第31話 後日譚 天使に、或いは大蛇に(後)

 彼女との距離はあと十メートルほど。

 周囲の木々が驚いたかのように一斉にざわめく。

 積もっていた雪が音を立てて落ちる。

 遠くの針葉樹の光と影の合間から鳥の行進が見えた。雪とは対照的な黒っぽい群れが、じわりじわりと水溜りのように白い大地を浸食しながら迫ってきていた。

 すぐさまに四方を見渡してみる。

 すでに囲まれているらしい。

 耳を澄ましてみれば、無数の時計の針を刻む音のように、もしくは針葉樹を震わせる風の音のように、雪を踏む音が聞こえてくる。

 その音が、突然、止まった。

 風も凪ぎ、時も静かに停止する。

 この舞台で動き続けているのはググゥのみ。深い息遣いと高鳴る鼓動の音が、何者からも邪魔されずに耳の奥で響く。目も、耳も、頭の中も、目の前の彼女のことしか捉えていなかったし、考えてもいなかった。

 彼女もググゥの存在に気がついていた。

 いつからかは定かではないが、ググゥも異国の彼女もまっすぐにお互いを見つめ合っていた。非日常に構築された舞台の緊張感からだろうか、ふたりとも表情を少しも緩めることも変えることもなかった。

 近づいてみて確信に変わる。

 彼女の視線は悲しげだ。そして、何も訴えることもなく、ただただ凪いだ湖のようにこちらを見据え、見つめ返している。


――僕は、どのような顔をしているのだろう?


 静寂は切り裂かれた。

 後方の森、歩いてきた足跡を追いかけてくるように、高く威勢のよい声が響き渡った。

「さぁ、あの娘を捕らえるのだ。忌まわしき鴉と我ら気高い鳩の間に生まれ落ちた娘を!」

 声の主は煌びやかな風貌をした鳩の女王だった。

 彼女は七色に輝く宝剣を天にかざす。

「捕らえた者には千年にも渡る富と名誉を授けようぞ。それが叶わないのならば、その場で八つ裂きにして殺してしまいなさい。その返り血を浴びて啜った者は、生きた心を得ることができよう!」

 鳩の女王は兵隊たちに号令を下した。

 一様な顔をした兵隊たちは表情を変えず、格子状に隊列を組み直し、ゆっくりと前進を再開させる。背負ったゼンマイが逆時計回りで動き出す。首を規則正しく前後に刻みながら。


血を浴びればココロを授かることがデキル。

きっとそれはステキなこと。

誰かにワタシのことを憶えてモラエル。

誰かのことをココロに刻むことがデキル。

それはステキなこと、ステキなこと……


 四方から同じ言葉が、同じ口調で繰り返される。鳩の兵隊たちが胸に仕込まれた録音テープの再生ボタンを押したのだ。

 ググゥは異国の彼女の目の前に立った。

 結局、ここまで何も声をかけることはできなかった。

 彼女が握っていた刀は、重力に引かれるまま垂直に雪に突き刺さる。そして彼女は黒い液体がまだらに散ったコートを脱ぎ捨てた。

 なぜか目頭が熱くなった。

 彼女は首元が真っ白で、足元にかけて黒くなっていくニットのワンピースを着ていた。身体のラインに沿ったそのグラデーションが印象的だった。天使でも悪魔でもなければ、誇りに満ちた人間でもない。曲がりくねった道に迷っている生きもの、儚げで少しだけ無邪気な、落ちこぼれの天使のようだった。

 灰色がかった栗色の髪がそよぐ。真っ直ぐで細い髪。流れるさまは、かつて大蛇の背の道で遭遇した天気雨を見ているようだった。黒いニットの袖口から覗いた白い手首に、ブーツに隠された華奢な脚。彩度を落とした緑色を帯びた瞳は品のある宝石のようで、頭上には、百年以上は輝くことを忘れていた天使の輪が、確かに浮かんでいた。

 異国の彼女は、瞬きを数回、ゼンマイ仕掛けの人形のようにゆっくりと繰り返した。

 瞼が重なるたびに長い睫が伏せられる。乾いている唇が緩み、くすんだ目元に縁どられた瞳の奥に彼女らしさを見つけたとき、『再会』の言葉の意味を知ったような気がした。

 その瞳の奥に絡み取られ、無意識に腕を彼女へと伸ばしていた。

 彼女の細い腕もググゥの指に触れようと伸ばしてくる。

 痩せた大地に囚われた木の枝のように頼りなく。

 彼女の手首を強く掴んだ。

 もう二度と離してしまうことがないように。

 そして連れ去るように彼女の身体を抱き寄せる。

 総てが緩やかに心に映った。

 彼女の柔らかい髪が宙でしなやかに描く弧。

 閉じられた瞼の上で微かに震えている睫。

 抱き寄せられるままに流れる肩の線。

 冷たい空気を染めて届けられる彼女の匂い。


――そう、この匂い……


 焦点がぼやけた彼女の背後では、枝に積もっていた雪が滑り出す。

 その雪は落下しながら切り込みが入り、いくつかに割れた。

 軽い音を残し、白銀の大地に穴を開けてその姿を隠す。

 彼女の手首は雪のように白く、そして冷たい。

 が、脈を打っている血液の流れと熱が少しずつ伝わってくる。

 思考は停止したままだった。

 五感だけが今を強く感じ取ろうと、思考の何倍もの速さで脳に情報を伝える。

 彼女の腕を掴み、引き寄せてみせるだけで、彼女の、ふたりを包んでいる世界を、この世界を織り成している時間そのものさえも支配できそうな気がした。

 左の頬に微かな痛みが走る。

 そのような些細なことは気にならなかった。

 いや、そのことに気がつかなかったのかもしれない。

 頬を掠めた矢が、

 そのまま彼女の左胸を貫いた軌跡は、

 見えなかった。

 その事実に気づかされたときには、

 視界の中央で、

 弾かれた赤い球体が、

 生まれたてのしゃぼん玉のように、

 無邪気に躍っていた。

 彼女の瞳は大きく見開かれ、

 一瞬だけ苦痛の色をみせ、

 崩れ落ちるように倒れかかってくる。

 彼女の全身を、

 両腕で、

 胸で……


――しっかりと受け止めた。


「何て、君に声をかければいいのか分からなかったよ」

「いいのよ、そんなこと。どお? 元気にしてた?」

 彼女はゆっくりと背中に腕をまわしてくる。広くなった背中では、彼女は腕を充分にまわせない。けれども、傷を負ったはずなのに、僕よりも優しく背中を撫でてくれた。

「驚いたでしょ、私が鳩と鴉との不義の子供だったなんて」

「いや、なかなか悪くない。僕だって似たようなものさ。いつの間にか真っ黒な渡り鳥になってしまったし、今では翼を背負った鳥人間さ」

 彼女の掠れた声に対して、泣き笑いで応えるしかなかった。笑って応えるには涙が止まらなかったし、泣いて応えるには余りにも感情が複雑すぎた。

「まさか、本当に再会できるとは思わなかったわ」

「僕は絶対に再会できないと思ってたよ」

「……どうして?」

「悲しみの分量が余りにも違いすぎると思っていたから」

 再会できたことの歓びが一瞬にして全身を駆け巡る。

 その後を追いかけるように悲しみが押し寄せ、溺れそうになる。

「短すぎる時間の再会だ」

「そうね、短い時間だったけど、最後があなたでどこか安心してる」

 この樹海に飛び込み、彷徨った果てに彼女を見つけ、ドーナツを食べて別れて、もう一度同じ木の下で再会した。ようやくこの世界の秘密が解けた。いや、秘密を見つけた。

「この森で、黒い鳥が歩いている姿を見かけたときは驚いたわ」

「どうして?」

「あなたのような気がしたから。真冬の樹海に渡り鳥、色も真っ黒で、しかも飛ばずに歩いている。こんな変わり者は少ないわ。それに、あなたはいつも姿を変えて話をしてくれたじゃない」

「そんなにたくさん話をした?」

「馬鹿げた話も、いま一つしっくりとこない話も含めてね」

「そうか……、だから僕はいつも手探りのように、同じような質問をして、確かめたかったんだ」

「何を確かめたかったの?」

 その質問には答えなかった。

 北の最果ての大陸で、『再会』の続きを探していた。いや、性懲りもなく探してしまった。最初は決定的な終わりを告げようとしていたはずなのに。総てを終わらせるには、雪と冷気が支配するこの樹海はちょうどよかった。景色の変化はなく、他に生きものもいない。『再会』を生まないこの痩せた土の中に、思い出も感情も何もかもを葬送しようとしていた。渡り鳥ググゥは紛れもなく僕そのもので、彼は僕の心象世界の旅人だった。そして、まだ伝えきれない言葉が残っていたのか、彼女を、もしくは彼女のようなものを、もう一度だけこの世界、『天秤の国』に召喚してしまった。結局はそうなってしまった。

 僕は彼女の髪にそっと鼻を押しつけた。

 これが彼女の匂いだったのか、もう思い出せなかった。いろいろなものが混ざり合って生まれた匂いなのかもしれない。それはそれで、今の彼女の匂いがしたような気がした。

 物語は動き始めている。


――確かめたかったこと、それはあの別れたバス停で生まれた物語の続きであるのか、ということ。


 いつもそのことを確かめたかった。

 もう終わりなのかと、まだ終わりではないのかと。

 彼女と再会できた歓び……それはこの話もまた、まだ続きであったということ。


 しかし、この話は綴られていくうちに捻じれた。発想から遠ざかり、僕自身が戸惑った。今朝感じた違和感。どこかの、知らない舞台に放り込まれたように感じた違和感こそ、話の捩じりを感じた証なのだろう。

 これは仮定の話だ。

 『天秤の国』は彼女の心象世界でもあるのかもしれない。彼女も似たような風景を選び、最後の目的を果たそうとしていたのだ。言わずもがな、あの鳩の惨劇のことだ。彼女の口から語られることはないだろうけれども、彼女だって抱えきれないほどのやりきれない気持ちを抱えていたはず。僕は、そういう彼女の手の届かない何かにも惹かれていたのだから。

 手の届かなかった、彼女の心象世界。偶然なのかは分からないけれども、重なり、飛び込むことができた。お互いに東西から森を彷徨った。巡り合う予定なんて用意されていなかったのかもしれない。しかし、その異国の彼女はドーナツを取り出し、一緒に食べることを提案してくれた。彼女はそのときにこの世界の構造に気がついたのだろうか。だからドーナツに託して、意味深な言葉を言い残した。

 これさえもググゥの、僕が生み出した妄想なのかもしれない。しかし、これが心象世界でも妄想でも構わなかった。ここも『永承の砂浜』と同様に逃げていく世界。今は、彼女と会話ができるこの僅かな時間、温もりが感じられるこの一瞬に溺れたかった。終わりが用意されている優しい絶望に。

「リリィ……」

 思わず言葉が漏れた。

「なぁに」

 彼女は腕の中で怪訝そうな顔をしたが、すぐに笑ってくれた。正確には笑い声は聞こえなかった。彼女の背中にまわした手のひらからその様子が伝わってきた。

 彼女は僕の作り話をいくつも知っている。そしてこういう愚かでどうしようもない性格も。

「ごめん、もう少し平穏なところで、こんな結末じゃないところで会いたかったよ」

「あなたが謝ることなんてないわ。いつも私の勝手ばかりだったもの。それに覚悟はできていたしね。思い出せることは時間が経てば少なくなるし、限られてもくる。同じことだけが繰り返され、けれども結末は書き換えることができない。それにこれは私が選んだ結末でもあるのよ」

 そう、思い出されることは限られてくる。新しい展開は乏しくなり、枝葉を変えたところで、幹を辿り、定まった結末へと収束されていく。だから、もう、異国の彼女とは新しい言葉は生まれず、新たな物語が綴られることはないのだ。一緒に樹海を彷徨うだけの未来には残されていない。ドーナツを食べ終えたら彼女は忽然と消えてしまったし、再び会うのにも一千もの昼夜を必要とした。それに彼女の匂いを僅かでも留めておくことはできなかった。思い出は遠くに、彼方へと離れていく。宇宙の広がりのように。

 妄想の灯も残り僅か。再び出会うのに一千もの昼夜を必要としたのは、間違いなく再会を生む糧が足りなかったからだ。

 その中で奇跡が起きた。お互いの悲しみが偶然重なり、引き寄せ合ったのだろう。僕は思い出の彼女を、もしくは彼女との思い出を葬送しようとしていたし、彼女は自身の過去との決別を望んでいたのだろう。葬送と決別がこのような形で作用したのだ。時々見あげる空が同じ空だったのなら、この空は、優しさの青なのだろうか、残酷の青なのだろうか。それともやはり何もない青なのだろうか。

「私はどこへ行っても必要とされなかったし、迷惑ばかりかけてきた」

 無言で、彼女の背中をさする。昔抱きしめた感触が鮮明になる。

「周りはおもちゃのような世界…」

 彼女の悲しそうな声が伝わってきた。きっと涙をいっぱいに浮かべて。唇を微かに震わせながら。それでも懸命に笑おうとしながら。

 彼女と鳩たちの間で何があったのかは謎に終わってしまいそうだが、それは僕が知らなくても構わないことなのだろう。周りはおもちゃのような世界……その呟きが彼女の最期の言葉となった。

 そう、僕と彼女はおもちゃのような世界で戯れていた。現実に身を委ねながらも、ここではない別の世界へ逃げようとしていた。いつからだろうか、出会ったときからそうだったのかもしれない。

「空高く飛ぼう。僕には黒い翼がある」

 彼女の手を離し、連れ出さなかった僕は愚か者だったのだろうか?

 彼女を連れ出さなかった僕は、彼女を少しでも幸せにすることができたのだろうか?

 このような結末であったとしても。

「さて、どこへ行く? チョココルネの無限製造工場、一週間前には揚げたてだったはずのドーナツばかりを売っている偏屈爺さんが営んでいるお店。それともシュークリームを収穫できる段々畑の辺境の地?」

 彼女の耳元で言葉を続ける。両腕で彼女を抱え、背中の翼を大きく広げてみる。

「いや、柔らかいドーナツを売っているお店ならどこでもいいかな」

 背中に太陽の熱を感じる。

 雪に落ちた影は大きく、無言で彼女を包んでいる。


――さぁ、その環で僕の行くべき先を照らしてくれ。


 考えてみればおかしな符号ばかりだった。池で泳いでいる二羽のカルガモを見て、一緒にああなりたいと思った。静かな日々を穏やかな感情で過ごしたかった。同じ渡り鳥だった頃は、短い蜜月の余韻に戯れながらも、そこはかとない悲しみに絡み取られて別離がきた。それから海を渡り、駅のプラットフォームで出会ったときには、僕は鴉のように黒く染まった姿に変わり、君は白いワンピースが似合う天使になっていた。僕は翼を負傷し、君は古ぼけた環を頭に掲げ、翼をもたない落ちこぼれの天使だった。一緒に歩き続けた。山を登り、川で泳ぎ、楽しかった。この国で再会した君は、ドーナツが好きな異邦人になっていたと思いきや、実は鳩と鴉の不義の子という奇妙な生い立ちを背負っていた。一方、僕はようやく渡り鳥の姿から戻ることを許された。背中には黒い翼を残したままだけれども。

 そして今、眠りについた君に話しかけている。君には相変わらず古ぼけた天使の環があり、僕の背中には真っ黒な翼が物語を超えて残った。中途半端だ。ふたりを合わせてみたとしても立派な存在にはなれそうにない。でも、これで何とか一緒に空を飛べそうな気がした。

「足りないものは補い合えばいいんだよね」

 失って、大切なことを後からいつも気づかされる僕は愚か者だ。

 腕の中の彼女も、ゆっくりと頷いてくれたように思えた。

 本当に、長い旅路だった。


――僕は何度君に恋をしたのだろう?


 翼に力を込めた。その力強さに驚かされる。一度羽ばたいてみただけで、全身が空へと吸い寄せられてしまいそうだった。これならば彼女を抱えたままでも空へと舞いあがることができそうだ。翼の他にも腕がある。彼女をしっかりと抱えることもできる。

 彼女を落とさないように、もう一度両腕で抱きしめた。

 一度だけ空を睨む。

 何もなかった。何も感じられなかった。結末を描くにはちょうどよいほどに。

 雲一つない青空の極みを目指して羽ばたいた。

 足元の雪は蹴散らかされる。

 竜巻が瞬時に起こり、放射状に煙る。

 経験したことのない力強さと安定感だった。視線を下方へ這わしたときには、彼女と再会を果たした大樹の高さまで上昇していた。

 しかし、ふたり分の体重を支えての飛翔、総てがうまくいくほど甘いものではなかった。いかなるものよりも速く真っ直ぐに空を割って天に近づいているつもりでいたが、地上から狙われた矢のほうが速かった。

 空気が鳴く。

 矢の群れが視界の端を掠めていく。

 第一陣の矢は降り始めの雨のようなものだった。幸運にも当たらずに遠ざかっていく。

 不気味な静寂の後に放たれた第二陣の矢は、その量もコントロールの精度も格段に上回っていた。

 統制の取れた矢は、それだけで雨脚が強くなったように感じる。黒い豪雨が下方から迫ってくる。視界から逸れていく矢の数はもはや数えきれなかった。

 西からの上昇気流を掴んだ。

 勘を頼りに身体を傾けて旋回する。

 矢の雨がすぐそばの空気を割く。

 再び強く羽ばたき、体勢を立て直して更なる上昇を目指す。

 その刹那、右の翼の先に痛みを覚えた。矢の軌道を捉えられなかった。

 戸惑い、右の翼に意識を奪われてしまう。その直後、今度は左の翼の付け根のあたりに決定的な痛みが走った。

 左脚を巨人に掴まれたようにバランスを崩した。身体はゆっくりと時計と逆回りに回転しながら失速し始める。それでも両腕の力を緩めなかった。このようなところで彼女を手離すわけにはいかない。もう二度と離さないと誓ったのだから。

 墜落しそうになっては再び這いあがり、大空いっぱいに異国の文字に似た複雑な軌跡を描いた。

 再三思い知らされるようだった。やはり空を飛び続けることはこれほどまでに苦しいことなのだろうか。歯をくいしばりすぎて奥歯が痛みだす。それでも空一点から視線を逸らすことはなかった。

 けれども、なぜだろう、なぜか気持ちは清々しい。こんな崖っぷちに追い込まれて、思いを遂げることができた達成感に包まれていた。その余りの遅さに、何だろう、何だろうな。

 肉体の限界はもうすぐそこまで迫ってきていた。ふたり分の体重が背中と腕を締めあげる。肉体が苦痛に蝕まれれば蝕まれるほど、心にはこの空と同じものが広がってくるようだった。

 軽かった。

 空っぽだった。

 初めて空と一体になれたような気がした。

 再び落下しては上昇し、肉体が限界点に触れたとき、首を伸ばし、自然と太陽に向かって微笑んでいた。

 それから冷静にバランスを整えると、もう二度と無茶苦茶な上昇を繰り返さなかった。

 上昇速度がゼロになった時点で息を止める。翼をたたんで彼女をしっかりと抱きしめた。後は重力に身を任せるだけだった。

 瞬く間に引力をまとい、急降下に転じる。目を閉じることはしなかった。

 見開いたまま、眼下の視界を睨みつける。

 海は見えなかった。地表を覆った銀世界に、針葉樹が黒いまだらとなって島々のように雪の海に浮かんでいる。森の切れ間からは、蟻の大群のように四方から鳩の群れが行進し、じわりじわりと集結している様が見て取れた。

 もはや彼女を抱いたまま、空の果てを目指すことは叶わない。このままでは力尽きてか、射抜かれてか、鳩の群れへこの身を差し出してしまうだけだろう。それはそれで一人の生き様としては悪くなく、なかなか魅力的な最期でもあった。しかし、その決断を選ぶことはできない。まだ最後の仕事が残されている。

 ふたりで力尽きるよりも、彼女をどこかへ僕の力で連れ出してあげたかった。ここではない、どこかに。そこで静かに弔い、祈りを捧げる。恋の葬送。これが自分にとって最後の仕事になる。彼女は心の弱い生きものであったけれども、優しい心の持ち主だった。それは本物だった。

 飛ぶ力を再び失った翼。けれども、身体に巻きつけた黒くて大きな翼は、彼女を守る大きな影となった。

 弾かれた旅路の果てに、僕は黒い翼を宿した鳥人間という中途半端な悪魔のような姿になってしまった。赤い眼から頬を伝う涙は、ここまで旅を続けてきた誇らしい愛の証となった。

 逆さまとなった両肩で気流を読み、舵を取ると、戸惑うことなく鳩の一団を目指して落下を続ける。

 無数の矢が放たれた。

 急所を射抜かれれば即死だ。怯まず鳩の一団を目指す。その中央に向かって。

 再び一斉に矢先がこちらへ向けられ、放たれる。

 ほとんどの矢は、重力を味方にした僕を捉えきれない。

 左右の矢が空中で交差する。

 時折、気まぐれにはぐれた矢が視界を横切るだけだった。

 左の腕に激痛が走った。

 なぜ今さら鳩の大群のど真ん中へ飛び込もうとしているのか、自分を納得させられるだけの理由は思いつかなかった。

 音を立てずに、右の翼と左の脚にも矢が刺さる。

 最後になるだろう賭けをしてみたくなっただけなのかもしれない。

 記憶は確実に薄らいで夢と現実の狭間へと落ちていく。拾うことも救うこともできない灰色の谷間へと。もしこの戦場をくぐり抜けられたのなら、自分では導くことができないあらすじが生まれ、物語は続いていくのかもしれない。その奇跡に託したかったのだろうか。

 恐れるものは何もなかった。失うものもない。両腕の中の彼女を落としてしまわない限り。

 視線を自分の身体に向けてみれば、彼女の身体にも数本の矢が刺さっていた。矢を伝って血が流れ落ちる。ふたりの身体から零れ落ちた赤い血は、鳩の兵隊たちへの天気雨となった。

 鳩たちは次々と倒れ始める。血を浴び、内部機関が錆びついてしまったのかもしれない。やがて夜明けを待って眠りについたように動かなくなった。その穏やかな寝顔は、温かい血を分けてもらい、心が芽生えて満足しているようにも見えた。忙しく動くことを止めた鳩の兵隊たちはそれくらいに安らかだった。

 僕は血ばかりでなく涙も止めることができなかった。悲しくはない。悔し涙でもなく、嬉し涙でもなかった。そして冷たくて透明でもない。熱くて真っ赤な涙だった。予定よりもはるかに長くなってしまった旅に、心は乾き続け、充血した眼から振り絞られた涙だった。人生の最後には泣きたいとどこかで願っていたのだろうか。だとすれば、これは感謝の涙に違いない。


――そういうことだったのか。


 力尽きそうになった今、どうしてこのような危険を冒してまでこの空を飛びまわりたかったのか、その本当の意味にたどり着けた。

 単純な答えだった。再び空を飛べるようになった姿を、誰かに見てもらいたかっただけなのだ。太陽でも雲でも風でも森でもなく、心を宿している誰かに。そしてどうして再び空を飛べるようになったのか、その力を授けてくれたものは何だったのか、それを知ってもらいたかったのだ。

 鳩の一団の上空を旋回し、二度円を描くと、上昇して宙返りをしてみせた。まさに最後の力を振り絞って。

 その後は、再び重力を味方につけて、軍団の中央を目がけて一直線に突入した。矢が放たれるよりも速く、鳩たちの頭上を滑り抜けるように。視線は地を這わせたまま。飛び込んでくる鳩の顔一つ一つを確認しては捨てていく。


――見つけた。


 長である鳩の女王の姿を。

 よく似てはいたが、その鳩は僕が知っている鳩の女王ではなかった。煌びやかで、若さに満ち溢れ、涼しげな目元をした鳩だった。

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