Wednesday, 3 April 2019 8:20-
波佐見高峰中学校吹奏楽部の副部長である由佐麗禾は、3年生になって初めての通学路を歩いていた。昨日までは寒かったのに、きょうは日差しも暑いくらいで、土手の桜もだいぶ開花が進んだようだ。着てきたコートはとっくに脱いで自転車のカゴに放り込んである。先輩たちがいなくなったからと、いつもよりちょっとだけ短くはいたスカートを、気持ちの良い風が揺らしていく。
でも麗禾の気持ちは複雑だった。新しくついた部活の役職。言葉はきつかったがいつでもてきぱきと指示を出していた、前の副部長の姿が何度も頭をよぎる。クラスでも地味でおとなしいキャラで通っている、ただ成績がちょっといいだけの自分には、絶対あんなふうに部をまとめることはできない気がしている。
そこを曲がればもう学校、という十字路に差し掛かったとき、なんだか珍しい外車が麗禾のそばを通り過ぎていった。なぜ車の知識なんてかけらもない麗禾に外車とわかったかといえば、トラックのように荷台があるのに、運転席は普通の乗用車のような奇妙なフォルムをしており、麗禾の父や母が乗っている日本車とは、雰囲気が全く違っていたからだ。
ただの外車なら麗禾もスルーしていただろう。気になった原因はその荷台にあった。
(なんかあの車、めっちゃたくさん楽器みたいなもの積んでない…?)
そう、ワイルドな映画に出てきそうな車の荷台には、半分ほど幌がかかっていて、大きなテューバとおぼしきケースや、打楽器類の四角いケースがたくさん積まれていたのだ。
休日の部活の時、幹部はまず職員室に鍵を取りに行くようにと先輩たちから言われていた。部活開始は9時からで、あと40分ほど時間がある。まだ誰も音出しをしていない様子だったので、麗禾は職員室へ向かうつもりだった。が、下駄箱で靴を脱いでいたら、コンサートミストレスの江頭華に声をかけられた。
「麗禾、おはよ」
「あれ、華ちゃん。鍵ありがとう」
コンサートミストレスである華も、幹部の一人だ。麗禾はてっきり、一足先に着いた華が音楽室の鍵を借りてくれたのだと思っていた。しかし華はさらさらの黒髪をふるふると左右に振ってみせる。
「ううん、鍵なくって。教頭先生が、新しい顧問の先生がもう来てるよ、って」
「え」
「男の先生らしい」
麗禾と華は互いに顔を見合わせた。
* * * *
クラリネットパートの唯一の男子である、というより、部に3人しかいない男子のうちで唯一木管楽器パートに属する本橋潤一郎は、学校へのラスト500mの道のりを急いでいた。あと15分で集合時間になってしまう。背中の学生カバンが弾み、中の水筒があっちこっちに飛び跳ねている。
2年生になったからといって、潤一郎にまだ後輩と呼べる対象はいない。ということは、朝のうちに音楽室の机を片付けたり、椅子を合奏の形態に並べたりといった細々した準備は、3月と変わらず自分たちの学年が率先してやらねばならないはずなのだ。なのに、春休みのだらけた生活が祟って、今日起きたらすでに時計は8時を過ぎていた。同じパートの同級生女子たちから受けるであろう蔑みの目を想像してげんなりしつつ、ほとんど全速力で下駄箱に走り込んだ時、潤一郎は黒ずくめの男に声をかけられた。
「お、お前吹奏楽部か」
「はい?」
息があがっていたので、とっさにそれしか言葉が出なかった。
「ちょっと顔貸せ」
「え、なんですか」
僕これから部活なんですけど、と喉まででかかったが、男の持っているものをみて潤一郎はあとのセリフを飲み込んだ。
「ひょっとして、先生、吹奏楽の……」
男――入学式さえ終わっていない中学校の校内を出入りしている大人など、十中八九、教師だろう――その小脇に抱えられた、何冊もの冊子。表紙の装丁に、潤一郎は見覚えがあった。バンドの総譜(フルスコア)だ。
「いいから貸せ。野郎の手はいくらあったって足りねーんだ」
黒づくめ先生に連れられて教職員用の駐車場へ回ると、そこには見たことのない車が停められていた。前から見ると乗用車なのに、荷台がある。
そこにはすでに労役に服していたと思われる同じ学年の丸田と、部長の白井先輩がいた。
「先生、これ2人じゃ無理っすよ」
丸田が車の荷台でそう言って示したのは、他校の演奏で見かけたことのある、金属製の楽器だった。確か……
「心配すんな。もうひとり来た」
そういうのとほぼ同時に、同学年の女子が2名ほど戻ってきて、その大型楽器たちは「せーの」の掛け声とともに荷台から降ろされたのであった。
* * * *
第二音楽室には休日の朝にはそぐわない、重苦しい空気が漂っていた。ほぼ全員が揃ったところで、先輩たちのやっていたとおりに麗禾が出席を確認する。
「出欠をとります。欠席者のいるパートリーダーは手を挙げてください」
真っ先にトランペットパートからすっと手が伸びた。
「トランペット、上川さんが欠席です」
「はい」
新3年生の上川は長期離脱中だ。不登校である。本人の口から退部の意向が示されていないため、こうして毎回欠席を報告し続けている。麗禾は他何人かの欠席状況を確認したのち、号令をかけた。
「それでは本日の部活をはじめます。お願いします」
やや緊張した声に、麗禾自身がびくっとするも、部員たちは去年と変わらない様子で挨拶を返した。
「「「お願いします」」」
副部長の肩が一瞬揺れたことには、誰も気づかなかったようだ。麗禾は内心、ほっと胸を撫で下ろした。
がたがたと部員たちが着席する中、指揮台の横、麗禾の隣に立っていた部長の白井肇が口を割る。
「先生、いつもならこのあと、幹部から練習メニューを説明して、各自練習場所に解散するんですが」
「今日はどうする予定だったんだ」
それまで音楽室の隅の椅子に腰掛け、じっと部員たちを観察していた轟がそう尋ねると、肇はちょっとたじろぎつつ答えた。
「半日練習だったので、昼までパート練習の予定でした…」
「そうか」
言って轟は立ち上がり、指揮台まで歩を進める。
「挨拶くらいさせろ」
「あっ、すみません」
確かにそうだ、と肇は情けない気持ちになった。隣の準備室に大量の楽器を運び込んだ時点で先生とはなんとなく面通しが済んだような気になっていたが、それは一部の部員のみで、総勢40名以上のバンド全員の前で轟が発言するのは、これが初めてである。
指揮台にのぼった轟の背丈は意外にも小柄だった。肇の身長が165cmほどなので、おそらく同じか、ひょっとしたら轟のほうが少し低いかもしれない。しかし、斉木が顧問をしていた時には持ったことのない感情を肇は感じていた。
怖い。気圧されるというか、なにか得体のしれない恐ろしさ。オンライン対戦ゲームでレベル段違いの相手と偶然かちあってしまったような気分だ。
「4月からここに赴任することになった轟だ。教科は理科だが、部活の担当は吹奏楽だと決まった。よろしく。……部長」
「は、はい」
「パート練習ってのは、どうやってるんだ」
「え、えーと…」
そんなことをいきなり問われて、自分の頭の中のイメージを言葉に変換できないでいる肇を見かねたのか、麗禾が助け舟を出す。
「パートごとに教室に分かれて、基礎練を半分と、曲練を、だいたい半分…」
「うん、そんなもんだろうと思った」
麗禾の言葉に轟は軽く笑って、正面へ視線を戻す。
「今日からこの部活で、パート練習ってやつは一切禁止だ」
「…へ?」
「禁止だ禁止。パート別に集まってもいいことなんてねえぞ。体の動きが揃っちまったり、イジメが起きやすくなったりするだけだ。基礎練習は個人でやれ。場所は適当に校内に散らばれ。メトロノームの数が足りないならアプリを使え。どうせ携帯、荷物の中に入ってるだろ」
さすがに部員たちがざわつきはじめる。校内での許可の無いスマホ利用は校則違反だ。
「あー、そうか。部活時間中の携帯使用は俺の権限でオールオッケーにする。このさきずっとだ」
さらにざわつきが濃くなる。
「そのうちに俺の練習メニューは部長たちに説明しておく。今日は10時半までウォーミングアップと基礎練習。あと、去年演奏した譜面を全部さらっとけ。10時40分からここで合奏する」
轟の顔がにやりと歪んで、八重歯がのぞく。
「お手並み拝見だ。おさらい大会するぞ」
* * * *
下村明奈は合奏形態の最前列で新顧問の話を聴きつつ、徐々に固まっていった。最後のセリフではっとフリーズが解ける。10時半までは個人練だと言われたが、それ以外にやるべきことが山のように思い浮かんで、明奈はひとり背筋に冷たいものが走るのを感じた。今日は同じ楽譜係の3年生、越智先輩が休みだ。ということは、自分ひとりで今日の合奏で使う楽譜を全部そろえなくてはならない。
ふだんは「のろい、とろい」でとおっている明奈が突然ちゃかちゃかと自分の楽器をおいて動き回りはじめたので、同じパートの同級生が驚いて声をかけた。
「しもちゃん、どうしたの」
「ごめん、パート練習いけないかも。先輩に……あ、そうか」
パート練習はもう無いのか。でもまだそんなの信じられない。だいたいひとりで何をしたら良いのかわからないし。あぁその前にスコアの準備……追いつかない自分の頭にやきもきしていると、よく通る声が聞こえた。
「おい、楽譜の管理とか用意してる係がいたら、ちょっと手伝え」
「は、はい!!!」
普段の3倍くらい大きな声が出て、明奈は自分で自分にびっくりする。
「今日は先輩が休みで…私しか」
「ほー……これで全部か」
音楽準備室の一角、書類棚を占めるスコアたちを見ながら轟は苦い顔をした。
「すくねーな……まあ、江坂ん家から借りてくるべ」
(……す、少ない?! そうなのか……)
冷や汗ってこういうものかとこめかみにいやな汗を感じつつ、明奈は最近やっていた曲の楽譜から順に取り出していく。
「親愛なるライブラリアン、名前は」
「ライブラ…リアン?」
「オーケストラやバンドで楽譜の管理をする係をそう呼ぶんだ」
「あ、はい。名前は、し、下村です」
「よし、下村。いま部長が去年の演奏曲目のリストを作って持ってくるから、それをピックアップして、先にスコアを全部俺んとこもってこい」
「はい」
「で、たぶん……」
「?」
* * * *
「なんなの、あれ」
「……なんでパート練がダメなの。意味わかんない」
「ねー。イジメになるとか言ってた」
第二音楽室のある階からひとつ上がった、3階の教室のひとつに新3年の何人かが集まっていた。サックスの田口瑞希が口火を切ると、困惑と不安がたむろしていた同学年の部員たちのあいだに広がっていく。
「まーまー、まだ先生のやり方が、ぜんぶ分かったわけじゃないし。とりあえず様子みてみようよ」
ホルンの谷川澪生が田口にそうとりなす。澪は新3年生の学年では演奏能力の評価の高いうちの1人で、自然と部内での発言力が高い。
「谷川先輩、あの」
話題の切れ目を見計らったかのように声をかけてきたのは、同じホルンパートの後輩、斎藤麦である。
「今日の合奏、上下の割り振りをどうするか、相談させていただきたくて」
下の学年の手前、無駄話ばかりしているのは体裁が悪い。麦の登場により3年生たちの井戸端会議は自然散会となった。
「あ、ごめんねー。そしたらかっぴー呼んできてくれる?みんなで相談しよう」
かっぴーこと甲斐みはるは、もうひとりのホルンパートの3年生だ。上の学年がいなくなった現在、ホルンパートは現在3人しかいない。しかし大抵の曲にはパートが4thまである。1stと3rdが高音の多い譜面なのに対し、2ndと4thは「下吹き」とも呼ばれる低音中心の譜面になることが多い。2年の頃から1stに抜擢されていた澪生はおそらくそのまま1stを吹くことになるだろうが、あとの2人のパートは曲によってまちまちだったり、その都度変更したりしていた。昨年やった曲を全部やると言うのであれば、そのあたりの割り振りをしておかねばならない。
「それが、かっぴー先輩は『あたしは全部3rdでいいから』って」
「うーん……そっか」
澪生は一瞬眉間に皺を寄せたが、
「まぁ、今日はいいか。麦ちゃん、じゃあ今日は全部2ndでいい?」
「わかりました」
この選択がのちに長く尾を引くことになるとは、澪生も麦も予想だにしていない。
* * * *
10時30分を過ぎ、散らばっていた部員たちが第2音楽室へぞろぞろと戻ってきた。
「あれ?」
朝礼をした時には無かった楽譜が、各部員の椅子の上に置かれている。練習予定の書かれたホワイトボードに但し書きがあった。
【原譜は鉛筆でのみ書込み可
音楽室外への持ち出し厳禁
練習終了後パート別に回収する】
おそらく轟の字なのだろう、右上に跳ね上がる癖のある筆跡。
(みんな譜面はコピーして持ってるのに…なんで?)
アルトサックスの1番を吹いている瑞希は、自分の椅子にも何枚かの譜面が置いてあるのを拾い上げた。
「……なんで、サックスじゃない譜面があんの?」
ちょうどその時、轟が準備室から顔を出した。スコアをひと抱えかかえ、指揮台に上がる。つい3週間前まで斎木の座っていたディレクターチェアに腰掛け、スコアを置き、バンドに鋭い目線をよこす。
「さーて……やるか。70分対抗、一本勝負な」
もしも吹部顧問がメフィストフェレスに魂を売り渡したら 内田夏穀 @tabashi_ruu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。もしも吹部顧問がメフィストフェレスに魂を売り渡したらの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます