詠み人と欠き人

一繋

詠み人と欠き人

 百合のようなハナが部屋のなかに浮いていた。薄暗い室内なのに、黒い花弁が浮き上がるように鮮明に映る。


 ゴミ袋と脱ぎ捨てた服の山で腐臭すら感じていた部屋に、蠱惑的な強い香りが充満した。


「掃き溜めのような部屋ね。あなた、どれだけここを出ていないの」


 死角の多い部屋だけれど、扉はしばらく開けていない。当然、ここには僕以外の人間はいないはずだ。


 僕が世俗から離れているあいだに、会話をするハナが開発されたようだ。


 けれど、密室になっているこの部屋に入り込めたのはどういう仕掛けだろう。ゴキブリと一緒で、わずかな隙間があれば入り込めるのだろうか。


 ……そもそもこいつは浮いている。


「あなたに聞いているのだけれど」


「き、きみは、な、なんだ?」


 声が震えたのは恐怖からではなく、何年ぶりに働いたのかもわからない衰えた声帯のせいだ。


「狩猟採集を生業にしていた人間という種がずっと籠もりきりでも生存できるのだから、会話ができるハナがいてもおかしくないでしょう」


 筋の通った理屈なのだろうか。屁理屈のように聞こえるが。


「それで、質問には答えてもらえるのかしら」


「……3年、くらい」


 時間の感覚はとっくに薄れていた。室温は常に一定に設定し、季節の変化も感じない。ただひたすらに本だけを読んでいる生活では、時間の概念すら重要ではない。


「そう。まあ聞いたからって、何か意味があるわけでもないのだけれど」


 なら不毛な発声をさせないでほしい。僕にとって会話は、苦痛でしかない。


「でも人を疎んじている、という点は重要よ。良心の呵責など持ってもらっては困るもの」


「な、なんの話を、してるんだ?」


「あなたは『欠き人』となり、人々の心の中に封印されている物語を書き取り、世界が在り続けるために還元していくの」


 かきびと……封印されている物語。


 古典的な方法だが、自分の頬をつねってみる。残念ながら、病院の世話になるときが来てしまったようだ。


「安心しなさい。これは現実。あなたは正常」


「げ、幻覚に正常と言われてる時点で、せ、正常ではないね」


「そうして理性的な判断ができるのだから、話を続けても?」


 布団に潜り込んで耳を塞ぐのも、僕が取りえる数少ない選択肢の一つではあった。


 けれど、自分がすでに狂人であろうと困ることもない。なら面白い夢を見続けるような心持ちで、ハナの話を聞いてみるのも悪くないと思った。


「世界は情報によって構築されていて、それには上限がある。いま世界は、増えすぎた人口と発達しすぎた科学によって……あなたたちの言うところの『リソースが足りない状態』になっているの」


「だ、だから、人間から情報を取り、せ、世界へと還元するって?」


「未知への理解が早いわね。だてに本ばかり読んでいるわけではなさそう」


 顔すらないハナが、確かに笑った。


「見込み通りね。左手を出しなさい」


 言われるがまま、栄養失調寸前の骨の浮き出た手を差し出す。


 ハナは手の上に移動すると一瞬で根を張り、衝撃も痛みもなく離れていった。


「その左手の『欠き手』によって人々の物語を書き取り、世界を在るべき状態へと戻す。それがあなたの使命」


 永久に繰り返されるような毎日。今日もその日々のなかの一日に過ぎないはずだった。


 それが世界の在り方だの、使命だの、ずいぶん足早に激変するものだ。


 いや、変化というものはいつだって想定外に起きるものなのかもしれない。


「どうせ時間はあり余るほどあるのだから、少し考えてみなさい。また返事を聞かせてもらいに来るけど……あなたの答えは決まってるはず」


「ぼ、僕のような人間は、他にもいるのか」


「あなたと対極のことを為そうとしている連中がいるわ。邪魔くさいトリと、カタリィ・ノヴェルという人間。やつらが『至高の一篇』を手に入れる前に、あなたは『絶世の一篇』を手に入れるの」


「その、一篇とやらで、何が起こるんだ」


「世界が、世界中の人々を見捨てる」


 人々から見捨てられた僕が、世界に人々を見捨てさせる。おあつらえ向きだ。


「わ、悪く、ないね」


 ハナの言う通りなのは癪だったけど、確かに答えは決まっていた。


 人々を贄にささげて、世界を救ってみせよう。

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