その一音を奏でたら

若槻 風亜

第1話


 その日の結奈ゆうなはとても眠かった。昨晩課題を取り組んでいたら思いのほか筆が乗ってしまい、気が付けば午前二時を余裕で回ってしまっていたのだ。午前中の授業は何とか凌いだが、これ以上は耐えられる気がしない。幸いにしてお昼過ぎの一コマ目は空き時間。そして結菜は、絶好のお昼寝スポットを知っている。

「失礼しゃぁす……ビンゴ! やっぱり誰もいない」

 結菜が訪れたのは大学の第三棟・三階の端にある第四音楽室。この芸術大の音楽学部が最も隆盛を極めていた時代に増設されたそうだ。現在は当時より人が減っており、他の音楽室からも遠いので、滅多に人が来ない幽霊教室となり果ててしまっている。

 芸術学部の結菜がこの場所を見つけたのは完全に偶然だった。当時いい構図が思いつかず、学内の敷地中をミイラのように歩き回っていたところ、この場所に行きついたのだ。

 以来、ここは結菜が集中したい時や一人になりたい時、あるいは今のように眠気に勝てない時などに利用している。

「次の授業は二時半だからー……二時にセットしときゃいっか」

 スマホを素早くいじりタイマーをセットしてから、結菜は講義机の椅子をいくつか下ろし、その上に寝転がった。目を瞑れば、すぐさままどろみが訪れ、その意識はあっという間に手放される。


 不意に、結菜は意識の覚醒を感じた。音で起きたのは間違いないのだが、アラームの音ではない。美しい音色が、せせらぎのようにそばを通り過ぎている。

(……これ……ピアノ? あー、そういえばピアノだけ置いてあったっけ……)

 目を開けられないまま、半分寝ぼけて結菜はその音の正体を突き止めた。起きた方がいいかも、と少しだけ思ったが、まだ残る眠気と音の波の心地よさがそんな気持ちをあっという間に霧散させていく。

(……まあ、寝てるくらいなら、いいよね……)

 再び睡魔を受け入れ意識が遠ざかって行った――その時。

 それまで流れるように進んでいた音色が唐突に、音楽は素人の結菜でも分かるくらい音を外した。ゆっくりとした曲調から徐々にテンポが上がってきたところで、予想違いでなければ、本当ならさらに激しくなる瞬間の最初の一音でミスをしたのではないだろうか。そういえば音楽学部の友人がよく「変調の激しい曲は演奏するの大変」だと愚痴をこぼしている。この弾き手も同じなのだろうか。結菜はそぅっと体を起こし講義机越しにそちらを覗き見た。

 ピアノの前に座っているのは女子学生だ。ピアノと難しい顔で向き合っていて、側面でこっそり観察している結菜には気付いていない様子である。

 知らない子だな、と眺めている内に、彼女はゆっくりと今ミスった場所を弾き直した。二度三度それを繰り返してから、両眼を閉じ、数度大きく深呼吸をする。再び目を開けた彼女は真剣な表情でまた最初から弾き直し始めた。

 これは流石に邪魔出来ない。結菜はそっと元の位置まで体を戻し、頭の上に置いていたスマホを手に取る。脇にある小さなボタンを数度クリックし、音声が出ないようマナーモードにした。時刻は午後一時三十四分。流石に授業に遅れるわけにはいかないので二時にはここから颯爽と出て行かせてもらうが、せめてそれまではじっとしていよう。

 決意した結菜は再び目を閉じた。先程の衝撃ですでに眠気は晴れているが、美しい音色は目を閉じた方がより浸れる。

 それから、通しで弾いては失敗して再度練習して、を繰り返していた彼女は、難しい顔で立ち上がった。手慣れた様子で片付けを済ませた彼女が音楽室から出て行って十数秒ほどで、スマホのアラームがけたたましく鳴り響く。



 彼女の名前を知ったのはその次の日。ピアノ専攻の友人に聞いたところ、あんず、というのだそうだ。先日講師が面白半分で出してきた例の曲がどうしても弾けなくて、空いてる時間を見つけてはずっと弾いているという。ピアノは音楽室の他にもクラスの教室や個室があるのだが、そこは人が少なくなっても芸術大学。そこは器楽の花形ピアノ。どうしても取り合いは発生するものだ。そして杏は、どうやらその手の競争が滅法苦手らしい。避けて避けての結果が、第四音楽室なのだろう。

 結菜は逆にその手のやり取りは強い方なので、今度機会があればぜひ杏に教えてあげたいと思った。「次」を待ち望んで、結菜のワクワクは止まらない。コミュニケーション能力が高く、大学では「あっちを向いてもこっちを向いても友達だらけ」状態の結菜にとって、この状況は友人が一人増えるかもしれない楽しい状況なのである。

 次はピアノ弾き始める前にでも声をかけてみよう、と、今日も結菜は第四音楽室に訪れた。中にはまだ誰もいないが、毎日練習しているとのことなのでそのうち来るだろう。待っている間に課題のデザイン画を進めるべく、結菜は壁を背にして床に直に座り込む。行儀が悪いとよく言われるが、床に直の方が集中出来るのだから仕方ない。

 カリカリとペンを動かし続けていると、どれほどの時間が経ったのか、気が付けばピアノの演奏が始まっていた。

「あ、やっば。声かけられなかった」

 ちらりと机の間からピアノの方を覗き込む。やはり今日も難しい顔をしていた。これは今はもちろん、失敗したらその時も声をかけられそうにない。話しかけてはいけないタイミングというものがあることを重々理解している結菜は、再度壁にもたれかかりデザインを描き進める。



 それから一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、三週間が過ぎ、とうとう二か月が過ぎてしまった。杏は前半・後半をそれぞれ練習して完璧に仕上げていたが、どうしても変調部分だけは失敗し続けている。では変調がそもそも苦手なのかというと、そういうわけでもないらしい。指慣らしなのか感覚を取り戻すためなのか、変調が何度も入るような曲を平気で演奏していた。

(苦手意識が出来ちゃってるんだろうなぁ)

 作業着を着て第四音楽室で座り込む結菜は、この二か月間ほぼ毎日見続けた(ストーカーみたいと自覚はある)杏の様子を思い出してそんな予想を立てる。他の曲を弾いている時は非常に悠然としていて、自然体の雰囲気なのに、例の曲になると途端に余計な力が入ってガチガチになっていた。あれでは滑らかに弾けるはずもない。

 もったいない。非常にもったいない。

 全く話しかけられる雰囲気じゃなかった杏に遠慮し続けていた結菜だが、それも今日までだ。もう声をかけないのも限界である。

 準備万端で待っていると、ようやく音楽室の扉が開いた。例の曲を弾いている時の難しい顔で入って来た杏は、ピアノの椅子の上に座っていた結菜に気付きぎょっとして固まる。

「……あっ、ご、ごめんなさい」

 慌てて踵を返そうとした杏を、結菜はすぐさま引き留めた。恐る恐る振り返った杏に、立ち上がった結菜はにっと笑顔を見せる。

「私デザイン科の戸村とむら 結菜。お願いなんだけどさ、いつもここで弾いていた曲、弾いて?」

 単刀直入にお願いすると、杏は口ごもりながらあちこちに視線を彷徨わせた。どう見ても戸惑っている彼女に軽やかな大股で近付くと、結菜は「いいからいいから」とその腕を引く。そのまま杏は半ば無理やりピアノの椅子に座らされてしまった。

「あの、と、戸村さん? 私あの曲はまだ練習中で――?」

 断ろうとした言下、杏の視線があるものに釘付けになる。それはピアノの真正面の壁に貼られた大きな紙。床には新聞紙が広げて敷かれ、しっかりとテープで目張りされていた。新聞紙の上には随分汚れたバケツと大きな刷毛はけがいくつか置かれている。

「さ、弾いて弾いて。私そこで描いてるから」

 杏の背中を軽くぽんと叩き、結菜は紙の前に立った。最初に持った刷毛は青のペンキが入ったバケツに浸っている物。振り向き笑顔で杏を見つめる。あなたの音を待っている、と視線と笑顔で伝えると、杏は戸惑いながらもピアノに座り直した。すでに見ずとも弾けるので楽譜は用意しない。

 ポーン、と最初の一音が奏でられ、その余韻が消えると同時にいつもの流れるような音楽が奏でられ始める。それに応じ、結菜も刷毛を取り出し紙に走らせた。デザイン科ではあるが、絵を描くのだって好きなのだ。特に、こういう大きな紙に全力で、自由に描くのが。

 杏にも、そんな風に自由をこの曲の中に感じて楽しんで欲しい。それが結菜の願いだ。彼女は楽しめるはずなのだ。何せ、彼女は他の曲は穏やかな笑顔で弾くし、激しい曲は普段とは違う強気な表情をしている。彼女の努力が報われるには、きっとその楽しさが必要なのだ。

 結菜はこの思いを伝えたい。伝わるはずだ。畑は違えど、同じ芸術を愛する者なのだから。

 音楽に合わせ、結菜がこの音楽に感じた印象を次々に紙に映していく。最初は青。せせらぎのような穏やかさ。いずれ森に行きつく。緑と黄緑。赤とピンク、オレンジは花畑。自然の穏やかさがこの曲の前半。

 さあ、ここから。

 結菜は刷毛を黄色のペンキに入っている物に持ち替えた。変調は雷。嵐の幕開け。激しく、恐ろしく、しかし美しく、響き渡るのだ。

 刷毛がジグザグに紙を力強くなぞる。その背後では、いつもそこで止まっていたはずの音が躊躇いもなく続けられた。伝わった。伝わった! 抑えきれない笑みをこぼし、結菜はさらに激しく筆を振るう。音楽が鳴り終わる、その瞬間まで。

 長いようで短い時間が過ぎ、最後の一音が奏で終わると共に刷毛の動きも止まった。全力を出し切った結菜は激しい呼吸を繰り返し肩を大きく上下させるが、その表情は満足げだ。

 振り返る。ピアノの前では、杏が放心し目に留まらない涙を流し続けていた。その様子に、結菜はさらに笑みを深くする。

「おめでとう」

 心からの一言を告げれば、杏は堰が切れたように声を放って泣き出した。女の子の涙は嫌いな結菜だが、これは悪くない。満足げに、結菜は大きく歯を見せる。


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