毒鶉の目覚め
格技場の裏には、丁度「密談」に適した木陰がある。トセは不安を滲ませた顔で辺りを見回し、手にしている鞄を抱き締めた。
「早いのね」
親友の一人、羽関京香――では無かった。冬の海よりも冷たい、感情の全く見出せない声がした。
「ひっ……は、はい」
ビクリと肩を震わせるトセ。ゆっくりと振り返ったその先には……。
「あの……何の用ですか、鶉野先輩」
三年生、鶉野摘祢が立っていた。不思議と彼女の足下に広がる影は、他の場所に比べて暗色が強い気がしたトセは、妙な寒気を覚えて「私……」と続けた。
「この後、部室で……その、用事があるので……」
「戻れたのね。《姫天狗友の会》に」
コクリと首肯したトセ。
「先輩の助言があったから……です。ありがとうございました」
目代と決別し掛けたあの日――トセは鶉野から「時間と共に謝り辛くなる。早い内に謝罪するべきだ」と助言を受けていた。彼女の後押しもあり、トセは無事に《姫天狗友の会》へ舞い戻る事が出来たのである。
「礼には及ばない。当然の事よ」
言葉自体は温かく、親愛すべきものであったが……何故か、鶉野の声は言葉から温みを完全に奪い去り、代わりに毒液か何かを仕込んでいるようだった。
社交性の高いトセは、しかしこの三年生だけは――関わりを持ちたく無かった。SNSのアカウントを教えた事を後悔すらしていた。
「……何か、用事でもありましたか?」
鶉野はかぶりを振ったが、暗い両目はトセをジッと見据えていた。
「無いわ」
「……でしたら、今日は――」
「無いけれど、唯、気になったの」
砂利を踏む音が響いた。鶉野の接近を嫌がるようにトセは後退ろうとしたが、身体が思うように動かなかった。
「お節介なのよ。私」
「……はぁ」
「一重さん。貴女、例えば――欺されていたりしないの」
「だっ、誰に欺されているんですか、私が」
木の葉が揺れ動いた。黒々とした髪を靡かせる鶉野は、瞬きする事も無く、狼狽えるトセを見つめた。
「目代小百合に」
「…………は?」
未知の言語を翻訳しろと命令されたような顔付きに、鶉野は意にも介さず続けた。
「以前、貴女が話してくれた事を考えてみたのだけれど。どうも目代小百合は、論点をずらしている気がする」
「論点……ですか?」
「貴女達が啀み合った原因は、近江龍一郎君を巡っての事でしょう。結果として貴女の恋路を阻害した事実を、目代小百合は謝罪したのかしら」
トセは……謝罪された記憶が無かった。無かったが「もう過ぎた事」と水に流そうと決めてもいた。
「……もう、その事は良いんです。私も……仮に、目代先輩が彼を狙っていたとしても――付き合ったのは第三者なんですから」
「なるほどね。貴女はやはり――」
負けているのね。鶉野は言い切った。
「負けているって……どういう意味ですか!」
「言い方が悪かったわ、ごめんなさい。貴女に伝えたかったのは、想い人を賭けの対象にした闘技に、目代小百合が一歩抜きん出ているという事」
ズキン、と胸が痛むトセ。鶉野の説く「理由」の受理を拒否した為に思われた。
「遅かれ早かれ、近江龍一郎君は恋人と喧嘩する日が来る。その時、親身に彼の相談に乗ってあげれば、もう一度自分の方へ振り向かせる機会が訪れるかもしれない」
「…………そんな事――」
「有り得るわ。ここは花ヶ岡、女の園であり戦場よ。欺瞞の応酬は当たり前、最後に笑うのは欺した方と決まっているの。あの女は謝罪をしなかったのでしょう、何故だか分かるかしら、一重さん」
鶉野はソッとトセの肩を掴み、耳元で「教えてあげる」と囁いた。
「貴女に対して、微塵も『悪いと思っていない』のよ」
「もう止めて下さい!」
肩に置かれた手を振り払ったトセは、息を切らして鶉野を睨め付けた。
「折角、折角整理を付けたんです! 私は……私はもう誰も怨みたくない。リュウ君が盗られて……辛いけど、本当に悔しいけど……あの暗い毎日に戻りたくなんか無いんです!」
必死に威嚇するような素振りは、親からはぐれた子猫の如くであった。
自然界で例えれば――トセは無力な下位生物であり、鶉野は上位に立つ捕食者であった。
「私を呼び出して、そんな酷い事を言うんだったら! 私はもう帰ります!」
踵を返して立ち去ろうとするトセに、鶉野は少しだけ声を張り上げ、「待って」と制止した。
「まだ何か言うんですか」
「これだけは分かって。私は貴女の敵では無い。やがて、貴女は気付くでしょう。目代小百合という人間の正体に。そんな時、決して一人で悩まないで欲しいの。悲しいけれど、誰でも一度は『理解者がいない』と嘆く日が来る。でも、貴女は悩む必要が無い。何故なら、私という味方がいる」
「…………味方だなんて、有り得ません」
「今はそれで良いわ。憶えておいて欲しいのは、貴女は今――欺瞞の檻に捕らわれているという事。巧妙で悪辣な、絹を纏った恐ろしい檻に。けれど、その檻に鍵は無いの。いつの日か、現状に気付いて扉を開ける日が来たら――」
私だけは、貴女を待っていてあげる。
「好い加減にして下さい! 貴女なんか……貴女なんか、大っ嫌いです! 例え一人になっても、貴女だけは頼りません。二度と私に連絡しないで下さい!」
足早に立ち去って行くトセの背中を見つめ、鶉野は心中で微笑み、鞄を拾い上げて帰路に就いた。
一切、全てが是で良し。
怨敵、必倒絶滅を願い止まぬ。
我が暗恨に、幸有れかし――。
花札学徒鉄火録~遥恋篇~(旧版) 文子夕夏 @yu_ka
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