神とロザリオ

楸 茉夕

神とロザリオ

「嘘だろ、おい……」

 少年が後退り、青年は同じ分距離を詰める。

「嘘じゃないよ。ちょっと飛んでみ? 素質はあるんだから」

「ここ十二階だぞ! 何考えてんだ!」

 悲鳴のような声を上げながら、少年はちらりと後ろを振り返った。

 この建物の屋上は、本来なら人が上れないようになっている。ゆえに、落下防止のための柵がない。あと二歩も下がれば地上へ落ちる。

「いやあ、至って正気だよ。ほら、勢いで行ってみよう。足踏みしてるだけじゃ何も始まらないよ、一歩踏み出すことが大事さ」

「バカかよ!」

 少年は左右に視線を走らせる。しかし青年には彼を逃がす気はない。手が届く距離まで近付くと、少年はますます顔を引き攣らせた。青年は大袈裟な仕草で両手を広げる。

「さあ! いざ! ユーキャンフラーイ!」

 少年が何か言う前に、青年は少年の両肩を突き飛ばした。

「うわっ……」

 バランスを崩した少年は両手をばたつかせ、しかし堪えきれずに仰け反って後ろに倒れる。爪先が浮き、踏み留まろうと後ろに出した足が空を踏み、何事かを叫びながら落ちていった。

「どれどれ」

 青年は屋上の縁に立って地上を見下ろした。アスファルトには手足をばらばらに投げ出した少年と、ゆっくりと広がる赤い染み。通行人が悲鳴を上げる。異変に気付いた人々が集まってくる。

「うーん、惜しい」

 なんの感情も籠もらない声で呟き、青年も足下を蹴った。



 ぱちりと目を開けると、部屋には少女が一人いるだけだった。燃えるような赤毛を二つに分けて結い上げた彼女は、熱心に爪の手入れをしながら顔も上げずに言う。

「ずいぶん早かったわね。どうだった?」

「駄目だったよ」

 安楽椅子に座っていた青年は立ち上がり、伸びをして首を鳴らした。

「また死なせたんでしょう。もっと丁寧にやりなさいよね」

「でもさ、覚醒を促すには命の危機ってのが一番だと思うんだよ」

「それで次々殺してたら本末転倒でしょ。『候補生』も無限じゃないのよ」

 横目で睨んでくる少女に、青年は曖昧な笑みを返した。

「リサだけ? みんなは?」

「まだ『勧誘』から帰ってこないわ。って言うか、こんなに早く帰ってくるのナキリくらいよ。『落ち』て二十分て、どういうこと?」

「わお。新記録じゃないか。―――それじゃ、もっかい行ってこようかな」

 リサは美しく彩色した爪をたしかめるように翳し、鼻を鳴らす。

「下手な鉄砲はいくら撃っても中らないわよ」

「撃ち続ければいつか何かには中るさ」

 手足を解してから再び安楽椅子に戻り、ナキリは目を閉じた。いろいろな椅子やソファ、ベッドなどを試したが、この安楽椅子が一番「落ちる」のに具合がいい。仲間の中には窓辺が好きとか、床でないと駄目とか、いろいろいる。個性が出るところだ。

 目を閉じて呼吸を数えているうちに、「落ち」た。



 次に目を開くと、小さな教会の中に立っていた。石造りの古い建物だからか、窓は細いせいで薄暗い。

 ここに「候補生」がいるはずだと首を巡らせれば、視界の端に明かりが灯った。そちらを見ると、指先ほどの小さな炎が次々と生まれ、鎖のように連なって天井へと螺旋を描き、伸びていく。そして、炎の鎖の始発点には小さな女の子が一人。片手を上向け、バレリーナの真似事なのか、くるくると回っていた。その細い首には不似合いの、大きなロザリオが幾つもかけられている。

「素晴らしい! それに、ありがたい!」

 思わず声を上げると、女の子はびくりとナキリを振り返り、素早く手を振って炎を消した。それから何もなかったのだと主張するように、両手を身体の後ろに隠す。

「ああ、驚かせてすまない。初めまして、おれはナキリ。君は?」

「……ローズ」

 女の子は警戒を見せつつも応えてくれた。ナキリはこれ以上怯えさせないように笑んで見せる。

「薔薇か。素敵な名前だね、君にぴったりだ」

「おじさん、だれ?」

「……んー。おれはまだおにいさんのつもりでいたから、おじさんって言われるとちょっと傷つくな。しくしく」

 ナキリの嘘泣きを真に受けたのか、ローズは目を瞬くと、おどおどと困ったような顔になった。

「ご、ごめんなさい……」

「謝らないでくれ。いいんだ、ローズにはおじさんに見えたんだろう。人に流されず、自分の意見を言えるのはいいことさ」

 嘘泣きをやめて微笑めば、ローズは安心したように小さく笑った。警戒が解けたかと思いきや、頑なに両手は見せない。おそらく五、六歳くらいだと思うのだが、それにしては手足が細く、目元や口元に痣が浮いている。

「そうだ、ローズ。一つ訊いてもいいかな」

「なあに?」

「さっき、火を出していたよね」

 力のことに言及すると、明らかにローズの表情が変わった。短い金髪が水平に広がる勢いで首を左右に振る。

「出してない! 火なんか知らない!」

「おや、そうか。じゃあおにいさんの見間違いかな。とても綺麗だったから、夢を見たのかも知れないね」

 せっかく緩んだ警戒を戻すこともあるまいと話を合わせると、ローズは戸惑った様子で双眸を揺らした。

「きれい……?」

「うん、とっても。宝石みたいな粒がキラキラとね」

「……そんなふうに言われたこと、ない」

 思わず、といったふうに呟いて、ローズははっと口を噤んだ。また強くかぶりを振る。

「知らない、わたしじゃない! あ……悪魔のせいなの!」

「悪魔? それはまた物騒だな。悪魔がこの教会を燃やそうとしているのか」

「ちがう! 燃やそうなんて……」

 否定し、ローズは再び口を閉ざす。幼い顔が泣きそうに歪んで、もうどうしていいかわからないようだった。なんだか弱いものいじめをしているような気になってきて、ナキリは話題を変えることにする。

「そのロザリオ、ローズのかい?」

 話が逸れたことに安堵したように、ローズはふるふると首を振った。

「ううん、ママの」

「全部?」

「うん。いつもかけてなさいって……わたしの中の悪魔を追い出すんだって……」

 声は徐々に消え入りそうにか細くなり、ローズは悲しそうに俯いてしまった。年端もいかない女の子がこんな場所で一人、保護者もなく置かれている背景が見えてきた気がして、ナキリは天を仰いだ。願わくは、痩せているのは食が細いからで、顔の痣は転んだか何かしてできたものであって欲しい。

「その悪魔が火を出して、ローズやママを困らせているんだね?」

 ローズは俯いたまましばらく黙っていたが、やがて微かに、ほんの少しだけ頷いた。そして、ぽろぽろと泣き出す。

「ごめんなさい……ごめんなさい……わ、わたしが、悪いの……」

 一体何に対して謝っているのか、ごめんなさいと繰り返して泣くローズを、ナキリは何だか不憫に思ってしまった。勧誘対象に感情移入は厳禁なのだが、この場合仕方ないと思う。何も悪くないのに、自分が悪いと泣きながら謝っている子供を突き放すことができる存在がいたら、それこそ本物の悪魔だ。

「泣かないで、ローズ。可愛い顔が台無しだ」

 未だに両手を隠しているせいで涙を拭うことができないローズの代わりに、ナキリは屈んで幼子の涙を拭いてやった。すると、ローズはびくりと身体を引く。

「お、おじさん、わたしが、こわくないの? 気持ち悪く、ないの?」

「怖いものか。どこが気持ち悪いんだい? 誰かにそう言われたのかい?」

「……みんな、そう言う……わたしは、ツミブカくて、ブキミな力を使う悪い子だから、悪魔にミイラレたんだって……」

 ナキリはたどたどしく言うローズの頭を撫でて、抱き上げた。突然のことに目を丸くするローズへ、できるだけ優しく見えるように笑いかける。

「君みたいな子を泣かせる方が、よっぽど罪深いとおにいさんは思うよ」

「でも、ママが……」

「ママはなんて?」

「……わたしが悪い子だから、パパがいなくなっちゃったって……だから、わたしの中の悪魔を追い出すために……ぶつんだって。あと、絶対にこの中から出ちゃ駄目って」

「おおう」

 概ね想像通りで、ナキリはもう一度天を仰いだ。こういうところで個性を出せとは言わないが、もう少し救いがあってもいいだろうに。

 首を戻し、ローズの青玉の瞳を覗き込む。大きな目に愛らしい顔立ち。痣が消えて頬に年相応の丸みが戻れば、ますます可愛くなるだろう。

「ローズ」

「なあに?」

「おれと一緒にこない?」

「……おじさんと?」

「そうだ。おれには君の力が必要なんだ」

「わたしの……ちから」

「ローズの炎は悪魔の力なんかじゃない。むしろ神の祝福さ。みんなに見せたいくらいだよ」

 ローズの目が迷うように揺れた。

「みんなって……?」

「おにいさんの仲間。ローズみたいな力を持ってる人がたくさんいるよ。炎を出せる人もいたんじゃないかな。……ちょっと激しいけど」

 ナキリが知っている炎の「候補生」は、ローズのような灯ではなく、松明があったら柄ごと燃やすような激情家だというのは、黙っていた方がいいだろう。

「ほんと? わたしみたいな?」

「うん。どうだい? 会うだけ会ってみないかい」

 ローズはじっとナキリを見つめて、やがて頷いた。ナキリは嬉しくなって、ローズを頭上に抱え上げる。ローズは驚いたようだったが、楽しげに笑い声を立てた。

「そうと決まれば早速行こうか。そうだ、ちょっと寄り道しよう。世界は広いよ、この教会なんか比べものにならないくらいね」



 ぽかりと目を開ける。するとやはり部屋にはリサ一人で、いつの間に短くしたのか、赤毛は顎先で切りそろえられていた。

「あ、起きた」

 ナキリが目を覚ましたことに気付いたリサが、珍しく近付いてきて顔を覗き込む。

「あんたね、今度は長過ぎよ。両極端もいいところよ」

「え、そう? どのくらい?」

「七十年」

「わお。新記録じゃないか」

 驚いてみせれば、リサは呆れたようにため息をついた。

「それで、どうだったの」

 ナキリは笑った。その拍子に目尻から涙が零れて頬を伝い落ちる。それを見たリサが、何かこの世のものとは思えない珍獣でも見たような顔になった。

「今回も駄目だったよ」

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神とロザリオ 楸 茉夕 @nell_nell

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