エピローグ 第20話 エピローグ
干拓された土地には、三国を始め、多くの越の民が移り住んで稲田を開いた。しかし、ただちに豊かな稔りがもたらされたわけではない。湿田(しつでん)の耕作は容易ではなく、土堤を築き、用排水路を掘って乾田(かんでん)に変えてゆくには時を必要とした。ここにもテヒトたちの活躍があり、充分な稔りをもたらすまでに五年が経過した。干拓地に住んだ人々は白山の神を崇めた。その中にはもちろん、オオドから約束どおり鋤と鍬を与えられた女の姿もあった。それからもう一つ、雄島の長の占ったとおり、三国崎沖の魚介が以前に増して豊漁であったことを付け加えておこう。新墾田(あらきだ)の生産力の増大を見きわめた後、オオド王は坂中井の平野を望む松岡の東の山腹に亡きツヌムシ王の墳丘墓の築造を開始した。
一方、倭ではワカタケル大王の死後混乱が続き、呪力を持った女王が即位した。巻向や旧葛城の勢力との妥協を図ったのであろう。ワカタケルの新しさへの反動であったかも知れない。この後、一人ないし二人の王の即位があったが、倭の混乱は収まらなかった。
三国崎で神に感謝の祈りを捧げてから二十五年後、オオド王は河内の国葛葉(くずは)の宮で即位し、大王となった。継体(けいたい)大王の出現である。六世紀初頭、オオド五十八歳の時のことであった。
記紀では、継体の前の天皇を武烈(ぶれつ)としている。武烈天皇の死後、跡継ぎの皇子皇女がいなかったため、大伴金村(おおとものかなむら)らが応神天皇の五世の孫オオドを三国へ迎えにいったと『日本書紀』は記す。『古事記』の方には誰が迎えにいったという記述はなく、オオドの本拠も「近つ淡海(おうみ)国」と異なっている。ちなみに、「天皇」の称号は、後の天武天皇以後のものとされる。武烈は、『書紀』の中で類型的な悪王として描かれるだけで全く実在感がない。中国古代の夏や殷の国が亡びた時の伝説的な悪王の焼き直しではないか。雄略天皇(ワカタケル)の残虐な部分の戯画という見方もできる。それも縮小された戯画であり、生き生きと描かれる雄略とは、存在感の点で全く異なる。実在の疑わしい悪王武烈を前に置き、聖王継体と対比させる『書紀』の作者は、古代中国の例に倣(なら)って新王朝の創始を暗示しているのであろうか。『書紀』によると、傍流の継体天皇が手白香(たしらか)皇女を皇后とし、欽明(きんめい)天皇を生むことで、前王朝の血脈が継承されたことになっている。手白香皇女は仁賢(にんけん)天皇の娘で、雄略天皇の孫に当たる。
雄略に先立つ時代、倭の王は世襲されたものでなく、交替していることが、前方後円墳の研究から明らかにされつつあるようだ。首長連合内で、特定の首長の力が強大になることを避ける仕組みでもあったのだろう。この流れからすれば、畿内の外からというのが異例であるにせよ、新王朝の大王が倭で擁立されるのは、ありえないことではない。継体の即位には、倭の各首長の上に世襲の大王が君臨する専制的体制に不安を抱き、雄略より前の状態に戻そうとする力が働いていたように感じられる。ところが実際は、これらの首長たちの思惑に反し、継体から欽明へと続く王朝は雄略大王の政策をおおむね踏襲し、さらに推し進めていったように見える。
継体の場合、記紀が述べるように応神(おうじん)天皇の五世の子孫であったために即位したのではなく、東アジア情勢の激動の中で、自他共に認める実力によって大王となったのだと作者は考えている。五世の子孫と言えば、どれほどの数に上ることか。倭にはもっと血の濃い大王の候補者がたくさんいたはずである。継体は葛葉(くずは)の宮で即位した後二十年間も倭に入らず、筒城(つつき)の宮、弟国(おとくに)の宮と倭周辺を転々とする。このことは歴史上の大きな謎とされている。倭入りに際し、反対する勢力との間に戦闘があったのか、なかったのかを含め、継体大王出現の詳細な経過はいまだ明らかにされていない。 (完)
水の王 -継体大王伝説ー 宗象二郎 @munakatajiro
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