碧狼奇譚

古月

碧狼奇譚

 碧眼へきがん貪狼どんろうは窮地に陥っていた。


 その碧眼を隠さなかっただけでも大きな過ちだというのに、酒を飲みすぎたのが良くなかった。「閃剣せんけん」の名がどれほどのものか、小娘が邪魔をしなければ約束を果たせたのに――そんな愚痴を大声で吐き散らした。今にして思えばなんと見苦しい行いだったことだろう。これは、そのツケだ。

 その場に居合わせた江湖の民が知らせたに違いない、あっという間に四方八方から正派の連中が押し寄せてきた。数名は蹴散らせたが多勢に無勢、あっという間に追い込められ、逃げるしかなくなった。


 目元が霞んできた。傷を負い、出血も激しい。加えて霧立ち込める林の中、雨まで降ってきた。衣類が張り付き動きを妨げる。それでもなお、後方からは彼を追跡する者どもの声が響き渡る。ここで倒れるわけには行かない。


 碧眼貪狼は走った。一歩先も見えないような霧の中、鬱蒼と生い茂る木々に衣服も肌も切り裂かれながらなおも進む。そのうち、ふっと体が浮いた。


 その後のことは、もう覚えていない。


*****


 あしを編んだ寝床の上で碧眼貪狼は目を覚ました。草の香り、しかし青臭くはない爽やかな匂いが漂っている。こうか、あるいは自然のものか。いずれにせよ心地よいことに変わりはない。碧眼貪狼はまた大きく息を吸い、吐いた。染み渡る香気が全身の疼痛を和らげてくれる。


 コツ、と耳元で音がした。そこでようやく碧眼貪狼はハッとして上体を起こした。ズキ、と肩の傷が疼き、思わずうめき声が漏れる。


「ここは……」


 呟くと同時、その肩に何者かが触れた。ぎょっとして身を引く。すると相手もびくっとして手を引っ込めた。碧眼貪狼は瞠目した。そこにいたのは、緑地に花びらのような飾りを施した衣装に身を包む、十四、五歳ほどの少女だった。何より目を引いたのが、その瞳。若草色のその双眸。


「誰だ、お前は」

 少女は無言で頭を振った。その意はわからない。

「敵か」

 これには明確な否定の意を込めて、また頭を振る。

「俺を手当てしてくれたのか」

 今度は縦に。見れば、碧眼貪狼の負った傷はいずれも止血が施され、薬草を練った軟膏らしきものが塗られていた。少女の手元を見てみればいくつもの生薬と思しき植物が薬研やげんの隣に並んでいた。部屋に充満するこの香りはこれらの薬草のものか。


 少女はおずおずといった様子で碧眼貪狼の肩を押した。横になっていろ、とのことだろう。しかし碧眼貪狼はその手を払い除けた。


「やめろ。俺が何者か知らないのか。俺は碧眼貪狼なのだぞ」

 少女は首を傾げる。碧眼貪狼は心中で自嘲した。かつては誰もが恐れたその名も、今ではすでに過去のものとなり果てたか。

 くつくつと笑声が漏れた。少女はどうすべきかわからず、うろたえている。


 寝台を降りた。少女は慌てたように止めようとしたが、押しのけた。まるで空気を押したかのようにその身体は軽く、易々と突き飛ばされる。薬草を並べた卓に少女が倒れ込んでも碧眼貪狼は気に掛けない。わき目も振らずに外へ出た。


 一歩踏み出してようやく、自身がいたのは小さないおりであると知る。周囲は野花の畑に囲まれ、七色の花弁が地面を彩っている。他に誰の姿も見えない、まるで仙境のような場所だ。少女はここに一人で暮らしているのだろうか。


 その風景の中に、異質なものを見た。野花が咲き乱れるその中に、小さな黒い影がある。人の姿のようであり、獣のようでもある。ぽつんと立ち尽くしてこちらを見ている。


 腕を引かれた。追いついた少女が袖を引っ張っている。

「おい、あれは――」

 問おうとして、碧眼貪狼は続く言葉を呑み込んだ。指さそうとした先には何もいない。先ほどそこにいたはずの黒い塊は忽然と姿を消していた。


(何だったのだ、あれは……)


 呆然とする碧眼貪狼の腕を少女が強く引く。今度は抗うこともせず、されるがままに従った。


*****


 碧眼貪狼は正真正銘、漢人だ。少なくとも両親は漢民族だった。だがおそらくはいずれかの祖先にシルクロードの果てより渡来した異国の者がいたのだろう、その瞳は生まれながらに碧眼であった。

 父は母を糾弾した。きっと私通して孕んだ子なのだろうと。もちろん母は否定した。そして家を追い出された。そのうち母は女手一つで彼を育てることに疲れ果て、ある日前触れもなく目を覚まさなくなった。


 彼は生きなければならなかった。それは死の恐怖から逃れるための行動だ。生きなければ、死ぬ。そのために盗んだ。奪った。脅した。時には殺しもした。彼にはそのような手段しか残されていなかった。どこへ行っても、その碧眼を理由に迫害された。金を出しても物を売ってくれない。それどころか市場に赴けば石を投げられた。人々にとってはその碧眼こそが恐れる対象であり、見下すべきものであった。


 ただ貪欲に生きた。また盗んで奪って脅して殺した。いつしか人々は彼を「碧眼貪狼」と呼んだ。

 その二つ名を彼は喜んだ。元より母に与えられた名前は忘却してしまっていたし、ようやく世間が彼の存在を認めてくれたように思えたのだ。


 碧眼貪狼……碧眼貪狼! それこそが俺の名前!


 それからは奪うために生きた。江湖の悪人との風評は彼にとって少しも気にするものではなかった。むしろ、称賛のようにも捉えていた。かつて俺を蔑んだ者たちが、今では俺を畏怖している。もっと恐れるがいい! 我こそはむさぼる者、碧眼貪狼なるぞ!


 悪行に手を染めるなど酒杯を煽ると変わらない。すべてが順風満帆だった。母を追放した男は五体を裂いて捨ててやった。金ある者を見つければ容赦なく奪った。聖人面してふんぞり返っている奴を見れば、泥の味を教えてやった。何もかもが痛快だった。


 あの「閃剣」の異名を持つ剣客と出会うまでは。


*****


 どの程度の時間が経過したのか覚えていないが、傷はもうほとんど治りかけていた。少女の調合する薬と食事のおかげだろう。碧眼貪狼はもう自分で起き上がり、歩くこともできるようになっていた。それでも、少女はかいがいしく碧眼貪狼の世話を続けた。


 初めは性根の優しすぎる、愚かな娘と思っていた。だが次第にそうではないと碧眼貪狼は考え始めていた。少女は言葉を話さない。唖者なのだ。そしてあの瞳。己の碧眼と同じ、異民族の瞳。彼女もまた迫害に遭い、世間を逃れてきたのだと解釈するのは容易だった。


 この世に一人だけだと思っていた。生まれながらの境遇によって何もかも定められてしまうのは。だが、ここに自分とそっくりな奴がいる。そう思うと、どこか憐れみの心さえ芽生えようとしていた。


 そうだ。彼の心は、変わろうとしていた。


 かつては他者を思いやる気持ちなど欠片も持っていなかった。自分以外の誰もが敵だ。蔑みこそすれ、憐れむなどこれまであり得なかったことだ。

 その優しさにほだされたか? その境遇に自分を重ねたか? あのような取るに足らない小娘に、この碧眼貪狼が心を開いたのか?


「……バカバカしい」


 吐き捨て、火掻き棒を手に取る。少女は山菜を摂りに出かけている。その間、碧眼貪狼はかまどの火の番をしていた。ついでに湯を沸かし、茶を淹れる準備をする。


 カサ、と音を聞いた。振り返れば花畑の中に少女の姿が見える。碧眼貪狼が振り向いたのに気づき、手を振っている。碧眼貪狼もまた手を振り返そうとして、その背にぞっと寒気が走った。


 奴だ。少女の後方、数十歩の位置にあの黒い影がいる。


「――逃げろ!」


 叫ぶなり駆け出していた。少女は何を言われたのかわからない様子で、目を見開いて立ち尽くしている。影が動く。獣の姿で疾駆する。その姿は以前よりずっと大きい。ようやく振り向いた少女を組み伏せようと飛び掛かる。


 間一髪、碧眼貪狼の繰り出した火掻き棒の一撃が影の鼻先を殴りつけた。怯んだ瞬間、少女を後方へと送り出しつつ、碧眼貪狼はさらに前へ。

 影が躍り上がった。今度は人間の形をしているが、素早さが尋常ではない。不意を喰らって碧眼貪狼は組み伏せられそうになるのを、その喉に火掻き棒を突き付けて阻んだ。


 影の顔を見た。瞬間、碧眼貪狼は驚愕に目を見開いた。こいつは――俺だ!

「お前は何者だ」

 影が問うた。碧眼貪狼のその顔で、その声で。

「俺は……碧眼貪狼だ」

「違うな」

 影は笑んだ。凶悪な表情で、見下すように。

「碧眼貪狼ならば、なぜ奪わぬ。なぜ殺さぬ。あのような小娘は、お前が最も好んだ獲物ではないか」


 その影の腕が、ずぶりとこちらの肩を貫いた。ただ貫いたのではない。肉体が溶け合うように融合している。それと同時、心の中にどす黒い感情が芽生える。奪え、殺せ――。

 唐突に悟った。これは、俺の悪心だ。碧眼貪狼の名を与えられ、心の内で増長していった我が邪心だ。


 突然、影が飛び退いた。突き込んだはずの黒い腕がどろりと溶けている。そこには緑色の何かがこびりついていた。少女が調合し、傷口に塗ってくれた軟膏だ。


「彼奴め、精霊の類か!」


 一転、飛び起きざまの突きが影の喉を貫いた。


「碧眼貪狼の名はもう要らぬ。俺は俺だ。――貴様は消え失せろ!」


*****


 深い霧の中で、彼は目を覚ました。衣服は引き裂け、全身を負傷している。ああ、そうだ――何が起きたのか思い出す。正派の人間に追われ、谷底へ落ちたのだ。しかしなぜだろう、命があるばかりでなく、こんなにも痛みが軽いのは。


 体を起こそうとした、その手がふと何かに触れた。見れば、小さな花がそこにある。どこかで見たような、白い花弁の野花が一輪。


 ああ、と彼は嘆息した。

「お前が俺を、救ってくれたのだな」


 霧が晴れてゆく。光が差し込む。その眩しさに碧眼の男は腕をかざしながら立ち上がった。憑き物が取れたように、その身体は軽かった。

 今ここに立っているのは、碧眼を有するだけの、ただの男だ。今この瞬間を以て、彼は生まれ変わったのだ。


 それはとても素晴らしい、最高の目覚めだった。


(了)

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碧狼奇譚 古月 @Kogetsu

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