夜と昼の目覚め

風城国子智

夜と昼の目覚め

 池に落ちそうになった小さな手を、ギリギリのところでしっかりと掴む。

「あっ!」

 遅れて響いた、ある意味間の抜けた高い声を、レナは安堵半分、怒り半分で聞いていた。

 本当に、この小さな生き物は、危ないことしかしない。落としていた腰をきちんと伸ばし、草陰で見えない池の縁からアイダという名の少女を優しく引き離す。大丈夫、この少女を付け狙う悪党の影も、今日は見当たらない。レナを見つめ、髪の間に見え隠れする猫に似た耳を忙しなく動かす少女が無事であることを確認し、レナはそっと、強く掴んでいたアイダの柔らかい手を放した。

 次の瞬間。

 何かを見つけた目をしたアイダが、レナの脇をすり抜ける。その敏捷さにレナが反応する前に、アイダの小さな影は、先程確かめた時には無かったはずの崖に吸い込まれていた。

 突然のことに、身体が動かない。

「……!」

 叫ぶ声は、レナの喉で、消えた。




 不意に変わった視界に、はっとする。

 この、木目は、……レナの部屋の天井。見慣れた空間に、レナはほっと息を吐いた。

 また、同じ夢だ。小さく首を横に振り、崖下に広がった鮮紅色を記憶から投げ捨てる。異世界の女剣士として、アイダという名の半獣半人の少女を守る、夢。異世界の根幹に関わる記憶あるいは役割を持っているらしく、アイダは刺客にその命を狙われている。更にその上、幼い少女らしくおてんばで向こう見ずなアイダは、動く前に周りを見るよう、毎回レナが注意しているにもかかわらず、危ない行動しかしない。アイダを死なせないことがレナの使命なのに、毎回、失敗して目覚めてしまう。胸の鈍い痛みに、レナは温かい布団の中で寝返りを打った。毎夜、失敗する直前から夢が始まることだけが、救い。

「……あ」

 横を向いて見えた時計の針の位置に、はっとして布団を蹴る。起きなければ。妹のメイが起きる前に洗濯物を干し、家族全員の朝御飯と、自分とメイのお弁当を作らなければ。朝の仕事が済む前にメイが起きてしまったら、彼女の世話に手を取られ、朝の仕事が片付かなくて学校に遅刻してしまう。

 レナが一人で使っている小さな部屋に投げっぱなしにしてある灰色のエプロンを、パジャマの上から身に着ける。

 苦い夢のことは、無意識に、頭の隅に追いやっていた。




「おねえちゃん、これよんで」

 居間にある卓袱台の上に宿題を広げたレナの膝の上に、読み過ぎて端が剥げてしまった絵本が置かれる。無理に口の端を上げ、レナを見上げて笑う無邪気な妹、メイに微笑みを返すと、レナは壁に掛かっている時計の方に目を向けた。

〈20時、か〉

 父は、まだ、仕事が終わらないのだろうか? 動きを見せない玄関の方へと視線を移す。母は、今日も、仕事帰りに父方の祖母を見舞っているのだろうか? 二人とも遅くなるのなら、先にメイを風呂に入れて寝かしつけた方が良い。その方が、宿題も、再来週に迫った定期試験の勉強も、捗る。

 核家族である上に父も母もフルタイムで働いている。それ故、必然的に、十歳違いの妹の世話はレナの役割になっている。朝は二人分のお弁当を作り、まだ上手く着替えができないメイの支度を手伝ってから、メイと一緒に家を出る。メイが通っている保育所は、レナが通う中学校への道から少しだけ遠回りした場所にあるが、「少しだけ」だから今のところ遅刻は免れている。但し、18時までに保育所にメイを迎えに行かないといけないから、部活は、部長と顧問の先生に理由を話して途中で抜けさせてもらっていた。部活の先輩や同輩、後輩の目に頭を下げてからメイを迎えに行った後は、夕食の作成と片付け、風呂掃除。

 何故、自分は、妹の世話をしないといけないのだろう? 膝に乗ってきたメイの前に絵本を広げながら、どろりと湧き出してきた熱い怒りを、飲み込む。次に脳裏を過ったのは、毎夜の夢の中で、妹と同じようにレナにまとわりついてくるアイダの、人には無い三角形の耳と長い尻尾。……どうして、私は、夢の中でも子守をしなくてはならない?

「おねえちゃん……?」

 絵本を広げたまま、一言も発しないレナに、メイが不思議そうな目を向ける。その視線にはっとして思考を飲み込むと、レナは普段通りの声で絵本の文字を声にした。

 ……後で、忘れずに、『夢を見ない方法』をスマホでネット検索する。その記憶だけを、しっかりと脳に刻みつけて。




 夕方の道を、妹と手を繋いで歩く。

 今日は、スーパーで食料を買わないと。保育所で習ったらしい歌を楽しく歌うメイの声を聞きながら、レナは記憶している冷蔵庫の中身を確認した。

 『夢を見ない方法』をネットで検索し、実行できることを片っ端から実行してから三週間。毎夜悩まされ続けてきた夢は、見なくなっていた。いや、おそらく見ているのだと思う。ネットで見つけ図書館で借りた資料に書かれていたことを思い出す。でも、あの夢を見ていた頃に比べて、身体はすっかり軽くなっている。この前の定期試験も、妹の世話に明け暮れている割には点数は良かった。良いことづくめだ。時折、車の走行音に消える妹の歌声に、レナはふっと微笑んだ。

 その時。

「あっ!」

 何か見つけたのだろう。レナの手をすり抜けたメイが、車道へと飛び出す。

「メイっ!」

 一瞬で近づいた車を確かめる間もなく、レナはメイの細い腕を掴むなり歩道の方へとその腕を強く引いた。

「うわぁん!」

 歩道に尻餅をついたメイの泣き声が聞こえる前に、斜めになった巨大な金属の影がレナにのしかかる。

 痛みを感じる前に、レナの視界は見慣れた景色へと切り替わった。




 明らかな泣き声に、そっと瞼を上げる。

「……レナっ!」

 崖を背にした小さな影が、動かないレナにむしゃぶりついた。

 自分は、どうして、崖下に倒れているのだろう? これまでの行動を、思い返す。そうだ、確か、崖から落ちるアイダを助けようとして、一緒に落ちてしまったんだった。

「大丈夫? レナ?」

 泣き腫らした赤い目をレナに向けるアイダを、上から下まで確かめる。うん、アイダは、怪我をしていないようだ。

 身体は動かないが、心は、すっきりしている。

 動かない腕で、レナは、アイダの小さな身体を抱き締めた。

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