第2話 命の水と運命の糸

 パチパチと音が聞こえる。何の音だろう。それは心が落ち着く音だった。まぶたを介して光が揺れる。俺はゆっくりと目を開けた。


 その状況はすぐに理解できた。どこか歴史を感じる旅館の一室。畳の部屋は炎に包まれ、赤く赤く燃えていた。熱くはない。苦しくもない。火のぜる音は、このまま聞いていたいほどに心地よく、そこに恐怖はなかった。

 これは俺が幼いころによく見ていた夢。目覚めた後もその内容をはっきりと覚えている不思議な夢だった。


 ここから逃げ出さなければ炎に飲まれる。それはそれでいいのかもしれないが、人間の本能には逆らうことができない。俺は背後にあるふすまを開けた。押入れには何も置かれておらず、床下に隠し通路があるはず。

 かつて見た夢を辿るように、床板に指を引っ掛けて持ち上げた。隠し通路に繋がる階段は、俺が夢で見たまま。ここを降りて通路を進んだ先のことは覚えていない。それまで夢が続いていないのか、それとも起きたときには忘れているだけなのか。


 俺は階段を下りた。そこに俺の意思はない。ただ決められた物語を進んでいるようなものだった。真っ暗な通路も、少し歩けば明かりが灯る。来ていた浴衣の裾を正して、石畳の冷たい道を進んだ。遠くに見える出口の光が、現実との境目なのだろう。


 次第に大きくなる光に包まれて、俺はその先の景色を見た。


「弦木……ごめん……」


 俺の意識は、ここで自我を持ち始める。足はもう動かない。どこかで聞いたことがある声は、今聞けば誰だか分かるかもしれないのにもう聞こえない。その短い言葉は、妙に俺の心をかき乱した。

 俺はじっと立っていた。今回の夢がいつもと様子が違うことは薄々感じていた。そして今、それは確かなものとなった。


 風が頬を撫でる。高い岩壁に挟まれたような、長く続く谷の底に立っていた。右を見ても左を見ても、壁が途切れる様子はない。避けるような遠い空は青く、鳥が自由に飛んでいた。

 どうしてか、記憶にもない景色なのに懐かしいと感じる。俺は思うままに歩き始めた。谷底はツルツルと磨かれたように滑らかで、幾重にも反射した光が体を温める。そこに生き物の気配は感じられず、世界から切り取られたかのような静けさが満ちていた。


 風が吹いてきた。谷底の終わりが近づいている。谷の裂け目を終えて、俺は外の世界へ出た。


 丈の短い草原。黄色や白の花が咲き、鮮やかな青色の蝶が羽ばたく。青く高い空からは温かな光が注ぎ、遠くの山々の頂は雪に覆われている。季節は春。生命の溢れた景色に、自分が失っていた何かが満たされていくように感じた。


 しばらく草原を歩いて、遠くに集落が見えた。近づいても人がいる気配はなく、いつの時代のものか分からない家屋は長い間誰も住んでいないようだった。


「いつもと違う……」


 そこには確かに違和感があった。いつもと違うという感覚があった。いや、いつもとは何だ。俺はこの景色を見た記憶はない。今この場に立っても思い出せていない。だが俺の心のざわめきは消えない。

 集落を歩いても、そこに人影はない。外で遊ぶ子供も、食事の支度をする人も、畑作業をする人さえいない。家の壁には穴が開き、屋根は朽ちて抜け落ちて、道の上にまで瓦が散らばっていた。かつては人が集まり助け合い、にぎやかな毎日を過ごしていたと、記憶もないのに考えてしまう。


 俺が夢を見たのは覚えている限りでも小学生以来。もし忘れているだけで当時ここを訪れていたのだとしたら、それからもう二十年近く経っていることになる。


 カラン……


 唐突に聞こえた物音は小さな小屋からだった。


「誰かいるのか?」


 少し大きめの声で尋ねたが、何も音はしない。俺がそう望んでいたから、聞こえないものが聞こえてしまっただけなのかもしれないが、確かめずにはいられなかった。扉も朽ちてしまって木屑が重なっているだけの入口から顔を覗かせる。人がいる気配のない室内の隅に、一人の少年の姿があった。


「ここにいるのは、君だけ?」


「……そうだよ」


 気配の薄い少年は、少し躊躇うように答えた。色素の薄い灰色の瞳に俺の姿が反射する。


「本当に?」


「本当。ここにいるのは、僕一人」


 ごく当たり前のことのように返された言葉を、俺は受け取ることができなかった。少年はまだ十歳にも満たないほどの年齢ではないだろうか。そんな少年がこんな場所で、一人で生きているだなんて考えたくもないことだ。ただそれが現実であると突きつけるように、少年の体はやせ細り、骨ばった顔からは目が飛び出してしまいそうだった。


「疲れてる? ……水をどうぞ」


 少年は優しく笑い、その細い腕で欠けた茶碗を差し出した。


「それは君が飲みなさい。ちゃんとご飯は食べているのか?」


「お水をどうぞ」


「…………」


 少年は俺の話を無視して細腕をより一層突き出した。毎日十分なご飯を食べて、いかにも栄養が足りている俺よりも、目の前の今すぐにでも倒れてしまいそうな少年の方が、この水を飲むべきだ。そんな分かりきったことなのに、少年が意思を変えることはなかった。


「……いただきます」


 その場に残った重苦しい沈黙と少年の不気味に光る灰色の瞳に俺は負けた。茶碗を受け取ってもなお逸らさない瞳に、俺は水をグイッと一気に飲み干した。常温の水は滑らかに喉を下る。


「……ごめんなさい」


 空になった茶碗を差し出す俺に、少年は今にも泣きそうな表情で呟いた。腹の底に落ちた液体が揺れる。それがじわじわと体に浸み込むように、嫌な汗が額から流れた。毒か、何かの細菌か。少年から手渡されたとはいえ、こんな場所の水を飲めば腹を下すことくらい想像ができていたはずだ。


 やはり断るべきだったと、もやのかかる視界の中で俺は意識を手放した。

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夢に沈む ―俺が求められていることは― 雪鼠 @YukiNezumi

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