クラーク・アシュトン・スミスにはなれないけれど
スミスの小説を読んだ。創元推理文庫より出ている大瀧啓祐氏の訳ではなく、ナイトランド叢書より出ている安田均氏や荒俣宏氏の訳の物を。訳者が変われば表現も大きく変わるものだが、日本語の表現は変われどもスミスの書く文章は詩人らしく美しいと私は思う。
彼にあこがれ幻想怪奇の世界を自分の言葉で書きたいと願いながらも、ふらふらと腰の定まらない私だったが、昨今は本当にひどい。最近それを思い知らされた。
だから、いくつか自分の中でルールを決めた。
一つはこれからも物語は書くが、完成し全体を推敲したものしか更新はしないということ。
一つは覇王ベルシス・ロガの独白、俺の師匠はレベル1をまずは完成に持っていくこと。
その二作を終えてから、その時自分が書けると感じたものを作成し、完成させてから更新するということ。
そして、視野を広げるためにも、気になった作品は目を逸らさずに読むこと。
素晴らしい作品を読んでショックを受けるような位置に私は立っていない。ショックを受けるなんて言うのは相応のレベルのものが感じることだ。素晴らしい作品に出合えたならば、その感動を人に伝えるべくレビューし、その過程でその作品を分析し、自らの作品に生かすのが成長に至る最短の道だろう。
最近は他の方の作品を読むことをやめていたが、それが良くない方向に私を導いたような気がしている。他人は知らないが、私は読まないと駄目なのだ。
よく小説は読まずとも小説は書けると言うが、そういう人もいるのだろう。読まずにすらすらと世界が描ける者もいれば、そうではない者もいるという、ただそれだけのことで、私は後者なのだ。だから、読んだ方が良いと思うのだ。
書く方でもきっと、その時々の気分で流行りを追ってみたり、あるいは古臭い、読み難い小説を書いたりとするだろうが、私はそれで良いのだと思う。
何を書いても良い。ただ、それは作品と向かい合い完成させればの話だ。
これは当たり前のことなのだろう。私が知る作家さんは基本的にそれができている。その当たり前ができていない、だから、私はまだまだ半人前なのだ。
今温めているキャラクター達も、今の私では力不足で描き切れない。だが、いずれは書ける時が来る。
人生は長いかどうかは分からないが、たとえ明日には命が尽きるとしても身の丈に合った作品を書かねば完成させることはできないだろう。
生きながらえ、継続していればいずれは届く境地もあると、先を見据えて書いていこうと思う。
そんな決意をもって、このエッセイと言えるのか分からない文字の羅列に終止符を打とう。
もし、次にエッセイらしきものを書くことがあるとすれば、自分が何かしら成長を感じた時にだと思う。他の方から見れば成長していないと見えても、自身がそれを確信できるならば何を恥じることがあろうか。……とはいえ、エッセイもどきを閉じるのは、まあ、近況ノートで十分だわなと思ったからでもあるのだが。
ともあれ、私はクラーク・アシュトン・スミスにはなれないけれど、自分の作品と向き合ってこれからも創作は続ける。
そして、いずれは憧れた終末世界ゾティーク(あるいはゾシーク)を描いたスミスのように、終末世界ファンタジーを延々と描き続けてやる。ブライアン・ラムレイがどれだけ馬鹿にされようとも、変容させようともクトゥルフ神話を書き続けたように。
これが小説書き始めて三年しか経っていない四十を過ぎたおっさんの、いまさらながらの決意表明だ。
……うん、やはりどこか格好つけたがる癖は抜けないな。
C・A・スミスに憧れて キロール @kiloul
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