結愛

くれそん

第1話

「あの人がいいな」


「僕はこっちのおじさんがいい」


 キャッキャッと小さな子供たちの声があふれる。泉に小さい指を向けて、この人はどうだとか、あの人はどうだとか言いあう姿は微笑ましい。


「あの人はどうかな?」


「いい人そうなんだけど……」


「神様にお願いしに行こっか」


「一緒に行く」


 一人で真剣な顔で泉を覗き込むものもいれば、近くにいる同士で相談しているものもいる。和気あいあいとした雰囲気だけど、誰もがまじめな顔をして眺めている。


「あの人は?」


「ううん、ダメだと思うけどな……」


「でも、二人っきりなんて寂しそうだよ」


「そうかな?」


「そうなの!」


 泉の中に飛び込んでいく者たちもいる。誰のもとに向かうのか決めた順に、少しずつ少しずつ子供たちが向かう場所へと旅立っている。



 

 ハッと目を覚ました。時間は……大丈夫。朝の準備をして、弁当を詰めて、旦那を送り出したら、掃除して、洗濯は明日でいいし……風呂も明日で大丈夫かな。パートの準備をして、それからそれから。まずは、やることをやらないとね。


 隣で寝ている旦那を叩き起こして、布団から這い出したところを確認して台所に向かう。もう6年、自分でもだいぶ慣れてきたものだと思う。二人での日々も決して不幸だなんて思わないけど、パート先で子供の迎えに行くとか聞くと、不意に悲しくなる。


 全然子供ができない。そう思い始めたのは、結婚3年目のことだった。同時期に結婚した友達がどんどん出産を経験し、それなのに自分は子供ができそうな感じは全くなかった。避妊なんてもうとっくにやめていたし、いつできてもいいように少しずつ勉強も始めていた。


 もしかして不妊なのか。そう思ったのは、テレビで不妊症の特集をやっていたときだった。まさかそんなわけはない。そう思いながらも、テレビの情報につられてホイホイとクリニックに向かっていた。それからしばらくして、不妊症であることが分かった。


 同時期に調べていたようで、旦那に不妊の兆候がないことも分かった。今思えば、あの日の旦那は少しルンルン気分だった気がしなくもない。お気楽な彼のことだから、自分が不妊じゃないから子供ができそうだぜ、ヤッターとでも思っていたのかもしれない。


 まだ治療も始めてないのに何言ってるんだと今なら思うけど、その日のうちに旦那に離婚されても仕方ないよねって話していた。私があんまりにも悲壮感漂う顔をしていたからか、子供なんてうるさくて大変なだけなんだから気にしなくていいなんて言ってくれた。子供を楽しみにして、名前の付け方辞典なんて買ってる妻に何言ってるんだろうって話なんだけど。


 それでも不妊治療を受けたいと言ったら、二つ返事で了承してくれた。お金だって結構かかるって言っても、あなたも協力しなきゃいけないと言っても、それで君と別の道を歩まなくていいならなんだってかまわないとか。プロポーズだってもっと情けない感じだったに。


 それから、1年、2年と続けてきた。タイミングを合わせてみたり、人工授精をしてみたり、体外受精をしてみたり。妊娠の兆候が表れたと思ったころには流れてしまったのが、1回、2回。ごめんという私を励ましてくれる旦那の言葉が、苦しくなるのはそう時間がかからなかった。


 そろそろ見切りをつけないといけないことはわかっている。それでも諦め切れないでずるずると続けている。そんな中で旦那につらく当たったことも少なくない。何も悪くないのはわかっているのに、そんな自分が嫌になることもあった。愛想を尽かされてもおかしくないのに、彼はずっと一緒にいてくれる。子供を諦めれば、もう少し夫婦関係を昔みたいに戻せるのかなって考える日が増えた。だから……。


「少しいいかな?」


 会社から戻った旦那を待ち受ける。楽しげにヘラっと笑うこの顔を悲しげに歪めさせたのは何のためだったろうか。


「夕飯の後でね」


 いつもは会話が弾む食卓も、今日はとても静かだ。こういうのには敏い旦那のことだ、何を話すのかはわかっているのだろう。


 夕食を終え、旦那が風呂に入っているうちに、食器を洗う。どう話そうか。今までそれなりの時間をかけてきた。それがすべて無駄だったなんて言うのは苦しいし、そんなことは聞きたくもないだろう。でも、ここではっきりさせておかなければ。


「話って?」


「次で不妊治療を止めようと思うの」


「どうして? 子供を心から欲しがっていたじゃないか?」


「だけど、これ以上あなたに負担をかけたくないの」


「そんなことは気にしなくたって……」


「違うの。私がそんなことに耐えられないの。それに、大切なあなたを意味もなく傷つけるような妻ではいたくないの。母にはなれなくても、あなたの妻として得られる幸福はいくらでもあるもの」


 今でも気持ちを整理しきれたとは言い難い。それを察してか、ぎゅっと抱きしめてくれる。子供を諦めたくない。私の家族計画の中にはかわいい我が子がいる。それでも、こんなわがままに何年間も付き合ってくれる夫は、これから先にもう一度会えるとは思えない。彼を失ったら、本当に私は生きていけなくなってしまう。




 最後だからと入念に準備をしてもらった。その結果はなんと着床してしまった。


 旦那は無邪気に喜んでくれてるけど、私はこの結果に恐怖すら覚えていた。臆病になってしまったなんて言葉で片付けたくないけど、大きくならないうちにその命が流れていく姿にどうしようもない悲しみがあふれてしまうのだ。最後だから、今回で終わりにしよう、そう決めていたはずなのに、期待させる結果が出てしまうとまた旦那に縋り付いてしまう自分が容易に想像できる。


 ひどいつわりで日々の家事も満足にこなせないし、この子がいついなくなってしまうのかそんなことばかり考える日が増えた。旦那も仕事で大変だろうに、慣れない家事をさせて本当に申し訳なく思う。


 ある日、旦那が「そんなに気を張らなくても大丈夫だよ」なんて言ってきた。励ましのつもりで言っていることはわかっているんだけど、そんな気やすい言葉にどうしようもなく腹が立った。折り悪く、繁忙期が重なり数日まともに話せないような状態が続いた。


 分かってるけど、そんなことができる甲斐性がないことも知っているけど、帰宅が遅いのは私に愛想が尽きたからだとか、体を大事にしなければいけないのに、意味もなく深夜まで旦那を待とうとしてみたり、精神がとにかく不安定だった。


 そんなある日、耐え切れずに、ソファーに横になるとそのまま眠りに落ちてしまった。

 



「お母さん、寝てるの?」


「誰?」


「ムム、私が分からないの。お母さんとお父さんなら大切にしてくれると思ったから下りてきたのに」


 眉間にしわを寄せて、私は不機嫌なんですと必死に主張する五歳くらいの女の子。よく見ると口元が旦那に似ていなくもない。


「本当はね、何度かこっちに来ようと思ったんだけど、神様がまだ駄目だって言うんだー」


「今回はいいの?」


「うん、いいんだって。楽しみだな、お母さんと料理したり、お父さんと料理したり。んん、料理しかしてないかも?」


「本当に……いいのね?」


「いいんだってば。もう、しつこいなぁ。あれ、お母さん、泣いてるの? 痛い痛いなの?」


「違うの。嬉しいんだ」


「私と一緒だー。早く会いたいなぁ」

 



 目を覚ますと、涙が頬を伝っていた。こんなのただの妄想だってわかっているけど、お腹の子がちゃんと生まれてきてくれると約束されたみたいで、今までの悩みがたいしたことじゃなかったと思えるほどに、スッと気持ちが軽くなった。


 その日、久しぶりに早めに帰ってきた旦那に夢の話をした。何をそんな馬鹿なことをと言われるかもと思ったけど、旦那は本当にうれしそうに笑った。その子の性別はとか、その子はどっちに似てるとか、活発そうだったかとか、どこか外れた質問攻めがなんか嬉しかった。


 それからは先生も太鼓判を押すほど順調に成長した。今まで流産ばっかりだったのが信じられないほどの順調さだった。そして、数か月後、出産した。


 嫌だって言ったけど、旦那は有給とってまで私が苦しむ姿を見に来た。あまりの痛みに半分気をやりながら何か叫んでいたみたいだけど、旦那は手を掴みながら笑いをこらえているのが本当にムカついた。


 若干無事とはいいがたい感じの出産だったけど、私にも我が子にも大きな問題はなかった。破水したくらいで顔面蒼白になる旦那は面白かった。


 助産師さんから受け取った赤ちゃんは、大きな声で力いっぱい叫んでいて、活発な子に育ちそうだなと思った。胸元に抱えると、一心不乱にちゅうちゅうしてくる。あまりの可愛さに気が付かないうちに、旦那の手を打ち落としていたらしい。


「おはよう。やっと迎えられたね」


「こんなに待たせるなんて、親不孝な娘だな」


 まだまだ始まったばかりの「結愛」との生活だけど、一緒に台所に立つのはいつのことになるのだろうか?

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結愛 くれそん @kurezoul

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