第19話 龍よ 北ツ海へ
二年目の秋の穂摘みが終わった頃、近江の三尾の加多夫(かたぶ)の君から横山の宮廷へ使いが来て、二つの大事件を伝えた。倭のワカタケル王が死んだというのである。オオドは衝撃を受けた。倭で強烈な印象を与えた王の死を使いの口から聞いたとき、声が出なかった。そして、あれから自分が常に心のどこかでワカタケルを意識して考え行動していたことに気づいた。使いは大王が崩じられてからまだ一月も経っていないはずですと言った。
もう一つは百済の文斤(もんこん)王が死んだ後、倭で会った昆支王子の第二子が百済へ渡り、東城(とうせい)王として即位したという出来事である。オオドは文周王がすでに亡くなっていたことを知らなかった。事件としてはこちらが先で、ワカタケルの支援があったという。夏の初め頃のこの外交上の決断を最後の仕事としてワカタケルは逝ったことになる。オオドはやはり昆支(こんき)王子自身は王にならなかったのかという感慨を抱いた。同時に那弥率に早く伝えてやらねばと思った。
オオドは自分のことを心に留め、事件を早速報せてくれた加多夫の君に伝える感謝の口上を述べ、その晩使いをもてなした。
翌日、朝早く那弥率を呼んで事件を伝えると、「そうですか」と静かにうなづいた。
「あのまま昆支王子の元にいればよかったと、残念に思わないか」と、オオドが問うと、
「倭で昆支王子にお会いしてから、過ぎたことをああしておけばよかったというふうに考えることはやめました。それに昆支王子が倭におられる限り、百済へ帰りたいとは思いません。オオド王に付いていれば面白いことがありそうだと王子がおっしゃった意味も近頃わかってまいりました」と、淡々と答えた。
オオドは百済のテヒトたちに故国に生じた変化を報せてやるようにと言った。那弥率はうなづいて退室した。
その年の工事が近づく頃になると、オオドは今年は人が集まらないのではないかと不安になり、微服して竹田川の河口に足を向けることが多かった。特に今年は洪水が多く高向も久しぶりに被害を受けた。夏の終わりの豪雨で増水した黒龍川の濁流が瑞穂の堀江をあふれさせ、稔った新墾田(あらきだ)が冠水したのだ。黒龍の神が工事を怒っておられるのだという巷の噂も耳に入っていた。
ある日オオドは川の南岸を歩いていた。中州の竪穴住居の前にはずっと畑が作られ、大根やごぼうが育っている。工事の時の野菜の足しになるよう坂中井の民たちが耕し、夏播(ま)いたものだ。築かれた土堤が潮風と砂を防いでくれるせいか、葉の伸びは順調のようである。
竹田川で洗濯をしている中年の女がいた。よく太った陽気そうな女である。女の方でもオオドに気づいて、声をかけてきた。王様ではないかというのである。オオドがそうだ、どうしてわかったと問うと、昨年工事が始まる時オオドの話を近くで聞いたからだという。いろいろ尋ねるうちに、女が身寄りがなく、工事以外のときもこの宿舎に住み、テヒトたちの身の周りの世話をして毎日の糧を得ていることがわかった。テヒトたちは春からずっと土堤の補強を行い、次の工事のために導溝を掘って土堤の雛形(ひながた)を築く作業を続けていた。農閑期には多数の高向の若者たちが加わった。女は「にぎやかになる工事の時期がもうすぐやってくるのが待ち遠しい」と言った後、
「何かあの時とは別人のように元気がないがどうしたのかね」と、気さくに尋ねた。
オオドが、今年は人が集まるか心配なのだと正直に告白すると、神様の声を聞ける人が何を気の弱いことを言ってるのかと叱られた。女が言うには、雪と共に暮らす越の人々は粘り強い、変に先を見ていったん始めたことをたやすく投げ出すようなことはしないというのである。「大丈夫だ、心配しなくていい」と励まされて、オオドはお礼を言った。別れ際に、自分も新墾田(あらきだ)を耕せる日を楽しみに待っているから、王様も元気出しなさいよと笑った。オオドは、沼が干て開墾が始まるときには女に鋤と鍬を与えようと約束して帰った。
黒龍の沼に向かって続く二本の長い橋の上を、老若男女がぞろぞろと歩いてくる。山手組は東側の土堤を、中洲組は西側の土堤を、工事の行き帰りに踏み固めて歩くことになっているのである。高い土堤を歩きながら、自分たちの成し遂げた仕事の大きさを実感して、新たな意欲をかき立ててもらおうという秘かな狙いもあった。土堤は枯れ草に覆われ、両脇の斜面に植えられた柳の木が育ち始めている。土を掘り採られた土堤の内側はまた一面の枯れ野原に戻っているが、来年の春には満々たる水を湛(たた)えて流れているはずであった。
工事は予定の最後の年を迎えていた。女の言葉どおり、オオドの心配は取り越し苦労に終わり、多少の増減はあっても毎年工事に必要な人員を確保することができた。顔見知りが多くなったことからして、この工事は常連の民によって支えられているようであった。工事の当初、毎年同じ距離だけ掘り進む計画が立てられていた。ところが、実際は落差五尺(約百五十センチ)の勾配をつけるわけだから、いくら起伏があると言っても、徐々に掘削は浅くて済むようになってくる。年を経るにつれ工事は速度を増しつつあった。掘削はあと沼の半月弦の北端と新水路との間の一段と高くなった砂堆(さたい)を余すのみとなっていた。充分な余裕を持って掘り取れるはずであった。
ただしこの二年ほど、工事は良く言えば熟練、悪く言えば惰性で進んだようなところもあった。それに比べ、今年はオオドの周りやテヒトたちの間に張りつめるものがあった。それは工事が予定どおりに終わるかという心配ではなかった。皆の心に覆い被さっているのは、沼の水がうまく抜けるかという不安であった。沼の水位を下げなければ、境界部分の掘削作業ができないのである。砂州を切って水を抜くことになるが、この作業が無事に終わるだろうかという一事が、皆の心に引っかかっていた。
男たちの不安は口には出されないものの、敏感な女たちにも伝わるものである。大きな事故もなく進んできた工事に初めて影が差したと言ってもよい。爆薬もないこの時代に、初めから計画された堰(せき)を切るならともかく、膨大な量の水を自然物である砂州を切って排水するのである。誰一人として、どうすれば無事にこの作業がやり遂げられるのかという見通しを持っていないのが現状であった。
そんなとき、水に苦しんできた氏族の暗い記憶のように、「生け贄(にえ)」という言葉が皆の心に浮かんできた。この言葉を母の振媛から聞いたオオドの怒りは激しかった。もちろんオオドの幼い日の出来事を鮮やかに覚えている振媛は、オオドがこの言葉を忌み嫌っていることを充分過ぎるほど承知しており、自分が生け贄になろうなどと考えたわけではなかった。振媛は、目の子媛がそんなことを考えているのではないかというのだ。オオドは仰天した。
翌日工事現場へ出てから真佐手やヨシヒトにその話をすると、「なるほどそういうことでしたか」と、二人は合点がいったという顔をした。このところ、サキもマナゴもそれぞれ夫に何か物言いたげな素振りだというのである。オオドは暗澹たる気持ちになった。自分がこの工事で目指してきたものは、その忌まわしい言葉と正反対のものであった。どこが正反対かはっきり言えないが、思い描く坂中井の未来はもっとほがらかなものであってほしいと願うのである。白山の神が生け贄(にえ)を求めるなら、贄(にえ)となるのは王の役目だという気持ちは心の奥底にあったが、それは最後の手段である。この工事は犠牲に頼らないことを指針として進んできたという誇りがあった。オオドはそうした自分の心情の綾は包み隠して、
「女たちは何を考えているのか。しかし、生け贄などという言葉を甦らせた我らも責められるべきかもしれない。砂州を安全に切る方法を決めるのが、早道であろう」と、言った。二人も同感で「おっしゃるとおりです」と、うなづいた。早速三人は工事現場を後にし、主だったテヒトたちと共に二艘の舟で砂州へ向かった。工事の間、テヒトたちと行動を共にしている那弥率の顔も見える。
砂州へ近づくのはタカハチの反乱以来であった。あの時と同じように暗い空と海は怒っているようで、舟は木の葉のように波にもまれた。飛沫(しぶき)が衣服を濡らす。言うまでもないことだが、砂州は完全に黒龍川の水を封じ込めたわけではない。砂州の低いところが河口の代わりを果たしているのである。このため、黒龍川の水量が多いときも少ないときも沼自体の水位は変わらない。大雨が続いた後、海上から砂州の方を眺める人は、黒ずんだ長大な滝となって海に注ぐ異形の魔物の姿を見ることになる。しかし今、砂州は少雨の時期を迎えて、少ない川の流量に見合った水を穏やかに排出している。この沼自身が保っている絶妙の均衡をこれから人が崩そうとするのである。皆を圧迫する不安の源はここにあった。意識していなくても、砂州を切った瞬間殺到してくる水の影に等しく怯えていたと言えよう。
「とにかくあの箇所には手が出せないということです」
沙加手が滝を指さして言った。流れのある所を切れればそれが最も手っ取り早いのだが、水中でその工事をする技術がないのである。
「ほかに砂州の薄い所がないか捜しましょう」という沙加手の言葉で、舟を着けた。
砂州を登ってから、一同は頂上を歩いて、崩すのに適当な場所を捜し歩いた。那弥率が砂州の内側まで下りて熱心に見ている。
幸い現在の流出箇所より開口予定箇所に近い所に、砂の壁の薄そうな部分が見つかった。幅十五尋(二十メートル強)に渡って続いており、テヒトがあちこちで水際の深さを測ってみると、どこも七尺(約二百十センチ)前後であった。
「遠浅でなくて崩しやすい」と、沙加手の顔が明るくなった。
「とにかくここの壁を崩すしかありません。方法は館へ戻って考えましょう」
オオドの胸に希望のようなものがふくらんだ。
三国館と名の変わった客殿の一室で、沙加手を中心に会合が行われていた。時々サキとマナゴが様子をうかがいに来る。今議論の中心は砂州を内側から切る水中工事を選ぶか、外側から切る通常の工事を選ぶかということであった。
「蛇籠(じゃかご)を積み重ね足場とし、命綱をつけて作業すれば、内側から切った方が危険は少ない。外にいて水と共に崩れる砂の壁に当たって跳ね飛ばされれば、まず助かるまい」
と水中工事を主張するテヒトがある。蛇籠は竹籠に石を詰めて沈めるのである。一方、
「いや、この寒い時期に水中の工事では、なおさら鋤も思うように使えないだろう。第一、水中にいては崩れる瞬間がいつなのかがわからない。それでは逃れようがないではないか。砂州の頂上に登り、両端から加減しながら崩していく方が安全だ」と、外側からの工事を主張する者もあり、結論が出ない。
話を聞いていて、どちらが危険が少ないかという議論になっているのは、裏を返せば、どちらを選んでも極めて危険なのだということが、オオドにもわかった。
しばらく激論が続いて膠着状態になった頃、ヨシヒトが、
「水そのものの力を使うのです」と、言った。
「壁を崩してしまうのではなく、小さな穴を空け、水の押す力で穴が拡がっておのずと崩れるのを待つのです。これなら、我々は悠々と砂州を離れられます」
「ヨシヒト殿、よくぞ考えつかれた。蟻の一穴(いっけつ)堤を崩すという宋の国の古い言葉があるそうじゃ。我々工事に携わる者が最も恐れることを、うまくひっくり返されたな」
と手を打った沙白の言葉で、工事の姿が思い描かれ、一同ヨシヒトの提案が優れていることを瞬時に理解した。
議論は、実際に幾つの穴を壁のどの部分に空けるかという問題に移った。七尺(約二百十センチ)の水深の底の部分になるべく近いところを狙い、今日見当をつけた箇所の両端を切れば、壁の崩壊はしだいに伝わって十五尋(二十メートル強)に近い幅を切れるのではないかという結論になった。どのくらいの大きさの穴が蟻の一穴になるのか、これだけは誰にもわからなかった。
最後は誰が穴を空けるかという話になった。まずヨシヒトが、
「私の発案だから言うわけではありませんが、この作業にも多少の勇気が必要です。漏水を確かめるまで掘り崩すのは、けっこう胆力がいるでしょう。もちろんこれは気持ちの持ち方次第です。水の性質とこの工法の道理を知っている者には何でもないことでも、知らない者は怯えずにはいられないはずです。そういうわけで、これは工事の民たちには任せられませんので、よく呑み込んでいる私が行きます」と、先手を打った。
もう一人を誰にするかでもめた。もちろん、押し付け合ったのではなく、口々に自分にやらせてほしいと言い合ったのである。詳細は省くが、話し合いのなりゆきを見ていたオオドは、「吾が決めよう」と言った。
オオドが指名したのは意外な人物であった。それは那弥率である。那弥率の胆力を買ったのは言うまでもないが、ほかの者たちと違った風変わりな志願理由を聞き入れたのである。那弥率は「漢城を奪回する戦いをするのが、今までの自分の生きる目的であった。しかし、得啓の舟で韓へ帰らないと決めた時、それはもう諦めた。一度その戦いに匹敵する仕事をして、自分の次の生き方を見つけたい」というのである。那弥率の言い分が、他のどのテヒトとも似ていなかったためか、オオドの決定に誰も異存はなかった。
「役割は決まった。明日は吾が祓(はら)いに同行する」
オオドの一言で会合は終わった。
目の子媛のことが気にかかるオオドは、三国館で二人が居室としている部屋に戻ってみた。不在であることが予めわかっていたような気がした。次に厨房をのぞくとサキとマナゴが座り込んでいた。ただ事ではない気配を察したオオドは、
「后はどこへ参ったのか」と尋ねた。
同時に顔を上げた二人が声を殺して泣いていたことがわかった。
「存じません」
マナゴが消え入るような声で答えた。
「そなたたちが生け贄の相談をしていたことは知っているのだ。隠さずに言ってもらえまいか。事は急を要する、頼む」
顔を見合わせた二人の困惑と煩悶が伝わってきた。しばらくしてサキが決心したように言った。
「お后様はまことに行き先を告げずに出ていかれたのです。私どもが付き従うことを固く禁じられて……。これは后のつとめとおっしゃった日、私どももお供をして三国崎に登りました。お后様は断崖の際までお運びになって、海に向かい一心に祈っておいででした。申し上げられることはそれだけでございます」
外出を真佐手に伝えるよう言い置いたオオドは、断崖へ向かった。もはや間に合わぬかもしれぬが、できることをしてみるしかない。自分は目の子媛を失うことになるのか。女たちの生け贄の話を聞いた時に芽を摘んでおくべきだったと悔やむ気持ちもあった。目の子媛との楽しい思い出が次々と浮かんでくるのは、よくない兆しではないのか。坂道を駆け上がるように急ぐオオドには、左手に広がる海の眺めさえ目に入らぬも同然であった。
目の子媛が本当に死に場所として選びたいのは雄島であろうとオオドは思った。ただ雄島は舟なしに行ける所ではない。そもそも異族の聖なる島を血で汚すわけにはいかないし、入水するとすれば行方のわからなくなった目の子媛を皆が捜し回るという愚かな行為になり果ててしまう。やはり行き先は三国崎しかない。
坂を登り切ると広く平坦な草地に出た。枯色の中に思いのほか青さが残っている。今度はなだらかな下り坂が始まる所まで一気に駆けるオオドの全身から汗が噴き出した。
空と断崖の境目の辺りに白いものが見える。目の子媛の衣の色であった。オオドは走るのをやめ、息を整えながら近づいてゆく。
ひざまずいて祈っている目の子媛の姿が確かめられる岩場のところで、オオドは叫んだ。
「愛しき妻よ、生け贄はいらぬのじゃ。黒龍川を海とつなげるのは神が望まれたこと、早まるでないぞ」
目の子媛は伏せていた頭を上げて振り返った。何が起こったのかわからぬといった緩慢な動きである。だがオオドが来たことを認めると、ひざ立ちのまま上半身を海の方角や左右に泳がせた。
妻の迷いを読み取ったオオドは大股で近寄っていく。立ち上がった目の子媛は両手を伸ばして制止の姿勢を示す。
「おいでになってはなりませぬ。危のうございます」
かまわずオオドが歩を進めると、「来ないでッ」と叫びながら、小走りに近寄り夫に抱きついていた。
オオドは強く抱きしめて耳元で繰り返した。
「この度の開口は神の御心に従って行うこと。生け贄はいらぬのじゃ」
目の子媛はオオドの胸でうなづいた。
しばらくして泣きはらした目の子媛のほつれ髪を直しながらオオドは問うた。
「なぜ生け贄になろうと思ったのじゃ」
「私のうぬぼれでございます」
「………」
「私にとって君は命よりも大切なお方。神に願いを聞き届けていただくためには、王の最も大切なものを捧げ奉らねばならぬと思ったからでございます」
「たしかにそなたの言うとおりじゃ。そなたを失って生きることなど、吾は思い浮かべることすらできぬ。けれどもう心配しなくてよい。今日の会合で知恵を出してもらい、安全な水の抜き方が見つかったのじゃ」
オオドは妻の眉根から涙に濡れた目もとの辺りを、いとしげに見て言った。
「私の心得違いでございました」
目の子媛の顔が泣き笑いになった。
夕刻近い三国崎の巌の上から戻りかけた時、オオドは初めて自分の体に今日は変調のないことに気づいた。
その夜、床に入ると目の子媛は「大丈夫でございますよね」と、オオドに念を押した。
「大丈夫でなければ、家臣たちにやらせはせぬ」とオオドが答えると、妻はこっくりうなづいて、強く手を握った。
砂州の切開箇所を避けたところに舟が留まっている。いつでも海に出られる向きである。沖には万一に備えて救助用の舟が浮かんでいる。
オオドは砂州に生えている葦の穂を数本折り取って束ね、黒龍の沼に向かって祓(はら)いをした。手前の砂地は先程撒(ま)かれた粗塩(あらじお)でほのかに白い。
切開する砂州の両端に、ヨシヒトと那弥率が鋤(すき)を握って立っている。「始めよ」という沙加手の声で二人は斜面を登り、沙加手のつけた印に鋤を突き立て掘削を始めた。斜面に対しほぼ垂直にくさびを打ち込むように掘るのである。円錐を逆さにした穴を穿(うが)つと言った方がわかりやすいかもしれない。沙加手が二人の間を行き来して作業の進行速度を調整する。砂地なので作業に困難はないが、掘り始めの部分は広いため、ちっともはかがいかないように感じられる。
祓いを続けるオオドには時の経つのが遅く思われた。神を念ずることのみに集中しようとするが、様々な思いが浮かんでは心をかき乱す。「大丈夫でございますよね」という目の子媛の声がよみがえる。「大丈夫だ」と断言したオオドも、実のところ切開の帰趨(きすう)について予想がつかないのである。勿論いささかもヨシヒトの言う道理の正しさに疑いを抱いているわけではない。けれど、人の想像をしばしば易々と超えてしまうのが、猛々(たけだけ)しい水の力だったからである。目を閉じたオオドの前に、様々な人の顔が浮かんだ。ワカタケル、ツヌムシ、三国崎で身代わりとなった守り役、目隠しのまま黒龍川の濁流にかき消えていった幼い娘……これらの顔が浮かんでは消えるのは、己の命が尽きようとしているのかという想念がふと掠(かす)めた。そして、生け贄となって水底に沈むことを歓ぶ気持ちさえ、心のどこかにあることに驚いた。砂を踏みしめる足がかすかによろめいた。そのまま沈み込んでゆくような危うさを覚えた。
ーー弱き吾に力を。
オオドはかっと目を見開き、葦の穂を強く左右に振った。
どれくらいの時が経過しただろう。右手のヨシヒトの穿つ穴は、奥に進み狭まるにつれ、成長を早めた。槍のように操られる那弥率の鋤は、速度を上げて壁を突き刺す。ヨシヒトの鋤が突然手応えを失ったとき、冷たい噴水が思いがけない強さでほとばしって顔を払った。
「空いたぞ」というヨシヒトの大声で、四人は全力で渚を走った。どちらか一方でも穴が空いたら逃げる手はずになっていた。
舟を漕ぎ出してから、初めて砂州の方を振り返ると、ヨシヒトの穿った部分はすでに太い水流となって流れ出していた。
「仕損じた」と、那弥率がうつむいたまま舌打ちした。
「あれを見よ」と、オオドが指さす方向を那弥率が眺めると、手前の自分が掘っていた砂州からも細い噴水が上がっているのがはっきりと見えた。
海上で待つ一同の耳を揺るがす地鳴りのような音がして、彼方(かなた)の砂州が崩落を始めた。出現した新たな滝はしだいに幅を広げ、次々と砂州を削って両側へ伝ってゆく。やがて追いかけるように始まった此方(こなた)の崩落とつながった時、水の壁は波のように海を這(は)った。轟(ごう)音(おん)に揺さぶられるオオドの背筋を冷たいものが走った。圧倒的な水の嵩(かさ)と勢いに畏怖を覚えただけではない。なぜかその時、頭(かしら)を打ち落とされて首からおびただしい血を流す龍の姿が重なったのである。
魔法でも使ったように沼の水位は低下していった。やがて、いたる所で底の土が顔を見せ、出現した龍の姿に人々は長年の疲れも忘れて工事に励んだ。
次の年、越の山々の雪が解け始める頃、工事に携わった宮人たちは三国館にいた。新川(しんせん)を流れてくる水を迎えるためである。この時オオドは三十三歳になっていた。テヒトたちは、切開した砂州が冬の間にほぼ元に戻り、雪解けで増水する翌春、完成した新川に流れを見ることになるだろうと予測していた。
ある朝、オオドは目の子媛に揺り起こされて目を覚ました。
「流れていますよ」
晴れやかな笑みを浮かべて目の子媛は夫の手をとった。オオドは急いで起き上がり、館から飛び出した。
すでに目の下、三国崎の麓近くには人だかりがしており、彼方の新川を朝日に輝く雪解けの水が静かに流れていた。川いっぱいの豊かな水量である。
「とうとう仕遂げられましたな」
目を真っ赤に泣きはらした真佐手が駈け寄ってきた。二人はしっかりと抱き合った。
「皆のお蔭じゃ」
「よく粘られました。ご自分の夢を民の夢にまで育てられた君のお志の力です」
館から出て成長した二人をまぶしそうに見守る振媛、工事を束ね、夢が真(まこと)に変わる様をまのあたりにしたヨシヒト、異国の地で今新川の土堤を点検して歩くテヒトたち。水の流れを見つめる者たち皆に、それぞれ込み上げて来るものがあった。
オオドは生まれ変わった黒龍川から吹いてくる微かな風を感じた。その風は、まだ雪に覆われた遙かな深山の香を運んでくるようにも思われた。
春光の下、オオドは三国崎で神に感謝の祈りを捧げた。高く突き出した断崖の下には光に溢れた北ツ海が見える。傍らで目の子媛が箏(こと)を奏でた。工事の時、三国の民が歌ったあの曲である。オオドはまず東の白山の方向を拝礼し、次に南の方黒龍川、最後に北西に広がる北ツ海を深々と拝礼した。后の奏でる箏の音(ね)は、天高く昇った。
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