『     』

Win-CL

第1話

 ――ある日突然、限界が訪れた。

 糸がプツンと切れたように、自分の中で何かが終わった。


「もう……嫌だ」


 何もかもが空っぽだ、この世界は。


 その日の仕事はなんとか終わったけれど、もう限界だった。駅係員なんて、自分には向いていなかったんだろう。電車が好きで、少し英語を話せたからこれだ。人と接する仕事なんて、やるんじゃあなかった。


 ホーム上の仕事を任されていたのはほんの少しの期間で、あとは駅構内の案内ばかり。客層の悪さならコンビニのバイトも経験があるけれど、ここまで酷いものじゃない。


 酔っぱらいが寝ているのが当たり前。風邪をひきますよと案内しても、返ってくるのは舌打ちばかり。それが比較的人のいない夜中なら、まだ耐えられた。それでも精神はガリガリと摩耗していったけれど。


 それがまさか昼日中に、普通の主婦に舌打ちされた瞬間に、この世界は終わりだと思った。舌打ちされるようなことなんて、何もしてないだろう。


 その時はたまたま虫の居所が悪かったのかもしれない。――けど、それを気にせず流すことができるだけの余裕がこっちにも無かったのだ。


 これまでに一度や二度なら、まだ耐えれたかもしれない。

 けれど、週に二度や三度あるのだ。こういうことが。


 仕事だから当たり前? 冗談じゃない。

 この世界のモラルはどこにいったのだろうか。

 ……いや、そもそもそんなモラルなんてあったのだろうか。






「失われかけているのなら……俺が消してしまっても構わないよな……?」


 その時は、精神状態もおかしくなっていたに違いない。

 ネットで収集した情報によって、試しにのだ。


 実験の経路は、とあるSNSアプリ。選んだ理由は、誰でも広告として動画を流せることを知っていたから。肝心の手段は――サブリミナルによる洗脳だ。


 潜在意識を揺さぶり、“感謝”という概念を抑え込む。有り体に言えば、『ありがとう』という言葉が出てこない。そもそも言おうとすら思えなくなること。半ばオカルト並に馬鹿げたことだった。


 既に当たり前のことが行われていない世界なのだ。今となって“それ”を失ったところで、何も変わりはない。だからこそ、一番簡単にできそうなことを選んでみた。


「どうせダメ元なんだ。ぶっ飛んだことじゃないと面白くない」


 過去に誰かが投稿した、人気の出た動画を“少し加工して”広告に流すようにした。


 もちろん規約違反なのは分かっているけど、なりふり構っていられない。多少の出費はあったものの、想定の範囲内。あとは運営に消されないように祈るばかりだ。






 そして二ヶ月――効果は劇的なほどに現れた。


『ありがとう』が無い世界。感謝の概念の無い世界。

 ――誰かが何かをするのが当たり前の、腐った世界の完成だ。


 最初の一週間で、数万以上再生数が回った。それでも、結果を実感することができなかったので、結局手当たり次第の投稿サイトにも動画を貼り付けてみた。半分は削除されてしまったけれど、一ヶ月で合計数十万も動画は再生されていた。


 そのあたりから、街の人の様子が変わったことが分かってきたのだ。


「さて、今日は何か面白いものが見れるかな……」


 休みの日には、近くの公園のベンチに座り人間観察をするのが日課だった。


 たとえば公園の出口から少し離れたところに歩道橋があるが、階段の登り口の脇道は、人が一人通るのがやっとの細さになっている。そこにちょうど向かい合う形で人が近づいているのだ。


「お……。無理に避けるか? ぶつかるか?」


 片方は、いかにも紳士といった外見の初老の男性だった。もう片方は、子供を連れた母親である。もちろん子供の手を引いていては、すれ違うことなんてできない。


「――――」


 初老の男性の方が、途中まで進みかけて道の入口まで戻った。道を譲ったのだ。当然、反対側の母親はそれを見ていたのだが――何も言う様子も、会釈もなく、ただ子供の手を引いたままスタスタと歩いていく。


 これが当然の光景だった。譲られて当たり前だと思っている。

 そして無視された男性も、何事も無かったかのように道を通過していった。

 どうだっていいのだ。“感謝”という感情が無ければ、“期待”も無いのだから。


 ……彼のように道を譲る人は極々少数派だ。


 二ヶ月が経過して、こういう場面を目にすることは滅多になくなっていた。それだけでも、普段から“感謝の気持ち”という“見返り”を期待して行動していた人が多かったのかうかがい知れるというもの。


 ゲームやグッズでもなんでも、物を買うときに“お布施”という概念が無くなった。

 購入の指標に、プラスの感情というものが入らなくなった。

 長期の利益よりも、即時の価値を求めるようになったのである。


 ――何もかもがあって当たり前の時代。

 それが全員に対して、平等に訪れただけのこと。


「このまま……何もかもが終わればいいさ」


 そのうち冠婚葬祭も無くなるんじゃないだろうか。

 人と人、国と国とが争うようになって。そうなれば万々歳だ。

 なんて歪んだ世界征服だろう。


 ……仕事の方は、あれからというもの、多少は気が楽になっていた。

 最初から感謝されないと分かっているのだから、何も期待する必要がない。

 期待を裏切られ、傷つくことも、精神が摩耗していくこともない。


 機械的に作業をこなしていれば、賃金が与えられる。

 ボーナスなんてものには、最初から期待していなかった。


「……で、君は何をしているんだい?」

「……お花を探しているの」


 公園の花壇の中に踏入っている女の子がいた。……とはいえ、もうどの花も既に枯れ果て、そこらへんの雑草と変わりなくなっていたし。


「お母さんにお礼をしたいのだけれど、なんて言えばいいのか分からないの」

「…………」


「だけど、どうしても何かしてあげたくて。それで、お花をあげようと思ったの」


 あまりメディアに触れていないのか、まだ“効き”が悪い子供がいたようだった。それでも、親の方は完全に洗脳は済んでいるはず。『そんなものは必要ない』と突っぱねられるに違いない。


 ……全く無駄なことを、と鼻で嘲笑うのは簡単だ。

 それよりも、とにかく他所よそへと行って欲しかった。


「向こうの遊具を挟んだ先にも、小さな花壇があったよ」

「……そっちも探してみる」


 “こんな世界”に変わって、ボランティア組織も一部を除いて、すっかり無くなっていた。だからといって、公園の花壇の世話をする人までいなくなるのには、笑ってしまったけども。結局は損得勘定で動く偽善者ばかり。


 残った組織の人たちは、本当に献身の心から活動しているのだろう。世界中がそういう人達ばかりだったらいいのにと、願わなかったわけじゃない。


 けれど……それを実現するには、“こんな方法”じゃとても無理だと思ったのだ。

 ――得るのは非常に難しく、捨てるのはとても容易い。


「善なんて、所詮はそんなもの。だってことなんだろうなぁ」


 街の彩りもなにもない、灰色の街の公園。

 何もかもが色褪せていく。仕事でもない限りは、止まることを知らず。


 自分が閉じ込めた“それ”が、そこまで大切なものには思えなかった。

 ……思えなかったのだ。だって、そんなに大切なものなら――


 自分が手を下す前に、既に失っている者がいたのだろうか。


「お、お兄ちゃん……」

「……ん?」


 ふと下ろしていた目線を上げると、先程の女の子が立っていた。

 ――その手には、しっかりと花が一輪握られている。


 ……見つけたのか。

 適当に言っただけなのに、本当に見つかるなんて。


 服の裾は、土でどろどろになっていた。茎を折るということが出来なかったのだろう。土を掘り返したために、爪の間が真っ黒になっている。服には枯れた葉や茎でいっぱいだった。


 ――まぁ、そんなことはどうでもいい。


 この女の子は、何で戻ってきたのだろう?

 見つけたなら、さっさと家に帰ればいいじゃないか。

 それを母親に渡して、捨てられて、泣こうが喚こうが好きにすれば――


『     』

「…………え?」


 ――今、なんと言った?


 息が詰まる。鼓膜を揺らした音の連続が、どうにも単語に結びつかない。


 それは決して出てくるはずの無い言葉だった。

 それは自分が取り上げたはずの言葉だった。

 

 おい、待て。何でそれを。何で。

 その言葉を、


『     』


 女の子がもう一度、その言葉を口にする。まるで自分の口から出たことが、とても不思議なことであるかのように。ゆっくりと、動きを確かめながら。一文字一文字を

噛みしめるように。


 あって当然だったものが。当たり前過ぎて、忘れられていたものが。

 自分へと与えられないからと、周りから取り上げ、閉じ込めたものが。


 そんなものが突然、目の前に現れた時――


「なんだよ、それ……」


 人は、横面を殴られたかのように脳が揺さぶられるのだと。

 自分はこの時、初めて知った。


「……あれ? なんで忘れてたんだろう。こんなに簡単なこと」


 そう言って女の子は、花を握ったまま公園の外へと駆けていく。


 なんでそんなに嬉しそうなんだ。なに宝物を見つけたような顔をしてんだ。


 ――待ってくれ。それは、それはダメだ。

 その“種”を持っていってはダメだ!


 せっかく居心地のいい世界だったのに。一度に芽吹いてしまう。

 あんな純粋な笑顔で言われては、広がってしまう。


「……っ!? うぷっ……」


 そんなにショックだったのか。亀裂が入ってしまったことが。

 終わりが、実に呆気なく訪れたことが。


 止めたいのだけれど、足が動かない。視界が歪んで、女の子の背中が小さくなっていき、音が消える。膝から崩れ落ちた。地面が冷たい。


 砂が口の中に入って、歯を食いしばるとジャリッとした硬い感触があった。


「――君! 大丈夫かい!?」


 ……気がつけば、自分の周りに人だかりができていた。


「だ、大丈夫です……」

「救急車を呼んでるから、無理に動かないで!」


 頼む。お願いだから放っておいてくれ。

 自分に構わないで、お願いだから、腐った世界の住人を演じていてくれ。


「あ、……っ」


 ――自然と口から溢れ出た。出てしまった。


 その時の、周りにいた人たちの表情が――何かを思い出したようにして、そしてその後、優しく微笑んだ顔が――


 俺は一生、忘れられなくなってしまった。

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