第3話
「そんなはずはない……お前は6年前とちっとも変っていないよ。その眼もその唇も……私が愛した貴子だ……」
『ねずみ男』はそう呟くと、僕の縛られている椅子の後ろに回り込んだ。そうして椅子を持ち上げるとガタガタと動かして小さい机の前に運んだ。
「さあお食べ……」
僕は『ねずみ男』を睨んだ。
「両手が使えないのに、食べられるわけがないじゃないか」
「ああ、そうだったね」
縛った手をほどいてくれるのかと思ったけれど、『ねずみ男』は僕の前に置いた菓子パンの袋を破り、パンを千切って僕の口元に持ってきた。
僕は口を大きく開けて、パンと一緒に『ねずみ男』の指に噛みついた。
「ぎゃっ!!」
『ねずみ男』は叫び声を上げて僕を椅子ごと突き飛ばした。僕は床に頭と肩と膝をぶつけて痛かったけど、『ねずみ男』も相当痛そうに噛まれた右手の中指を庇いながらのろのろと椅子を元の状態に戻した。中指には僕の歯型がくっきりと赤く付いていた。
「……貴子……そうか……そんなに私が憎いのか……」
「だから、僕は貴子叔母さんじゃないってば!!貴子叔母さんは死んだんだ!!2年前に!」
僕がそう言うと、『ねずみ男』は突然帽子の上から頭を押さえて唸りだした。
「……うう……死んだ?……貴子が?……ううっ……貴子!……貴子!」
狂ったようにその場をうろうろと歩き回り、何度も貴子叔母さんの名前を呼んだ。そうして急に僕の方を向くと、僕の服の胸元を左手でぐいっと掴んだ。
「ふん……そんなことで私を騙せると思っているのか?この嘘つきめ」
「う、嘘じゃないもん!」
「お前は貴子だ。……なんでそんな嘘をつくんだ?この6年でお前は……変わってしまったのか?」
帽子の下の眼は血走って、ぎらぎらと光っていた。
「貴子……お前はもう私を愛してはくれないのか?」
さっきから『ねずみ男』は貴子叔母さんを愛していたとか言ってるけど……貴子叔母さんと結婚したのは叔父さんだ。……それとも……叔父さんと結婚する前に貴子叔母さんは麻生さんと付き合っていたんだろうか。
「麻生のおじさんは……貴子叔母さんのことが好きだったの?……6年前に一体何があったの?」
服を掴んだ『ねずみ男』の手がびくりと震えた。
「麻生のおじさんと……貴子叔母さんと……暁彦叔父さんの間に何があったの?」
『ねずみ男』は僕の質問に答えようとはしなかった。ただもぞもぞとマスクの下で呻くように呟いた。
「貴子……あいつだけは許さない……私からお前を奪ったあの男だけは……」
そうして、コートのポケットをまさぐってさっきのハンカチを取り出すと、再び僕の鼻と口を塞いできた。
「やめて!」
そう叫んだつもりだったけれど、すぐに眼の前が真っ暗になってしまった。
次に眼を覚ました時、僕は家のベッドに寝ていた。ベッドの傍には叔父さんがいて、心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「良かった……透くん、気が付いたんだね」
叔父さんは僕の頭を撫でながら、ほっとした顔をした。
「叔父さん……僕……」
「もう大丈夫、怪我もしていないし、安心していいんだよ」
優しく言う叔父さんの顔を見たら、涙が出てきた。
「麻生のおじさんは……?」
「うん……僕があの家に行った時には誰もいなかった……」
叔父さんの話によれば、逃げた3人の友達が公園に戻ってみると、僕が『ねずみ男』に抱えられて連れていかれるところだったらしい。友達の1人が叔父さんに知らせに走り、あとの2人は『ねずみ男』をこっそり追いかけた。途中で見失って、追いついた叔父さんに見たことを教えた。叔父さんは前に『ねずみ男』を見かけたところに近かったので、その辺りに住んでいるに違いないと見当を付けてしらみつぶしに探し回った。そして、1軒の家の前に落ちていた貴子叔母さんの指輪を見つけた。いつも僕がポケットに入れて持ち歩いていたのを知っていたから、その家に違いないと思った叔父さんは窓に石を投げてみた。でも何の反応もなくて、叔父さんはその窓を破って中に入った。そうしてベッドに寝かされていた僕を発見したというわけだ。
「透くんが無事で本当に良かった……きみに何かあったら……義兄さんや義姉さん、貴子にも顔向けできないよ……」
叔父さんはベッドに肘を着いて両手で顔を覆った。僕はその瞬間、心臓をわしづかみにされたみたいにドキッとした。だって……叔父さんの右手の中指には、大きな絆創膏が巻かれていたんだ……。
「お、叔父さん……その指……どうしたの?」
おそるおそる聞いた僕に、叔父さんは右手を振りながら微笑んだ。
「ああ、さっきあんまり急いで出たからドアに挟んじゃったんだよ。そそっかしいよね」
叔父さんが「ゆっくりお休み」と言って隣の部屋に行ってしまった後も、僕はドキドキが治まらなかった。
叔父さんが……『ねずみ男』なの?
その右手の中指の絆創膏は……本当にドアに挟んだものなの?
考えると二人は確かに背格好が似ている気がした。『ねずみ男』は叔父さんより背が低く見えたけど、叔父さんが猫背になったら同じくらいになるかもしれない。『ねずみ男』の声はマスク越しでちょっとくぐもった感じがして、はっきりと違う声だとも言えなかった。それに……叔父さんと『ねずみ男』が一緒にいるところを僕は見ていない。最初に見た時だって、家に叔父さんはいなかった。叔父さんも『ねずみ男』を見たと言ったけれど、それだって叔父さんが言うだけで本当かどうか分からない。麻生さんという人の話だってそうだ。そもそも麻生さんは本当に実在する人物なのだろうか。……叔父さんの言うことを全部信用してしまっていいのだろうか。
僕は布団の中で慌てて首を振った。
……帽子の下から見えた『ねずみ男』の目は、いつもの叔父さんとは全然違う怖い目だった。
いつも優しい叔父さんがあんな目をするなんて、僕にはどうしても思えない……。
『ねずみ男』は僕を誘拐してどうするつもりだったんだろう。縛られてはいたけれど、特に乱暴に扱われた訳じゃなかった。ちゃんとパンも食べさせてくれようとしたし……噛みついた後だって、僕に何かすることもなく椅子をきちんと元に戻している。僕が見つかった時もベッドに寝かされていたと言うし……。
僕を貴子叔母さんと混同しているようなふしもあった。僕は母さん似だから、当然貴子叔母さんにも似ている。叔父さんの机の中にあった貴子叔母さんの写真は……まだ20歳になる前のものだと思うけれど、僕が髪を伸ばしたらこういう風になるのかもと思うくらいよく似ていた。
もしも……『ねずみ男』が叔父さんだとしたら……貴子叔母さんが亡くなったことは知っているはずだし、僕のことも北浦透だと知っているはずだ。それなのに、『ねずみ男』はまるで知らないことみたいに言っていたし、何度も僕を貴子と呼んだ。
……叔父さんは『ねずみ男』なんかじゃない。
僕はそう心の中で呟いた。
それは僕の願いのようなものだった。
その夜中、かなり遅い時間になってから叔父さんが僕の隣に横になった。叔父さんは僕が寝ていると思っていたみたいで、声をかけたら驚いていた。
「なんだい、透くん、まだ眠っていなかったの?」
「うん……考え事をしていたら眠れなくなっちゃったんだ」
「そうか……まぁあんなことがあった後だから仕方がないけど」
叔父さんは苦笑いして僕に腕枕をしてくれた。
「叔父さん……貴子叔母さんは叔父さんと結婚する前に、麻生さんと付き合っていたの?」
叔父さんは一瞬びっくりしたような顔をして僕を見た。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
「だって……」
僕は言い出そうかどうしようか少し迷ったけれど、やっぱり言うことにした。
「『ねずみ男』につかまっていた時に、あいつはずっと僕を貴子って呼んでたんだ。……それに、それだけじゃなくて……貴子を愛してたって言ってた」
僕がそう言うと叔父さんは悲しそうな顔をして、僕をぎゅっと抱き締めた。
「叔父さんと叔母さんと麻生さんの間に……何があったのって聞いたけど……それには答えてくれなくて、ただ貴子を奪ったあいつだけは許さないって……」
叔父さんは僕を胸に抱き締めて、髪を撫でながらそっと呟いた。
「……透くん、ごめんね、辛い思いをさせてしまって」
確かにあの時は怖いと思ったけれど、今は叔父さんの方が辛そうだった。
「きみにはきちんと話しておくべきだったね。僕と貴子、そして麻生さんのこと……」
ゆっくりと、叔父さんは言葉を続けた。
「……麻生さんが貴子を好きだったのは僕も知っていた。貴子はとても可愛くて、聡明で、貴子を知っている人達はみんな貴子が好きだったんだ。……きみも大好きだっただろう?」
「うん……」
僕は叔父さんの腕の中でこくんとうなずいた。
「麻生さんはみんなの中でも一番貴子を好きだったのかもしれない。……だけど貴子は麻生さんじゃなく、僕を好きだと言ってくれたんだ……だから僕たちは結婚した。でもそれから麻生さんはおかしくなった。仕事もしないで何も言わずにふらりとどこかに出掛けることが多くなって、僕にも何も話してくれなくなってしまったんだ。……最初は、単に嫉妬しているんだと僕も貴子もあまり深く考えていなかったんだけど……そのうちに麻生さんは貴子にまとわりつくようになってしまった。ストーカーになってしまったんだよ……」
「ストーカー?」
「うん……僕が仕事で家を空けている時に貴子の様子を覗いていたり、出掛ける時に後をつけたり……だんだんそれがひどくなってきて、貴子もノイローゼのようになってしまった……。それで僕は麻生さんにきっぱり、貴子の周りをうろつくのはもうやめてくれと言ったんだ。生まれて初めて人を殴ったよ。……そうしたら、それっきり麻生さんは行方不明になってしまった……警察にも捜索願いを出したけれど、逆に僕が麻生さんをどうかしたんじゃないかと疑われたりもした。だって最後に麻生さんと一緒にいたのは僕で、それも大声で喧嘩してたんだからね……」
叔父さんはふうっと大きく息を吐いて、話し続けた。
「だからどうしても僕は麻生さんに会いたい。……麻生さんがちゃんと生きていることを証明して、僕がどうかしたとかいう疑いを晴らしたい……それに……貴子のことも聞きたいんだ……本当に、貴子を愛していたのか……」
僕の叔父さん SKY @SKY-see-moon
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