ストロベリー・レイン
Nico
ストロベリー・レイン
眠りにつく前から、最高の目覚めになることはわかっていた気がした。
唇に柔らかな感触があった。新緑の香りのするそよ風が頬を撫でる。僕の心は、まるで凪いだ大海原のように穏やかで、満ち足りていた。目を開けると、まだぼんやりとした世界の一番近いところに、彼女の微笑みがあった。僕は驚いて、思わず声を上げた。
「なにしてるの?」
慌てて起き上がろうとして、バランスを崩して落ちそうになる。自分が木の上にいることを忘れていた。大きな桜の木は、すでにほとんどの花びらが風に運ばれたあとで、新芽が顔を出し始めていた。
彼女は「ふふっ」と楽しそうに笑うと、ふわりと飛び降りた。僕は慎重に体を起こし、視線を落とす。彼女が、相変わらず屈託のない笑顔でこちらを見上げていた。
「なにしてるの?」
僕は同じ質問を彼女に向かって優しく投げた。でも、僕の声は暖かな春の風に運ばれて彼女には届かなかったみたいに、彼女は後ろに手を組んだまま僕に背を向けて歩き出した。
僕はゆっくりと木から降りると、彼女の背中を追った。
「ねぇ、少し歩きましょうよ。川の向こうまで」
そう言って、彼女はすぐ脇を流れる小川のその向こうを指さした。無数の桜の花びらが、緩やかな川の流れに浮かんでいた。
「いいけど、もうすぐお昼だよ」
「食堂が閉まる前には戻ってくるから、大丈夫よ」
僕はその言葉を信じて、彼女の背中についていった。
「ねぇ、知ってた?」
彼女は細い木の枝で、小川の水をくるくるとかき混ぜながら言った。「この川の向こうは、違う国なの。あの山のてっぺんにお城があって、王女様が住んでるの」
「なに、それ? 想像の話?」
「そう。創造の話。こっちの世界では目を閉じて生きていれば、誤解や憎しみからは目を背けることができるけど、向こうの世界ではそうはいかないわ」
「向こうの世界では、どうなるの?」
「王女様は優しいけど厳しい人なの。だから、憎しみや誤解なんて許さない」
「許さなくて、どうするの?」
「さぁ、それは行ってみないとわからない」
「行ってみようか?」
「王女様のところに?」
「そう」
「食堂が閉まるまでに、戻ってこれるかしら?」
そう言うと、彼女は何の前触れもなく小川をひょいっと飛び越えた。
「そっちの世界の空気はどうだい?」
「そっちと変わらないわ」と彼女が笑う。「ねぇ、いい考えがあるの」
「なに?」
「あの木に、ブランコをぶら下げるの」
「ブランコ?」
「そう。一番高い枝から地面のぎりぎりまで。それを思いっきり漕いで飛べば、きっと小川を越えられる」
僕には彼女の言っている意味がよくわからなかった。
「なんでそんなことをする必要があるんだろう? ブランコなんか使わなくたって、こうやって飛び越えられるのに」
そう言って、僕は彼女がしたのと同じように、小川を飛び越えた。
「儀式のようなものよ」
彼女は足元を見つめながら言ったが、僕にはまだよく理解することができなかった。
結局、僕たちは山のてっぺんまでは行かずに川に沿って歩き、僕の腹の虫が鳴ったのを合図に、来た道を引き返した。再び小川を飛び越え、『僕たちの国』に戻ったところで、彼女が「見て!」と声を上げた。
桜の雨が降っていた。すでに散ってしまったはずの桜の花弁が、まるで中空から突然現れたように、あたりを舞っていた。さっきまで自分が寝ていた大きな桜の木は、満開の桜で覆われていた。僕は何が起こっているのかわからず、ただ呆然とその光景を見つめていた。
「誤解が解けて、憎しみも融けたのよ」
僕たちは、閉まりかけている食堂に駆け込んで、一切れのパンとシチューを食べた。時間が止まってしまったみたいに、穏やかな時間だった。
「ご飯を食べ終わったらどうする?」と、彼女がすくったシチューを口に運びながら尋ねてきた。
「そうだな……木の上で昼寝でもしようかな」
「いいわね、気持ちよさそう」
そう言って窓の外を見やる。つられて僕も視線を向けた。すでに花びらが散り去り、新芽が息吹いている大きな桜の木が見えた。
「じゃあ、私が起こしに行ってあげる。それから、小川の向こうに行きましょう」
「川の向こう? 何かあるの?」
「創造の国よ」
「想像の国?」
「そう。王女様がいるんだけど……それは起きてから、教えてあげる」
僕は少し考えたが、あの細い小川を越えた先の『想像の国』に、ここにはない何かがあるのかは想像がつかなかった。
けれども、なんとなく、眠りにつく前から、最高の目覚めになりそうな気がしていた。
ストロベリー・レイン Nico @Nicolulu
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