキは?」

「うん、まあ、タカユキは側室ってことで許してくれって、お父さんに言ってくれているんだけど」

側室……? なにそれ、ひどい。

「だって、結婚するって言ってたじゃんよ」

「いや、するつもりだったよ、もちろん、でも沢田家の嫁は代々医者の家系って決まっていてさ、お父さんも、まあ、まさかわたしが本気でタカユキと結婚したいと思っているとまでは思っていなかったらしく」

「だって、そんなの、おかしいじゃん、AVやらせたのも、妊娠させたのも全部、タカユキでしょ」

「いや、わたしも早まったのよ、なんか、急にタカユキの子が欲しくなって、中で出してほしいって頼んだんだよね、タイミングにピンと来ちゃったっていうか、んで、まあ、ピル飲み始めたって嘘ついてさ、中で出してもらったら、ぴったり着床したんだわ」

「ごめん、意味わかんない」

焼いていたレバーは焦げて、ユッケジャンスープは冷めてきて脂が赤い水玉模様みたいになっている。

こんなに脂があるのか。と、思ったら、なんだかスープも食べる気が失せた。

「うん……わたしも、なんで、そんなことしたんだろって、今更ながらに後悔している。でももうさ、タカユキと早く一緒になりたかったんだよね、なんか、タカユキ以外の人とセックスするのが嫌になっちゃって」

晴美姉ちゃんは俯きながら、パソコンのマウスみたいな形の注文ボタンを押した。

イケメンの類に入るであろう男性店員が爽やかな笑顔で部屋に入ってきた。『にくとも』は、モデルの卵や舞台役者など、見栄えのいい子しか雇わないらしい。と、来る途中にネットで検索して知った。

「バニラアイスと杏仁豆腐ください、ナルは食べる?」

「マンゴープリン食べたいかも」

「じゃあ、これ、バニラアイスと、杏仁豆腐とマンゴープリンのセットで、バースデープレートにしてもらっていい?」

「はい! かしこまりました、プレートのお名前はいかがなさいますかあ?」

きっと青山とか表参道のおしゃれな美容院でパーマをかけているんだろうな。と、いうような髪型をしたイケメン店員がよく響く声で問う。

「んー、ベイビーちゃんにして」

「アルファベットにいたしますか?」

「どっちでもいいよ」

「かしこまりました!」

店員が、笑顔で、さっそうと部屋を出て行く。遠くで、注文を伝える声が聞こえる。

「写真見る?」

晴美姉ちゃんに言われて、いや、晴美姉ちゃんに言われてなくてもこういうときに(みない)と言って拒否する人のほうが圧倒的に少ないと思う。

成美は、うなずいた。

晴美姉ちゃんは、茶色い3Dエコー写真を見せてくれた。

小さい。豆粒みたいだけれども、人間の形をしている。

「この子が、晴美姉ちゃんのお腹にいるの?」

「そりゃそうだ、腋の下にはいないでしょうな」

「マリア様かいな、じゃあさ、仕事も引退するの?」

「うん、するよ、社長にはね、もう話したのよ、なんか、こういう業界、悪いイメージ持たれているけどさ、快く、了承してくれたよ」

「そっか、よかった」

成美は、と、いいつつも、まだまだ稼げるであろう晴美姉ちゃんを、池田社長が簡単に手放すことが信じられなかった。

夜道を襲われて、お腹を蹴られたりしないだろうかと心配になる。

「もう、限界だったんだよね、あんまりなんにも考えてなかったから最初からNGなしとかにしちゃってさ、スタートダッシュが早すぎたっていうか、もう、わたしも二十三歳だし」

「もうって、まだ、二十三歳だよ」

「ナルは、十代だからそう思うんだよ、なんかさ、疲れちゃった、一生分のセックスをここ何年間でしちゃったような気がする」

「タカユキと結婚できなかったらどうするの」

「一人でも産むよ、とりあえず、おばあちゃんには話したの、お父さんにもこれからちゃんと話して、とりあえず一旦実家に戻ることにする」

「まじで?」

「まじまじ」

「ハッピーバースデートゥ―ユー♪」

いきなり部屋が暗くなって、歌が聞こえた。パチパチはじける花火の乗ったプレートが運ばれてきた。

「ハッピーバスデー ディア―ベイビーちゃん♪  ハッピーバースデートゥーユー♪」

拍手と、ひゅう♪ という指笛が部屋に響いた。

「おめでとうございます、こちら、お店からのささやかなプレゼント、シャンパンでございます」

パーマをかけた従業員が持ってきたのは酒の瓶だった。

ラベルにMOEと書いてある。

「いま、おあけしてもよろしいですかぁ?」

「いや、この子未成年だから、わたしもいま、お酒無理だし、お気持ちだけありがとうございます」

「は、そうなんですか、了解いたしましたぁ」

爽やかな笑顔でお辞儀をし、シャンパンを下げ、部屋の灯りを元の明るさに戻して従業員は出て行った。

静寂が戻ってきた。

「予定日は、いつなの?」

「三月だよ」

「そっか……」

「ってか、花火でアイス溶けちゃってるし、あの店員、あほなのかな」

しかもよくみたらプレートのチョコの綴りが間違っている。


ハッピーバースディバイビーちゃん。


「でも、あながち間違ってないな、遥さくらさんにバイビーちゃんだね」

言いながら、ダジャレのようなことを言って、晴美姉ちゃんは溶けたバニラアイスを指で舐めた。

「バイビーちゃんって、頭の足りない女子高生じゃないんだから」 

「ナルは、いつから、そんなに、固くなったんだろか、昔はもっと自由人みたいな子だったのに」

いつからだろうか。

固くならなきゃ、そのアイスみたいに、溶けて無くなってしまいそうだったのだ。

沢井君がドイツに行ってしまってから、風呂に入ったハンプティダンプティみたいに、ゆで卵になったのかもしれない。落ちてもつぶれてしまわないように。

「昔はさ、漫画描いて読ませてくれたり、歌とか聞かせてくれたりしてたじゃん」

「学童のときでしょ、しかもあれ、晴美姉ちゃんにしか読ませてないから」

「まじ? 嬉しいな、ナルは小さい頃、ミュージカルのオーデションとかも受けてたから、将来は芸能行くのかと思ってた。明るくて可愛いい、みんなのアイドルってイメージだったよ」

晴美姉ちゃんの世代の人から見たらそうだったのかもしれない。

でも、成美ははじめから、同世代の子にはちょっと変わった子。という、タグをつけられていた。その後、クラスのみんなに嘘をついたり、人のノートやスマホを盗み見したり、幽霊が見えると言って学校の問題になったことを晴美姉ちゃんは知らない。

晴美姉ちゃんにはそんな暗黒時代は無かったのかな。

と、ふと疑問に思う。

「晴美姉ちゃんはさ、死にたいとか、そういうネガティブなこと思ったことある?」

「え、わたしは、生きたいよ、絶対に死にたくない」

「苦しくてどうしようもないときとか、なかった?」

「え……いま結構状況は、苦しいけど、どうしようもなくはないかな、発作のとき、あ、パニックね、そんときはまじ、ヤバい死ぬとか思って走馬燈を何回もみたけどさ、死にたくなくて、必死になるもんね、まあ、死なないんだけど」

「そうなんだ、そんなふうになっちゃうのか……大変だね」

成美は少しだけ羨ましく思った。晴美姉ちゃんはれっきとした精神疾患があるけど、自分には沢井君に言われた『性器恐怖症』とかいう、わけのわからないものしかない。

しかもとくに精神疾患でもないかもしれない。ただ単にチンコが怖い。マンコが気持ち悪い。

「ナルはさ、多分、繊細なんだよ、あたし、まじで鈍感でちょっと足りないのよ」

――ってか、ここのキムチ、すっぱかったね。

そう小声で言って、微笑んだ晴美姉ちゃんは、もうお母さんの顔をしているみたいに見えた。


            


夏休みの間中、成美は夏期講習に毎日通い続けた。

C判定だった志望校が、おかげでA判定に上がった。一応シャレで第二志望にした有名校までB判定にまで上がった。

勉強って大事なことなのだと、今更気が付いた。やればやるほど知識が増える。

暗記、暗記、暗記の毎日。暗記をこぼさないようにするために余計な情報をいれないことがコツだった。

成美は、時を経て、嘘つきの変人から、知的で健康的で近寄りがたい美人に変貌していた。

夏期講習に来ているひとたちはいつの間にかグループラインを作っていた。

うっかりアドレスを教えてしまった女の子に断りもなく『●○予備校31期』に招待された途端に、ざわりと身の毛がよだってグループラインもその女の子もブロックした。

恐かった。

 なんともなしに、必ず受け入れられると思っている人たちが、全員敵に思えた。

笑ってちやほや褒めて、たまに、ブラックなジョークを織り交ぜれば、喜ぶだろうと思っているような態度がうっとおしい。浅ましくて見ていられない。

成美が真面目に勉強しているのに、予備校の人たちの結束力は勉強以外のところで高まっているみたいだった。

(今度、みんなでパンケーキ食べ行こうよ)

(シモキタに、できた、ふわふわのお店! 気になるよね)

(おれ、スウィーツ男子なんだよね)

(やだー、まじうける)

(でも、ここで知り合えたのも大事な縁じゃん、大切にしたいよね)

休み時間にはそんな会話がところどころで聞こえてくる。

男も女もみな、同じような会話ができることが不思議だった。

そのくせ、お前らみんな、パンケーキ食べた後にセックスなんかしてるんだろうな。

気持ち悪い。チンコがマンコに入っているのに、普通に生きているお前らが気持ち悪い。

成美は、見た目は美人だが、心根は腐っている系統の女だと自覚していた。

一生処女がいい。

処女じゃなくなるなんて絶対に嫌だ。

理解者である沢井君さえいてくれたらそれでいい。他の男子もみんなチンコなくなってくれたらいいのに。女の子からマンコが消えて、愛し合った人のところに赤ちゃんが運ばれてくれたらいいのに。

きっと男はみんなチンコのせいで理性を失い人格に影響を及ぼすんだ。

本当はいい人なのに、チンコのせいで悪い奴に豹変したりする。

男に媚びる女の子もそうだ。チンコをいれてもらうためにマンコを濡らして、いまかいまかとチンコを待っている。なんだか、罠のようだ。おそろしい。

授業終了のチャイムが鳴った。成美は、重い参考書とパソコンを背負って外に出た。

予備校の玄関を出ると、知った顔があった。

祖母の葬式に来ていた新しい父の恋人だった。

その娘も一緒だった。相変わらず、不細工な親子。

「成美さーん」

馴れ馴れしく手を振ってきた父の恋人の声は酒焼けして、かすれている。

「はい?」

成美は、重いリュックを背負って、力いっぱい嫌味を込めた返事をした。

なんなの。あんたたちなんかにかまってる暇ないんですけど。

わたし、受験生なんですけど。

牽制を込めて返事をしたつもりだったが、全く伝わっていない。

「あのさあ、ちょっと大事な話があるから、どっかでちょっといい? 成美さんの家でもいいけど」

はー? なんであんたたちを私の家に招待しなきゃならないんだよ! 馬鹿か。

成美は侮蔑と憎悪と心の中で戦いながらも、「あ、じゃあ、そこのカフェとかでいいですか?」と、にっこり笑った。

女は、カフェに入った途端、断りもなしに喫煙席をオーダーした。

幸い、禁煙のお店だったので良かったが、女の傲慢さに、嫌な予感しかしなかった。

「カフェで、禁煙とか、まじびっくりだよね」

いや、最近は普通ですよ、と言ってやりたかったが、こらえた。

娘のほうは、挨拶もせず、こちらも見もせず、「なに飲む?」と、母親に聞かれても「いらない」とそっけなく答えて、スマホでゲームをやっている。

「成美さんは、あ、さんって、変か、成美ちゃんはなに飲む? いいよ、わたしおごるから」

いや、成美さんでいいし、驕るって当たり前だろ。

「あ、じゃあ、アイスティーいいですか、すみません」

「オッケー、じゃあ、あたしは、アイスコーヒー飲もうっと」

 コーヒーにタバコを吸う人なんて男みたいだ。と、思いながら、目の前の女の醜い平たい顔をなるべく見ないようにして、運ばれてきたアイスティーにガムシロップを垂らした。

ゆらりと、アイスティーに揺れるシロップの模様が好きだった。

ずっと、その溶けていく様を眺めていたくなる。

「あのさ、急で悪いんだけど、成美ちゃんのお母さんのお迎え、成美ちゃんに行ってもらいたいんだよね」

「え? お迎えって、なんですか?」

「いやね、来年、奥さんさ、出所するっていうじゃない? んで、なんか、まだ、籍抜いてないんでしょ? うちの人が身元引受人になっているんだけどさあ、あたしは、ぶっちゃけ、奥さんとかには会ってほしくないわけよ」

「シュッショって、なんですか」

「いや、え、出所って、意味、しらないの? まじ? 学校で習わないの?」

上から目線の女の言葉に腹が立たないほどに、成美の頭は疑問でいっぱいだった。

 疑問を消そうとすると、いきなり頭痛がしてきた。

ずきん、ずきん、と、脈動が、脳髄に響く。

だめ。おもいだしちゃだめ。

忘れていた母の声が聞こえてくる。

フラッシュバックのように細切れに、記憶がよみがえってくる。

晴天だった。暖かい日だった。大きな公園のベンチで、縫物をしていた母。

成美は『ぴろりんぴろりん、うっかりうさちゃん、ぴろぴろぴょん』と、歌いながら公園の奥の森へと走っていた。

「あんまり遠くにいかないでよね」

母の言葉に「うん」と返事をしながらも成美はずんずんと、公園の奥へと走って行った。

森があるくらい広い公園だった。確か隣町で、電車かバスに乗って行ったような気がする。

平日のその日は、人が少なかった。

だいぶ奥まで走ったところで、急にもようした成美は、公衆トイレまでいくのが億劫で、草の生えた人目のつかないところで野ションをしていた。

(おしっこも肥料になるからいいんだもんね)

思いながら、まだ七歳の小さな成美は放尿の気持ちよさに顔をほころばせていた。

尿の周りに湯気が上がっていた。地面から魔法が出てくるような気がして面白かった。

光に照らされた木々の緑が、目に焼き付いている。

「なるみちゃん」

放尿後、パンツをあげていたら名前を呼ばれた。振り向くと、知らない男の人がいた。

若い男の人だった。痩せていて、背が高くて、女の人みたいな綺麗な顔をしていた。

「なるみちゃん、お兄さんはね、成美ちゃんのお母さんの美樹ちゃんにたのまれて、いつもいい子にしている成美ちゃんにご褒美をあげにきたんだ」

「ご褒美?」

成美の知らない人だけど、お母さんの名前を知っている。美樹ちゃんと呼んでいる。

お母さんと親しい人なのだろうか。だったら、安心だ。と成美は思った。

もしかしたら、お小遣いかな? それともお菓子かしら? ああ、いい子にしていてよかった。

成美は胸をときめかせた。

「目をつぶって、こっちに来てね、大きくお口をあけてごらん」

成美は、目をつぶって、大きく口をあけた。もしかしたら一万円札をくれるのかもしれない。

一万円札をくれたら、欲しかったうさちゃんスティックを買うことができる。やった!

成美はうきうきしながら待っていた。

「絶対に目をあけてはだめだよ」

言われて、成美はきつく目を閉じた。

すると、固くあたたかい、なんだか妙な味のするものが口に入ってきた。

「いいって言うまで、絶対に動いてはいけないよ」

男の人は言いながら、成美のパンツを下ろした。

成美は固まった。

動いてはいけないと言われていたから、男の人のするがままになった。

「まだ、動いてはいけないよ、うごいたら、ご褒美は無しだからね」

男の人は成美の口から固いものを出し、成美を抱っこし、股の割れ目を広げて身体に侵入してきた。

痛さに驚いて、目を開けた途端に、口をふさがれた。

なにがなんだかわからないまま、殺されてこのまま死ぬのだと思った。

下半身に太いナイフを刺されたのだと思った。

男は、息を荒げて、成美を抱っこしたまま身体を揺らした。

痛くて足がばたついてしまう、離してください! と、叫びたいのに、口を押えられて声が出ない。

痛さが和らいできた後は、おしっこのでるところがすごく重たくなって、下腹部に重石をいれられ、沢山おしっこがでてきてしまっているような感じがしていた。

「成美? どこいったのよー?」

近くでお母さんの声が聞こえた。

男の人は、急に成美を地面に置いた。成美はそのまま倒れてしまった。男の人はズボンをあげ、探しに来たお母さんと対峙していた。

「美樹、やっと会えたね、可愛いね、成美は、美樹によく似た子だね」

男の人は、お母さんに話しかけていた。

「ヒロ? うそでしょ、なんであんたがここにいるのよ、ちょっと成美になにしたの? 成美、うそ、やだ、やめてよ、なんてことしてくれたのよ」

成美は、下腹部をナイフで刺されて死んだ……。

と、思いこみ倒れたまま地面に寝そべっていた。

顔の横で蟻が列をなしていた。成美は、歩いている蟻をつぶした。

鼻くそみたいな緑色のものがぶにゃりと蟻の身体から出た。

股と腹が痛くて起き上がれない。

――お母さん、なるみは、血がいっぱい出て、しんだけど、かなしまいでね。

男と母を目に映しながら、母に申し訳なく思っていたら、なんだか様子が変なことに気が付いた。

あれ? 死んでいない。生きている。 

蟻をつぶした手を地面にこすりつける。蟻はバラバラになって砂に混ざった。指がざらざらとしている。

「成美、起きて、ヒロになにされたの? 嫌だ、いやああああ、ヒロ、あんた、なんてことしてくれたのよ!」

母は見たこともない険しい形相で、泣きながら成美を起して抱きしめた。

ヒロという男は、「美樹、僕らは離れられない運命なんだよ、成美ちゃん、またね」と言って走って、去って行った。



ああ、そうだった。

その後、母はあの男を殺した。

母が家を出てちょうど半年後、事件が報道されていた。

『痴情のもつれか。同居していた男性を二十五歳のホステスが刺殺』

画面に写っていた被害者の顔は、女みたいな顔をした綺麗なあの男の人だった。

加害者である母の写真は高校生のときのもので、まだあどけない可愛らしい顔をした母がテレビの中で笑っていた。

幸か不幸か、ファミリーレストランで、薬物で頭のおかしくなった男が一般人五人を包丁で刺し殺したという事件と、町内会長の主婦がお祭りで配ったおにぎりに毒を混ぜ、九人を毒殺したという残虐な事件と重なった時期だったので母の事件はさほど話題にならずに、すぐに報道されなくなった。

事件が報道されたとき、父はチャンネルをすぐに変えていた。

もくもくと、祖母も祖父も、えごまの葉っぱや韓国のりをご飯に巻いて食べていた。

家族の中で、誰も事件の話題を口にしなかった。

母は自分の幼い娘が殺した男に性的ないたずらをされたことを誰にも言わなかっただろうか。

真実は闇に葬り去られたようで、ただの痴情のもつれの事件とみなされていた。

――忘れて、成美、いまのこと、絶対、忘れて

泣きながら抱きしめられて、たしか、あのとき、すぐに病院に連れて行かれたのだ。

消毒液の匂い。変な形のベッドに乗せられ、カチャカチャと、楽器みたいに金属の鳴る音がして、下腹部を触られてちょっと痛かった。

絶対に誰にも言わないで。約束して。そして、ワスレルノ、ゼンブワスレテ。

母に言われたとおり従順に、なぜだか本当に成美はあの日起こったことをすっかりと忘れていたのだ。

今の今まで、自分が、幼少期に男と姦通していたということ。

そして母は家を出て行き、その男を殺していたこと。

記憶の一部分がぽっかりとぬけていた。

そして、今、思い出してしまった。

「変なこと頼んで悪いんだけどさ、でも、罪人でもやっぱり、娘に会えたら嬉しいと思うんだ、面会も一回も行ってないんでしょ? 小さかったし、きっと事情わからなかったと思うし、覚えてないかもしれないけどさ、母親って、やっぱり、自分の産んだ子のことは愛していると思うのよ。同じ母親としてわかるの。だからさ、嫌かもしれないけど、成美ちゃんが行ってくれない?」

そりゃ、会いに来てくれないはずだよ。

だって、塀の中だもん。来れないよね。

「来年……の、何月ですか」

「とりあえず、弁護士が言うには早くて三月らしいんだわ、受験も終わってるし、平気だよね」

女は、『お前が行け』といわんばかりに早口で成美にまくし立てた。

ずずーと、音が響いた。コーヒーのすすり方が下品だ。

娘は、スマホをいじりながら、一度もこちらを見ようとしない。まあ、そういう歳頃なのかもな。

思いながらも、成美は、聞いてみた。

「おばさんは」

おばさん。と言うしかなかった。だって、名前を知らないのだ。

「娘さんを愛してますか?」

成美の問いに、女は大げさに驚いたような顔を見せた。

「そんなの、愛してるに決まってるじゃない、自分でお腹痛めて産んだ子よ」

「父のことも、愛してるんですか?」

「……そりゃ、もちろんよ」

成美は、この女は、父のことは愛してはいないのだと思った。多分、一緒に居て楽だしとか家と金目当てで一緒にいるのだと感じた。

「あなたはさ」

成美が問いかけると女の娘はふてくされたように目だけを成美に向けた。

「お母さんのこと、好き?」

「……べつに」

不愛想な子だ。今どきの子供はみんなそうなのかな。

「うちの子、照れ屋なの、ずっと母子家庭だったから、コミュニケーションとるのうまくないの、二人のときはちゃんと甘えたりするよ」

女がいいわけをするように成美に語った。

成美は、わからなかった。母は、自分と会うことを望むだろうか。自分は、母と会うことを望んでいるのであろうか。

ゼンブワスレテ。

呪文のように言っていた母が、果たして自分と会ってしまったら、動揺しないだろうか。

しかも、十年も会っていなくて、今更、どうやって接したらいいのかわからない。

自分の中で、母はもういないものになっていたのだ。

返事は、保留にしてもらった。自分も今、急な話で動揺しているのですぐには答えられないが、どちらにしろ、どうにか母と父が関わらないように尽力はする。

と、約束し、女とその娘と別れた。女は満足そうだった。

なんだか、脳内に流れる映像を何度再生しても、人が作った映画を観ているような気がした。

口の中、なんともいえない妙な味がしたことが蘇る。多分、ご褒美と言われて口に入れられたのは性器で、あれは精液の味だったのだろう。

思い出したのに実感がわかない。

スマホで事件を検索すると、事件の内容が克明に表記されている『美女たちの事件簿』というサイトを見つけた。

美女の犯したいくつもの犯罪が掲載されたサイトだった。これだと思われる事件はすぐに見つかった。

二十五歳のホステスこと母と男は昔から面識があったらしい。

犯行が行われたのはホステスの部屋だった。理由は、痴情のもつれ。

事前に睡眠薬を飲ませたりしていて、計画性があったことと、ハンマーで頭を殴り、包丁で何度も胸や喉や顔を刺して殺したという殺し方の残虐性が焦点になり、母の刑期は十年と長く、今も服役している。と、サイトには書いてあった。



なんだかんだで時間は過ぎて、いつの間にか蝉の声が聞こえなくなって、暑さは消え、勉強とランニングしかしていなかったから、大学の模試の結果、第一志望から第三志望まで全てA判定になっていた。

成美は、少し肌寒くなってきた日曜日の今日、十八歳になった。期待して沢井君からの連絡を待ったが、来なかった。

秋には。と、言っていたけれども、もうすぐ冬になる。まだ、身体が悪いのだろうか。リハビリがうまくいっていないのかな。

確認する術がないから、ただ、待つことしかできない。

母のおこした事件を思い出したことを、一番相談したい人にできない。そんなときは、どうするべきか。

なにかで紛らわすしかない。成美は事件を思い出した日以降、距離を多めに走るようにしていたが、足りない。毎日、掌がかゆい。

『トラウマは存在しない』

と、なにかの本で読んで、納得したことがあったことを思い出す。

たしかに、トラウマにとらわれて動けなくなるなんて無意味だし、結局過去のことなのだからどうにもならないんだし。

読んだ時に、成美自身、そんな風に思ったことを記憶している。

けれども、多分、成美の異常なまでの性器への嫌悪は、どうしたってトラウマだった。

誰からもお祝いメッセージは来ない。

そりゃそうだ。自分から避けているしSNSにも個人情報を開示していないのだから。

誕生日にはなにもないまま、ただの一日が過ぎた。

翌々日、晴美姉ちゃんから連絡が来て、晴美姉ちゃんが買い物に来ているという新宿駅で会うことになった。

晴美姉ちゃんのお父さんは、まだ怒っていて口をきいてくれないらしいが、やはり、家に娘が戻ってきたのが嬉しいみたいで、たまに無言でパチンコの景品のチョコレートをくれるようになったらしい。

幸い悪阻は終わったらしく、晴美姉ちゃんは元気でお腹は大きく膨らんでいた。

駅前にあるビルの中、禁煙の外資系コーヒーチェーンに入った。

成美は、チャイラテを頼んで、成美姉ちゃんはココアとスコーンを頼んでいた。

「ごめんねー、呼び出しちゃって」

「ううん、逆に晴美姉ちゃん、大変なときに大丈夫なの? 会えて嬉しいけどさ」

「わたしはまったく大丈夫よん、もう安定期入ったし、お腹ね、結構動くんだよ、さっきはさ、おばあちゃんと赤ちゃんの産着も買いに行ってたのよ、おばあちゃんは、別の友人と会うってでかけちゃったけど、ナルによろしく言ってたよ」

なんだか、地元の話を聞いてほっとした。地元が嫌い嫌いと言っていたって、やはりご近所さんたちは小さい頃から、母のいなくなった成美をみんなで可愛がってくれていた。

「すごいね、なんか、お腹、神秘的だね」

膨らんだお腹を触らせてもらったら、そこに命の存在を感じた。(ような気がした)

老舗の百貨店の袋を持った晴美姉ちゃんは嬉しそうで、幸せそうだった。

「タカユキとは、どうなったの?」

「うーん、なんかさ、わたし、諦めたんだわ、あの家の人たちと話し合ってもわたしまで心が醜くなりそうだったし、胎教に悪そうだし、幸いしばらく暮らせる貯金もあるし、事務所の社長がね、デビューしたときから、若い子は無駄に使っちゃうからって、給料の大半を管理してくれていたからさ、だから安心なのだ」

「そっか、そうなんだ」

チャイラテは、ぬるめで、味が薄かった。水っぽい。

オールミルクで、熱めにすればよかったと後悔した。

「ナルは、創くんと何時に会うの?」

「え? いや、ううん、ずっと連絡ないよ」

「は?」

晴美姉ちゃんの顔が、固まった。小鼻がぴくりと動いたような気がした。

「またまたぁ、うっそーん」

「え? なんで、またまたぁなの?」

「だって、創くん、さっき、ちょうど百貨店で会って話したよ」

「え? うそでしょ」

「いや、そんな、うそつかないでしょ、外国人の髭の男性と楽しそうに買い物してたからさ、ちょっとだけ話して、てっきりナルと会うのかと、だって、ナル、今月誕生日じゃん」

「うん、おととい、十八歳になったよ」

「おお、おめでたい、おーとーなー」

成美は、振動する胸の鼓動を落ち着かせながらスマホを確認する。沢井君から連絡は来ていない。

沢井君に、ラインを送ってみた。元気になって帰ってきているなら、返事が来るはず。

『成美です、晴美姉ちゃんからさっき創くんに会ったって聞いたんですけど、忙しいのかな?』

既読になった。瞬間返事が来た。

SORRY……と、頭を抱えたクマのスタンプだ。

『実は、昨日帰国して、成美ちゃんにすぐ連絡しようと思ったんだけど……いろいろあって、あの、できたら、今日とか会って話せる? あと、お誕生日おめでとう』

誕生日はおとといだよ。と、思いながらも嬉しくもあり、その文面から直感で、沢井君の告解と懺悔の始まる予感がした。


             


コーヒーチェーン店では晴美姉ちゃんと楽しくたわいのない話を一時間半ほど話した。

晴美姉ちゃんに、これから母親になる気持ちを聞いてみると

「まだあんまり実感とかないけど、とにかく無事に産まれてきてって、いつも思っているよ」

と、言われ晴美姉ちゃんの顔が、なんだかガムシロップがゆらりと甘く優しく溶けていくみたいに懐かしく見えた。

ネットのニュースに、晴美姉ちゃんこと『遥さくら』の妊娠の記事は出ていなかったけれども、噂が密集する掲示板では周知の事実になっているのだと、晴美姉ちゃん自身がスマホで見せてくれた。


『妊娠☆サイボーグ遥さくら♡祝引退』


名無し『父親○○らしいよ』

名無し『いや、○○ってきいたけど、不倫なんでしょ?』

名無し『不倫する奴はマジ、死んで詫びろ』

名無し『しかも、AVやって不倫のシングルマザーなんて、自分勝手すぎるよね……来世ろくな生き方できないよ、最低女』

とか(全く嘘ばかりだった。書いてある推測された父親の中には本当に面識のない人の名前もあったらしい)

ゆうじろ『さくらたんをディスってるやつは、どうせ喪女だろ』

名無し『ってか、自分、子供いるし旦那は外資系のエリートだし、白金に住んでいる専業主婦だし、子供は名門学校通ってますけど? さくらたんとか、キモいんだよオタク野郎はどうせひきこもりで、マスばっかりかいて、童貞なんだろ? 喪女とか言ってくるやつがまじキモい童貞』

名無し『でもさ、ぶっちゃけ、あんだけ、裸さらしたヤリマンの子供なんて運命背負っちゃ、子供が可哀想だよね』

ゆうじろ『さくらたんが引退してもさくらたんの美しいカラミは永遠に不滅でしゅ』

名無し『まあ、動画はネットにずっと残るからさ、子供も観るんだろね、親のセックスとかマジ見たくないわ』



スクロールする画面をみていて、顔が歪みそうだったが、晴美姉ちゃんは「まじ、ここさ、本当の意味でのダークサイドだよね、ぎゃはは」と笑っていた。

晴美姉ちゃんは生きる力が強い。書き込みに特に何も思わないらしい。

「だって、この人たちのことわたし、知らないし、知っていても直接言われているわけと違うし」

すごい。と、成美は思った。自分だったら、発狂しそうだ。

晴美姉ちゃんは本当にシンプルなのだ。

『タカユキが好きだから』で生きてきて、今は『子供を産む』という使命を持っているから、何を言われようと傷つくのは馬鹿らしいと思える余裕があるのかもしれないと思った。

「なんか、あったらすぐ、連絡してね、ナルからの連絡くると、すごく嬉しいんだ」

晴美姉ちゃんに言われて、胸の中が暖かくなった。

「あとこれ、大したもんじゃないけど」

晴美姉ちゃんは、帰り際、某ブランド店の小さな袋をくれた。

『十八歳おめでとう  ナルはこれからもっともっときれいになるね、楽しみだね』

と、いうメッセージカードとともに、ブランドの箱には『N』という形の金色のキーホルダーが入っていた。

晴美姉ちゃんのさりげない気遣いに、危うく、ダークサイド側に落ちそうになっていた自分が救われたような気がした。


晴美姉ちゃんと別れてから、沢井君と待ち合わせの場所を決めた。

『実は、ツレがいるんだけど、大丈夫?』

と、聞かれて『うん、晴美姉ちゃんに聞いているよ(笑)無問題!』と、勢いよく返した。実は緊張していたが、晴美姉ちゃんのプレゼントに励まされているような気がしていた。

自分は、ひとりじゃない。

だから、なんとなく、沢井君の懺悔の想像がついていたけど、成美の心は凪いでいた。

待ち合わせ場所へと歩きながら、予感は確信になっていた。

沢井君への気持ちは、もしかしたら恋愛感情ではなかったように思えてくる。

「成美ちゃーん」

と、待ち合わせ場所で沢井君を目にし、呼ばれて成美も手を振ると沢井君の隣にいた髭面の大きな外国人の中年男性に挨拶された。

「コンニチワ、ナルミサン、アンドレアスデス」

流暢な日本語で男性は自らをアンドレアスと名乗り、毛深い手を差し出してきた。

沢井君はその横で笑顔を貼り付けながらもなんとなく、痛そうな顔をしていた。

沢井君がとてもとても小さく見えた。

傷ついた小鳥が回復途中にいるような、そんな感じ。

「アンドレアスさん、こんにちは、成美です」

成美は自らの手を差し出した。アンドレアスの手と比べると、鶴の細い首と、ゴリラの手みたいな大きさの対比だった。

アンドレアスは男だし、手は少し汗ばんでいたが、不思議と嫌ではなかった。

「寒いよね、どっか、入って話そうか」

「いや、いま、晴美姉ちゃんとお茶してきたばっかだし、お散歩しながらでもいいよ」

「ナルミサン、オユウハンハ?」

「おゆうはんって、アンドレアスが言うと、人の名前みたいだね、オユウハンは大丈夫ですよ」

「オッケー ワカリマシタ」

成美がおどけて言うと、沢井君が、やっと、本当に笑ってくれた。

わかる、これから、懺悔するんだもんね。笑ってる場合じゃないし、きっと緊張しているのだね。

成美は、心の中で沢井君に話しかけながら、彼との記憶を脳内で古い八ミリ映画のように懐かしく流していた。

「アンドレアスは、何をやっている人なの?」

成美が言うとアンドレアスは、タワシみたいな髭を撫で

「オイシャサンデス」

と、答えた。

成美は、アンドレアスの放つ片言の日本語の一言一句がなぜか妙におもしろくて、散歩しながら新宿御苑のほうまで歩く途中、沢山質問してしまった。

アンドレアス(途中から、アンディでいいと言われたのでアンディと呼ぶことにした)は、入院していた沢井君の主治医だった。

もともと、精神科を専門としていたが病院から整形外科先生が足りないからと頼まれ、整形外科に転科したところだったらしい。

なので、父親が精神科医で、自身も精神科を目指している沢井君と話がとても合った。

沢井君のお母さんは妹さんのこともあるので、沢井君の容体が安定してきた後は帰国していた。

そして、アンディが、成美からの手紙を沢井君に読んで聞かせたそうだ。

その時、沢井君は、ものすごい罪悪感に襲われ、寒気すらしたのだという。

沢井君は、アンディと毎日一緒に過ごすうちに、アンディに恋をしていたのだ。

だから、成美の書いた愛の手紙は重かった。イエスが背負わされた重い十字架のように。

アンディも沢井君を愛するようになっていたから、沢井君と共に、解決法を考えた。

アンディはもともとバイセクシャルで、だからと言って、若い男が好きとかではなかったらしいけれども、とにかくふたりは恋に落ち、いまでは肉体関係をも持っているそうだ。


そうか、それって、とっても自然な形ではないか。


と、成美は聞きながら、なんだか自分の恋人だった人の話ではない人の話のように思ってしまっていた。

アンディが外国人で、もともと精神科医で成美に対してとても気を使ってくれているのが分かったからだと思う。

裏切られたという怒りは無かった。ただ少し、部外者になってしまった気がして、そこが寂しかった。

「そうか、アンディはわたしと会うことを嫌ではなかったの? 一応、元カノ的な存在でしょ」

少し難しかったのか、沢井君がドイツ語で成美の話をアンディに説明した。

「ワタシガ、マオトコ、アヤマリタイ」

アンディが真顔で成美に言ったので、成美は腹を抱えて笑ってしまった。

アンディは彫が深くて、眉毛と目の感覚がものすごく近い。

かっちりとした濃い古い樹木の色のようなスーツを着ていて口はひげで覆われているので、映画に出てくる昔の紳士みたいに見えた。

新宿御苑に入ろうとしたら、入園時間が過ぎてしまっていた。

たくさん、歩いて笑ったのでお腹が空いたが、アンディにオユウハンをご馳走してもらうことは、二人の邪魔をするようで気がひけて成美は帰ることにした。

駅まで戻っている間に、沢井君に、都内で一人暮らしをしていることと大学受験の話を少しだけした。

沢井君は、事故で留年してしまったのでまた同じ学年に残留するらしい。

その後、アンディも卒業したドイツでも有名な医学部のある大学に行くことを目指すのだそうだ。

沢井君は成美の話をドイツ語でアンディに説明してくれた。

「ナルミサン、ヒトリ、キヲツケテ、ワタシ、シバラク、タイザイシマスカラ、ナニカアッタラ、スグニレンラク、ココ」

と、言ってアンディは、自分の電話番号を教えてくれた。

ちなみにラインのアドレスも。

ドイツにもラインがあるのか。と、成美は感心してしまった。

ナルミのラインからメッセージを送ると、ものすごいシュールな絵柄のスタンプが届いた。

『ダンケ』とドイツ語で描かれたアンディの似顔絵だった。

ナルミが笑うと、アンディは照れていた。沢井君が、アンディが自分で作ったスタンプだと教えてくれた。

成美は、アンディとはなんだか、仲良くなれる気がした。

「わたしね、多分、間違っていたんだよ ずっと、性器が怖くて、男の人を見下して、自分がイカレてると思っていて、お母さんに捨てられたと思ってた。だから、いつも優しい沢井君に甘えてたんだ。多分、愛とか、わかったつもりになってただけでさ、私たち多分、もともと、仲のいい友達だったんだよね」

「成美ちゃん……」

「沢井君が嫌じゃなかったら、ずっと友達でいてくれる? 面倒な女で悪いけど」

「もちょろんだよ」

緊張がほどけて舌がもつれたのか、沢井君の言い間違いが面白かった。

「ぎゃはは、もちょろんって、オロチョンラーメンかよ」

成美が言うと、沢井君が涙目になって笑ってくれた。

沢井君は、触ったら割れてしまいそうなシャボン玉みたいだった。

魂の綺麗な男の子だ。アンディが惚れるのもわかる。

でも、アンディって、ちょいとロリコンなのかしら。

思っていたら、駅に着いてしまった。

母のことは話さないままでいた。そんなこと話しても重くなるだけだろうし、もう、沢井君に一番近いのは、自分じゃない。

「成美ちゃん、あっと、これ」

成美が改札に入ろうとした瞬間、沢井君がブランド物の紙袋を鞄から出して渡してくれた。

「お誕生日おめでとう、アンディと一緒に選んだんだ」

なんの偶然か、晴美姉ちゃんに貰った店と同じところのだ。

成美は「ありがとう」と言ったあと、大きな声で

「ビス、バルト!」と、ちょっとだけ前に調べたドイツ語でホームから改札の外にいる二人に手を振った。

アンディが嬉しそうに(あんまり表情は見えないんだけど)同じ言葉を繰り返してくれた。

電車に乗ってから袋を開けると、晴美姉ちゃんから貰ったものと全く同じ『N』のキーホルダーが入っていて、ありえないような偶然に笑ってしまった。

半身なんて、ないのだと思った。

ふたりで、ひとつ、なんてない。もうすでに自分ひとりがひとつなんだ。

うまく言えないけれども、成美は成美で、沢井君は沢井君で、アンディはアンディで、晴美姉ちゃんもタカユキも、みんな、一人なのだ。

だけど、こうして繋がってくれている


正月が過ぎた。

もちろん実家には帰らなかったが、まさかのインフルエンザにかかってしまっていた。

成美は、挑戦的な意味を込めて、初め第一志望校にしていた女子大を滑り止めにして、第一志望校のランクを共学の有名校にあげていた。

私立大学だったのでセンター試験は受けず、本試験一発の勝負。

インフルエンザに罹った日がセンター試験にかぶっていたので、出願しなくてよかった。と、熱でフラフラしながら安堵していた。

なにかを成し遂げてみたかった。今まで、努力と言う文字と無縁に過ごしてきた人生。

はじめは風邪かと思って、具合が悪いことをアンディや、沢井君に伝えたら心配して家まで来てくれると言ってくれた。が、もしインフルだったらうつしたらまずいと思って断っていた。

近所の病院に行き調べると即インフルだと判明した。

丁度、鼻から吸うタイプの薬が在庫切れだったらしく、タミフルをもらって帰った。

アンディたちの訪問を断っておいてよかった。と、ほっとした。

『まさかのインフル』

と、晴美姉ちゃんにラインを送ると、晴美姉ちゃんは、切迫早産になってしまい地元の大きな病院に入院しているのだと返事が来た。

『一歩も動いちゃいけないって、まじ、しんどい、しかもこのまま予定日の三月まで入院しろって、ナルもお大事にね、今日は走っちゃだめだよ(笑)』

と、いうメッセージと『なんとかなるよ』と、言っている、ゆるーい感じのクマのスタンプが送られてきた。

アンディからは『イチオウ、ワタシ、イシャダカラ、ナンカアッタラスグレンラクシテ』と、ラインが来た。

沢井君に『アンディ整形外科じゃんよ 笑』と、送ったら『笑笑笑 たしかに 笑笑』と、沢山『笑』が送られてきた。

タミフルを飲んでも身体の節々はまだ痛く頭は朦朧として散々だったが、なんだか、寂しくもなかった。

祖母が亡くなったとき、沢井君が事故に遭ってしまったと聞いたときに、ぽっかりと開いてしまったような大きな穴は、いつの間にか糸を通すのが難しい針穴くらいに小さく縮んでいた。

タミフルが効いてきたのか、四十度近くあった熱は少しづつ下がってきていた。

病院の帰りにコンビニ行き、パンチをすると冷たくなるアイスノンと冷えピタシートとポカリを買ったので、それを頭に巻き、冷えピタシートを首の後ろに貼ってポカリを飲みながら勉強をし、少しだけ、ほんの少しだけ、風邪をひいたときあたまの下に敷かれたキムチの匂いのするアイスノンとうちわを仰いでくれていた祖母を思い出していた。

勉強しつつも、息抜きにスマホでネットのニュースを見ていたら、知っている名前が目に飛び込んで来て驚いた。

『アダルトビデオ(AV)に出演経験がない二十代の女性を勧誘して、みだらな行為をさせたとして、警視庁保安課はAVプロダクション『メディアポット』社長 港区白金 池田陽介容疑者(42)を淫行勧誘容疑で逮捕……』

池田陽介。

ピンと記憶が繋がる。何度も会ったことのある人だった。晴美姉ちゃんの事務所の社長だ。

淫行勧誘行為って。淫行行為を撮影するためのモデルを所属させている事務所なのにそんなことで逮捕されたりするのか……。

あれ? 晴美姉ちゃん、社長にお金預かってもらっているとか、言ってなかった?

成美は思案しながらも、余計なことを知らせて母体と赤ちゃんに影響があったら困るな、と思ってスルーした。

とにかく、あと一か月。

必死で勉強しなければ。

思って、参考書と過去問を広げていたら、急に成美の指が止まった。


こんなに寒い季節を、お母さんは十年も一人で塀の中で過ごしてきたのか。


正直、顔をちゃんと思い出せない。母が出て行ってから、祖母が処分したのか、母の写真は一枚も家に無かった。

ネットで検索すると、逮捕時にニュースで流れた画像と『美女たちの事件簿』に掲載されている高校生の頃の母の写真はでてくる。もう、古いニュースだからか、あまり情報は載っていない。

あ、この卒アルの写真のお母さんは、多分、いまのわたしと同い年なんだ。

そうか、十八歳の母は、まさか、娘が強姦され、自分が殺人者になるなんて、夢にも思ってなかっただろうな。

サッドマンのCDをウォークマンで聞きながら、電車に乗って、学校行って……。

たしか、高校を卒業した後、上京し、すこしだけA学院に通っていたけれども、実家と折り合いが悪く、授業料が払えなくなって夜の世界に身を投じたが、成美を身ごもり中退した……と、聞いたことがあった。

ああ、酔ったときに父が言っていたのだ。

飲み屋に向いていないような、真面目で心も顔も綺麗な女だったよ。中退だけど、A学院だったしなぁ。頭良かったし、可愛かったし、人気もあったし、父ちゃんは、毎日銀座まで通ってよ。やっとのことで口説き落としたんだよなぁ。

母のことを、そんな風に父はよく言っていた。

成美を産んだ時、母はまだ十九歳になったばかりだった。

今の晴美姉ちゃんよりも若い。

自分より大して歳の変わらない女の子が、子供を産んで、その後ひどい目にあって、復讐のために十年も塀の中に。

と、考えたら、ひどく、胸の奥が苦しくなった。

タミフルのおかげで熱は下がった。途端に、今度は急激な眠気が襲ってきた。

喉が渇いた……。

そんなことを思いながらも、ひどい眠気が勝って、成美はベッドに突っ伏し、眠りに落ちていた。

目が覚めると、青いほどに眩しい緑の広がる公園にいた。

全てがいつもより大きく見える。

「成美、どうしたの、なにがあったの」

顔がぼやけている女の人が成美を撫でている。


――おしっこするところをほうちょうでさされてね、なるみ、ちがね、いっぱいでたの、いたかったけど、がまんしたの


ああ、わたしだ。幼い私がいる。

これは夢なのだと成美は早々と気が付いた。大きな成美が母と小さな成美を草葉の陰から見ている。

「成美、どうしてちゃんとトイレに行かなかったの」

女の人は母のようだった。彼女は怒っていた。

成美は怒られたことに泣いている。

「だれに刺されたの?」

「綺麗な顔のお兄さんだよ」

 「ヒロに刺されたのね」

急に、ワープするみたい病院のシーンに切り替わった。

病院の天井には、小さな穴が沢山開いていた。成美は小さな穴をひとつひとつ数えながら、ずっと天井を見ている。

大きな成美は天井に浮かんで女の人と小さな成美を見ていた。

「成美、今日ヒロに刺されたことは、絶対誰にも言ってはダメ、ワスレルノヨ」

ああ、呪文だ。大きくなった成美は小さな成美の横に寄り添う。

女の人の顔が歪んで怖いものになっている。

ムンクの叫びの肖像を溶かしたみたいな顔をしている。さっきとは違う生き物になっている。

聞いてはいけないと、小さな成美の耳をふさいであげたくなるが、手の感覚がない。

「絶対だよ、絶対にワスレルノ」

ああ、ママの呪文……。ママの呪文……。ワスレルノの呪文。


「忘れないと、成美のママが死んじゃうんだからね 絶対に誰にも言っちゃだめなんだよ」


小さな成美は怖い顔をした溶けた生き物に低い声で言われ「ママ、死んじゃうの、いやだああああああ、成美、絶対忘れる、約束する、誰にも言わない」

と、大泣きしている。

「絶対だよ、忘れないと、成美のママが死んじゃうんだからね」

なんて残酷なことを言ってくれたのだ。

そりゃ忘れるように脳も一生懸命作動するわ。

小さな成美にとって、母は、なによりもなくてはならない存在だった。

男に姦通されたことなんて、どうでもよかった。復讐なんてしないで、ずっと傍にいて欲しかった。

ゆっくりと、潮がひいていくように目が覚めた。

時計を見ると、一時間ほどしか寝ていなかった。夢だったのか、記憶の断片だったのかよくわからなくて混乱する。

とにかく、ひどく喉が渇いていた。成美は飲み物を冷蔵庫に取りに行った。目の端が濡れている。現実に泣いていたようだった。

そうだ、男は、母を知っていた。母も男を知っていた。

『美樹』『ヒロ』と、名前で呼ぶような間柄、一体どんな関係だったのだろうか。

疑念は次々に湧いてくる……。股が熱い。太もものあたりが、かっかと熱を帯びている。

成美は、頬を叩き、栄養ドリンクを飲み、思考から母や、事件や晴美姉ちゃんを追い出した。ついでに沢井君もアンディも。

考えるのは、受験が終わってからにしよう。と、決めて、栄養ドリンクとポカリを飲んだ後、アイスノンを巻きなおし机に向かった。

体温計をわきの下に入れると、少し寝たおかげか、熱は三十七度八分まで下がっていた。



成美の合格発表の日に、予定よりも早かったが晴美姉ちゃんが産気づいた。

二月末、成美は、第一志望の一流校と呼ばれる大学に合格した。熱が下がってからは受験日まで走ることと勉強しかしなかったおかげだ。

スマホの電源もずっと切っていた。誰とも話さず息抜きをせず、ただ、息を止めながら勉強をした。

暗記のおかげで脳みそはパンパンに膨れ上がっていたと思う。ウェブで自分の受験番号を見つけた瞬間、方程式も歴史も計算式も全部耳の穴から落ちていったような感じがした。

『合格したよ!』

晴美姉ちゃんにラインを送った瞬間に『ぎゃあ、おめでとう! ナル、こっちは産まれそう! 子宮口五センチひらいてる』

と、返事が来て、それがどれだけ、切羽詰まった状況だったのかはわからなかったがすぐに病院に向かった。

病院に向かう途中に父に電話をして、無事に合格したことを伝えた。

父は、「がんばったな」と、感慨深い声で言った。鼻をすする音がした。泣いているみたいだった。まあ、一応父子家庭だもんな……。と、成美は、少しだけ父を懐かしく思った。

が、「実は、パパもな、お前くらいのときは……」と、父の自慢話がはじまる気配がしたので、晴美姉ちゃんが産気づいているから、入学の手続きとか入学金もろもろの件だけよろしくね! と言って早々と電話を切り、電車を乗り継ぎ地元の駅に着き、バスを待つのがもどかしく、駅から病院へは走った。

晴美姉ちゃんが入院していたのは、地元にある一番大きな総合病院で、駅から大体五キロ弱。走りながら、沢井君やアンディにもラインをした。

『受かった! あと、晴美姉ちゃんが産気づいた!』

どちらからも即、返事が来た。

『成美ちゃん、おめでとう! え? 本当? どこの病院? すぐ行く!』

『オメデトウ ナルミ  エ、ホント? ドコニイルノ?  スグニイクヨ!』

別々に送ったはずなのに、まるでおなじような文面の返事だったことが、二人が双子みたいに思えておかしかった。すぐに病院への道順を二人に送った。

走り続けた成美の頭の中は、合格の嬉しさも相まってランナーズハイになっていた。

病院に到着し、そのまま足を止めずに、すぐに産婦人科へと向かう。

合格と出産って、なんだか、似ている。

ああ、多分、分岐点だからだ。これから人生の道が変わっていく瞬間。

産科の待合室にたどり着くと、アンディと沢井君はもちろん、四千里のおばあちゃんやおじさん、まだ誰も来ていなかった。

今日は平日だから、まだ、ランチが忙しいのだろう。

しかし、分娩室の前のベンチに知った顔を見つけた。

まさかの、タカユキだった。

「おお、成美ちゃんか、元気だった?」

タカユキは、大人になっていた。最後に会ったのは、沢井君のお父さんのお葬式だったから、もう五年も前になる。

「はい」

成美は、タカユキがいたことで、盛り上がっていたテンションが一気にさがっていくのを感じた。

なんでユガンマーで、ど変態で、晴美姉ちゃんを捨てやがったこいつがこんなところに……。

「おいおい、そんな、露骨に嫌な顔しないでよ」

笑いながらタカユキが言ったが、道に落ちた吐しゃ物をみるような嫌な顔しかできない。

「いや、別に」

成美は、タカユキに背を向けながら、沢井君にラインを送った。

『なんか、タカユキがいるんだけど』

すぐに『え、本当? まあ、そりゃ、赤ちゃんのお父さんだもんね』と、寛大な返事が来た。

沢井君は寛大だ。タカユキだよ? あの、タカユキだよ?

と、言ってやりたかったが、こらえた。

「なんか、成美ちゃん、大人になったね、えっと、創と同い年だから、高三?」

「はい」

なにを言われても「はい」と「別に」しか言わない作戦をとってやる……。

と、決めて、成美は気まずい待合室での時間をやりすごすことにした。

「なるみちゃん、なんで、怒ってるの、あ、もしかして昔のこと、まだ気にしてる?」

「別に……」

「あ、晴美とのこと?」

「……別に」

「あ、創と、付き合ってるんだって? じゃあ、あいつも来るのかな」

はい、も、別に。も、答えにそぐわない質問に口が止まった。

成美は早々と決めごとを破った。

「沢井君とは仲のいい友達です、多分、もうすぐ来ると思います」

「そっか、やっとちゃんと喋ってくれた、ありがとう」

タカユキは、不自然なほどに白い歯を見せて無邪気に笑った。

笑うと、よくメディアに登場している父親にそっくりだ。変態だけど、悪い人ではないんだろうな。と、思ってしまった。

「おれね、実家と縁切って、大学もやめるって決めたんだ」

「は?」

「いや、まあ、できれば、医者になれたら今後のためによかったんだけど、実家と縁切ったら大学はやめなきゃならない図式になってるわけでさ」

「いや、まあ、そりゃ確かにそうかもしれないけど、実家と喧嘩でもしたんですか」

「いや、晴美と別れてからさ、沢田の家よりなによりも晴美のほうが大事だって、いまさらながらにわかったってだけ」

とか、言って本当は進級できなくてとかじゃないのかしら……。

と、疑念の目で見てしまう。

「これから、どうするつもりなんですか」

「うん、どうするんだろな」

え、決めてないの。成美は、予想外のタカユキの返事に驚いた。

サイレンス……。を遮るように看護師さんが分娩室から出てきて、大声で叫んだ。

「ナルミさんって方! 妹さんいらっしゃいますか!?」 こちらに入ってくださいっ」

「あ、わたしです!」

妹ではないけれども、いいのだろうかと思いながら、急かされ、青いマスクとキャップを渡され、成美は分娩室に入れられた。

タカユキがここに来ていること、晴美姉ちゃんは知っているのだろうか。

思いながら耳にマスクのひもをつけ、青い割烹着のようなものを着るように促され、手を消毒した。

分娩台の上に、股を開いたすごい恰好で、必死にいきんでいる晴美姉ちゃんがいた。

「ナルぅぅぅ、こっち来てぇぇえええ」

晴美姉ちゃんは汗をかいて泣いている。股の間からは、びしょびしょとおしっこがしみていた。

体中の全水分が出て行ってしまうみたいに見えて心配になる。

「ナル、ごめん、手、握っていて」

陣痛が、一分間隔で来ているらしい。ふっと、痛みが消える瞬間だけ、晴美姉ちゃんの表情が柔らかくなる。

「もう、まじで、続き明日にしてもらえませんかって感じ」

成美が笑いそうになっていたら、またすぐ、陣痛がやってきたらしく「んぐぐぐぐんがー」と、晴美姉ちゃんの怪獣が叫ぶみたいな声が分娩室に響いた。

はっはっは……と、呼吸を逃しながら、晴美姉ちゃんは成美の手を力強く握った。

「やばい、すんげー、痛いけど、なんか、もうすぐ、うわった、んぐぐぐぐぐー」

「ねぇ、廊下にタカユキ、来てたよ」

「えぇ? うそ? うそでしょ? うわっ! うがぐぐぐぐー」

「もう、頭見えてますよー」

先生が、晴美姉ちゃんの股の間に手を突っ込んでいる。

「ひ、ひっひっ、ぐがががががががが」

ずるずるずると、川で大きな鰻を捕まえ損ねたような音がした瞬間、晴美姉ちゃんの腹がひゅんと、へこんだ。

「足、長いねぇ、この子」

先生と看護師さんが感心して言った途端に、小さな命が小さな産声を上げた。

じゃぶじゃぶと、看護師さんが赤ちゃんを洗って体重を図っている。

「ちょっと早かったから、まだ少し小さいけど、二千四百グラムの元気な男の子ですよ」

赤ん坊の股には、小さな木の実のような性器が付いていた。




「産まれた瞬間さ、感動して涙とかでるかなと思ったけどさ、疲れすぎて涙とか全くでないわ」

成美は、晴美姉ちゃんの赤ん坊をだっこしながら、なんて、小さい生き物なのだろうか、と、感動していた。

身体を形成する全てが、思っていた赤ん坊と言うものよりも格段に小さいことに驚いていた。

「のど乾いた、ナル、ジュースとって、んで、タカユキ、来てるって、まじ?」

成美は、分娩台の横のサイドテーブルに置いてあるジュースのストローを晴美姉ちゃんの口にくわえさせた。

「まじまじ、そんなん嘘つかないよ」

「一応、今朝、陣痛はじまった直後に連絡だけはしたんだ。まさか、愛知からくるとは……思わなかった」

「なんか、実家と縁切って大学も辞めるって言ってたよ」

「はぁ? あいつ何言ってんの? ほんと馬鹿だね あ、それより、ナル、合格、おめでとう」

「うん、ありがとう。……って、それより大事なのはタカユキの件だよ」

「そっか、そっか、あははは、なんか、そっか、この子、タカユキに、やっぱ似てるね」

「うん、まあ、女を泣かしちゃいそうな整った顔しているよね」

「あははは……ナル」

「うん?」

「タカユキ、呼んで来てもらってもいい?」

「ん」

成美は赤ん坊を晴美姉ちゃんに手渡し、タカユキを呼びに行った。

廊下には、アンディも沢井君も来ていて、タカユキと話していた。

「タカユキ……さん」

成美が呼ぶと、タカユキは、捨てられ、殺処分されようとしているような犬みたいな目でこっちを見た。

あー。きっと、晴美姉ちゃんの心をつかんでいるのは、こういうところなのだろうな。

成美は一人納得しながら「晴美姉ちゃんが呼んでるよ」と、タカユキに伝え、自分の着ていた青い割烹着のようなものと帽子を渡した。

タカユキが分娩室に入っていった。

ドアを閉められ、声は聞こえない。

「オトコノコデシタカ?」

「うん、ちょっと早かったから小さいみたいだけど足の長い男の子だったよ」

「足長いのかぁ、タカユキ兄ちゃんに似たんだね」

沢井君も、アンディも嬉しそうだった。

成美も、嬉しかった。難関校に合格したことよりも、晴美ねえちゃんの股の間から、小さく、力強い命が生まれてきたことに涙腺が緩んだ。

ありきたりだけど、あんなに嫌悪していた女性器のことを命を生み出す神聖な器官なのだと思うことができた。

女性器は、出口で入り口。

晴美姉ちゃんの分娩を真近で見たことで、今まで煩わしく汚らわしいものだと思っていた成美の女性器に対する考えは変わっていた。



父と住んでいたあの女は、自分よりも若いホストとかけおちし、娘を置いて出て行ったらしい。

施設に入れるのも可哀想だからと、なぜだか血のつながらない父が女の置いて行った不愛想な娘を育てていた。

はじめは辟易していたがなんだかんだで、楽しそうに疑似父親(と、いうよりももうおじいちゃんみたいな年齢なのだけど)ライフを送っていたら、女はホストと別れて娘を迎えに来たらしい。

全く、勝手な女だなと、成美は呆れた。

父はつかの間の父親ライフを奪われ、寂しそうにしていた。

(と、四千里のおばあちゃんから聞いた)

無事に大学に合格したら、すぐに母に会いに行こうと考えていたら、弁護士経由で父に連絡が来た。母はすでに出所して消息も不明だという。

今年の三月はなんだか、変な三月だった。

入学手続きを済ませた帰りは三月なのに大雪が降ったり、成美姉ちゃんが退院する日は気温が五月並みになったり。

結局、タカユキは愛知に戻った。

晴美姉ちゃんが、この子のためにもちゃんと卒業して医者になってから来い。と、説得したらしい。

それまではシングルで育てるって決めたんだから。と、晴美姉ちゃんは「晴美と離れたくない」と、泣いているタカユキを抱きしめながら、聖母みたいな顔をして退院していった。

逮捕されたと報道された晴美姉ちゃんの事務所の社長はその他もろもろ余罪が見つかって、服役することになり、晴美姉ちゃんの稼いだ金は、晴美姉ちゃんのもとに戻ってこなかった。

「まあ、母体も子供も元気だからなんとかなるさ」

母になった晴美姉ちゃんは、もともと姉御気質なのに前よりも、もっと逞しくなっていた。

子供の名は『春樹』と名付けられた。

名前はタカユキがつけたらしい。タカユキを名付け親にするなんて晴美姉ちゃんは本当にタカユキに甘い。

全く。甘すぎて、胸焼けしそうなほどに甘い。

変な三月の締めくくりは、春樹の顔を見にいくために地元に戻り、実家に寄ったときに父宛に来ていた母からの手紙をポストの中にみつけてしまったことだった。

しばらくひそんでいた成美の悪癖が作動した。一刻も早く知りたかった。何がそこに書いてあるのか。むさぼるように、しかし、ちゃんと元に戻せるように、ノリで張り付けてある封筒をゆっくりと慎重に開けた。

切手に押してある消印はおとといで、知らない街の名前が赤い判子で押してあった。


『拝啓 パーやん、いままでずっと迷惑ばっかりかけてごめんね。十年間、毎月手紙を書いて差し入れをしてくれてありがとう。返事の書けない手紙だったけど、パーやんからの手紙は毎月の楽しみでした。

あんな馬鹿な計画を止めないでくれたことに、今更ながら感謝という言葉しか浮かんできません。語彙が乏しくてごめんね。

弁護士さんから、成美が大学に合格したと聞いて一安心しました。ずっと私のせいで、あの子の人生を狂わせてしまったと思っていたから。

よかった。本当にうれしい。

 パーやんが、せっかくわたしをヒロから救ってくれたのに今度は成美まで犠牲にしてしまって。パーやんにもお義母さんやお義父さんにも迷惑かけてしまって本当に本当にごめんなさい。

お義母さんやお義父さんに直接謝ることができなかったのが心残りです。岩本のお墓の場所は変わってないよね? いつか、お墓参りにいってちゃんと謝ってくるね。

絶対に会いには来ないでほしいという約束も守ってくれてありがとう。弁護士さんから、新しい恋人がいるってきいたけど再婚するのかな? もし必要なら離婚届をすぐに書くので遠慮なく弁護士さんに伝えてね。パーやんと成美が幸せになってくれることが私の最大の願いです。

わたしは、ヒロを殺したことを全く後悔していません。でも、人殺しは人殺し。本当はもっと刑務所で罪を償っていたかったけど、さすがに出所させられてしまいましたわい (笑) パーやんと、成美と、お義母さんやお義父さんと過ごした日々の想い出が、わたしの支えでした。これからもずっとそうです。 どうか、パーやんと成美がずっと幸せでいてくれますように。

ありがとう                       

美樹より  敬具』



……わ・か・ら・な・い。

これだけではなんのことだかよくわからない。でも、父が、母とヒロと言う男との関係を知っていることだけはわかった。

しかも、母は、そうだ、思い出した。父のことを、パーやんと呼んでいた。

パパの『パ』なのか、韓国名の『パク』の『パ』なのかはわからないが、今考えるとちょっと笑える呼び名だな……。しかしこれは、いったいどういうことなんだろうか。

十年間、父は母と連絡をとっていた? そしてずっと差し入れを送っていた?

父に聞いてみたい。でも、それじゃ、手紙を読んでしまったことがばれてしまう……。

「おい、成美、おまえ、そうやって人のもの盗み見る癖、いい加減やめとけよぉ、信用なくすぞ、世の中はなぁ、信用が一番大事なんだから」

よく知った声に驚き振り向くと、後ろに父が立っていた。気配を消していたのだろうか。気が付かなかった。もしかしたら父は忍者なのか。

しかし顔が赤い。相当酔っているのだろう。

まるで妖怪『しゅのぼん』のような顔の赤さだ。

四千里で春樹の出産祝いと成美の合格祝いの酒を飲んできていたらしい。

「でも、おばあちゃんは、世の中でお金が一番大事だって言ってたよ」

「まあな、あの人はそういう人だったなあ、でも、お金だけじゃどうしようもないことだってあるんだよ、いや、おばあちゃんのことは本当に尊敬してるよ、すげぇ人だったよ、でもな、成美、お金を追ってたら、いつの間にかお金に食われちゃうんだぞ、信用だよ、世の中、信用。信用って言うのはな……」

長くなりそうな父の話を遮り成美は問うた。

「ねえ、お父さん、おかあさんどこにいるの」

「おい、そりゃな、知らないほうがいいことなんだよ、もう忘れてやれ、お母さんがそれを望んでいるんだから……」

「なんでよ、わたし、もう大人だよ、本当のこと、教えてよ」

「俺は美樹と約束したの。絶対成美に言わないって、それは信用問題だろ? わかるか?」

父は、成美の手から、手紙をとって、「どれどれ」と、その場で声に出して読みだした。

「あはは、離婚届ねぇ……あいつも、本当に、人に気を遣う女だなぁ、そんなもん、もう必要なくなっちまったんだけどな」

自虐的に笑う父の口元は少し歪んで、目には涙が溜まっていた。


                


なにもしなくても、生きているだけで、やはり月日は過ぎていく。

春樹は、幼稚園生になった。タカユキに似ていて、やんちゃな顔をしていたが、目は晴美姉ちゃんに似ていて、近所のみんなにとても可愛がられているようだ。

晴美姉ちゃんは四千里を手伝いながら、相変わらずの美貌を保ちながらも、すっかりお母さん然としていた。

タカユキは、結局、他の女性と結婚したらしい。

先日ハワイであげた挙式に沢井君も参列したと聞いた。

晴美姉ちゃんは「想定の範囲内だよ」と言っていた。

悲しんでもなかったし「それが一番よかったんだよ」と、強がりではなく言っていた。

多分、病院で会ったとき、タカユキは本気で晴美姉ちゃんと結婚するつもりで来たのだと思う。

でも、晴美姉ちゃんは、断った。

「人生って本当タイミングだよね、なんかさ、春樹が成長していくにつれて、わたしもタカユキのこと元彼としか思えなくなっちゃってさ、正直、恋愛感情がなくなっちゃってさ、きっとタカユキとはさ、春樹を産むための出会いだったんだろうね」

晴美姉ちゃんはあっけらかんと、そんなことを言っていた。

ちなみに、タカユキの結婚相手は大きな病院の一人娘で、すでに妊娠しているらしかった。

晴美姉ちゃんには、『遥さくら』として、今でもたまに週刊誌の『あの人は今』企画の依頼がきたりするらしいが、全て断っているのだと言っていた。

いまだに、幼稚園の集まりなんかでは、好奇の目でみられたりするので、春樹のためにも世間への露出はもうしないと決めたそうだ。

成美は大学に入ってからも、ずっと変わらず、同じ部屋に住んでいる。

(引っ越すのが面倒だったし、通学にも不便がなかった)大学では、演劇サークルに入り(成美の入った大学の演劇サークルは、数々の有名人を輩出していた)成美の極度な男嫌いは徐々に治っていった。

子供の頃に一人で練習していた五秒で泣ける技なんかも役に立って、成美は重要な役をもらえたりするようになった。

はた目から見て成美の大学生活は充実していた。が、何か、どこかが裂け始めていた。

身の程をわきまえ、金になる確率の低い役者になろうとは思わなかったが、サークル活動はとても楽しめていた。

このまま、時間が止まってくれたらいいのにな。と、考えながらも、やはり時間は過ぎていく、サークルよりも就職活動を優先しなければいけない時期が近づいていた。

母のことは、父のいう通り、忘れようと努めた。

母が望んでいるのだから、元気でいるならそれでいいし、と己に言い聞かせ、記憶から、事件を消そうと努力した。

しかし、心の深層では、姦通や殺人という重く残酷な事実と向き合えていなかったのかもしれない。

だからなのか、大学に入ってから、混乱に襲われることが多々あった。

舞台に立っていて、急に、人の目が怖くなることもあった。そういうときは、ただ、何も考えずに、思考を遠くに飛ばした後、帰りは電車に乗らずに走るようにした。

走ると身体がシェイクされ、混乱は一時的に消えていくのだ。

しかし、やはり、まだ、男性器が自分の身体に挿入されることを想像するのには、ひどく抵抗があった。

そのため、飲み会や打ち上げに参加しても、男性から性の匂いが湧きたつと、気持ちが萎え脅えが襲ってきた。

彼氏のように仲の良い友人ができたが、彼の唇が迫ってきたときに、成美は急に心臓を強く握られたような感じがして怖くなって彼の身体を突き飛ばし逃げてしまった。

何度も謝りのラインが来たが、そのあと、彼と二人で会うことはなかった。

処女じゃないけど、実質処女だ。

高校生の頃は一生処女がいいだなんて言っていたけれども、本当にそんなんでいいのか、このまま遺伝子を残すことができないであろう自分は女として欠陥品なのではないか……。

そんな風に考えながら、舞台の衣装の素材を買いに渋谷に出かけたら、渋谷のスクランブル交差点で瑠香を見かけた。

瑠香によく似た、太った男の人と一緒だった。

コインズのコンサートの帰りだったようで、二人ともコインズグッズを沢山持って、幸せそうに笑っていた。

ぞわりと背筋が粟立った。

十代の頃はそれでよかったのかもしれない。けれども、成人し、みんながつがいになっていくなか、成美は孤独と向き合うしかなかった。


プライベートパーツと呼ばれる口、胸、性器、肛門(こうもん)は、命をつなぐ大切な場所。勝手に触ろうとする人には『やめて』『嫌だ』と言って、逃げて良いです」

 昨年12月小田原市であったセミナーで、小田原市在住の大矢郁美さん(30)が呼びかけた。参加者は、未就学児や小学生とその母親ら計26人だった。

大矢さんは小学生のときから義父に性的虐待を受けていた。三度の堕胎を経験している。

 社会人になってから、現在の夫と出会い、全てを打ち明け結婚し、二児をもうけた。

大矢さんは、男女の体の違いや子どもが生まれるまでの流れなどを説明。望まぬ妊娠や出産を防ぐため、「人を好きになることはとてもすてきなこと。でもセックスだけが愛情表現ではない」と訴えた。

家で今度の公演の衣装を作りながら、ネットのニュースで見つけた記事に、成美は目を奪われた。

目を奪われすぎて、縫っていた針で指をさしてしまった。

ぷくりと、指先に小さな赤が膨らんだ。

赤が鮮やかだった。痛いのに、丸い赤が綺麗で見とれてしまった。

記事には女の人が子供たちに懸命に説明する姿が写真付きで添えられていた。

プライベートパーツと言うのか……。

と、成美は、自分の性器を思う。

成美のここは、生理のときに血を排泄することにしか使われていない。

命をつないでいるのは、どちらかといえば尿道や肛門だ。ふさがれたら困る。

『人を好きになることはとてもすてきなこと。でもセックスだけが愛情表現ではない』

そう、思っていた。

そう思っていたけれども、それを許容してくれる人がいないのが現実だった。

彼氏のような友人ができたとき、楽しかった。ドキドキもした。

だから、このまま、一緒に過ごすことができたらいいな。と、思った。けれども、彼はそれ以上を望んだ。

望まれた途端に、風船がしぼんでいくみたいに、成美の恋心は空中に噴出し、消えていった。

そして、憎しみが湧き出た。

ああ、愛にはセックスがないとダメなんだ。そういえば、沢井君だって、結局アンディとセックスしているし。

セックスができない自分は欠陥品。

いくら美人だとか可愛いだとか、演技がうまいとか褒められていようと、『普通の女の子』になることができない……。

ダークサイドからやってきた成美が耳元で囁く、こんな言葉は綺麗ごとだよ。

セックスがないと、愛情は認めてもらえないのだから……。

あんたは、一生一人ぼっちだよ。

目の中が灰色になっていくような感じがした。さっきまで綺麗だと思っていた鮮やかな指先の赤が、赤黒い病原菌満載の汚らわしい体液に思えて、成美は何度も手を洗った。石鹸が指に染みる。

もし、衣装にこんな汚らわしい体液が付いてしまったら……考えると怖くなって、急いで近所の百円均一にゴム手袋を買いに行った。



夏が来る少し前に、就活が無事に終わった。難関だと言われている大手の食品会社に無事に内定が決まった。

成美の人生は皆から順風満帆に思われ、うらやましがられた。

成美自身も満足していたはずだった。これで、将来は安泰だ……金に困ることもないだろう。そんなふうに安堵していた。

しかし、ある日、起きたら自分の耳の位置がわからなくなっていた。

成美は、いつもそこにあったはずの耳のあたりに手を置いたが、耳が、いつもと同じ位置からなくなっている。

そのずっと後ろに耳があるような気がする。

ついでにいうと、もみあげのあたりにある皮膚が髪の毛に覆われている。

洗面所にいって鏡を見ると、耳はある。

鏡に映ると出現してくるのかな……?

いつもと同じように顔を洗おうとしたら、どこから洗ったらいいのかわからなくなって、身体をよじらせるような変な格好で洗ったのでパジャマや床がびしょびしょにぬれてしまった。

あれ? どうやって顔を洗うのが正解なんだっけ。

成美は晴美姉ちゃんにラインで聞いてみた。

『あのさ、顔ってどこから洗ったらいいんだっけ?』

『え? どこから、って、自分なりでいいんじゃないの?』

『いや、正解ってなんだっけ』

『ナル、どうした?』

『なんか、起きたら耳が移動していてさ、顔の洗い方がわからないんだよ』

『そうか、ナル、今日、もし時間あったらさ、店にご飯食べにおいでよ、それとさ、同じこと創くんとアンディにも聞いてみな』

『うん、わかった、ちょうど地元に行く用事あるから夕方くらいにお店行くね』

『うん、待ってるからね、気を付けておいでよ』

成美は晴美姉ちゃんの助言通りにアンディと沢井君にも相談してみた。

『ああ、成美ちゃん、そうかそうか、耳が移動しちゃったのか、最近なんか変わったこととかあった?』

『ううん、就職も希望していたところに決まったし、いろいろいい感じだよ』

『ナルミサン、シュウショクオメデトウ』

『アンディ、ありがとう』

最近はアンディと沢井君との会話は個別ではなく、グループラインにしている。どちらかだけにしていると、なんだか自分が間女になってしまったような感じがするからだ。

スマホの画面を見ていたら、なんだか、目が飛び出してきそうになって焦った。

急いで、成美は目つぶり思い切り眼球をおさえた。

夜空に浮かぶ星みたいなのが見える。ああ、この光景懐かしい。子供のころ、寝るときによくやったな、目の中に沢山星が散らばって、小さな宇宙があるのだと信じていた。

『なんか、眼球が飛び出してきそうなんだけど、どうしたらいいのかな、いま、おさえてるんだけど』

『そうか、とりあえず、ゆっくり目をおさえて、十秒待って、そのあと、走って来てみて、治る筈だから』

『おっけ、ありがとう』

さすが、医者の卵だ。と、感心した。持つべき友は医者と弁護士と警察だとか、昔、祖母がよく言っていたことを思い出していた。

そして、成美はランニングウェアに着替え、走った。日差しが強いが夏の来る匂いがする。

汗が首筋を濡らし、頬にあたる風が気持ちいい。

確かに、走っていたら、治ってきたような気がしてきた。

血行が悪くなって眼球や耳に血液が回っていなかったせいだったのだと、成美は気が付いた。

ほっと安心したのもつかの間、走っているときの拳の握り方がわからなくなってきて混乱してきた。

あれ?

いままで、これ、どうやって走っていたのだっけ? 

成美の頭の中は疑念に満ち、思い切り拳を握った。掌が指の圧迫で赤くなるまで思い切り。

(これが、正解だ……いままで、わたしは、不正解な走り方をしていたんだ……)

正解が分かった途端に足が軽やかになる。

帰ってシャワーを浴びながら、正解を見つけたことで、すっきりし、久しぶりに晴美姉ちゃんに会いに四千里に行くのが楽しみになっていた。


丁度、内定が決まった会社に提出する書類やパスポートを作るために本籍地の区役所に行かなければならず、地元には近いうちに帰らなければと思っていたのでちょうどよかった。

 戸籍謄本の中では、成美は母方の姓になっている。

韓国籍だとなにかと面倒だからと二歳の時にパクから、戸籍上では母の姓の佐藤になった。

岩本は、パクの通称名なので、ちゃんとした国の手続きなんかではあまり使われないのだけれども、ほとんどの場所で岩本と呼ばれるので『佐藤』には全く馴染めない。

――佐藤美樹

母の事件は、岩本美樹ではなく佐藤美樹がおこしたものなので、みんな気が付いていなかったのかもしれない。

そんな風に考えながら、四千里に着くと店には『本日休業』の看板がかかっていた。

晴美姉ちゃんに『四千里に着いたけど休みって書いてあるよ』

と、ラインを送ると『ドア開いてるから勝手に入って~』と、返事が来た。

晴美姉ちゃんは、春樹のトイレを手伝っていたらしく、水が流れる音とともにトイレから出てきた。

なんだか懐かしい。店の中は、キムチの匂いがする。

春樹は成美に「こんにちは」と、元気な声で言ってから、店の奥の階段から自分の部屋へと登って行った。

「春樹、テレビね、ちゃんぽんマン、チャンネルおしたらつくから、それ観ててよね」

「あーい! ちゃーんぽーんきーっく!」

元気な春樹の声は可愛らしく、心が和むような感じがした。

「春樹大きくなったねえ」

「うん、幼稚園で一番大きいんだよ、あれ?ナル、痩せた?」

「いや、そうでもないよ、走ってるから多分、ひきしまったのかな」

「そっか、体重計には? 乗ってる?」

「ううん、最近乗ってないな」

「そっか、そっか、まあ、元気ならいいんだけど」

「あれ? 晴美姉ちゃん、おばあちゃんたちはいないの?」

「今日、婦人会と青年部でハワイだって、だからお店休みでお留守番」

「え、ハワイ? 景気良くない? そうなんだ、ごめん、なんか休みなのにお邪魔しちゃって」

「あっはっは、ハワイっつっても福島だよ、福島のハワイアンセンター」

「なんだ、びっくりしたわい」

「店休みって言ったら、あんた遠慮して来ないような気がしてさ」

「あ、青年部もだったら、うちのお父さんもいないのかな」

書類に判子を押してもらいところがあったのだが、まあ、いいや、あとで勝手に押せばいいや。と、思いながら、口の歪みが気になってきた。

「朝から、楽しそうに出かけていったよ、ダジャレ総攻撃だったわ、あははは、ナルの父ちゃんのユーモアが、半分でもうちのお父さんにあったら丁度なのにね」

「たしかに」

久しぶりに会った晴美姉ちゃんに、対して緊張しているのかもしれない。

何も悪いことをしているわけではないのに、なんだか、自分の顔をみられることが、憂鬱になってくる。

表情に疑念を抱かれているような気がする。

正解じゃない顔をしているような気がしている。

じっとりと、背中が汗ばんで来ていた……。帰りたい。

あんなに楽しみにして家をでてきたのに、晴美姉ちゃんの目はまるで、罪人を見ているように思える。

『ナルヤ、ナルヤ』

はっきりと祖父の声が聞こえた。と、思ったら、二階で春樹が見ているテレビの声がそう聞こえただけだった。

「ナル、わたしね、いつかはちゃんと、美樹ちゃんのこと、話そうと思ってたんだ」

晴美姉ちゃんの態度はいつもと同じはずなのに……成美は自分の所在がなくなっているようで焦る。

美樹ちゃん? ああ、お母さんのことだ。

「あ、コーラかなんか飲む? ゼロカロリーあるよん」

「あ、うん」

いま、ずっと、ちゃんと息ができていなかった。歪んだ口が治らない。晴美姉ちゃんは歪んだ口のことを、何も言ってこない。

顔ができそこないのふくわらいみたいになっているような気がしていた。目や鼻や口の位置がわからなくなってきて混乱する。

成美は、脇腹を触った。

あれ、脇腹って、いままであったっけ、わたしに、こんなパーツあったっけ。

心臓が大きく高鳴る。身体が平面ではなく球体上だということに気が付いていなかった。 

成美は急に自分の『横』『側面』に気が付いた。

正解がわかった。

側面の存在に気が付いていなかったのだ。だから、混乱して、ちょっと思考が変になっていただけだ。

「晴美姉ちゃん、わかったよ」

「ん? どした?」

目の前にコップに入った氷入りのゼロカロリーのコーラが置かれ、成美はいままで自分の身体の『側面』について理解していなかったことを説明した。

「えぇっと、それは、心理的なこと?」

「いや、人体的なことなんだけど、わかるかな、えっと、紙とペンある? 絵で描くと、ここの部分なんだけど」

成美は晴美姉ちゃんが持ってきてくれたノートとペンで久しぶりに人体図を描いた。

思いのほかうまく描けて、指は覚えているのだなと、感心した。

「あのね、ここなんだけどさ、絵だと、二次元だから、ちょっと説明しずらいかも とにかく人体は球体になってるんだよね、それ、わたし、いままで気が付いてなかったんだよ」

「ナル……そうか、そんなこと考えたこともなかったな」

「多分、わたしね、小さい頃に、なんか、いや、全然たいしたことじゃないんだけど、なんかあったみたいで、それで、側面がなくなったのかもしれない。それで……」

「ナル、そのことなんだけどさ」

成美は、顔面が崩壊していく感じに耐えられなくなって、顔を強く抑えた。

「ナル、大丈夫?」

成美は首をふる。

大丈夫じゃない。正解、見つかったはずなのに。

わからない混乱が身体を破壊していく……。

「ナル、美樹ちゃんの事件のときこと、私が話してもいい?」

成美は両手で顔を覆ったまま、大きく首を縦に振った。



        

母が捕まった報道がされたとき、晴美姉ちゃんもう十二歳だったし、成美の母とは仲がよかったから、すぐに美樹ちゃんだと気が付いたそうだ。

軽くだが、警察に話も聞かれたらしい。

それを四千里のおばあちゃんに言ったら、四千里のおばあちゃんからは、きつく口止めをされた。

――成美ちゃんには、なんもいっちゃだめだぞ。

が、まだ、十歳だった晴美姉ちゃんが、そんな言葉だけで口にチャックをつけられるはずがない。

だから、四千里のおばあちゃんは、成美のばあちゃん(米子のことだ)から聞いた事件の真相を、全部を包み隠さず晴美姉ちゃんに話した。

――これはな、ヨネちゃんとわたしの信用問題だかんな、絶対に成美ちゃんにいうなよ、でも、成美ちゃんになんかあったら、お前が助けてやれな。

四千里のおばあちゃんは、そんなことを言ってくれていたらしい。



まず、ヒロという男について。

美樹は九州のとある街の生まれで、美樹の母親は家の下で『かもめ』というスナックを経営していた。

美樹は私生児で母親は男関係にだらしのない人だった。なので父親は不明。

しかし、美樹は、根が真面目だった。

ちゃんと勉強して、東京の大学に行くのだと、塾に行かせてもらえない環境の中できちんと学校で勉強をして、夜になるとカラオケの絶えない店の上の自分の部屋で、サッドマンの音楽をヘッドフォンで聴きながら一生懸命勉強をした。

ヒロが母の情夫になり、家に住み着くようになったのは、美樹が中学三年生のときだった。

ヒロは母親がどこか、外国の生まれのハーフだったので美男子だった。

美樹と年は三つしか離れておらず、母の店に来る肉体労働者の常連客が連れてきた従業員の男の子だった。

ヒロは十八歳だった。

母は、ヒロを気に入り、家に住まわせるようになった。

ときおり、母の部屋から動物のうめき声みたいな母の喘ぎ声が聞こえきて、そういうときは、サッドマンとヘッドフォンが役に立った。

ヒロが家に住み着いて、はじめは、歳も近いので普通に話したりもしていた。

美樹は母を毛嫌いしているわけではなかった。ただ、人種が違う。とは感じていた。

育ててくれている母に感謝をしているが、母のような生き方はしたくなかった。

だからこそ、きちんと大学に行くのだと毎日努力し、公立で一番の進学校に入学した。

歯車が狂ってきたのは、高校二年の夏休み、ヒロと美樹が関係をもつようになってからだ。

暑い夏だった、年頃の男女が毎日一緒にいて、なにも起きないほうが不自然だったのかもしれない。

美樹は優しく美しいヒロに少し好意を抱いていたし、ヒロは美樹を愛していた。

互いに母に申し訳ないと思いつつも、情事は続いた。

若者同士のセックスだ。まるで子供たちがじゃれているように、母がいないときを見計らって毎日のように行為に及んだ。

背徳と、スリルが官能を滾らせた。

甘えてくる美しいヒロが可愛かった。

どこにいってもイケメンだと言われているヒロが、自分に一途なことに優越感を抱いていた。

しかし勉強だけは怠らなかった美樹は、指定校推薦で東京の有名大学に進学が決定した。

そのころからヒロとの関係に徐々に陰りが見えてきていた。

ヒロは家にいるために母との関係も続けていたのだが「美樹と一緒に東京に行きたい」と、美樹に打ち明けてきた。

「美樹と一緒になりたい、美樹と離れたくない」

ヒロは言いながら目に涙を浮かべていた。

美樹は、そんなヒロのことが疎ましくなっていた。早く東京に行きたい。

自分勝手な考えだったが、本音だった。こんな小さな町で、人生終わらせたくない。

ヒロとの関係は狭い田舎で唯一気を紛らわす、一時的なものだった。

東京に行ったら沢山の可能性がある。しかも、誰もがうらやむ大学に行けるのだ。

中卒で肉体労働をしているヒロとは、もう道が違う。

だから関係を終わらせようと思い東京に行く直前、別れ話をした。

ヒロは怒りに震え、激しく壁を殴りながら「ひどいよ、美樹、俺には美樹だけなのに」と、泣いていた。

しかし、それから何日か経ったころ、ヒロは急に態度を軟化し、従順に美樹の言うことに理解を示した。

「わかった、ちゃんと美樹と別れる。でも最後の思い出に一度だけ抱かせて」

と、言われ、美樹はヒロと交わった。

従順なヒロに、罪悪感を抱きながらのセックスは、良き思い出として、美樹の中に残る筈だった。

しかし、きちんと避妊具をつけていたはずなのに行為が終わると、どこにも避妊具は見当たらない。

しかも、ヒロは美樹の生理の日から排卵日を予測していた……。

従順なフリをしたのは、ヒロの復讐の一環だった。

そうしてヒロは、今までの自分たちの関係を全て母に打ち明けて、行方をくらませた。

母からは親子の縁を切られた。もちろん、大学の入学金など払ってくれるはずもなかった。

美樹は急いで、東京に出た。

店舗型の風俗の寮に住み、働き、なんとか、期日までに入学金を納めることができた。

学費は、奨学金を借りようと思っても親の収入証明が必要だったために借りることができなかった。

風俗は身体がきつく、今後の人生でもしもバレたりしたら就職が困難になってしまうと考え、寮があるという銀座のクラブで働くことにした。

妊娠に気が付いたのは、入学式が終わってすぐのことだ。

前期の授業料はすでに納めていた。まさか、あの一回のことで妊娠するなんて、信じられなかった。もちろん、堕胎するつもりだったが、病院に行こうとすると、悲しくなって涙が止まらなくなる。

なんとか誤魔化しながら、毎日大学に行き、夜は銀座に通った。

幸い悪阻は重くなく、日常と同じ生活を送ることができていた。

しかし、刻一刻と、堕胎できる月齢は過ぎていく。すでに、初期中絶ができる月齢は過ぎていた。

妊娠二十二週を過ぎると法律で堕胎はできなくなる。

在日の『パクさん』

あだ名は『パーやん』こと、成美の父に会ったのは、そんな最悪の状況の真っ最中だった。

美樹は不思議なことに、毎日店にやってきて美樹を笑わせようとする一生懸命なパーやんのことを、いつの間にか好きになっていた。

だから、関係を持つ前に、打ち明けた。

実は別れた男の子を妊娠していること、堕胎しようと思っているけど、ふんぎりがつかないこと……。

パーやんは、必死で堕胎を止めた。休学して、なんとかその子を産むことはできないかと、美樹に勧めた。

堕胎したら、きっと美樹ちゃんは後悔する。お金は出す。美樹ちゃんが育てられないなら、自分が引き取って育てたい。

まだ若いんだし未来もあるから気持ちはわかるけれども、外国に遊学していたとか何とか言って、その間の授業料も俺が払うから、とりあえずうちに身を寄せたらいいと、パーやんは美樹にとって夢のような提案をしてくれた。

「子供は宝だよ、俺さ、母ちゃんが昔、パンパンとかパンマもやって俺を育ててくれたんだけどさ」

「パンパン? パンマ?」

「いまでいう、売春婦みたいなもんだけどさ、パンマはね、按摩もできるパンパンなんだよ、うちさ、建てた工場も軌道に乗らなくて、借金も沢山あってさ、それで母ちゃんが家族を養うためになんでもやる人だったんだ、おれはね、そんな母ちゃんのこと、かっこいいと思ってんの、いや、すげー口の悪いばばぁだけどさ、売れるものはなんでも売るっていう気概がさ、女としてかっこいいと思ってんのよ」

美樹はパーやんの言葉に、一瞬でも風俗をやっていた自分が救われたような気がした。

今まで、しょうがない状況だったとはいえ、男に身体を売ったことで自分が汚れてしまったような気がしていたのだ。

「パーやん」

美樹は、パーやんと一緒になることが自分にとって、最良な選択のような気がした。

この人なら、きっと子供も自分も愛してくれる。

「わたし、産みたい、本当は、この子を産みたいの……」

美樹は、夢だった大学を中退し、パーやんと籍を入れ、一緒になった。

生まれてきた子供はパーやんの子供として認知された。

実はパーやんには、子種がなかった。幼い頃のおたふくかぜで、精巣がちゃんと機能できなくなってしまっていたのだ。

だから、祖父も祖母も、成美が実の孫ではないことは、はじめから知っていた。


         

コーラに入った氷は解けて、炭酸は薄まってほとんど消えていた。

「わたしは、ナルに本当のこと、いま、言うべきだと思ったの」

成美は、咀嚼できない感情でいっぱいになりながらも、自分の側面を触っていた。

ある、側面がある……。うん、側面があれば、何とか大丈夫だ。

「わたしが、パニック障害だってこと言ったよね」

「うん」

「そういう精神疾患には、なんかしらさ、理由があるんだと思うのよ、まぁ、わかんないよ? わたしは専門家じゃないから。でも、わたしはね、お母さんが私のせいで亡くなったことが、心因になっているのかなとおもっているのだよ」

「それは、たしかに、そうかもしれないよね」

「ナル」

「うん?」

「ナルは、いま、心が疲れてるよ? 自分に嘘ついたりしてないか?」

「いや、全然、めっちゃ元気だよ、だって大手に就職も決まってさ、今まで実家には、家賃も払ってもらって、仕送りもしてもらって、同級生でバイトしてないの私くらいだよ、だからさ、幸せなはずだよ」

「うん、誰から見てもそうだよね、綺麗で美人で、家もそこそこ裕福で有名大卒で、大手の会社に就職決まってね」

「まあ、まだ卒業してないけど、うん、自分で言うのもなんだけど、リア充だよ」

「あはは、でも、リア充はさ、多分、側面気にしない」

「まじで? いや、みんなが気が付いてないだけなんだよ」

「そうか、わたしね、昔、お父さんにさ、お前を産まなかったら、お母さん生きてたかもしれないって、酔っぱらって言われたことあってさ、そこから、なんで自分が生きてるのかわからなくなって、そのころからかな、タカユキとずっと一緒にいるようになって、友達もいなかったから、あんまり学校も行かなくなって、でも、ばあちゃんのこと好きだから心配かけたくなくて、学校辞めたりはしなかったけどさ、まあ、最初は中二病みたいなものだと思ってたんだけどね、あまりに過呼吸とか酷くてさ、病院行ったらパニックって診断されて、だから、結構パニックとはつき合い長かったんだよ」

「え、そんな前からなの」

「昔はね、創くんのお父さんに診てもらっていたのだよ」

 そうか、だから、あのとき晴美姉ちゃんはお通夜に来ていたんだ。タカユキのつれとか、ご近所さんとかじゃなく、晴美姉ちゃんも沢井君のお父さんの患者さんだったんだ。

「でも、大人になっていくにつれてさ、誘惑も多かったし、現実から逃げたくて、違法な薬物もやったりもしたさ、でも、捕まるのは怖いから、合法のものをこっそりタカユキが調合したりしてさ、合法でも案外きくのよ、一緒にキメて、セックスして、関係がどんどん異常になっていってた」

聞いていて苦しくなってくる。晴美姉ちゃんが世間の誹謗中傷を気にしないのは、生きる姿勢ががシンプルだからだけが理由じゃなかった。

それどころじゃないからだったからだ。

画面の中の知らない人の悪口を目にとめて悩むなんてことは、晴美姉ちゃんにとっては無駄でしかなかった。

最初から、本当は生まれてはいけなかった子。

そう思っていたのだから。

「でもね、春樹を身ごもって、実家に戻ったら、すっかり治ったの」

「そうなの?」

「いまは、薬も飲んでないし、生きるのってこんな楽だったっけ?って、驚いている、いや、別の意味でのイラつきとかは超あるけど」

「なんかさ、春樹産んだ時にね、この子を守る為なら命なんかまったくおしくないって思ったんだ、自分のために死にたいって思ったことはたくさんあったけどさ、誰かを守るために死んでもいいって思うことなんてきれいごとだと思っていたから、自分でマジ驚いたの」

「美しい話だね……」

成美は感動した。自分はきっと母親というものにはなれない。けれども、素直に晴美姉ちゃんが本気でそう思ったことが伝わって来て心を打たれた。

「でしょ、でもね、春樹が、ギャン泣きしたりするとマジでむかつくんだよ、こいつ土手に捨ててきてやろうかなとか思うの、わけわかんないっしょ」

「うん、今の感動を返してほしいよ」

「ナルはさ、多分、自分のせいで美樹ちゃんが服役してとか、いろんな複雑な思いがあると思うんだわ」

「……」

「でもね、人間の一生なんか大したことないんだよ、産まれて死ぬだけ、ただそれだけなの」

「え、そんなの、なんかむなしくない?」

「まあ、ちょっと今のは、言葉足りなかったかもだけど、だからこそさ、ナルは自分の好きなこと沢山したらいいんだよ、誰の期待にもこたえなくていい、自分のために、自分の好きなことやったらいいんだよ」

自分の好きなこと……

「みんなさ、誰もが、やっぱりどこかでユガンマーなんだよ、でもね、誰かを故意に傷つけたり、意地悪したり、騙したりしなければ、ちゃんと報われるの、いま、ナルは脱皮しようとしてるんだと思うんだ。あ、そうだ、お腹空かない? 一枚二千五百円のシャトーブリアンがあるのだが……」

成美は、ここのところずっと、コンビニに売っているサラダチキンとチーズと、冷凍のブロッコリーしか食べていなかった。

献立を考えるのが面倒だったし、料理するのも面倒だったし、筋肉にはその献立がいいと聞いてからはほとんどそれしか食べてなかった。

「シャトーブリアン……」

「牛様の命のお恵みだよ、よし、今、焼くから、ちょっと待ってね、あ、ばあちゃんにはさ、食べたの内緒ね」

晴美姉ちゃんは成美の返事を待たずに厨房で肉を切り出していた。

肉の焼けるいい匂いがする、懐かしいキムチの匂いがする。あたたかいご飯の匂いもする。

成美は、『生きる』ことについて考えていた(ちょうど、黒澤明監督の映画『生きる』を最近観たばかりだったから、そこに直結したのだ)

何が正解で、何が間違っていてだなんていまだによくわからない。

けれども、いつだって、他人事みたいに、自分を見ていた。

いろんな人に守られていたことに気が付かなかった。不平不満、自己満足。

自分ひとりで生きていける……。そりゃ生きていけるけど、それってなんの意味があったのだろうか。瑠香や樹里を傷つけ、見下し、好きになった人を拒絶して……。

「やべー、こりゃ、まじ超美味しそう、わたしも食べちゃおうっと」

晴美姉ちゃんは、どん、と、店のテーブルに、いい塩梅に焼かれた厚切りのシャトーブリアンが三枚乗った皿と、キムチにナムルにユッケジャンスープを置いた。

湯気の上がった白いご飯にチャンジャと生卵の混ざった納豆と、韓国のりも。

腹から怪獣の赤ちゃんが鳴くみたいな「うきゅうううううううう」と、いう音がした。

晴美姉ちゃんが「ナルのお腹の音っていつも変だよね」と、笑った。

「さて、食べよう、お祝いだ」

「なんの」

「なんでもない日のお祝い」

「不思議の国のアリスだね」

銀のスプーンと、箸で、晴美姉ちゃんと向かい合って、もくもくとご飯を食べた。

シャトーブリアンもキムチも、ホカホカのご飯もチャンジャ納豆も、ご飯に浸して食べるユッケジャンスープも、血管や脳髄に沁みるほどに美味しかった。

懐かしい味が、成美の心を解きほぐし、太ることなんて一切気にせずにぺろりと平らげてしまった。

「口が幸せ」

晴美姉ちゃんが言って、成美も「身体が喜んでいるね」と答えた。

「ナル、創くんとアンディに相談してみてさ、一回ちゃんした病院に行こう」

「うん、沢井君はね、走れって、言ってたよ」

「それ、運動療法だね、うん、走るは続けたほうがよきよき、んでさ、あと、薬も間違って飲まなきゃ、大丈夫だから、とりあえずさ、ナルの心はまだ子供だったのに、いろんなことありすぎたんだよ」

「そうなのかな」

「あたしね、頑張らなくていいんだよって言葉、大嫌いだったの、パニックって知った人はさ、ほとんど言ってくるのね、馬鹿のひとつ覚えかよって、ずっと思ってた。頑張んなきゃ生きていけねーんだよって、心のどっかで毒吐いてた。」

「なんか、わかる気がする」

胃の底からおくびがせりあがって来て、口の中にキムチ臭が広がるけどそれも美味しく感じてしまう。

でも、あんまり行儀よくないから言わないでおこうと思ったら晴美姉ちゃんが大きいおくびをして、「ゲップまで美味い」と、言ったので笑ってしまった。

「でも、それは、その人たちの優しさだしね、世間でも一般常識みたいになっているからさ、でも、創くんのお父さんも言ってたんだけど、わたし思うんだ、頑張ることが合ってる人もいれば、頑張らないことが合う人もいてさ、人なんてそれぞれで、決まったパターンなんてないんだって」

だから、成美はそのままでいいよ。今はまだ、チンコが怖いままでも、いいよ。

いつか、怖いものが大丈夫になる日が、必ず来るから。

そんなこと、晴美姉ちゃんは口にだしていないのに、優し気な目がそんな風に言ってくれたような気がした。


              

沢井君やアンディにも相談して、沢井君のお父さんが働いていた病院で診察してもらうことにした。

成美は『強迫性障害と軽度の発達障害』と診断された。

とりあえず少量の薬物療法で様子を見ながら、運動療法や認知療法やカウンセリングで様子を見て行こうということになった。

担当してくれた『小林先生』という、四十五歳の男の先生は自身も精神を病んだ経験をしたことをきっかけに、普通の大学から医学部に入りなおし精神科医を志したらしく、医者になったのはほかの人よりもだいぶ遅かったらしい。

肩幅は広いが背が小さく、涼し気な目をしたさっぱりとした顔立ちの小林先生とはウマがあった。

先生も映画や小説が好きで、カウンセリングでは、最近面白かった患者さんの話や、観て良かった映画や今まで読んでよかった小説の話などを、ユーモアを交えて話してくれた。

「いや、結構暴れる患者さんがいて、個別房に入れたらさ、患者さん、ものすごく憤慨してね」

「うんうん」

小林先生は甘いものが好きで、カウンセリングルームにはいつもヨックモックのクッキーやリンツのチョコレートが置いてあって、成美は話を聞きながらちょこちょこそれをつまみ、先生の話を興味深く聞くのを楽しみにしていた。

「先生、いますぐここから出してください、でなければ、テレポーテーションしていいですかっ? その許可をくださいって聞いてきたから、ああ、どうぞって言ったのね」

成美はかじっていたクッキーをふきだしてしまった。

「ぎゃはは」

「そしたら、翌日さ、また怒ってんの」

「え、なんで」

「先生! 先生がしていいって言ったのに、テレポーテーションできないじゃないですかって!」

「あっはは、おもしろすぎるし!」

面白い話が大半だったが、時には悲しい話も聞いた。

多重人格の患者さんが入院していて、薬でほかの人格を無くし、退院して帰宅したその日に、その患者さんは首を吊って自殺してしまったそうだ。

「頭の中に、いつもみんながいたのに、いきなりひとりぼっちになってしまって、さみしくなってしまったのかもしれないって、ご家族は病院に来たことを悔やんでらしたよ」

成美は、その話を聞いて鼻が痛くなった。

小さい頃からずっと、その患者さんは六人の人格と一緒に暮らしていたらしい。

急に家族がみんな消えてしまったようなものだ。

想像すると涙がでた。

「成美ちゃんは、感受性が豊かだね」

小林先生は、泣いている成美の頭をよしよしと、撫でてくれた。

大学を卒業し、無事に就職しても、成美は小林先生のところへ通い続けた。

小林先生のところへ寄ったあとは、晴美姉ちゃんのところにいったり、沢井君たちが日本に帰ってきているときは、小林先生やアンディと一緒に晴美姉ちゃんの店に行って焼肉を食べたり(小林先生は沢井君のお父さんの後輩だったので、沢井君とも仲が良かった。ドイツに居住しているアンディや沢井君いわく、日本の焼肉は肉質がいいから焼肉を食べるなら日本が一番らしい)。

成美は商品PR部に配属されたので、週一の小林先生のカウンセリングの際には病院冷凍食品の試作品なんかを晴美姉ちゃんに持っていったりした。晴美姉ちゃんはそれをとても喜んでくれた。

「こないだのさ、レンジでチンするカボチャ餃子おいしかった、春樹のお弁当にちょうどいいのよ」

「でしょ、あれさ、わたしがプレゼンしたやつなのよ、ヘルシーだしさ、子供って、つぶしたカボチャ好きじゃん、絶対美味しいよねって」

成美の社会人生活は充実していた。

PR部は女の子が多かったから、やはり、なんとなく普通の女の子たちの『群れる』という行為に馴染めない雰囲気はあったけれども、小林先生はそれも個性だと。無理して合わせる必要は全くないのだと教えてくれた。


側面を無くしていたことに気が付いて病院に行きだしてからちょうど二年。

ある朝、会社に行く前に洗面台で歯を磨いていたら、側面が当たり前にあることに驚いた。

あれ?

ってか、側面が無いって、なんだったんだ?

薬もほとんど飲まなくなっていたのに、急に目の前が明るくなった。

強迫性障害のおかげで他人や自分の血液や体液を汚らしく感じ、古本が触れなくなっていたりもしたのに。

成美の症状は自分でも気がつかないうちに驚くほどに軽くなっていたのだ。


毎日ほとんど休まずに走り続けて十年が経った。

雨の日は合羽を着てでも走った。嵐の日や雪の日は、区のスポーツセンターに行ってトレッドミルで走った。


三百六十五日×十年  3650日も走るのを休まなかった計算になる(いや、インフルエンザの間は走らなかったので、マイナス四日だ、なので3646日)

母の行方は依然わからないが、もし亡くなったりでもしたら娘には通知が来るよ。と、小林先生が教えてくれた。

それで、いいのだと成美は思った。

成美もしが母の立場だったら、きっと探してもらいたくない。

刑務所の中では、母には母の生活があったはずだ。

母にとって、成美は過去。

それでも、ずっと大切にしまっていてくれている大切な過去なのだと感じている。

でも、もしいつか、過去に会いたいと母からコンタクトがあったら、成美はなんの躊躇もなく会うだろう。

そして、月並みだけど今なら言いたい。

――産んでくれてありがとう。と。

母と父とは正式に離婚したらしい。父は相変わらず毎日、いろんなところで飲み歩いている。虫歯をほおって歯かけになってしまっているので、祖父に似てきた。

が、いつも酔っぱらってダジャレを言って、楽しそうで何よりだった。

成美は、少しだけ父を尊敬するようになっていた。母がいなくなっても、ちゃんと自分の子供でもない成美をきちんと育てあげてくれた。

成美は一度も、父から、存在を否定されたことはなかった。

(嘘や盗み癖はおこられたけど)


祖母も祖父も何も言わずに本当の子供みたいに成美を育ててくれた。


成美の姓は、春になり、桜が満開になった頃に小林になった。

結婚式はあげずに、質素に婚姻届けだけを提出した。

小林成美。

悪くない名前だ。

成美は、少しづつ、ほんの少しづつ、年月をかけて、小林先生と心も身体も溶け合っていった。

はじめは、唇を重ねるところから、次は抱き合うこと、一緒に寝てみること。

互いの気持ちを確認し合ってからも、同衾するまでには二年以上を有した。

今ではあんなに怖かった性器が、小林先生の一部だと思うと、とても愛おしい。

先生が自分の中に溶けていくことに、信じられないほどの幸せを感じていた。

優しく慈しむように、小林先生は成美を包み込んでくれる。

他の男性のチンコ、あ、いや、男性器にはまだ、恐怖を感じるが、小林先生のだけは平気だった。

だから、全ては、一途に先生とだけ同衾するために神様が作った長い道のりだったような気もしてくる。

「新婚旅行は、電車に乗って、熱海にでもしようかね、知り合いのやっているいい旅館があるんだ、そこのお湯がよくてね」

熱海……。

なんだか、古い小説や映画のようでワクワクした。

有給をとり、品川駅でお菓子や、弁当を買いこみ、東海道線のグリーン車で二人熱海に向かった。

成美は揚げがこんにゃくになっているヘルシーなおいなりさん。

小林先生は、崎陽軒のシュウマイ弁当と、カスピ海ヨーグルトをふたつ、二人でつまめるお菓子を買ってくれていた。

成美はもちろん、ランニングシューズもウェアも忘れずに鞄の中に入れてある。

別荘に着いたら夕飯前にすぐ海辺を走ろうと考えていた。

旅行に来てまで走るなんて……と思われそうだが成美にとっては、もう、歯を磨いたり風呂に入ったりすることと同じで走って身体をシェイクするのは日常なのだ。

電車が揺れる。沢山の緑やトンネルを抜けると、急に窓の外が広くなった気がした。

遠くに、太陽が反射する海が見える。

一人だけど一人じゃない……。

成美はまだ、受精した小林先生の遺伝子が卵管采に向かって300キロのスピードで着床を目指していることを知らない。

小林先生の顔が、反射する海の光に照らされて、実体じゃないように思えてくる。

成美は、少し不安になって、先生の頬を触った。

「どしたの」

「ううん、なんか、透けたような気がしたんだけど、大丈夫、実体だった」

「成美ちゃんの前ではいつも実体だよ、あ、でも、もしかしたら、あれかな、実は僕は病院で仕事をしていて気を飛ばして、投影していることに自分では気がついていないのかもしれないね」

「それできたら、楽だよね、なんでもできる」

「アリバイできちゃうからね」

手をあてた小林先生の頬は、温かかった。安心した。

成美は、これから十か月後に母になるのかもしれない。

どんな母になるのか、どんな子供が生まれてくるのか、それは、まだ誰にもわからない。

 成美は小林先生にもたれかかり、つかの間のやすらぎを感じながら、うとうとしだしていた。

優しい掌のぬくもり。電車の揺れと、窓から伝わる太陽の、ほのあたたかさが眠りを誘う。

先生の広い肩。眠い、とてつもなく眠い……どうしよう。どうか、実は起きたら、この幸せな生活の始まりが、全部が夢だったなんてことありませんように……。

トラウマは、あるかもしれない。うん、多分、ある。でも、必ず乗り越えられる。過去は少しずつ、遠くなっていく。

いつの間にか見えないところに消えていく。だから、大丈夫。

優しさに触れて生きていたら、きっとこうして、神様が特別な毛布をくれる。

温かくて、優しいぬくもりの毛布。

この優しい毛布を手にしていること今が夢でないことを願いながら、成美はゆっくりと先生の肩に頭をもたげ目を閉じている。

意識がゆらゆらとしている、ああ、眠りが来るな、と成美は思う。

「先、生」

「ん?」

「おんせん饅頭……半分こして食べようね」

くつくつと、「もちろんだよ」と、先生が笑っている。

成美はそれに安心して、夢の世界へ、ゆっくりと落ちていった。

                           

                           

                           了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

歪み りんこ @yuribo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る