祝福の魔女はまるでブドウ踏みのように

雅 清(Meme11masa)

魔女は女神の祝福を

「祝福が欲しいのなら施しましょう。英雄の力を授けましょう」

 憂いを帯びた女の顔、その口から零れるように出た言葉は男の体を弄った。


 焦げた枯れ木、灰の森で男は魔女と会っていた。

 黒く長く艶のある髪、眠たげな青い瞳、白い肌に浮かぶ紅い唇。黒いドレスは雨でも無いのに濡れ、肩から続く細く緩やかな曲線、二つの膨らみ、腰と括れ……女が如何な体つきをしているかを魅せつけるようだ。


「本当だな。嘘であれば許さない」

「嘘をつくのはいつも人の方。約束も、掟も……まるで初めから無かったように、でも貴方は違う。そうでしょう?」

「そうだ。我輩は違う。騎士の誇りが何よりの証拠」

 男は鎧の上から強く自らの胸を叩いて見せた。

「ふふ、頼もしい御方ね」

 口から洩れる息は寒くも無いのに白く、言葉を紡ぐたび白い吐息は魔女の優美さをより際立たせた。


「主君のためなら、どんな試練、どんな呪いも受ける覚悟」

「戦……でしたっけ? どこだったかしら」

「我が国ビニオンとレイランドの大戦だ。……野蛮な国の名前など、口にするのも腹立たしい」

「あぁ! そうでした、そうでした。ごめんなさい。長く生きていると名前を覚えるのが苦手になってしまうの。どうせみんな無くなってしまうから覚える必要も無いと考えてしまうの」


 そう言って魔女はまるで生娘のような純粋な笑みを浮かべるのだ。

 魔女は騎士の周りを歩き、細い指で優しく黒髪をかき上げ、笑みと蠱惑的な所作が男の心臓を打ち鳴らした。魔女は自分を追いかける騎士の視線を楽しんでいるようだった。


 忌々しい魔女め! 人を惑わす売女めが! 我が国が窮していなければ直ぐに討ち取ってくれるものを!


「まぁ、なんと勇ましいお方。さぞ、お強いのでしょう」

 男の思考は読まれているようだった。つまりは言葉とはうらはらに男が魔女に向ける視線と思いも。

「何も恥ずかしがることなど無いのに」

 悪戯な笑みを小さく浮かべる姿が酷く男の羞恥心を煽り、プライドを傷つけるがそれも構わず魔女は続けた。

「もっと穏やかに……強さとはひけらかす物でなく。内に秘める物でなければ。剣は鞘に収まっている時が一番良い。見えないからこその美しさもあると……。血塗れの剣なんてただの愚かさの象徴でしかない」

「魔女が平和を語るのか、笑わせる」

「あら、魔女が平和を愛することの何がおかしくて? この森だって以前は美しかったのに、それも今は一面の灰……。私が祝福の魔女と言われる所以をご存じ?」

 魔女は地面の灰を愛おしげに掬い、指の間から零れ落ちる様を見ていた。


「興味ないな……何をすればいい? いい加減言ったらどうだ」

 男の苛立った言葉に、魔女はわざとらしく口に指をあて、悩まし気な表情をしながら言った。

「そうですね。私とお遊びしましょう」

「お遊び? 夜の相手でもせよと言うのか」

 魔女は腕を伝う滴を指で弾き、飛沫で鎧を濡らしていく。

「それも悪くないのですが……でも、まぁ似たようなものかしら」

 白い歯を覗かせ、黒い笑みを浮かべる。初めての魔女らしい表情に男は安堵した。目の前にいる者が、人ならざる存在であると確信するに足る邪悪さをもった笑みだからだ。

 歩くたび、服の擦れる音がするたびに体を蝕む胸の高鳴りも、衝動も、全ては魔女が引き起こしている感情だと言えるからだ。


「今日の夜から三日後の朝までの間、私の誘惑に負けず、意思を貫けば約束通り。どんな軍も打ち破る英雄の力を授けましょう。でも指の一本……指の一本でも触れればあなたの負け、交渉はそこで決裂。あなたのお国はこのまま敵国に潰されるでしょう。……そうそう、お相手は続けるのでそこは安心して」

「我輩の愛国心を侮るでない。いいだろう条件をのもう」


 そして魔女は男を先導し灰の森の奥に導いていった。

 前を歩く魔女の左右に揺れる髪、背中、そして腰が嫌でも目に入る。男は深呼吸をして意識を集中させた。国のため、仕える君主のため。これは愛国心と忠誠心を試す試練なのだと言い聞かせ、掻き乱される精神を騎士道で押さえつける。

 時折、魔女は振り返って男に視線を投げかけ、目が合うと、微笑み。男は腰の剣を強く握って睨み返した。


 燃え尽きた白い灰の森の奥、一件の家が見えた。

 石を積み上げた壁に、丸い木製の屋根。魔女の家だと言うのに、こじんまりとして愛らしくさえある。

 奇怪な骨のオブジェや呪術的な文様などの魔女らしい装飾の一切が見当たらない事が返って不気味に感じられた。


 家を囲む塀を境に敷地には鮮やかな草花が生えている。魔法の知識のない男でも結界の類が働いていることはすぐに理解できた。

「もっと魔女らしい家が良かったかしら?」

 またも魔女は思考を読み取ったようで、男は静かに怒りを燃やした。

「ごめんなさい。つい……ね」

 魔の領域、何が起きてもおかしくは無い。男が気を引き締め、敷地へと踏み入る様子を魔女は楽しげに見つめた。


 ドアを潜り抜けると庶民の家と何ら変わりない光景があった。

 火のついた暖炉、木製のテーブルに椅子。木の実の入った木の皿。城で暮らす男には懐かしささえ感じられる。

 男はふと部屋の奥の祭壇らしきものに気が付いた。

 やはり魔女は魔女だ。あれは動物の血肉を捧げる呪わしく、おぞましい祭壇に違いない。

 だが近づいて見てみれば、それはどこの家庭にもある女神の祭壇であった。

「これは何の冗談だ。おまえに信仰心などあるのか?」

「魔女だって人と同じように祈るものよ。少し形は違うでしょうけど」



 夜、遊びが始まった。

 魔女は椅子に座り、テーブルを挟んで男は椅子を出口になるべく近づけて座った。

「そんなに離れなくても」

 蝋燭の灯りだけが二人を照らしている。

 揺らめく灯りに浮かぶのは僅かに開かれた唇と零れる果汁、白い歯。そのさらに奥に艶めかしく蠢く舌。テーブルに手を這わせ、優しく年輪をなぞる様が魔女の背後で怪しい影となって踊っている。

 不思議なことに猥雑さは感じられず、むしろ上品にすら思え、魔力のせいか視線を外すことが男にはできなかった。


 直ぐにでも立ち上がり、押し倒し……想像する自分が許せない。この屈辱! 必ず報いを! ……だが相手は魔女だ。騎士といえど人間、従ってしまうのも仕方のないことなのでは……。逡巡と対立が男の頭を駆け巡っていく。拳を強く握り、唇を噛みしめ、流れる血と痛みに意識を向けさせようと試みるがそれでさえ甘美な快楽に置き換えられてしまう。


 地獄のような夜、次の夜を想起させる絶望的な陽の光。自分の椅子と魔女の座る椅子のほんの数歩の間が途方もなく遠く感じるかと思えば、吐息が体を撫で、体に触れぬように空を遊ばせる手の汗ばんだ熱が掠め、なんともじれったい。

 永遠にも思える夜、男は立ち上がり、迫ろうとする自分に気づいた。だが足は止まってはくれない。ゆっくりと柔肌に向けて手を進ませてしまう自分を抑えられない。このまま……。


「あなたの勝ちね」

 魔女の言葉に男の手は止まり、気が付くと夜は明けていた。

「ここまで忍耐強い方は初めて、ちょっと自信が無くなりそう」

 ばつが悪そうに男は腕を正し、ワザとらしく咳払いした。

「約束の力を――」

 魔女は男を強引に引き寄せ、唇を重ねた。

 瞬間、快感が体を貫き、魔女の唇を通して熱が体を巡っていくのが感じられた。

「――おめでとう、力はあなたものよ」

 男は体内に漲る確かな力を感じ、唇を歪ませると何かを言いかけた魔女の言葉を遮って首を刎ね飛ばした。なんと他愛も無い。

 力を貰ったとなれば要は無い。男は転がる頭と体が灰になるのを見届けてその場を去った。



 騎士の男はすぐに国へ帰らず、その足で敵国へ向かうとたった一人で滅ぼした。

 射られた矢を全て叩き落とし、歩兵も騎兵も等しく撫で切りに。振るう剣は魔剣の如く。鎧は竜の革のように固く。

 返り血に染まる姿は相対する兵から見れば死神そのものであっただろう。


「我が王よ! ご覧あれ! 今やこの国に恐れるもの無し!」

 敵国の王の首を土産に、君主に忠誠を示し、男は英雄となり、一つ、二つとまた首を並べていった。

 周辺諸国を打倒し、蹂躙し、血と屍を積み重ねていくことのなんと心地よいことか。


 それは始まりだった。戦のたびに男は変っていった。

 胸から騎士道は失われ。英雄の凱旋はしだいに恐ろしい獣の帰巣となった。

 征服する国も亡ぼす国も無くなる頃に英雄を指す言葉は死神と同義となっていた。

 王は彼を恐れ、牢と鎖につなぐことを民も願ったが、それは彼の怒りを買うだけであり、忠誠と愛国心を裏切った王と民に牙を剥いた。かつての英雄を止めることなど誰にもできなかった。止められるとすれば、力を与えた魔女だけである。


 怒れる英雄の咆哮、悲鳴と呻き。炎と血に染まる城、首なし従者の並ぶ大広間に魔女は降り立った。

 たくしあげたドレスの裾から白い脚を伸ばし、広がる血溜まりで、ブドウを絞る女のように跳ね。楽し気に何かを口ずさんでいる。


 それは祝詞のりとだった。生命への祝福、全てが大地へと帰ることへの感謝。

 血溜まりは魔法陣の形をなし、周囲の死体をずるずると引き寄せる。

 集められた死体は不快な音を立てながら腐っていく、常人が目撃すればたちまち精神を病む光景。だが、それを心配する必要はない。既に皆、死んでいるのだから。


 

「お話を最後まで聞いてくだされば……肝心なところで忍耐がないのだから」

 黒く腐った塊に指先から垂れた滴が触れると、それを苗床に草木が飛び出すように広がった。

「あぁ、なんと美しいのでしょう。命の循環とはなんと尊いのでしょう。祝福を! 新しい命に、新しい輪廻に! 幾千、幾万であろうとも私が導き、あまさず送り届けると約束します。さぁ命よ! 愛しき命よ! 私の体を依代に広がれ! 広がれ! 地に広がれ!」

 大きな爆発のように広がる花や草木が滅んだ国も、死体も、英雄も、全てのみ込んでいった。

 吐息を漏らし、恍惚とした表情を浮かべる魔女を女神のタペストリーだけが見ていた。

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