第18話 大築堤

 目の下の渡し場に人が蝟集(いしゅう)している。子供の姿も少なくない。竹田川の岸から岸を舟と筏(いかだ)が忙しく往き来し、対岸へ渡った人々は、勢いのある足取りで南に向かう。川の向こうの家々から吐き出された人々は、後ろから来る人に追いつかれまいとするかのように足取りを速める。目を少し遠くに転ずると、枯れ野の中にすでに幾つもの人の塊ができている。黒龍の沼は靄(もや)でかすんでいる。

 今日が工事の初日であった。振媛と目の子媛は、客殿の窓から眺めていた。まだ煙の立ち上っている家も見られる。二人の脇にはサキとマナゴの姿もある。横山の宮廷は工事の間、三国の津へ引っ越したも同然であった。昨夜の首長たちの接待に始まり、今朝は早くからカマドで米を炊き、先程男たちを送り出してほっと一息ついたところである。

 会盟から一年の準備期間があり、不充分なところは残るものの、ともかく工事に漕ぎ着けることができた。三尾氏の民は約八百人が集った。異族の首長たちの協力ぶりも予想を超えていた。特に足羽氏は二百人もの人を送ってきたのみならず、その数に相当する食糧まで届けてきた。他の氏族の民が合わせて百である。オオドが願う三国の民皆による工事の行く手に、明るい光が射したように思われた。オオドは最初自分も民と同じ竪穴の家で生活すると言い出したが、真佐手に「この工事が、王の受けた神託の権威に依って成り立っていることをお忘れなく。王が隣の土穴の家から出てきてお早うと言ったら民はどう思うでしょうか。親しみを感じるとでもお思いですか。それはこの工事では何の役にも立ちません。高殿で白山の神の祭祀にお励み下さい」と手ひどくたしなめられて、客殿で生活することになった。今朝は早くから神に工事の無事を祈り、鍬入れで民に詞(ことば)を与えるために出かけていった。これは指北の助言から自らが考えて決めたことであった。首長たちには会盟で工事の意義を話したが、直接に民全体の意気込みを鼓舞しようというのである。「父君は今朝はそわそわしていらっしゃったね」というのが、二人の王子の感想であった。

 工事現場では首長たちによる祓いが済み、オオドが高さ四尋(約六メートル)ほどの土堤の上に立っている。この土堤は、昨年の冬からテヒトたちが高向の男たちを使って築いてきた雛形(ひながた)のうちの一つである。土堤の前には掘削された三尋(約四メートル五十センチ)幅の溝がずっと走っており、二百尋(約三百メートル)彼方の対岸には瓜二つの土堤が小さく見える。溝の両側の茅原に立ち並ぶ千人の民は、自分たちがこれから取りかかる構築物の姿を眺めている。この大事業に加わっているのだという高ぶりが、人々の顔を等し並みに活気あるものにしていた。

 やがてさざめきが引き潮のように止むと、オオドの演説が始まった。

「三国の民よ、そして越の民よ」と、オオドは高めの声でゆっくり語りかけた。

「我らは黒龍川を離れて生きてゆくことはできない。古(いにしえ)より我らの祖先は黒龍川の恵みを受け、また黒龍川の怒りに怯え、しかしこの三国の地を離れず生きてきた。我らもまた祖先と同じである。昨年吾は川を遡って白山の山中に至り、水源の神を坂中井の神としてお祭りすることを神に誓った。湧き水のほとりで白山の神は吾に御(み)心を明かし給うた。『汝、竹田川のほとりの玉を掘り出すべし。しからば、我海龍とならん。』これがその御心である。吾は黒龍の沼の口を開き、澱んだ水を海に流すことが神の御心に叶(かな)うと占った。流れゆくのが水の姿である。三国王国の各首長も力添えを約束し、千余の民がこうして集(つど)っている。水の下からやがて姿を現すであろう肥えた土は、三国の民への龍神の恵みである。やがて我らに豊かな稔りをもたらしてくれるであろう。沼が消えて漁(すなどり)の場を失う海人(あま)の民に、龍神が豊かな海の獲物をもたらして下さることを共に祈ろうではないか。しかし、吾は三国の民に伝えねばならぬ。白山の神はこれから我らを悩まさぬとは約束なさっておられぬ。荒ぶる姿も恵みの姿も等しく受け入れて神を祭り、黒龍川と共に暮らそうではないか。我らの命の源たる、白山の神を祭る越の民はひとつである」

 千人の人々にその肉声は届いたかどうか。この後、オオドが鍬を振るって、工事が開始された。オオドはそのまま工事を見ていたかったが、その日は我慢して引き揚げた。神の詞(ことば)を伝えたものがあまりその辺りをうろうろしていては、効果が今ひとつということになるからである。やはり演説などせずに、自分も鋤で土を起こしている方がよかったというのが本音であった。

 掘削は新流路の下から上へ向かって行われた。満ち潮の時、竹田川河口の脇の部分まで海水が浸(ひた)す。その高さを基準として、沼の開口部までの長さ七百尋(一キロメートル強)に対し、落差はたった五尺(約百五十センチ)の水路を掘るのである。目で見てもほとんどわからない程度の勾配である。しかも、古(いにしえ)の流路の上流から下流へ一様に砂が積もっているわけではなく、凹凸がある。テヒトと高向の男たちは、準備期間に三本の縦の導溝(どうこう)を掘っていた。砂が含んでいる水を抜くと同時に、工事が始まった時たやすく掘削する部分がわかるようにするためである。この導溝の底の高さにそろえて掘れば、計画どおりの水路ができるはずであった。これと直交する横の導溝は、オオドが立っていたような土堤の雛形を示し、本番での築堤を容易にするためのものであった。現在四本が掘られている。導溝を掘り、土堤の雛形を築造するに際しては、博敦が伽耶から持ってきた勾股尺(こうこじゃく)(=三角定規)が大いに役立った。

 準備に汗を流してきたテヒトたちは張り切っていた。人員を三等分し、それぞれの集団に作業の説明をしていた。三つの内の二つは、土を掘って運ぶ集団である。三百人強が横一列に並び、掘った土を竹籠(たけご)に入れ、手渡しで土堤まで運ぶのである。竹籠は小さな「ざる」と言った方がわかり易いだろう。土堤で空にされた竹籠はまた手渡しで戻ってくる。

「土を入れた竹籠を、掘った人から受け取って最初に送る人にお願いします。一つめは右横の人に、二つめは左横の人にと必ず左右交互に渡して下さい。全部同じ方向に送らないで下さいね。皆さんは止まったままですが、掘る人は場所を移動しますから、必ず全員が最初に送る人になりますよ、よく覚えておいて下さいね」と、ヨシヒトが説明している。

「なぜですか」と、聞く人は必ずいるものである。

「左右の土堤に同じ嵩(かさ)の土を積むためです。片側だけを高く積んでも無駄になってしまうでしょう」

 ほとんどの人はこれで納得する。しかし、中には、

「それなら真ん中で二つに分けて、それぞれ外へ向かって竹籠を送った方が確かではないでしょうか。ややこしくないし、外側にゆくにつれて、運ぶ距離も短くなるはずです」と、鋭く食い下がる人もある。ヨシヒトは、

「よく気がつきました。しかし、考えてみて下さい。外側に近づいたとき、そこより内側の多くの人は手持ちぶさたに立ったままでしょう。何もしていない人が出るということは作業に無駄があるということか、特定の人だけが忙しく働いているということです。言い忘れましたが、竹籠に盛った土が漏れないよう、葦の敷物を底に敷くのを忘れないで下さい」と、論争に決着をつけた。

 集団の中で力自慢らしい男たちが、手に手に鋤や鍬を持って土を掘り出した。「右、左、右、左」と掛け声がして手渡しが始まった。「土はいつも右と左に泣き別れだなあ」という男の声がして、どっと笑声が上がった。

 他方、土堤を築く集団は、左右二ケ所ずつの計四ケ所に分かれて講習を受けている。そのうち沙加手が説明しているところでは、板を持ったテヒトが脇で実演して見せている。土堤と掘削部分の境界を示す目印の杭が、上流に向かって走っている。

「ここでは手より足を動かして下さい。土を盛り、ある程度の高さになったら板を載せて、その上で足踏みをして下さい。踏み固めたら、またその上に土を盛って下さい。これを繰り返します。土堤の側面は乗るわけにいきませんから、板を当てて強く叩いて下さい。もちろん蹴っていただいても結構ですよ。土堤造りで大切なことはまず土をむらのできないように盛ること。特につなぎ目が弱くならないように注意して下さい。次に側面の勾配を急にし過ぎないことです。土堤の幅は一番下が六尋(約九メートル)もありますから、緩やかな勾配でも頂上が狭くなりすぎることはありません。いろいろ言いましたが、雛形がありますから、それに合わせて造ってもらえばいいのです。何かお聞きになりたいことは」

「土堤の広さに比べてずいぶんと人が多いのではありませんか。こんなにたくさん土堤に乗るわけにはいきません」と、若い女が首を傾げる。

「交替交替でやって下さい。足の空いている人は遠慮なく座って休んでいただいて結構です。そのうち土掘りや土運びと交替になれば、立ちっ放しになりますから、後ろめたいなどと思っていただかなくていいですよ」

 土堤の幅を大きく取っているのは、強固にするため本当は芯に岩や大石を入れたいのに近くで採取できないからである。その欠点を幅の大きさで補い、柳を植えて補強する計画であった。将来は竹を植えようかという話も出ていた。西側、つまり三国崎から遠い側の土堤は砂州の方角になるため、風による砂の堆積を防ぐ防砂堤の役割も期待されていた。みんなが雛形を観察していると、最初の竹籠が送られてきて、仕事が始まった。

 この工事は力仕事には違いないが、重労働という語感とは少しずれる。掘り採る土の深さが平均で二、三尺(大体六十から九十センチ)ということで、深い穴を掘って土を運び出すのに比べて肉体的に楽である。気分的にも大差がある。表面の草の根の部分こそ少し手がかかるが、その下は砂地で岩を抜く困難も少ない。工具の数に比べ、交替する屈強な男は有り余るほどおり、掘り方もせかせかしない古代の呼吸で行われたので、鋤や鍬を振るう者も負担は軽かった。竹籠の土を手渡しで送る仕事や、土堤に土を積み、踏み固める仕事は子供でもできるものである。竹籠はその前提で小さく造られていた。作業をしながら、自分の夫とよその夫を比べ合う世間話もできるし、鼻歌を歌うこともできる。あえて言えば、野遊びにでかけ集団で遊戯をしているような雰囲気があった。

 日が経つと、竹田川の三国崎側に住む者を山手組、工事現場の側に住む者を中州(なかす)組と呼び合うようになった。後者はむろん、将来の新川を意識しての呼び方である。初め強かった出身地の結びつきよりも生活する場所での結びつきの方が強くなるという変化が見られた。六日に一日は休みの日があったが、歌ったり踊ったりの組内での親睦も見られた。休みの日には必ず開かれることになった三国の市は、家族連れで賑わった。支給された食糧を少しずつ蓄え、市で他の品物と交換するしっかり者も少なくなかった。このため米と塩の価は、予想に反して下がり気味であった。むしろ上がったのは魚と根菜の価であった。生活の場所での諍(いさか)いや軽微な犯罪も時には耳に入った。食糧の調達と配給に忙殺されていた真佐手は、特に治安組織は設けず、山手組、中州組の自治に任せた。最も心配された火事が起こらなかったのは、不思議であった。真佐手は白山の神を深く崇めるようになった。

 ヨシヒトは、作業を山手組、中州組の二つの集団に分け、組同士を競わせるようなこともしてみた。競争というより気分転換のようなものである。実際にやってみると捗(はか)の行くことは、目を見張るほどであった。鋤鍬を持つ男たちは寒風の中で大汗を流して土を掘り続け、「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声に一段と力がこもって手渡しの竹籠は滑るような速さで次々と土堤に到着した。築堤の速度はいつもの倍近いかと思われるほどであった。踏み固めずに高さを稼ごうとすると、階段状の足場が作れず上の方で土を積めなくなるため、手抜きはできない。競争のための区画を示す竹竿(たけざお)に結んだ白布の高さまで、先に土が届いた方が勝ちである。対岸の土堤の土は両組共すでに白布の高さに達し、今は三国崎の方向だけに土を送り続けている。勝負が終盤で片側の土堤に絞られてから、土運びの列は何列にも増え、なお手の空いた人々は土を盛った竹籠を持って走るように運んでくる。一尺(三十センチ)強の差を付けて白布に達した中州組の勝ちであった。歓声が上がって一斉に拍手が起こる。躍り上がって万歳をし、喜びを表す子供もいる。昼過ぎからの競争は負けた山手組に気合いが入り、雪辱を果たした。ヨシヒトは、この調子で工事が進めば三年で終わるのではないかという気がした。しかし、翌日同じことを続けると全く別人の集団のような仕事ぶりに戻った。

 その年の工事の終わり頃になると、誰がつくったとも知れぬ歌が仕事中に口ずさまれるようになった。その歌は次のようなものであった。

 

  土を盛り

  手(た)送る竹籠(たけご)

  君がため

 

  龍頭(たつがしら)

  海におどらば

  稔る稲穂よ

  越(こし)の国はや

 

 第一年目の工事は、雨で休んだ日があったものの、雪を見る前に予定の範囲を開掘して終わった。

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