第4話 女ドラゴン、おでんを作ること

 一年が経った。


 未だ残冬の香が残る三月上旬の金曜の晩、小鞠は仙台駅の近くの居酒屋に来ていた。酒樽が並ぶ入り口の小さな引き戸を開けて中に入る。店員に予約していた名前を告げると、ボックス席に通される。

「お、小鞠さん」

 待ち合わせの相手は先に来ていた。

 去年修士課程を終えた三人の先輩のうち、牧田と丹下のふたりは関東や関西で就職してしまったが、黒田は県内の企業に就職していて、小鞠とはときたま会っている。

「卒研と発表、おつかれさま」

「ありがとうございます」

 オーダーを入れて最初に飲み物が運ばれてきてから、小鞠と黒田はグラスを合わせて乾杯した。


 小鞠は学士の四年生に上がり、二月頭に卒業試験である口頭発表を終え、無事単位を取得した研究テーマは『不均質雲解析と放射への影響に関する研究』だ。今回の食事は、小鞠の卒業を祝う会だった。

 それ自体はありがたいもので、いつもなら食事と酒と会話を楽しんでしまえば良いのだが、今日は黒田に訊きたいことがあったのだ。それを忘れて酔っ払って楽しくなってしまってはいけない。

「小鞠さん、プログラミングとか強かったよね。ゼロからなのに、一ヶ月くらいでわたしとか追い抜いたような。今はもう雨野さんよりできるでしょ?」

「いえ、そんなことは………」

 と口では否定しつつも、プログラミングの腕前は上がったという自負はある。最初に覚えた言語だけではなく、複数のプログラミング言語に通じるようになった。今では雨野から質問を受けることだってある。

 そうだ、その雨野に関してだ。

「あの、ちょっとお訊きしたいんですけど、雨野さんって、何を送ったら喜ばれるんでしょう?」

「えっ、なんだろう……お米? あ、肉のほうがいいのかな」

 黒田の顔は冗談を言っているふうではなかった。実際、真面目なのだろうし、的を射ている。団藤研では例年、卒業・修了生に対する送迎会が開かれ、残留生が卒業生のリクエストを聞いて料理を作るのだが、今年の唯一の卒業・修了生である雨野のリクエストは焼肉だった。

 雨野は博士課程最後の三年生となって博士論文は提出され、論文発表も無事に終わった。蜃気楼が彼の研究テーマだ。就職も決まっていて、四月からは東京の研究機関に勤めるということだ。三月の後半には仙台を出ていくらしい。

 一方で小鞠は大学に残ることになった。卒業できなかったわけではなく、大学院進学である。目の前の女性や、雨野と同じように。


 注文した松島牡蠣のチーズ焼きが運ばれてきたので、ビールにちびりちびりと口をつけながら、箸をつける。大学に入るまで――つまり元夫と離婚するまでは酒など飲んだことのなかった小鞠だったが、いざ飲んでみると嫌いではないことがわかった。

「その、食べ物じゃなくて、何か、こう、手元に残る贈り物みたいな………」

「フライパンとか? あ、いや、駄目だな、あの人、自炊とかしないし」

 結局食べることだけなのか。そんな気はしたが、考え込んでしまう。

 世話になった雨野に何か贈り物をしたかったが、食べ物以外で何が喜ばれるのかわからなかったので、小鞠より付き合いの長い黒田に訊きたかったのだが。

「まぁ、食べ物ならなんでも喜ばれると思う」

 という結論で終わってしまった。 


 翌、土曜日。小鞠が午後から大学に来ていたのは、卒業研究を論文にするためだった。卒業のための単位取得には論文提出の必要はないのだが、担当教授の団藤から「よくできているから論文にしたほうが良い」と言われてしまったのだ。

 四年生になってから引っ越した小鞠の部屋に入る手前で、人の姿が見えた。雨野の部屋だ。

「雨野さん、おつかれさまです」

 中では雨野が作業をしていた。いつもどおり、椅子に深く腰掛けてパソコンに向かっている。もう引っ越しまで十日を切っているはずなのに、机も棚もまったく片付いていない。背中側の衝立を挟んで反対側には新たに研究室に配属された学部三年生の机があるのだが、まだ物がほとんどないその机と比較すると、いかに雨野の机が、そしてその周りが散らかっているのかよくわかる。

「おつかれさま……あれ、論文書きに?」

「はい。雨野さんは?」

「同じようなかんじ」

 雨野の向かっているディスプレイを覗くと、ワープロソフトの上に英語が並んでいた。研究論文のようだが、一見しただけでは内容はわからない。

「何か研究所に出さなければいけないものがあるんですか?」

「え? ああ、いや、そういうわけじゃなくて、単に書いてた論文の続きやっているだけ……小鞠さんは、論文締め切りとかあるの?」

「いえ、そういうわけではないのですけど………」

 私物としてのパソコンは未だに持ってはいないが、ノートパソコンは研究室で借りられるので家でも論文作成はできる。それでも休日に大学に来たのは、そのほうが集中できるからだ。

 自分の部屋に向かい、パソコンをスリープから目覚めさせる。論文執筆の作業を始める。既に目次や構成はできていて、図も発表試験で作ったものがあるので、あとは細かく詰めていくだけだ。さすがに今日一日では終わらないだろうが、どうにか三月中には完成させたい。


 イントロダクション、データと解析手法、結果、考察と書ける範囲で内容を埋めていくうちに、ふと思いついたことがあった。時刻は十六時過ぎ。隣の部屋への扉をノックして、雨野に声をかける。

「雨野さん、今日はいつ頃帰られますか?」

「たぶん飯前だと思う。七時前くらい。なんか確認するものでもある?」

「あ、いや、そういうわけじゃなくて……えっと」逡巡するが、わざわざ用意しておいて相手に予定があったら意味がないと考えて、言葉にすることにした。「あの、おでんか何か作りますけど、食べますか? 七時くらいに」

「へ? ああ、うん、じゃあ」

「はい」

「材料とかってあるの?」

「今から買いに行きます」

「バイクあるから、おれが買ってくるよ」

「あ、いえ、大丈夫です……あの、えっと、ほかに買うものもあるので」

 と固辞して部屋を出る。


 青葉山近辺には生鮮食品が買えるようなスーパーはないため、地下鉄で仙台駅方面へと向かう。駅のほうのスーパーは少し割高な気もしたが、時間効率を考えれば仕方がない。

(バイクとか、あれば便利なんだろうな)

 免許を取ってみようか、と考えながら買い物を終える。卵、大根、竹輪、蒟蒻、はんぺん、昆布。もっと具材をいろいろ入れたかったが、種類を増やそうとするとどうしても量も増えてしまうので難しい。調味料は研究室の冷蔵庫にある。

(そういえば研究室紹介のときも、おでんを食べたなぁ)

 研究室に戻った頃には、もう十七時を半ば回っていた。つゆを作り、火の通りにくい大根や蒟蒻には隠し包丁を入れてから、研究室で食事を作るときにいつも使っている金糸雀色のアルミ鍋で茹でる。並行して冷蔵庫で保存している備蓄米を研ぎ、炊飯器で炊く。一度作業が軌道に乗ると、あとは落ち着いて進められるので気が楽になる。


 小鞠がまだ幼かったとき、結婚こそが人生の到達点だと思っていた。目指すべきゴールだと思っていた。そこに辿り着くべきだと思っていた。

 十五歳のときに父の知人である男性に見初められた。十六歳になってすぐに結婚して家庭に入った。彼は裕福な身の上で会社を経営しており、美しく、優しかったと思う。五年間一緒に暮らして、二十一歳のときに離婚した。小鞠と元夫との間に子どもが生まれなかったからだ。離婚となったのは義母の影響もあった。姑は不妊の原因は調べたそうだが、不明だった。

 当時、人生の目標であったはずの幸せな結婚を果たした小鞠は、当時は「結婚してゴールなのではなく、子どもを産み、育てることが幸せの形だ」と思うようになっていた。だから絶望した。

 実家に帰ってきたあと大学進学を目指したのは、今までの目標は間違いだったと思ったからだ。結婚ではなく、他にもっとすべきことがあるのだと思ったからだ。その「もっとすべきこと」として思いついたのは仕事と勉学で、どちらも結婚している間にはやったことがないものだった。二年間勉強しながら高等学校卒業程度認定試験を受験し、その後東北大学を受験した。二年でどうにかなったのは、小鞠が見えた目標に向かって走り続けることができたからだろう。正しいと思った道に進んだ。進み続けた。


 ぴーぴーぴーと三度電子音が鳴り響き、小鞠は現実に引き戻された。

 鳴ったのは炊飯器だった。米が炊けたのだ。おでんも完成だ。隣の部屋から雨野を呼ぶ。

 中央の白テーブルの上に、ガスコンロに乗ったアルミ鍋のおでんと白米。それだけ。完成してみると「なんだか安っぽいお礼だな」というのが小鞠自身での感想だった。

「お、美味そうだね」

 とやって来た雨野は言った。彼は小鞠が調理している間、彼は手伝うと言ってきて、理由もなく断りを入れるのは失礼な気がしたので「一年間お世話になったお礼だ」と伝えてしまっていた。

 ふたりで卓を囲み、おでんを食べる。

 あまり会話はなかった。

 作っているときは多すぎるかと思ったが、雨野がよく食べたので完食できた。食後、「洗い物くらいは」と、彼が洗い物をしてくれたので、その間に電気ケトルでお湯を沸かす。


「あの、雨野さん、ありがとうございました」

 洗い物が終わり、茶を淹れて一息吐いたところで、小鞠はまた礼を言った。

「え? ああ、いや、作ってもらったから」

「あ、いえ、洗い物についてではなく、この一年間について、です。今までありがとうございました」

 この人は小鞠にいったい何をくれただろう。改めて、そんなことを考える。

 実際、大したことのないもの、取るに足らないものかもしれない。

 いろんなものをくれたような気がするが、この人は「何かをしてやった」とは思わなかっただろう。

 小鞠が団藤研を選んだのは、彼がいたからだ。

 といっても、彼そのものに惹かれたわけではない。ただ、博士課程の学生がいるというのが価値がありそうな気がした。自分が研究をしていくのであれば、見本になる気がした。


 小鞠は、幼い頃は結婚こそが人生の目的だと思ったし、結婚してからは子どもを産んで育てるのが目標だと思っていた。離婚されてからは、それらがすべて間違いで、学業なり仕事なりに従事すべきだと思った。今は彼を見て、研究をしようと思っている。誰の役にも立たない研究を。

 だが、もしかすると数年後、数十年後――いやもっとすぐに「ああ、なんて馬鹿なことをやっていたんだろう、何の役にも立たない研究だなんてことに情熱を注いだのだろう」と思うことが来るかもしれない。今までの人生の目標が間違っていたと感じるときが来るかもしれない。

 そう思ったとしても、過去には戻れない。過去は消せない。

 それでも良いと、小鞠はそう思う。

 離婚したときは、結婚して家庭に入り外に出ずに家事しかしていなかった五年間は無駄だったと思った。なんて無駄に時間を浪費したのだろう、と。

 だがあの時間がなければ、いま、突発的におでんを作ろうとしたりはしなかったのではなかろうかと思う。おでんを作ったことが贈り物として良かったかどうかはわからないけれど、もしかすると馬鹿げた贈り物だったかもしれないけれど、何も、何にもならなかったかもしれないけれど、小鞠は満足だった。そうだ、満足はできる。


「ああ……いや、そんな丁寧にならなくても、どうせまた学会とかで会うんだし。春の学会で発表するんでしょ。東京で近いからおれは発表ないけど行くだろうし」

 う、と小鞠は唸った。そのとおりである。初めての学外での発表だ。緊張する。怖い。失敗するかもしれない。これまでの人生と同じように。

「すいません、東京行ってしまう前に、発表の練習に付き合ってください」

 だが小鞠はまだ生きている。たくさん失敗し、後悔したが、まだ死んでいない。人生はまだ続いている。

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ラヴォアジエの女ドラゴン 山田恭 @burikino

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