ドクター橋口は眠らない。
五色ヶ原たしぎ
それは無数にある戦いの中のひとつに過ぎない。
「お父さん、おめでとうございます」
「はい?」
「娘さんの完治が認められてから、昨日で丸3年が経ちましたよ」
にこりと微笑むドクター橋口の表情は、観音菩薩のように穏やかだった。私は思わず、彼の診察室に飾られたカレンダーに目をやる。月めくりのカレンダーには、見事な満開の桜が咲いていた。その表記は、2018年3月である。
「病気の再発という観点で見ると、この3年という月日が一つの指標になります。完治から36ヶ月が経過すると、再発の可能性が著しく下がるのです」
血液内科の名医である彼は、いつかと同じ内容を私に説明した。私の隣には、来月で十歳を迎える愛娘がいる。診察室の椅子に腰掛けたままでクルクルと回り、退屈を持て余す彼女の姿が涙で滲んだ。
「お疲れ様でした。ひとまず勝利を祝いましょう」
「橋口先生の方こそ、本当に、なんとお礼を言ったら良いのか」
私はみっともない涙声だったが、もう今さらであった。長い闘病生活の中で、私は何度ドクター橋口に涙を見せたか分からない。時には口汚い言葉で、彼を責めたことさえある。
私はドクター橋口に差し出されたティッシュを受け取った。箱ごと差し出す豪快さが、いかにも彼らしい。ドクター橋口はまだ40代半ばであるが、また少しシワが増えたように思う。心許ない頭髪だって、定期検診のたびに私の娘に心配されてしまう始末なのだ。
病魔への勝利を喜び合う暇もなく、デスクに置かれたドクター橋口のPHSが震えだした。険しい顔付きで通話に応じるドクター橋口は、手刀を作って私に頭を下げると慌てて診療室を飛び出していく。また誰かの容態が急変したのであろう。
私は願った。
もしも神様がいるのなら、ドクター橋口に長い休暇を与えて欲しいと。
∇∇∇
小児白血病の中でも、特にレアケースとされる難病がある。日本での発症数は、年間にわずか50人から100人程度。ドクター橋口が娘の主治医として、私と妻の前に現れたのはもう5年も前になる。彼は私たちが聞いたこともない長ったらしい病名を口にしたあとで、「とてつもなく厳しく、そして長い戦いになるでしょう」と予見した。
それからおよそ半月くらいのあいだ、私たち夫婦は何も手につかなかった。ドラマのような不幸が、愛する娘の身に突如として降りかかった時、神様を憎んでやり過ごすことすらもできないのだと知ったのだ。
だが、戦いの火蓋はもう切って落とされている。
病名を突きつけられるよりずっと前から、病魔は人知れず娘の肉体を蝕んでいたのだから。
時に泣きながら、時には罵り合いながら、妻と二人でただ考えた。
日に日に痩せ細っていく娘に、してあげられることはなんだろうと。
願うことも、祈ることも、娘を救ってはくれない。
そもそも神様が存在するのならば、このような悲劇は起きるはずもないのだ。
だから、考えた。
できることは何なのか。戦うとは何なのか。
やがて答えは出た。あるいは、最初から見えていたのかもしれない。
たとえばそれは、病気を知ることだった。これからの苦しい戦いがどのようにして展開し、どこで山場を迎えるのか。そして一体いつになれば、私たちは元通りの平穏な暮らしを送ることができるのか。
その当時、すでに日本で五本の指に入るほどこの難病の診療実績を持っていたドクター橋口は、これに対する答えを数多く持っていた。
遺伝子解析の観点から見た、状況の多角的判断。そこに病状の個人差や医療施設ごとの治療方針も踏まえ、転院のメリットやデメリットなども分かり易く教えてくれた。海外で治療に専念することを選んだご家族のケースや、無念にも救うことが叶わなかったお子さんの話もあった。
ドクター橋口は、決して安い希望を示さない。
彼はどんな時でも包み隠さなかった。私たちの娘が歩んでいく道の険しさを。
私と妻が、娘のためにできること。
その2つ目は、金銭的な体力をつけることだった。
中学生未満の子供の入院は、原則として親が泊まり込みで世話をしなくてはならない。当時共働きをしていた私たちにとって、どちらかが仕事を辞めざるを得ないのは明白であった。ただでさえ収入が減る上に、高額な治療費も捻出しなくてはならないのだ。
更には娘の容態を心配するあまり、仕事が手に付かなくなるという経験もすでにしていた。ドクター橋口の話によれば、精神的に追い詰められてしまい職を失った親御さんもみえたという。
「お父さん、少しだけお時間を頂けますか?」
ある日、めずらしく言い淀むような態度でドクター橋口が言った。そこまで病状が悪いのかと一抹の不安を抱える私に、彼はこう続けたのだ。
「差し出がましいようですが、私の信頼する人物を紹介させてください」
∇∇∇
ドクター橋口に紹介された人物は、二十年以上も役場務めをしている井崎さんという女性の方だった。何でも彼女の娘さんも、ずいぶんと昔ではあるが大病を患っていたのだという。
場所はとある図書館の一角。私はドクター橋口に言われた通り、ノートとペンを持参していた。長年に渡って我が子を看病していく、その心構えや秘訣などを教わるのだと予想していた。
だが私の予想は大きく外れることとなった。
井崎さんが教えてくれたのは、ノート一冊では間に合わないほどの医療制度の数々であったのだ。つまりは治療費のいくらかが戻ってきたり、税金が減免されたり、公共交通機関の割引を受けられたりといった様々な金策テクニックであった。
「良いですかお父さん。この国の子供たちはね、とっても恵まれているのよ。世界的に見ても優れた治療を受けられるし、こんなに多くの制度によって守られている。だけど問題はね、それがあまり知られていないこと。まったく、優しい政治家がいないのよね」
少しだけいたずらめいたふうに、井崎さんは言った。それから井崎さんは自らの名刺を私に差し出すと、「分からない制度があったらいつでも電話していらっしゃい」と言って微笑んだのだ。
∇∇∇
こうして、難病に立ち向かうための準備はすべて整った。もちろん闘病生活の本番はここからであったし、私や私の家族を救ってくれたのが、ドクター橋口と井崎さんだけというわけではない。
数え切れないほどの方々に、私たちは救われた。
過酷なシフトをこなし続ける看護師さんたちに。
週に二度の面会に来てくださった栄養士さんに。
ピエロの格好をして笑わせてくれた手品師さんに。
最初は怖そうだなと思っていた病室の先輩父母さんたちに。
それから、最後の瞬間まで勇敢に戦った、娘と同じ病気を抱えたあの子にも──。
∇∇∇
さらに時は流れて、2019年3月。
人々の苦悩など素知らぬ顔で、春は何度も巡りくる。
「ドクター橋口、ちゃんと眠れてますか? その……顔色がだいぶ悪いですよ」
「お父さんだって、最初にお会いした時よりずいぶん顔色が悪いですよ。それに小ジワも増えましたね」
出来る限り軽い感じで言ったのが、逆に裏目に出たのかもしれない。してやったりと言わんばかりに、カウンターを決めるドクター橋口だった。
「今日の血液検査の結果も良好です。あとは、そうですね。再来月の心エコー検査の日程の確認をして終わりましょう」
退院当初は10日に一度だった定期検診が、今では2ヶ月に一度の頻度にまで減少した。とはいえ、この先も検診は続いていく。退院時に手渡された『再発予防を兼ねた長期フォローアップ計画書』には、なんと2037年に行われる予定の検査までもが記されているのだ。
「そういえばお父さん」
今後の通院を思って気が遠くなりそうになった瞬間、ドクター橋口の声が私を引き戻した。
「僕の転勤、今年もありませんでした。また一年間よろしくお願いします」
まるで初めて出会ったその日のように、ドクター橋口は深々と頭を下げた。目の前であらわになった彼の後頭部を見て、娘が必死で笑いを噛み殺している。
「ええ、こちらこそ。いつまでも橋口先生が主治医でいてくださると安心です」
私も深く頭を下げる。もしかすると、私の後頭部も心許ない姿を晒しているのかもしれない、などと思いながら。
そこでいつものように、デスク上のPHSが震えはじめた。一瞬にして、重たい緊張感が走る。ドクター橋口が受け持っているのは、誰もが次の季節を迎えられるかどうかも分からないお子さんたちばかりなのだ。
慌てて飛び出していく彼の後ろ姿に、私はもう一度願った。
もしも神様がいるのなら、ドクター橋口に長い休暇を与えて欲しいと。
けれど知っている。この世界には、神様なんていないのだということを。知ってしまっている。理不尽な不幸と戦うのは、いつだって他ならぬ私たち自身なのだ。
だから私は、こう思うことにした。いつか彼が定年退職を迎えたら、こっそり温泉旅行にでも招待しようと。
役に立たない神様の代わりに。
ドクター橋口は眠らない。 五色ヶ原たしぎ @goshiki-tashigi
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