結婚3周年のサキュバス

兵藤晴佳

第1話

 ――男が独り眠るベッドの前に現れた、ひとりの女がいる。闇の中にぼんやりと輝く白い裸身の背中には、コウモリに似た翼がある。

 目覚めた男はしばし呆然としていたが、裸でベッドから跳ね起きるなり、女を抱きしめた――


まさかお前にもう一度会えるなんて……そうか、これ、夢なんだな。夢。

 そうでなかったら、幻か? 

 どっちだっていいや。

 おい、何だよ咲来さくら、今になって出てくるなんてさあ……。何年経ったと思ってんだよ、3年だよ、3年。

 そりゃ、悪かったと思ってるよ。お前が死んですぐに再婚したのは。

 仕方ないんだよ、周りの連中がうるさいからさあ……。

 いや、元禄の時代から今まで続いて、遠い親戚には大臣までいる玖珂見くがみ家ともなるとな、俺ひとりじゃ結婚も決めらんないんだよ。

 玖珂見士郎しろうひとりじゃ。

 知ってるじゃん、お前と結婚するときだって、俺、勘当同然だったんだから。籍だって入れてないし。

 いや、だいたいどうやって籍入れるんだ、サキュバスと……。

 それはそれとして、言えるわけないじゃん、サキュバスと結婚するなんて。普通の人は信じない、そんなの。

 俺だって、死ぬか生きるかの目に遭ったのを助けて貰わなかったら……。

 

 お前だけじゃないんだな、その、サキュバスってのは。

 確かあの晩、夜中に目が覚めたら、何か、女が乗っかってたんだよ、俺の上に。

 なんかやらしい夢を見てるんだな、って自覚はあったけど、まさか現実だったとは。

 がっちり押さえ込まれた俺の両の腕から、なんかすうっと力が抜けていってさあ……。

 しまいには、俺の唇にその女の唇が迫ってくる。

 でさあ、間近で見ると綺麗なわけよ、その女がまた!

 ……悪かったよ、見るなって、そういう目で。

 あのときも、あんな目してたよな、お前は。

 

 窓からさしこむ月の光に長い髪がさあっとなびいてさ……きれいだったぜ。

 あの声も、別の意味でゾクっときた。

「わが黒髪よ」

 だけど、その後がいけないや。

 髪が長いのはいいけど、そのうえ伸びるってのはどうも……。

 そのくせ、俺の上に乗っかった女がそれに絡め取られて、宙に引き抜かれるように姿を消したのには、あんまり驚かなかったな。

 目の前に現れたお前は、そのくらい衝撃的だったんだよ。

 あの長い髪は、俺の心をがんじがらめに縛っちまったってわけだ。


 それはいいとして。


 サキュバスがは男の夢に忍び込んで生気を搾り取るもんだと思ってたけど、本当はそうじゃないとはね。 

 いろいろ……するときは実体を取るわけだ。

 咲良、お前も。

 名乗ったのが本当の名前かどうかなんて、どうでもいい。

 お前が言うには、サキュバスはいったんやってきたら、不意打ちしない限り追い払えない。

 俺のそばで睨みを利かせていれば、あのサキュバスは二度とやってこないからって、お前はそのまま俺のところに居座ったわけだけど……。

 お前も憑りついたわけじゃん、俺に。

 え? 

 そういうのから男を守り抜くためだけに憑りつくサキュバスもいる? 

 どんなサキュバスだよ。お前らはそれでいいのか? お前らは?

 自分たちは所詮、魔物だから愛してくれさえすればいいって?

 照れるじゃないか、そんな。

 つい、そういうこともしないでここまできたわけだけど。

 いや、だからってさ、そこまですることないだろ。命懸けで俺を諦めるなんてさ。

 そりゃ、まさか遠い親戚までが俺のためだけに動くなんて思いもしなかったよ。家名に傷がつくとか何とか、俺はどうでもいいんだって、そんなこと。

 いちど愛した男から離れるときは死ぬときだって分かってたら、お前と一緒に地の果てまでも逃げたよ。

 それなのに、何だよ。

 俺の前から、風に吹かれたみたいに消えちゃってさ。

 サキュバスには例外があるんだろ? 人に憑りついてやって来るっていう……。


 ――男は、絶妙のカーブを描いた滑らかな背中を撫でる。そこには、流れていて然るべき黒髪がない――


 置手紙と一緒に残してった、あの髪の束、いったい何だ? 

 形見のつもりか?

 それにしたって限度ってもんがあるだろ、お前の髪全部だろ、これ。

 何……? 髪をなくしたら、パワーもなくなる?

 動くことも……実体もなくなる? 

 何で?

 ……もう自分は必要ない? 結婚した男を、サキュバスは襲わないから?

 寂しいこと言うなよ。

 俺には、お前しかいなかったんだから。

 だって、籍入れられないんだぜ? 親類縁者に押し付けられた女と結婚してたって、別にいいだろ。

 ああ、名前? 萩乃はぎのっていうんだけどさ。

 妬いてるのか? 妬いてる? 

 だったらさ……守ってくれなくたっていいんだ。ただ、一緒にいてくれれば。

 それなのに、こんなこと書いちゃってさ。

「夢か幻の中で、お会いしましょう」

 女房に邪魔されたくないからさ、俺、女房とも別の部屋で寝て、何にもしないでずっと待ってたんだぜ、3年も。 

 何をしなかったか? 聞くなよ、そんなん、分かってるくせに……。


 ――だが、男は女の豊かな胸からその肌を引き剥がした――


 でも、それも、今夜で終わるはずだった。

 女房に見つかっちまったんだよ、その、髪の束。

 最初は悲鳴上げやがってさ、そりゃそうだよな、一種のホラー映画だもの。

 萩乃のヤツ、すっかり腰ぬかして縮み上がっちゃってさ。

 浮気の証拠が見つかったって大騒ぎされるほうが、よっぽどマシだったよ。

 見てられなくてさ、とりあえず、こう言っといたよ。

 「死んだ昔の恋人の形見だ」ってさ。

 ウソなのに、夢でもお前に会えないのが悲しくてさ……。

 そしたらさ、萩乃のヤツ、一緒に泣いてくれるんだよ。

 何だか可愛くなっちゃってさ。

 ……何言ってんだ、俺。

 そんな目で見るなよ、正直に言うからさ。

 

 俺、今夜、萩乃と寝る。

 意味、分かるよな。

 ……どっか隠れろ、ほら。

 え? どっちみち、俺にしか見えやしない?

 そういう問題じゃないだろ、人に見られて、っていうか、昔の女に、っていうか、とにかく、人前でデキるかよ! 俺はそんな変態じゃない!

 ……いや、萩乃、そういう意味じゃない。お前キレイだって、スケスケのネグリジェにゾクっときたって、ほら俺のここ……おい、何やってんだって、こんな、ベッドの上にって、立場逆だろ、何すんだコラ、こんなにがっちり押さえ込んで……俺の両の腕から、なんかすうっと力が抜けていく……。

 仕方がないよな、夫婦なんだから……いや、咲良、そういう意味じゃないだって、ホントに!

 何か言ったかって? いや、何でもない、気持ちよくってつい、口走っちゃったんだって、そう、変なこと。

 え、萩乃、何だって? 

 キスして、ほしい?

 いや、別に嫌じゃないけど……いや、やりたいわけじゃないよ、咲良。仕方がないんだって、仕方が!

 だから……。


 今だ!


 ――ドアを開けて現れた、肌の透けて見えるネグリジェ姿の妻の四肢は、裸身の女の長く伸びた黒髪に絡め取られた――

 

 ……いい格好だな、萩乃。あの晩を思い出すぜ。

 何で、こんなことになったかって?

 知ってたんだよ、咲良は。

 お前があの晩のサキュバスだって。

 正確に言えば、サキュバスに憑りつかれた萩乃だけどな。

 執念深いな、他にも男はいるだろ? それとも、血筋のいい男でなけりゃダメなのか? まあ、人脈は関係ないよな、サキュバスには。 

 どうだっていいや、そんなこと。そこまで女に付きまとわれりゃ、男も本望ってものよ。

 だがな、男のナニまで吸い尽くされるわけにゃいかん。

 そういうわけでな、3年がかりで一芝居打ったわけよ。


 サキュバスは髪と一緒にパワーもなくすっていうのは、お前らには暗黙の了解だったろうな。

 だから今日、髪の束を見せたのさ。

 案の定、お前は引っかかった。

 叫んだり泣いてみせたり、ご苦労なことだったな。

 何でこんなまわりくどいことをしたかって?

 お前を油断させるためさ。

 不意打ちしないと勝てないからな。


 そう、3年かかったんだよ、髪の毛がすっかり伸びるまで!


 ――もう1人のサキュバスは、闇の中へ放り出されるようにして消えた……かと思うと、ネグリジェ姿の女だけが床の上に倒れる。それにも構わず、きしと音がするほど固く抱き合う裸身の男女の姿が、そこにはあった――


 ……3年前と、同じことになったな。

 もう、迷わないぜ、咲良。

 あのサキュバスから解放されたら、この女、何も覚えちゃいないんだろう?

 明日になったら、この女もが目を覚ますだろう。

 大騒ぎになる前に、地位も名誉も投げ出して、俺は此処を出ていく。お前と生きるんだ。

 苦労かけるけど、いいな?

 え?

 だから、その前にこの女の部屋で、その……結婚3周年記念に。

 ちょうど、こんな格好だし。

 え? 

 …… 自分たちは所詮、魔物だから愛してくれさえすればいいって?

 照れるじゃないか、そんな。

 とりあえず、だから、結婚3周年目の記念に、その……ちょっと?


 ――裸身の女は男の腕をすり抜けて、さっきのサキュバスが寝ていたであろう部屋へとドアを出ていく――


 え?

 愛してくれさえすればいいって、そういう意味?

 そりゃないよ、サキュバスだろおおおおおお! 

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結婚3周年のサキュバス 兵藤晴佳 @hyoudo

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