第3話 女ドラゴン、言語を学ぶこと

 小鞠は機械が苦手だ。

 特に、パソコンは、駄目だ。家にあったこともあったが、いまいち使い方がわからず、ほとんど触ったことがなかった。大学に入ってから、情報の授業で初めて基本的な使い方を知ったくらいだ。


「わっ、わかりません」

 何かをできないと言うことは苦痛が伴う。恥ずかしい。顔が赤くなるのを感じる。小鞠の場合は、早くに家庭に入って外の世界に関わって来なかったため、なおさらそれを認めるのが辛い。何かの指示を受けるたびにその言葉を言うのが。

 ちらと横目で雨野の様子を伺うが、気分を害したふうではない。伸びる太い指が象牙色のキーボードの上で動く。モニタの中で動作している黒い画面はターミナルというもので、その中に白字の文字が踊っている。今はパスというものを通しているらしい。


 北青葉山キャンパス物理A四階、団藤研の三つの学生部屋のうちの西側のひとつが小鞠の居室となった。博士二年生の雨野と同室で、彼が研究生活は指導してくれることになった。

 彼が指導することになったのは、彼が学生の中では最年長だからなのか、それとも教授は専攻長で忙しく、修士二年の三人は修士論文にかからなければならないという消去法なのかは聞いていない。

 雨野という男は、大きい。縦にも横にも。威圧感がある見た目だが、対面してみると意外と気にならないのは、その静かな喋り口のせいだろうか。見た目に反して――という言い方をしてしまうと失礼になるかもしれないが。


「とりあえずこれでコンパイラとかツールを入れるのは終わった。なんか新しいツール入れたり、違うマシンに移るときにわからないことあったら訊いてください」

 雨野は特に気分を害したふうはなかった。じゃああとは適当に、と去ろうとしてから、「あ、あと四年生の前期は論文のレビューが主になるけど、後期は研究やってもいいんだけど、なんかやりたいことってある?」と訊いてきた。

「やりたいこと………」

「まぁそんなにパッとは出てこないと思うから、おれと先生とで数案出すと思うけど、もしなんかやりたいことがあったら、それに沿うようにするけど」

「……ないです」

「そう。じゃ、たぶんそのうち先生から話があると思うから」

 と言って雨野は衝立向こうの席へと戻っていった。


 団藤研が研究しているのは、主として光だ。

 といっても、物理学科のように光そのものを研究しているわけではない。自然に存在する光――たとえば太陽から射出される目に見える光や目に見えない紫外線、目には見えないけれど地球表面から出ている赤外線が地球環境にどのような影響を与えているかを調べているのだという。説明会のときにそれは聞いたが、しかし小鞠は研究内容に興味を惹かれてこの研究室に入ってきたわけではない。


「雨野さん」

 と衝立向こうの雨野へ向けて、小鞠は問いかける。

「うん?」

「あの、わたしは、何をすれば………」

「ああ……」きぃ、と衝立の向こうで椅子の回る音がした。小鞠と同じように、背後に向けて話しかけているのだろう。「何しててもいいよ。単位関係するのは四年生になってからだし」

「ええと、雨野さんの場合はどうだったんですか? 三年生のときは何をやっていたんですか?」

「引越しの手伝い」

「え?」

「昔はこの研究室はもっと南にある建物の二階にあったんだけど、こっちに引っ越してきたんだ。その手伝い……あとはプログラミングの練習くらいかな」

 プログラミング。

 やはり必要なのか。パソコンの設定のときにそんなことを言われたような気がするが、小鞠は気分が重くなった。コンピュータは、苦手だ。しかしやることがそれくらいしかないのなら、仕方がないのだろうか。苦手ならば、早めにやっておいたほうが良いに越したことがないだろうし。


 そういうことなら、と雨野が手渡してくれたのはプログラミング教本だった。ぱらぱらと読んでみる。

「あの、雨野さん、ちょっと質問いいですか?」

「うん?」

「えっと、プログラミングで使うのって、Cというものではないのですか? C言語、というやつ……」

「ああ、Cはおれはわからん。それはPythonの教本ね。Pythonという言語」

 プログラミングに使う言語に、種類があるということは知っている。一年生のときに情報の授業で使ったのは、C言語だった。授業の中で覚えたのは僅かな内容でしかなかったが、どれだけ瑣末なことでも触ったことがある言語のほうが良い気がした。しかしこの研究室で使うのがこの言語であれば、これを学ばざるを得ないのか。


「いや、研究室でよく使うのはFortranというやつ。もっと古い言語」

「えっ」

 じゃあPythonというのはなんなのか。

「おれがよく使っているやつ。棚にあったから。まぁ便利だよ。ユーザーも多いらしいし」

 なんだかよくわからない理由で勧められた。急に目の前に三つも言語が降ってきた。

「CもC++とかC♯とかあるけど。授業で使ったのって、C++じゃなかったっけ?」

 わからないものが五つになった。

 とりあえず、いつかやらなくてはいけないのだから、やるしかない。本を改めて開く。

 これまでプログラミングの教本などというものは読んだことがないので比較はできないが、教本の内容は丁寧だった。専門用語の説明が載っているのはありがたい。

 とにかく、とにかく――なぞっていく。書いてある通りに書いて、動かしてみる。すると、動く。動かせる。動かすことができた。そのことに、小鞠は驚いていた。

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