夢に沈む ―俺が求められていることは―

雪鼠

第1話 夢への誘い

 ――ブラック企業。

 いわゆる悪質な労働環境や精神的苦痛を、さも当たり前のように労働者に強いる企業のことだ。数年前にその悪質な体制の改善を訴える告発や、過ごしやすい労働環境を謳った企業などがニュースで大きく取り上げられて以来、その言葉は人々の中で定着していった。

 大学院を卒業し、なんとか就職先を得たのが十年前。大きくもないが、名前を聞けば何人かは記憶にあるような会社で、俺はずっと働いていた。


 勤め始めた最初の頃は、これが社会人なのかと、時間に追われる生活を毎日呪っていたほどだ。だがそれも数か月経てば慣れてしまって、今ではこの会社の人事部でその生活を管理する側となった。

 コンビニのお弁当は全て食べてしまって、新商品が出る度にそれを手に取った。だが何を食べても味気なく、栄養を取り入れるだけの行為はもはや習慣として行っているだけだった。


「それ……、新商品ですか?」


「あぁ」


 この会話も恒例となっている。元々会話のないこの部署では、いつもの決まった文言を告げる口しかない。限られたエネルギーを無駄に消費しないためなのか、俺もそのうちの一人だ。

 朝日が昇る時間に家を出て、日付が変わる直前には会社から帰宅する。これは運がいい時の場合で、ひどい時は会社で二日目に突入することだってあった。最近は二日に一度帰ることが当たり前のようになってきたが。それもこれも全て、あいつのせいだ。あいつが原因でこんなことになったんだ。


 この会社は、世間様ではブラック企業として有名になった。それはもうかつてないほどで、こんな短期間で名前を売ったのはある意味、偉業と言えるだろう。

 その対応と環境改善という社長の声が下りてきたから、俺たちの業務は増えに増えた。結果的にブラック企業から脱出するために、よりブラックになったというところだろう。現状を脱するための具体的な施策も示されず、何か提案しても全て取り下げられてしまうこの会社が、問題を解決する力を持っているとは思えない。

 この会社は、最初から終わっていたのだ。


 久しぶりに家に帰宅した。誰もいない小さな部屋。電気をつけることさえ煩わしくて、スマホの画面を床に向ける。ぼんやりとしか照らされない床には一組の布団が敷かれていた。


「はー……」


 長く続く業務をこなすには、息をついている暇もない。ようやく吐いた息には、あらゆる感情が込められていた。

 いったい今、自分が何をしているのか。これから何をしていくのか。自分が進む道の先には何があるというのか。そんなことを考えても終わりは見えず、わずかに残った気力さえも削がれてしまうから、考えることは日常のことへと切り替わる。

 何時に起きれば業務に間に合うだろうか。お金は財布に残っていただろうか。ごみはどれくらい溜まっていただろう。洗濯もしなければ。

 俺の体はブラックな環境に染まっているからか、この暗闇に数分寝転んでいるだけで、頭のスイッチはすぐに切れるようになった。


 三時間は寝ただろうか。自然と目が覚めるようになったこの体は、もう目覚ましを必要としない。


「疲れた……」


 睡眠をとっても疲れているというのは、本当にやめてほしい。夢を見た後はいくら寝ていても疲れが取れないのだ。ひどい時は寝る前よりも疲れている。今回は疲れが取れないだけだからよかったものの、このままだとまともに業務をこなせなくなるだろう。

 もう休んでいる時間もないから、俺はすぐにシャワーを浴びて新しいシャツに着替えた。


「はい。人事部の弦木つるきと申します」


 それは新聞社からの電話だった。取材の電話がここまで回ってくることなどないはずなのだが、こうして上手くすり抜けてくることがあった。外部の人間、特に報道関連の人間を無下に扱うわけにはいかないが、話せることなど一つもない。向こうも仕事として連絡をしてくるわけだから、情報を得るまでは絶対に引き下がらない。この電話のせいで、午前中に終わらせるはずの業務が何一つ終わらなかった。


「弦木、例の書類はまだか?」


「すみません」


 その事情を知っていても、俺の業務は俺のもの。終わらなかったことは俺のせいで、誰も手助けはしてくれない。それもそのはず、人助けができるほどの暇がある人間なんてここにはいない。

 こうして仕事に追われてまた太陽が昇る。栄養補給用のゼリーだけで腹が膨れることはなく、コンビニ弁当が恋しい。ようやく通常の状態まで戻って、また次の日の業務へと移る。


 家に戻るまでの記憶がない。家の布団を目の前にした僕は、無意識のままに倒れ込んだ。

 もう夢は見たくない。何も見たくないんだ。ただ闇の中で、ずっと目を覚ますことが無ければいいのに――。

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