第2話 太った研究者、賽子を投げること

 白いテーブルの上を賽子がふたつ転がる。出目は五と二で七だった。期待値だ。

「七です。盗賊移動させますね。おっ、ここにしようかな、雨野さん、一枚ください」

「今、話し中なんだけど」

「話が長いんですよ。『昨日の夜、帰るときに綺麗な女性と話をしたんだよ』で済ませれば、ああそうなんだなぁ、はい良かったね、で済ませられるのに、なんで神経逆撫でする発言を最初にぶっ込んで来るのか謎です。一枚取りますよ……ちっ、チョコか」

 研究室の後輩、黒田はテーブルの上に置いておいた雨野のカードの束から勝手に一枚抜いた。十五時過ぎ、三つ並ぶ学生部屋の中央の部屋でお茶を淹れるとしぜんに左右の学生部屋から人が集まってくる。休憩の流れでボードゲームが始まるのはさほど珍しいことではない。ちなみに黒田が抜いたカードに描かれているのはチョコではなく、粘土である。


「それに、なんで物理B落としたんですか……普通落とします? 余裕でしょ、なんでしたっけ、アレ、モーメントでしたっけ」

「黒田さんも量子力学1落としたって言ってなかった?」

 と言いながら、雨野は電気ケトルで沸かしていたお湯で紅茶を淹れ、テーブルに戻る。

「あれはいいんですよ……ファインマンも『量子力学を理解できたと思ったら理解できていない証拠』って言ってたでしょ?」

 賽子が次の手番である丹下の手に渡る。投げる。三と六。合計値は九。

「羊欲しいなぁ……誰か岩と交換してくれません? わたしは、他人の個人情報を喋るべきではないのではと思いました」

 と言いながら丹下はさらに次の手番の牧田に賽子を手渡す。投げる。六。次は牧田だ。

「うーむ、来ない。これはモモンガではなく、サルエル」

「猿なの?」

「雨野さんの手番は飛ばすね」


 黒田、丹下、牧田の三人はいずれも雨野と同じく、理学研究科地球物理学専攻の団藤研に所属する学生である。修士(博士課程前期)二年生なので、雨野にとってみれば二つ後輩のはずだ。しかしもしかするとそれは雨野の妄想で、彼女らは先輩か上司なのかもしれない。それくらい当たりが強い。

 現在、団藤研に所属しているのはこの場にいる学生四人のほかは、研究室のボスである団藤教授だけだが、彼は研究科長のポジションについていて、忙しい。雨野は比較的自由に研究しているのでそれは良いのだが、彼がいないと雨野の周りが女性ばかりになるという問題もある。


「いや、おれはね、ブスの産地だといわれるけど、特にそう感じたことはないし、昨日会った女性も美人だったと言いたかったんだ」

「雨野さんがクソ野郎だから、わたしは心配ですよ。次の説明会のときにちゃんと人が来てくれるかどうか」

 丹下の言う説明会というのは、地球物理学科で学士三年の後期の研究室配属に際して行われる研究室紹介だ。説明会で何をするかは各研究室で異なるが、団藤研の場合は教授および学生によるスライドを用いた十五分ほどの研究室紹介と、食事会である。といっても豪勢なものではなく、研究室で鍋と液体窒素で凍らせたアイスを作って食べる程度のものだ。心配してもなるようにしかならないし、そもそも雨野は説明会で人を勧誘するつもりはなかった。


 翌月の十一月。

 団藤研の学生用居室の廊下を挟んで向かいにある講義室は、三人がけの長テーブルが二列に渡って八つずつ並んでいる。大講義室ほどではないが、修士学生向けの講義や小規模なセミナーを行うには十分な広さだ。半分のテーブルを二つずつ四つの島に分け、残りは隅に寄せる。島になっているテーブルにはそれぞれ鍋が載っている。キムチチゲ鍋と寄せ鍋と豆乳鍋とおでんだ。

 団藤教授による説明が終わったあとで、研究室の学生からの説明として年長者の雨野の番となる。専門的なこと――各研究室で行なっている研究内容など――は教授の説明で済ませてあるうえ、教授は学生の説明と食事会には参加しないため、気楽に発表ができる。スライドを映すために暗くした室内に笑いが漏れたので、今回の発表は成功だ。笑わせれば興味は惹ける。記憶に残る。詳しい話はその後で良い。論文にしろ、口頭での議論にしろ、続きを話す機会はいくらでもあるのだから。

 紹介が終わり、鍋による食事会が始まる。四つ島があるので、団藤研からは学生がちょうど四人で散る。幸いなことに、雨野がついたテーブルの学生の中には活発な者がいた。研究室の雰囲気だとか、研究内容だとか、教授との交流だとか、就職だとか、さまざまな内容を積極的に質問をしてきて、それに答えれば良いので気が楽だ。ひとり積極的な者がいると、他の者もつられて話しやすくなる。


 その中でひとり、交流に参加しない学生がいた。 

 どこか見覚えがあるその姿を見ながらおでんを箸でつつき、大根を半分に切って口に運んだとき、思い出した。ひと月前、夜のバス停で出会った女性だ。

 目が合う。

(余計なことは言わないほうが良い気がするな)

 わざわざ気鬱のときの話など人前で出す話題ではないし、説明会に適当な話だとも思わない。ひとまず忘れることにしよう。


「あの、研究は」

 目を逸らしかけた雨野の鼓膜に、今日初めて聞くことになった声が響いた。小さくか細い声で、少しでも他に注意を向けていたら聞き逃していただろう。

「あなたの研究は……なんの役に立つのですか?」

 例の、バス停で出会った女性だった。

「いや、特には」

「特には………?」

「特に役に立たないと思う」と雨野は肩を竦めた。「まぁ、そんなもんだよ、研究って」

 気候の理解に役立つだとか、モデルの精度向上に貢献するといった、いわば定型の言い訳もあるが、正直に答えてみた。

「そうなのですか」

 視線が逸らされる。雨野の解答に興味を失っただとか、期待はずれだっただとかいうよりは、もっと根本的に喋りたくないというように見えた。雨野のことを嫌ったのか。いや、顔が少し紅潮している。肌が白いので、赤みがよく目立つ。会話が恥ずかしかったのか。雨野があまりにイケメンだからか。そうかもしれない。もう少し謙虚になってみると、単に会話そのものが恥ずかしかったのではなかろうかという気がする。

 その後、それ以上に彼女と会話はなく、説明会の食事会は終わった。


 翌月、バス停で出会った彼女――小鞠という名の学部三年生が団藤研に配属されたことを知った。

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