最悪の夢 ~YOUR BRAIN IN THE AQUARIUM~

置田良

短編作家の憂鬱


 ネットワークから切り離したパソコンの前に一時間座ってもダメ。

 ならばと、愛用の万年筆を片手に原稿用紙に向かってみてもダメ。

 息抜きにコーヒーを飲んでもダメ。散歩をしてもダメ。逆立ちをしてもダメ。


 ショートショート作家、西井長詩にしい ちょうしはこれまでになく頭を悩ませていた。編集から依頼された『最高の目覚め』というお題の短編小説がどうしても書けなかったのである。


「畜生……、やっぱり長編を書かなくちゃいけないのか……? でも……」


 売れる小説といえば、ドラマ化や映画化、最近ではアニメ化や漫画化などの、コンテンツ展開が可能な長編小説である。彼の担当編集は、この短編小説中毒の男に、なんとか短編小説を諦めさせようと、あの手この手を尽くしていた。今は、お題を元に超短納期で短編を仕上げるという仕事を繰り返させている。曰く「ショートショートなんて短いんだから、すぐ書けるでしょう? でも短編に飽きたなら、いつでも言ってくださいね?」という具合。


 この男、納期二日という仕事を既に六本片づけていたが、いよいよ書くネタが尽きようとしていた。一つ前のお題に対し、夢オチに近い小説を書いてしまったのが致命的であった。そこに次のお題として「最高の目覚めのために展開する物語を書け」などと言われてしまったである。色々と考えても「前回と似たような構成となってしまう……」と、いよいよ筆が動かなくなりつつあった。



 幸か不幸か、奇妙な出来事が起きたのはそんなときであった。



(……テスト中。ただいまテスト中。ねえ西井さん、聞こえるかしら?)


 涼やかな女性の声がどこからか聞こえてきた。不思議なことに、自分の頭の中で囁いているようにしか思えなかった。それは最初、遠くで虫が鳴くような微かな音だったが、次第に耳がつぶれるほどの音になっていく。


「誰だ!?」と、男は耳を手で塞ぎながら問いかけた。


(私が誰なのかは、小さな問題だとは思わない?)

「どこが小さい問題だっていうんだ!? お前は一体、どこにいる!?」

(そうそう。――そっちの方が『私が誰か?』なんかよりよっぽど大きな問題だわ。……私は、あなたのとっても近くにいるわ。だって一メートルも離れてないもの)


 そう言われた男は、辺りを見渡した。小説家らしい想像力を働かせ足元や頭上も探したが、この声の主はどこにもいないように思われた。


(ごめんなさい。言葉が足りなかったわね。そこには――正確にはあなたが知覚している世界には――私はいないの)


 声の主は続けて、男に何が起こっているのかを説明し始めた。否。正しくは、男に何が起こってのかを。


(あなたが今見ている世界は、現実のものじゃあないの。分かりやすく言うと、スーパーコンピュータが作り上げた幻影、夢幻よ)

「そんなこと信じられるわけがないだろうっ!?」


 女の声は、楽しそうに笑った。


(それもそうよね。百聞は一見に如かず、見て貰った方が早いわ。じゃあ、ちょっとクラっとするけど我慢してね? 大丈夫。どんなに眩暈を感じても、倒れたりすることはから)


 次の瞬間、男は薄暗い部屋の中に居た。


 一辺が五メートルほどの正方形と思しい部屋である。明かりと言えば、薄緑色の液体で一杯となっている円柱状の水槽が、怪し気に光っているばかり。水槽の底から浮かび上がってくる気泡の中を穏やかに揺蕩う、灰色の大きなクルミのようなものが目を引く。それは、人間の脳であるようにしか見えなかった。


「惜しい。『を引く』という表現は、今のあなたにとっては正確じゃあないわ」


 声のした方を向くと、黒の長髪に赤いドレスの美女が佇んでいた。男は思う「ドストライク」と。特に大きすぎない胸部がよい。膨張色である赤い服でアレなのだ、さぞ慎ましい胸のはずである。この男は、巨乳こそを良しとする世の風潮を強く憎んでいた。


「セクハラよそれ」


 女はドレスに負けないほどに顔を赤く染め、胸に腕を抱きながらそう言った。


(え。俺、声に出してないよな……? てか、体がほとんど動かねぇ)


 首から下は、動く気配がないように感じられた。


「ふふ、その通りよ。ええその通り。あなたの思考は、私に筒抜けなの。西


 女は、最後の言葉を、水槽に浮かぶ脳を見ながら言った。とても愛おしそうに、うっとりとした表情で、その水槽の表面をなでている。


「気がついた? そう。この脳は、西井さん、あなたの脳なの。その光景は、この床のコードからそのカメラを通して見ているだけ。そうやって色々考えているのは、水槽の中にいるこのよ」


 そう言われた男は慌てて視線を下に動かし、確かに水槽から床に向かってコードが伸びていることを確認した。首を動かすときに聞こえた、微かな機械音には気がつかないふりをしながら。


 堪えきれないというように、女はクツクツと笑う。


「あら、まだ認めようとしないのね。まあそれもそうようね。そうだと思ってあなたの後ろに鏡を用意しておいたの。是非振り返って、自分の姿を確認してごらんなさい?」


 ゆっくり男は振り返る。今度こそ、誤魔化しようのないウィーンという音が、確かに部屋に響いた。遂に首は人間では果たしようのない百八十度の回転に成功し、鏡には大きなカメラが映っていた。ときおりテレビの中継でチラリと映るような、人と同じだけの高さのあるカメラである。首を右に振ると、そこに映るモノもそれに倣う。反対に振っても、同じこと。


「フフ。アハ……アハハハハッ!」という笑い声が、部屋に響いて――


   ◇


「うわああああああっ!!」


 男は眠りから覚め、飛び起きた。

 慌てて手を動かし、顔を触り確かめる。何度も何度も確かめた。大量の冷や汗をかいてはいるものの、機械の体などではないことを確認し、大きく息を漏らした。


「夢、か……」


 あんなお題を出されたせいで、酷い夢まで見てしまったと悪態をつく。「まるで生き返ったような心地だよ……」と呟いて、と手を顎に当てながら考え始めた。


「そうか。これも一種の『最高の目覚め』か……。何も現実で素晴らしいことを起こす必要はない。空腹が料理に対する最高の調味料となるように、最悪の悪夢からの目覚めなら、普通の目覚めでも相対的に最高の目覚めとなる。……行ける。行けるぞこれ……!」


 男は、布団から飛び起きパソコンを立ち上げると、これまでの苦労が嘘のように物語を紡ぎ始めた。


「はは。あの夢の美人さんには感謝しねぇといけないかもな。……なーんて、な!」


 男は軽やかにキーボードを叩き続けた。そして無事、小説を仕上げることができたのであった。めでたしめでたし。





















   ◇



 微かな緑色の光に照らされる小部屋にて。

 赤いドレスの女は、恍惚とした表情で、その水槽にしな垂れかかっていた。目を閉じ、上唇をペロリとなめる。


「ああ、よかった。今回もちゃんと小説を書き上げてくれた。本当によかった。私、あなたの小説の大ファンなの。だから、何度も何度も条件を変えて、人生シミュレーションを繰り返させてあげる。私のためだけに、ずっとずぅぅっと、物語を紡ぎ続けてね? ふふ。うふふ。うふふふふふふふ……!」


 そう呟いて、彼女は水槽に優しいキスを落とした。


 水槽の底から湧き上がる気泡に流されて、彼の脳は、今も震えるように揺蕩い続けている。





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最悪の夢 ~YOUR BRAIN IN THE AQUARIUM~ 置田良 @wasshii

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