三年越しの殺意

古月

三年越しの殺意

 宰我さいが問う、三年の喪はにしてすでに久し。


 位牌の前にひざまずきながらその一節を思い浮かべ、りゅう英霞えいかは知らず口元を歪めた。

 父母の死に際して三年の喪に服す、そんな習慣は過去のものだ。それは英霞だってわかっている。三年の喪は長すぎると問うたこの宰我に対し、なんと親不孝なことかと答えた聖人はよほどの暇人か、ことさらに世間体を気にした人物に違いない。三年も大人しく身をつつしんで過ごすなど、正気の人間にできるはずがないではないか。


(つまるところ、私は正気ではない)

 英霞が三年の喪に服すと決めたとき、周囲の人間はあるいは孝行者だと言って称賛し、あるいは時代錯誤だとあざけった。だがそんなものは馬耳東風、世間体を気にして決めたことではない。そうする必要があったからこそやったのだ。


「お嬢様、だん様がいらっしゃいました。客間でお待ちです」

 下女が呼びかけるのへ、英霞は表情を変えぬまま頷いた。


 また、あいつが来たのか。


 この三年間、あの段こうという男は十日に一回はこの劉家を訪れている。段家の跡取り息子が、そんなに頻繁に放蕩していて大丈夫なのだろうか。あるいはそれほどまでに、この劉家が欲しいのか。


 段家も劉家も、この周辺では最も大きな茶葉の流通経路を持つ商家だった。茶葉は王侯貴族から文化人まで、裕福層に広く親しまれている。特に希少な茶葉を遠方から取り寄せればたちまち高値が付いてひと財産できるほどだ。そして数年前、英霞の父は武夷ぶいとの通商路を開いたことで巨万の富を劉家にもたらした。

 段家はそれが欲しいのだ。


「やあ、英霞。ご機嫌いかが?」

 客間に入るなりにこやかに微笑みかけてきたこの男が、段家の長男、段浩だ。喪中の家に入るにも関わらず豪華な衣装を身にまとい、手には親骨に宝石を埋め込んだ扇子、指輪をじゃらじゃら、いかにも成金らしさにあふれている。こちらの白衣びゃくえとは正反対だ。

 英霞はまともに答える気も起きなかった。ただ無言で会釈を返す。すると段浩はそれだけで満足そうに頷いた。

「それは良かった。それにしてもあと数日で親父さんが亡くなって三年が経つんだね。君は本当に孝行者だよ」

 英霞は会釈するばかり。

「君は気が早いと怒るかもしれないけれど、婚礼の準備は万事滞りなく進んでいるよ。御母堂おかあさんとさっき示し合わせたけれど、十日後、喪明けの四日後が吉日だ。その日に君を迎えに来る」

 英霞は答えない。それでも段浩は勝手に話を続ける。

「両家の婚姻は親父さんの御遺志だからね。必ず君を、この街で一番の、いや、この世で一番の幸せ者にしてあげるよ。皇后や公主でだっておよばないくらいのね」


 結局、英霞が一言も発さないまま、段浩は話すだけ話して帰って行った。


 英霞は今でも信じていない。父が急な病で死んで、遺品を整理する中で見つかった遺言状。その中に記された段家と劉家の婚姻に関する約定。曰く、段家が長子浩と、劉家が長女英霞を夫婦めおととし、両家の永遠とわの繁栄を願うとの一文。


 あり得るものか。自室に戻った英霞は白衣を脱ぎ捨て、苛立ちもあらわに床へ叩きつけた。絶対にあり得ない。あの武夷茶の販路は父が長年苦労して道中の渡りをつけ、何度も挫折しそうになり、時には危険な目にも遭いながら、やっと開いた道なのだ。それをあんな遺言書一枚で、簡単によその家に明け渡すだなんて考えられない。


 これは段家の策略だ。段浩か、あるいはその父親か。いずれかが父を謀殺したのだ。

 もちろん証拠はない。すべては英霞の勝手な想像と言われれば反論の余地はない。だが英霞にとってはそれが真実だ。いくら遺言状があるからとて、その策略に唯々諾々と従ってなどやるものか。

 だから三年の喪に服した。喪に服している間は婚礼など挙げられるわけがない。喪中という名分のもと段家からの婚礼の相談を突っぱね続け、その間に茶の販売は父の片腕だった万安ばんあんという男に続けさせた。あの武夷茶を売ることで劉家の評判を大いに広げ、段家から市場を奪い去ってしまおうと画策した。段家も事業が潰れては婚礼どころの話ではなくなる。そう踏んでいたのだが。


 武夷茶の販売は思ったほど上手くはいかなかった。粗悪品を掴まされたこともあれば、運送中に野盗に奪われたこともある。あるいは雨に濡れてカビてしまったり、急に仕入れ値を釣り上げられたりしたこともあった。

 劉家は英霞の思惑とは裏腹に、むしろ以前よりもその勢いを弱めてしまっていた。


 こうなっては、もはや他に手段はない。


 夜を待ち、英霞は藍染めの衣装に身を包んだ。寝台の下から引っぱり出した剣を背負い、暗がりの中へと飛び出す。


 かくなる上は、段浩を殺すしかない。英霞は心を決めていた。

 あの遺言状は段家がねつ造したものに違いない。奴らは卑劣な手で劉家を呑み込もうとしている。そんな卑劣な輩には、この手で正義の裁きを下してやらなければ。

 三年間待った。それだけの猶予を与えた。その間に奴らが諦めてくれればそれで良かったのだ。だが彼らは退かなかった。数日ごとに劉家を訪れてはこちらの期限を伺い、この一年はあからさまに婚礼の話だ。英霞の意思など、とっくに透けて見えていたはずであろうに。


 もういい、もうたくさんだ。三年間耐えてやったのだ、もう頃合いだろう。


 段家の敷地に塀を乗り越えて忍び込む。ずっと昔、父が存命だったころに茶会に呼ばれて行ったことがあり、その間取りは把握している。段浩の居室がある楼はすぐに見つかった。

 段浩はすでに眠っているようだった。燭台の灯は消えているが、開けた窓から差し込む星明りが室内を照らしている。天蓋付きの寝台の中、豪華な布団にくるまって眠る段浩がいる。


 英霞は剣を抜き、一度ためらい、しかし意を決してその剣先を布団の中へ突き込んだ。ぐっ、とうめき声が聞こえた直後、英霞はもう何も考えられなくなった。突いて、突いて、突いて、突いて、突いて、突いて突いて突いて突いて突いて突いて突いて――。


 気が付けば段家を離れ、郊外の小さな廟に迷い込んでいた。ここはずっと前から守る者の居ない無人の廟だ。奥には名前も知らぬ祭神の塑像そぞうがあったが、剥がれかけた顔面が不気味だからと誰も近寄りたがらない。

 英霞はその廟へと向かって歩いていた。本当はこんなところへ寄り道するつもりはなかった。だが段浩を突き殺したことによる動揺で、知らず知らずのうちにここへ来ていた。


 そうだ、私は人を殺したのだ。


 あの瞬間、布団に剣を突き込んだ瞬間の感覚が手に蘇り、英霞はぞっとした。仕損じることがないようにと何度も何度も突き込んだ。記憶の中の段浩は、ずたずたの布団にくるまりどくどくと血を流していた。きっと今頃はもう冷たくなって、朝になって誰かが見つけてくれるのを待っているだろう。


(これでよかったんだ、こうしなければ、劉家はお終いなんだ)


 何度も呟き、自身を納得させる。そしてふと、この罪を名も知らぬ神像に打ち明けようと思った。ただの自己満足なのはわかっている。だけれども、英霞はこの大罪を誰かに打ち明け、そして無言のうちに許してほしいと願っていた。物言わぬ塑像で構わない。この私を、親の遺産を護り抜いた孝行者だと認めてほしい。


 破れた廟の扉を前にして、いざ中へ入ろうとした時だった。誰かの声がした。


「あの子はそろそろ動くころだね」

 女の声。英霞はぎょっとして身を翻し、壁に寄って聞き耳を立てた。

「まさか三年も待たされるだなんて思いもしなかったよ。おまけに段さんの商売を邪魔しようだなんて」

 これに男の声が応えた。

「お嬢さんは孝行心でやったんですよ。責めちゃあいけません」


 英霞はぞっと背筋が凍るのを感じた。この廟内にいる人物は、自分の話をしている。そして自身がこの三年間、万安を通じて段家と張り合ってきたことを批判している。いったい誰が話しているのだ?


「しかしお嬢さんは本当にやるでしょうか?」

「やるさ。昔から血気盛んで武芸に入れ込むようなじゃじゃ馬だったからね。段浩がいよいよ婚礼に乗り気だと知ったら、今夜にでも寝床の下に隠した剣を持って奴を殺しに行くだろうさ。仮にそうしなかったとて、誰か適当な奴を雇ってやらせるさ」


 英霞はいよいよ心臓が止まるかと思った。この女、英霞の計画をすべて見通しているのか? この声の主は、いったい誰だ?


「奥様もお人が悪い。旦那様の遺言状をでっち上げたばかりか、ご自身の娘まで利用するとは」

「その旦那様だとか奥様だとかいうのはもうやめて。あの子に付き合って三年間、こっちまで未亡人で暮らさなきゃならないなんて、本当に頭にくる」

「段家はとんだとばっちりだ。奥様が浩さんに毎日でもお嬢さんのご機嫌伺いに来るようにとお願いしたのに、お嬢様はすっかり浩さんを心底憎むようになってしまった」

「あたしだって段家におめおめと武夷茶の専売路をくれてやりたくはないからね。英霞に段浩を殺させ、その罪で英霞にも死んでもらう。あたしは晴れて劉家と段家の財産を手に入れて、あんたとねんごろになることができるんだ」

「今だって十分に懇ろじゃあないか?」


 くすくすと笑い合うのを、英霞は呼吸を乱しそうになりながらそっと壁の穴から覗き込んだ。そしてあっと声を出しそうになるのを慌てて口で押える。

 中にいたのは、英霞の母、そして万安ではないか。しかも二人は床に寝そべり、その着衣は乱れている。ここで何をしていたのか、それだけで容易に想像がつく。


 嘘偽りではない。確かにこの耳で聞き、目で見た。すべてはあの二人の策略だった。父を除き、段家を除き、そして英霞までも除き。残ったすべてを手に入れるための、仁義も道徳も無視した策略。なんということだ、自分はその策略にまんまと踊らされていただなんて。


 手が震える。未だ抜身の、血の乾いた剣がきらきらと星明りを反射した。


 三年間耐えた。三年間待った。


 次の喪は、三年にしようか、それとも一日にしようか。


(了)

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