第32話 後日譚 ググゥに、或いは彼女に

 僕が初めて彼女を見かけたのは、春先のまだ寒い季節だった。外套を着こまずに出かけたことを後悔していた。そのことを憶えている。朝のニュースで桜の開花情報を流していたからだ。暖かくなったと油断してしまった。渋谷駅のプラットフォームで、出発待ちをしている電車の中だった。

 終電間際の深夜に差しかかる時間帯で、大学時代のちょっとした同窓会の帰りのことだった。彼らとは十数年ぶりでそれなりに話も盛りあがった。ゆえに終電間際という時間になってしまった。日曜日だったということもあり、乗客は電車が動き始める直前までまばらなままだった。僕と彼女は向かい合った座席にそれぞれ座っていた。お互いに対角線で結ばれる両端の位置関係だった。後にこのときの状況を彼女に聞いてみたことがある。彼女は僕のことを全く憶えていないと笑って答えてくれた。僕は寝ぼけていても語って聞かせてあげられるほどに印象深く憶えているのに。

 彼女の揃えられた両膝の上には、真っ白なケーキの箱が置かれていた。その箱が目に留まり見やっていると、前触れもなく彼女は箱を開け始めたのだ。

 彼女はシュークリームを取り出した。両手で慎重に上下を二つに外し、どちらから食べようかとじっと両手を見比べているようだった。その表情は、見ているこちらが吹き出してしまいそうになるほど真剣なもので、何をそこまで迷う必要があるのだろうかと考えさせられてしまうほどだった。そしてクリームが多い左手の、底の部分から食べ始めた。同じ作業を繰り返しながら、彼女は箱に収まっていた六個ものシュークリームを、休む間もなく完食してしまったのである。そういうわけだから、僕のほうが強烈な印象を植えつけられてしまったのだ。

 初めて電車で見かけたときもそうだったが、彼女は元々明るく健康的な表情を浮かべない植物的な女性だった。野山で見かけるような種類ではなく、温室植物園で見かける植物のような。温室育ちという意味ではなく、違う空気を吸って育っているような。疲れた目元をし、シュークリームを立て続けに頬張っている姿を見て、何かあったのだろうと思いはしたものの、同窓会で程よくまわり始めた酔いに揺られながら家路まで瞼を重ねることになった。そうそう、彼女の白い手首には、金色の細い天使の環のようなブレスレットが輝いていた。

 最初は、少し変わっている人だな、という程度の印象だった。後に日陰のような静かな魅力の虜にされてしまったけれど。今振り返ってみても、彼女との間に何か劇的な出来事があったのかというと、そういうことは悔やまれるほどになかった。親しくもない女性に自分から声をかけたという、自分史に記された偉業以外には。

 後日、彼女と付き合い始めて間もない頃、なぜシュークリームを六個も食べていたのかと一度だけ聞いたことがあった。彼女はその姿を見られていたことにひどく驚き、顔を真っ赤にさせて恥ずかしがっていた。そして照れながら新たな事実を一つ教えてくれた。実は、彼女と僕は最寄り駅を共にする同じ生活圏内で数年暮らしていたのだが、あのときは気が動転してしまい、電車を降り損ねってしまったのだと。二つ先で慌てて降りてもタクシーを拾うお金もなく、泣きながら心細く線路に沿って歩いて帰ったということだった。ちなみに僕は島国の出身で、彼女は山に囲まれた山国の出身だった。共に上京組だった。

 シュークリームの話に戻ろうと思う。あの日、彼女は少し前に些細な喧嘩で恋人と別れて、人生の岐路に立たされてしまったということだった。大げさすぎる気もするが、彼女がそう言い張るのだから、そうなのだろう。しかも彼女の家庭事情はなかなかに複雑らしく、これまでの人生を見つめ直して整理してみようと試みた時期とも重なっていたという。これは推測になるけれども、おそらく彼女はその恋人と結婚するつもりで、これをきっかけとして家族との絆を取り戻そうとしていたのだと思う。あの六個ものシュークリームは、十数年ぶりに産みの母親に会いに行くときの手土産だった。両親は彼女が幼少の頃に離婚していた。中学を卒業するまでは母親と一緒に暮らしていたのだが、多感な時期を迎えて折り合いがまずくなり、同市内で暮らしている父親の家へ転がり込むようになった。以降、母親とは一度も言葉を交わしたことはなかったらしい。その後、母親は再婚して都内へと移り住むことになる。そのことは風の便りで自然と耳に入ったという。彼女も地元の大学を卒業して、就職するにあたり上京することとなった。それからの十年ほどの彼女の暮らしぶりは知らない。おそらくそれなりの、幸せと不幸せの波が交互に打ち寄せる普通の暮らしを送っていたことだろう。

 そして彼女は産みの母親の元へ、これまでのいざこざを謝りに行く日に至る。しかし連絡もせずに突然訪ねたものだから、嬉しがってもらえるかもという淡い期待は見事に裏切られ、徹底的に罵られて大喧嘩となり、そのままケーキの箱を持ち帰る結果となってしまった。釈然としないままに恋人とも別れ、母親との仲直りにも失敗し、生まれ育った故郷へ戻ろうかと悩んでいた。父親も再婚して別の家庭を築いていたが、戻るならこの家に戻って来ておいで、と言ってくれていたらしい。新しくできた妹の子供部屋になってしまったから部屋は変わっちゃうけどね、と笑いながら。僕はその父親と会うことはなかったが、なかなか気さくな人物に思えて好感をもっていた。

 このような不安定な時期に彼女は僕と出会った。もう私は誰からも必要とされていない落ちこぼれ人間だ、なんてよく口にしていた。だから独りで生きていくんだとも知り合った頃は、少しだけ拗ねるように呟いてもいた。

 あの電車の中、シュークリームを二つに割って見つめてから食べていたのは、花びら占いのように最後に残る数が奇数か偶数になるかで、今後の身の振り方を決めようとしていたのだとも教えてくれた。何を天秤にかけていたのかは、聞かなかった。もう一度恋をするのか、それとももうしないのか。このようなことではなかったのか、と今の僕は思う。

 シュークリームを二つに割れば、結果は必ず偶数になる。答えありきの占いだった。どちらの思いを偶数にしたのかはもはや知る術はない。答えが決まっていても占いにかけるところが、彼女らしいといえば彼女らしいのだが。

 彼女と別れて間もなく、彼女が住んでいたアパートの表札は知らない名前に替わっていた。諸連絡もあって二度ほどメールをしたが、彼女が前の恋人を追いかけたのか、故郷へ帰っていったのか、正確なところは知らない。東京では風の便りは吹かないらしい。

 こうして振り返ってみると、彼女はなかなか欠点が多い人物だった。それも彼女らしくて僕は好きだった。


*     *     *


 リリィは翼のない白い天使だったのか、地を這う黒い大蛇だったのか、それとも溺れようとしていたワンピースをまとったただの女性だったのだろうか。いずれにせよ、空に怯え、空に憧れていた。空を諦めた彼女にとって、空を飛ぶことと水を泳ぐことの意味合いは近かったのかもしれない。それが叶ったとき、次に彼女は何を望んだのだろうか。開かれた希望に総てをかけるつもりだったのか、総てを終わらせて静かに眠るつもりだったのだろうか。おそらく彼女自身にも、その先は何も見えていなかったに違いない。


 今、ググゥは風そのものとなって空を飛んでいる。

 刺すような冷気をまとった気流を道標に。

 『天秤の国』を後にし、次なる地を目指す。

 その地こそ、この世の最果て。昼も夜も氷のみが広がり、植物も動物の匂いもしない世界。『永承の砂浜』で見つけた冷凍庫の窓から覗いた景色、北極。

 ググゥの眼には、もはや何も映っていなかった。光を失っていたのだった。『天秤の国』で負った傷と、過酷な環境下での無理を重ね続けた飛翔によって。もしくはもう見るべき世界は必要ないと心を閉ざしたことによって。

 身体は再び真っ黒な一羽の渡り鳥に戻っていた。


――後悔している?


 いや、心は自分でも驚くほどに穏やかで軽かった。

 もし愛情を憎しみや怒りに換えることができていたのならば、光まで失う必要はなかったのだろう。過去を正しく燃やして壊し、葬送し、新しい道を無数の景色から選び出すことができたのかもしれない。しかしそれができなかったことは、自分らしいと思う。今では誇らしいとも感じている。その誇りを胸に、穏やかな風の音を耳に溶かし、心のままに身を任せることのほうが性に合っている。翼を広げて息を大きく吸う。

 ググゥは、ふと笑った。


 こう考えてしまう僕は、

 頭がおかしくなってしまったのだろうか?

 そうであってもよい。

 僕は『愚か者』の一族、

 アホウドリのググゥなのだから。

 ただ、

 悲しいことは、

 悔しいことは、

 たとえ何度蘇らせてみても、

 呼び寄せてみても、

 再会を果たせたところで、

 記憶は、

 想い出は、

 増えることなく、

 確実に薄らいでいくということ。

 召喚するたびに、

 別れを重ねることしかできない。


*     *     *


 年老いた漁師が、海に浮かんでいる一羽の鳥を見つけたと云う。

 季節はずれの渡り鳥で、

 見たこともない真っ黒な姿をしていたと云う。

 漁師は網で丁寧に救いあげると、

 陸に戻って手厚く葬った。

 なぜか、

 涙が止まらなかったと云う。

 ある日の、

 南極近くの離島での出来事。


――年老いた漁師が語ったお話。

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ググゥとリリィの短い季節 藤澤歩人 @hoto_f

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